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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
母 −クリスマスローズ
5/63

赤子


「そうですか、それはお辛いですね」


京子さんがティッシュを差し出してくれる。ティッシュをこれでもかというほど、山盛り使ってしまった。けれど、そのティッシュくずは、机の上にカマクラのように積まれはせず、ちゃんと側に引き寄せたゴミ箱の中に吸い込まれていった。


「人間、眠れないのが一番、辛いんです」


矢島さんも京子さんの言葉に賛同して、そして同じようにして言葉を寄り添わせた。


顔を見合わせるでもなく、けれどこの二人。魂で繋がっているのではと思わせる、息遣い。息を吸う、吐く、その呼吸が同じだなと感じて不思議に思う。


(夫婦なのかな、)


くしゃくしゃになったティッシュで、最後の鼻水を拭くと、私はそれをゴミ箱に放った。


「わかりました。それでは、美香さん、あなたの夢の中に入ってみましょう」


矢島さんがメモを走らせていた分厚い手帳を、パタンと閉じた。


「では、次回。お約束の日と時間。またお越しくださいね」


真っ赤になっているだろう目で、私はおずおずと問うた。


「でもその時に、私、……眠れるとは到底思えないんですけど」

「そうですねえ。その時はその時に考えましょう」


丸眼鏡の中の瞳が、ふふっと笑う。日本人特有の黒い瞳。特に変哲もない、そんな瞳が優しさを帯びていくのを、私は見た気がした。


「大丈夫ですよ。先生に任せておけば。私が保証します」


京子さんが、そっと背中に手を寄せてくれる。その手がすううっと上下に動くのを感じて、撫でていてくれているのだと感じた。そして私は。


(ああ、これ、お母さんの手だ)


的外れなことを考えてしまった。


この京子さんに、お子さんがいないということ、バツイチだということを、すでに聞いていたからだ。


「……よろしくお願いします」


『眠り屋』の事務所を出る時には、私は少しだけかもしれないけれど、身も心も軽くなっていた。


それは、一階の古着屋さんは、「あそこの店長は僕の顔を見るといつも服装がダサいだのなんだのと言って、すぐ洋服を買わせようとしてくるんですよ」と言うので、とりあえず今日は寄らないことにし、翻って「ワチパンベーカリーのパンは絶品です。特にバゲットが美味しいんですよ。おすすめですからぜひ」と言うので、ベーカリーに寄ってから帰ったのだけれど、その店内で。


「ふふふ」


うっかり、思い出し笑いをしてしまったのだ。


涙で頬の皮膚は引っ張られ、顔の筋肉は違和感だらけ。鼻の下も乾燥してカピカピなのに、口元は緩んでいた。


バゲットとクリームパンをトレーに乗せると、レジで矢島さんのご紹介で、とおずおずと言ってみる。


すると、若い店員さんがすごい剣幕で、まくし立てた。


「矢島先生のお知り合いですか? じゃあ先生に、あのアイドルの名前と顔写真がプリントされたTシャツは、京子さんに処分してもらうように頼みましたからねって、お伝え願えませんか。あんな服を着て、店内をウロウロされちゃ、営業妨害ですからっ‼︎」


まったく一階にちゃんと服屋さんがあるんだから、あそこで買えば間違いないのに、などとぶつぶつ言っているのを苦笑いで受けていたら、メロンパンが一つ余分に入っていた。


「また来てくださいねー‼︎」


若い店員さんが、手を振ってくれる。

そして私は、横断歩道の白いラインを踏みながら、家へと帰った。


✳︎✳︎✳︎


ペットを飼うと、あかちゃん来てくれないよ。

赤い腹巻きするといいってさ。

血行を良くするのが大事。運動して。


妊娠に良いと言われることは色々やってみたけど、なにもかもが不毛だ。


結局は、結果が出ないのだからと。結果が全てだというのに。結果さえ出れば、なにもかもがうまくいくのに、と。


ぽっかり空いた心の穴。それを何かで埋めようともがいて、もがいて、もがいて、そして迷路に迷い込んだ子うさぎのように、キョロキョロとしながら立ち竦む。


「わかってはいるんだけどなあ」


体調を整えることが先決なのだから、この頑固な不眠症は治すべきだ。


重い後頭部をゆっくりと枕に沈めていく。

まるで、ぬかるんだ泥の海で眠るように。


✳︎✳︎✳︎


寒さが身にまとってきて、吐く息が白く立ち上るのを、その日、私はじいっと見つめていた。


「14日、午後二時、」

白い小さなメモを、手袋をしたままの指で見返してみる。


(心配なら、旦那さんについてきてもらってくださいって、矢島さんは言ってくれたけど……)


矢島さんが、頭を掻きながら、心配そうに言っていたことを思い出す。


「京子さんも居ますし、大丈夫とは思いますけど……」


すると、その矢島さんの言葉を否定したいのか肯定したいのか、わからないような強さで、京子さんが言い直した。


「私が居ますから、大丈夫ですよ。けど、心配ならご主人についてきてもらっても良いんですよ」


京子さんがにっこりと笑うのを見て、矢島さんも同じようににっこりと笑った。


(矢島さんの手綱は、京子さんが握っているんだな)


私は心で苦くそう思い、その様子を微笑ましく見ていた。


夫の圭吾とは、ここ何年もそんな風に顔を見合わせて、笑い合ったことがない。


「大丈夫です。ひとりで伺います」


私はそう言ったことを思い出しながら、おんぼろなビルの階段に足をかける。すると、後ろから声がかかり、私は動きを止めた。


「こんにちは、寒いですねえ」


振り返ると、京子さんが花束を抱えて立っている。


「こんにちは。本当に寒い」


私が首に巻いていたマフラーに、顔を半分だけ突っ込むと、早く入りましょ、と京子さんが促した。促した京子さんの手には、少し大きいのではと思うようなサイズの手袋が、はまっていた。


(男物かな? 矢島さんの手袋かしら……)


京子さんが花束を抱えながら、先んだって、事務所の扉を開ける。

二度目となる訪問だった。


それは。

ニコニコした矢島さんの笑顔が迎え入れてくれる、そう思っていた私の常識が覆された瞬間でもあった。


「京子さんっっ」


入った瞬間、怒声が上がった。怒声というより、それは強く意思を持った声、と言っていい。


思わず。

京子さんの後ろで私は肩を竦めてしまった。


「あれほど、僕がこれを持っていきなさいと、言ったじゃないですかっっ」


初対面ではニコニコだった矢島さんが、目を釣り上げて怒った顔を見せている。もちろん見えやしないけれど、頭にツノでも生えていそうな剣幕だ。


見ると、手には。


ホッカイロが。袋に入ったままのホッカイロが、ぎゅうっと握り締められていた。


「先生、ごめんなさい。お店に行って花を取ってきたら、すぐに帰るつもりだったから」


主導権を握っていると思っていた京子さんが、私から離れて抱えていた花束をテーブルに置き、そして苦笑いを浮かべながら、言い訳をしている。


そして、手袋を取った。

真っ白な手。

この距離からでもわかる、色のない。真っ白な、手。


「早く、温めてくださいっっ」


強い語気に促され、京子さんがキッチンへといそいそと入っていく。


その時、京子さんは私へと振り返ると、ちょっとごめんなさいね、と小さく唇で言った。


この二人でも、喧嘩をするのだなあ。

その理由はわからなかった。けれど、ホッカイロが原因だなんて、大した理由ではないと思った。


けれど、このピリッとした空気の中。私は『眠り屋』の事務所の玄関で、ただただ、立ち止まっているしかなかった。

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