純朴なる涙
ずぶ濡れの服でバスに乗り込むと、運転手がうわ、と露骨に嫌そうな顔をした。
他のヤツらには愛想良くしているのに、俺が乗るといつも視線を逸らす、気の弱そうな運転手だ。
座るとイスが濡れてしまい迷惑を掛ける。バスの後方までそろそろと歩いていき、窓側を向いて近くのポールを握って立った。
バスに乗るヤツらはグレーの作業着。そんな中で俺の白いワイシャツは異様に目立つ。ずぶ濡れの服からぽたぽたと水滴が垂れて、あっという間に俺が立つ場所に水溜りができてしまった。
工場が雇っている、運転手つきの送迎のバスの中。
ワイパーが、ガガッと音をさせて忙しなく動いている。窓を叩く雨の音。
その人はいつも、一番後ろの席に座っていて。
ちらと横目で見る。彼女の顔色は悪く、いつも俯いているからその表情はよくは見えない。
細く長い指が膝の上で、きゅと握られている。そして時々。作業服を握り込んでいることもある。
俺は視線を戻しながら、彼女の仕事ぶりを思い出していた。
いつも思い浮かぶのは、目の前の仕事に黙々と取り組む、真面目な姿。小柄な身体をきびきびと動かして、手元に流れてくる部品を手際良く組み立てている。
小柄の彼女にはキツい仕事だと思う。
どうして? なぜ、そうまでして一生懸命に働くのだろう?
手に入れた給料は、悪意ある同僚に搾取されているというのに。
バスは、いつのまにか発車していた。
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「俺は、醜いから」
意味が分からず、僕は彼の次の言葉を待った。途中から張りつめた沈黙の空気となって、山崎さんのその真剣さに向き合って、僕は相当疲弊していた。
「つ、釣り合わない、わ、わかって、て」
そう言った彼の目の縁に、涙が溜まっている。僕は箱のティッシュをそっと差し出した。
「す、すんません……俺、なにから話していいか、」
頭を下げた瞬間。留まっていた涙が、彼の目から零れ落ちた。点、点、点、と彼の青の綿パンに跡をつけていく。
僕はその様子を見ていた。
「わかりました。では、こうしましょう。僕があなたの夢へと入ります。夢の内容は、僕がこの目で確認する、それでも大丈夫ですか?」
依頼者にはいつもその夢の詳細を事前に聞いており、おおよその目星をつけてから、慎重に夢へと向かうようにしている。簡単な依頼でも結果、何度も夢の中に入ることとなるため、余計な負担を依頼者に強いてしまうからだ。
けれどこれ以上、この目の前の男性を追い込んで傷つけてはいけない。そう思えて仕方なく、僕は決心した。
(僕がこの目で見れば良いだけのことだ)
彼が大きく頷く。しかし、ここまで寡黙で口下手な人も、珍しい。けれど、僕はそんな彼の純朴な涙にやられてしまった。
その大きな体躯に見合うのか、見合わないのかが分からない、その涙に。
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「隣、」
バスの窓が開けられ、気持ちの良い風が彼女の髪を揺らしている。彼女はその日も、後ろの長シートの席に座っていた。
この前のような大雨でもない、雲一つない青い空が眩しい。そんな清々しい日だった。
ゆるやかに凪いだ風を全身に感じながら、俺は彼女の返事を待った。
「と、隣、いいですか?」
彼女がちらと、こちらを見る。俺はいきなり目と目が合って、それだけで恐れ慄いてしまい、視線をよけてしまった。
彼女は、そんな俺のことを気にする風でもなく、窓際へとずれてくれた。
隣に座っても良いという了承の意と取った。俺はなるべく静かに腰を下ろした。
彼女の横に座っている。
それなのに何を話して良いか分からない。しかも俺はちょっとしたというか、気の利いた話ができない男だ。握り込んでいる自分のゴツゴツとした形の悪い手を、じっと見つめていた。
彼女は窓枠に肘を乗せて頬杖をつき、ずっと窓の外を眺めている。
風が彼女の髪をなびかせて、そのほっそりとした首と鎖骨とを、周りの誰か彼かに見せつけていた。
小ぶりな鼻から続く鼻梁。その造形美は芸術だ。
唇はふっくらと厚く、俺は見たことがないから知らないが、工場の誰かに向かって投げた微笑は、ナントカという女優に似ていると評判だった。
けれど、彼女の微笑みは貝のように直ぐにも閉じてしまうらしい。
同僚や上司からは、顔は可愛いが愛想がなく根暗で陰気だと、陰で言われている。その言葉を耳にする度、決まって俺の中に怒りのような感情が湧いてくる。
隣を盗み見ていた目を、車内の前方へと向ける。
綺麗だな、綺麗な人だなと、俺は思う。
俺は醜いが、彼女はとても美しいのだ。
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山崎さんのアパートへと向かう道すがら、僕は時々、彼を見かけていたバス停に、寄った。
このバス停に何かヒントのようなものが転がっているかも知れない、そう思ったからだ。
行き先は「北町駅」。
もう直ぐ夕方に差し掛かるというこの時間、やはり今から駅へと向かう人は少なく、ぽつんと待っている客は、初老の女性だけだった。
近寄っていき、時刻表を覗き込む。なんの変哲もないただのバス停だ。僕が時刻表や路線図をまじまじと見ていると、おばあさんが話し掛けてきた。
「バスはまだ来ないよ。さっき行っちまったばかりさ」
言葉に刺々しさを感じながら、僕は返事をした。
「じゃあ、次までかなり待たないといけませんね」
僕がそう言うと、おばあさんは堰を切ったように話し始めた。
「私はねえ、ずいぶんと前からそこにいたんだよ。そら、直ぐそこ」
近くの花壇を指差す。そちらを見ると、オシロイバナと呼ばれる、小さく可憐な小花が咲き乱れていた。
目に焼きつくような鮮やかなピンクだ。
この花は、秋に黒くて丸い小さな種をつけるのだが、その種には白い粉が詰まっていて、それが化粧の白粉のようだと、その名前の由来を持っている。
夕方に咲くので、「夕化粧」の別名がある。
「可愛らしい花ですね」
「そうそう。綺麗だなあって見てたら、バスが停まらずに行っちまってねえ。悔しいったらないよ」
不服そうに言う様子を見て、僕は苦笑しながら言った。
「それは大そう不運な目に遭われましたね」
僕がそう共感するとおばあさんは、あれは運転手が悪い、どこ見て運転してるんだかと言って、ぶつぶつと文句を続ける。
すると、遠くの方で大型の乗り物のエンジン音がして、僕は道路の先へと顔を向けた。
バスが一台、こちらへと向かってくる。
「あ、バスが来ましたよ」
「あれはねえ、工場のバスなんだよ。ほら。あれ。なんだっけかな。車のメーカーで有名な、えっと、」
こめかみに人差し指をつけて思い出そうとしているが、少しも思い出せそうもない様子なので、僕が助け舟を出す。
「マキタ自動車の?」
「そうそれそれ。その工場の送迎バスだよ」
目の前に一台のバスが停まる。確かに車体には『マキタ自動車』のロゴと従業員募集の文字。
「寄付でもして、バス停を使わせて貰ってるんじゃあないかしらね」
乗っている人は皆、それらしきグレーの作業服を着ている。
この時間に乗っているということは、仕事を終えて北町駅へ向かう人だと、そう予想した。
(確かに山崎さんもマキタ自動車の社員さんですが、本社勤務のはずなんで、同じ会社でもこのバスとは関係ありませんね。会社には、このバス停から、市営バスに乗って出社すると言っていましたし。バス違いですね)
山崎さんはこのバス停の近くにアパートを借りていると言っていた。
そのアパートが、「眠り屋」の事務所の近くだということに気がつくと、何度かこのバス停で山崎さんを見掛けたのにも頷けた。
僕たちが乗らないということはわかりきっている。降りる人もどうやらいないらしい。バスはガガガッと大きな音を立てて、離れていった。
「それでは失礼します」
僕はおばあさんに別れの挨拶すると、オシロイバナの花を一つ、指で摘んで拝借し、ふわりと香る優しい匂いを感じながら、残り五分程の距離をまた歩き始めた。