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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
夢酔いのバス停にて −オシロイバナ
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寡黙な依頼人

その日は雨が降っていた。


土砂降りの中、濡れた髪から伝う雨水の流れ。濡れ鼠だ。ワイシャツが肌に張りついて気持ちが悪い。腕時計を確認する。

もう直ぐバスが発車してしまう、そう思うと心が急いて、鞄の中にある折り畳み傘を取り出す余裕もない。

はあはあと息が切れる。俺はそれでも走り続けた。

額に張り付く前髪が、視界を遮る。けれど、工場のエントランスからバス乗り場への道程は、身体が覚えている。

覚えるくらい、何度も走ったから。

こんな風に嵐のような大雨の日も、紫外線がさんさんと降り注ぐ日も、雲が空を覆う、曇天の日も。

息が次第に上がってきて、胸のあたりを押さえてみる。ワイシャツの左の胸ポケット。その中には、君に渡すべきものが入っている。

もうすぐだ。君に逢える。

そう思うと、ぐんと足が前へと向かっていく。

いつものバスに乗れたなら。このまま走り続けて間に合ったなら。君にこれを必ず、渡すんだ。

びしょ濡れでも、心は晴れていた。

恋というものが、そういうものなのだと初めて知った、

バス停へ急ぐ。


✳︎✳︎✳︎


その大男は、今日はそこに立っていた。


実はその人を見掛けるのは、僕がいつも買い物帰りに通る、市営のバス停だった。


バスは街の中心部を循環していて、その中心部からは少し離れたここ北町の、僕が営む「眠り屋」が入るビルの側まで来てくれている。時々、仕事で利用するがとても便利で快適だ。


そんなバス停で、そのワイシャツ姿のサラリーマンをちょくちょく見かけてはいた。ただ今日は、僕の仕事場兼自宅である「眠り屋」の玄関前で、さっきからちょっとした時間、佇んでいる。


ドアの横にあるチャイムのボタンを押そうとする手を、先ほどから何度も上げては下ろし下ろしては上げ、という動作を繰り返している。

その不思議な光景が楽しくて、僕はついじっとその姿を見つめてしまっていた。


不審者だ。いや、その人のことではない。僕だ。階段に隠れて、それをニヤニヤ見ているのだから。依頼者らしき人がもし女性なら、間違いなく通報される案件。


しかし、飽きた。


「いつになったら、チャイムを鳴らすんでしょうかねえ」


時計を見ると、僕が彼を見つけてからゆうに10分は経っている。


飽きてきた。いや飽きた。もう飽きた。

僕は、階段の踊り場から身を翻すと、彼の前に躍り出た。


「こんにちは」


すると、彼はその大きな体躯には見合わない、小動物な動きで身体をビクッと震わせた。


「ああ、あの、えっと……」


白い半袖のワイシャツに身を包んだ彼が急におどおどし始めた。


背が高く筋骨隆々。それはさしずめ舌舐めずりをしているライオンを前にし、生命の危機に動けなくなる小動物の図、だ。けれど、いったいどっちがライオンなのかがわからない。頭を疑問でいっぱいにしながらも、精一杯の笑顔で、僕は問い掛けた。


「なにお困りごとでしょうか?」


すると、さらに肩をキュッと上げて小さく縮こまると、視線を泳がせながら言った。


「夢の、……あの、」


「はい。僕は眠り屋の矢島と言います。どうぞ、中へ……」


慌ててジャケットの内ポケットから鍵を出して、ドアノブにある鍵穴へと突っ込む。隣に並ぶと、改めてその身体の大きさ、威圧感に驚かされた。やはりこちら様がライオンだね。


「どうぞ」


躊躇の様子だったので、再度促した。ジェスチャーでソファに座るように伝えると、男は大人しく僕の指示に従った。男が座ると、いつもは寡黙なソファが、ギギギッと悲鳴をあげた。


僕はその様子を横目で見ながら、上着を脱いでフックに掛け、そしてキッチンへと入って薬缶を火にかけた。


✳︎✳︎✳︎


「夢を見て……そんで、か、金が無くなってて」


普段から寡黙なのであろうか。ようやく話してくれた舌足らずな説明に、僕は困惑していた。

愛用の手帳にペン先をつけたまま、先ほどから一ミリも話が進んでいない。


「その夢について、もう少し詳しく説明していただけませんか」


男は、山崎やまざき さとると名乗った。


北町の駅近くにある有名な車のメーカーの会社で、人事部の社員として働いていると言う。

人事部? こんなにも話し下手な人が、人事部でやっていけるのだろうか?


けれど、よく聞くと人事部と言っても社員の勤務状況を管理するもので、ほぼ一日、パソコンに向かっているという。

ふむ、やはりそうか。僕は山崎さんがパソコンに向かう背中を想像して、納得した。


以上。僕が一時間弱の時間をかけて、山崎さんから聞き出した情報は以上だ。依頼の詳細がまるでわからない。


「山崎さんが見る夢の内容を教えてくれませんか?」


机に置いてあった、一口も手をつけられないそのコーヒーの水面がゆらゆらと揺れ始めた。僕はふと顔を上げた。


彼は表情を崩しながら、右足を小刻みにガタガタと動かせて貧乏ゆすりをしていた。そして、崩した表情は、そのグローブのように大きい両手で、突然覆われた。


「ああああ」


「や、山崎さん? 少し落ち着いてください。夢のお話を聞かなければ、僕はあなたのお力になれません。あなたの悩みが夢に起因するものだということはよく分かりました。が、その夢がどんなものなのかを話していただけないと……。思いついたことからでも結構ですから」


覆った両手を離し、顔をあげる。どこを彷徨っているのか分からないような瞳。怯えや迷いの要素で溢れかえっている。え、なんで?


それでも尚、話すのを躊躇する彼は、貧乏ゆすりを止めはしたが、そのまま黙り込んでしまった。


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