別れ
邂逅
その写真は真ん中から、見事なまでに真っ二つに引き裂かれていた。
引き裂かれていたと言っても、指と指でビリビリと破ったものでなく、鋭いラインを寸分の狂いなく呈しているのには、鋏が用いられたのだろうとわかる。
写真の左半分。そこには、その存在を許された男の姿。男は若く、顔形の見目も整っており、背筋をすらりと伸ばしながら、こちらを静かに見つめている。
その表情は憂いなのか、微笑みなのか。
真っ直ぐで真摯な視線。そんな眼差しからは、人から借りたお金をそのまま持ち去ってしまうような、そんな悪人の要素は到底、見当たらない。
(善悪の判断が、まるでつきませんね)
初めてと言っていいのかも知れなかった。今まで、『眠り屋』の仕事の依頼で、その内容に疑いを持ったことはなかった。
そんな気持ちを見透かされたのか、目の前に座る依頼者の翁に睨まれ、僕は苦笑し、少しずれた丸眼鏡を直した。
視線を写真に戻す。
そして、存在を許されなかった右半分を憂う。
この気難しそうなご老人の心の中のどこかに……存在しているのだろうか?
✳︎✳︎✳︎
「本当にできると言うんじゃな!」
改めて強い調子で言われると。
何も悪いことはしていないのに、何だか怒られているような感覚に陥り、一瞬怯む。
「はあ、まあ」
「嘘ではなかろうな」
普段からなにかとお世話になっている花屋の京子さんがある日、僕が営んでいるこの『眠り屋』の事務所に、一人の老人を連れてきた。
「何度も言うようですが、できるはできるんです。要は、今回ご相談にあるお相手、大介さんに、夢の中で構わないから、積年の鬱憤をぶちまけたい、文句を言うことができればそれで気が済むと。そういうお話ですよね?」
「そうじゃ。その通りじゃ」
「で。文句を言うお相手、大介さんの写真もあると」
「ああ、写真も持っとる」
「そして、金を返せ! と言いたいと」
「そうじゃ、貸した金を返せ! ネコババしおって、この盗っ人め! とまあ、あいつの面に浴びせかけたいんじゃ」
僕はこの依頼の内容に、心の底からのため息をつきたくなった。
目の前で唾を飛ばしながら、がなり立てているこの翁。偏屈な頑固じじい。失礼を承知で言えば、このひと言に尽きる。
身なりはそれなりだ。けれどその代わりに性格の悪さや腐った性根を身に纏まとっているような、そんな第一印象。
顔には深い皺が、縦横無尽に刻み込まれており、そしてその皺も世間を憎みながら生きてきたというような、そんな有様だ。
目つきも悪い。ぎょろりと睨みつけるように、他人を見る。持参した杖を何度となく振り回すような大仰な所作にも、この老人が持つそういった種類の乱暴さが表れている。
人は見かけで判断してはいけないとは言うが。
最初、僕は京子さんがどうしてこのような人を僕に紹介したのかと、失礼ながらそう思わざるを得なかった。
「矢島先生、こちら正蔵さんです」
と、依頼者のご老人を京子さんが紹介したのち、僕が挨拶のひとつでも言おうとした次の瞬間には、もう。
僕のことを、「こんなふやけた奴で大丈夫なのか」「あんたが先生先生と言っておるからどんだけの偉い先生かと思いきやこんな頼りのない若造とはな」などと云々。
これで、正蔵の翁の第一印象が決定づけられてしまったのも仕方がないことだと思う。
「夢の中で、大介さんを罵倒する。それで気が晴れるんですね? でも暴力は駄目ですよ。そんなことをした時には、逆にあなたが怪我をする可能性が有りますから」
「暴力だと? それは絶対に無い! こんな老ぼれになにができるというんじゃ。一度だけ、一度だけ盗人めと言ってやれれば、それでスッキリして満足できる」
「はあ。でもですねえ、そんなことをしても、貸したお金は戻りませんよ?」
僕は呆れた調子で言う。
「そんなことは分かっとる!」
耳へ脳へと直接攻撃してくるような怒声。意味なく怒鳴られて、辟易だ。
「そうですか、わかりました。ではいつにしますか?」
「……いやしかし、そんなこと本当にできるのか? 夢に入ることができるなんて、到底信じられんわい。お前、まさかとは思うが、詐欺などの類じゃあなかろうな!」
「もー。さっきから何度も僕、できるって言ってるじゃないですかっっ」
こうして振り出しに戻る。
僕は、はあっと盛大なため息をつきながら、頭を抱えた。
✳︎✳︎✳︎
京子さんによれば、正蔵の翁は若い頃からその商才を活かして、父親から譲られた一個人の商店を、中堅の商社になるまでに叩き上げたという強者の経歴を持っていた。
だが、弱者を切り捨てる経営方針に反発を持った従業員ともよく衝突したらしい。
結婚し一男一女を得たが、仕事一筋で家庭を顧みるどころか、その家族を踏み台にしてしまったようだ。自分の会社は自分の物だと言い切り、息子や娘に跡を継がせる気なんてさらさら無いと、早々に公言してしまったため、現在家族とは絶縁状態となっているらしい。
哀しいことに、正蔵さんは自ら、誰も近寄れないような深い堀で、四方を囲んでしまっていた。
「ご本人はそれで良しとしても、それだけ皆に嫌われて、ご自分の人生を寂しく虚しい人生だとは思わないんでしょうかね」
僕が呆れ口調で、フラワーショップの奥、簡易キッチンにいる京子さんに、声を掛けた。
「まあ、価値観は人それぞれですからね。けれど正蔵さんの場合、ご家族や会社の社員さん、皆さんが迷惑を被っていらっしゃいますから、困ったものです。お金はお持ちでしょうが、彼の心の味方になってくれるもの、寄り添ってくれるものが一つもないだなんて、はたから見ればこれほど寂しいことはないでしょう。私も、そう思う一人ですよ」
そう言って、京子さんは苦く笑った。
「どうして僕なんかに紹介したんですか?」
正蔵さんとの不毛なやり取りをしたあの日から続く、不服な気持ち。その気持ちが、言葉に出てしまった形だ。
京子さんは小さな冷凍庫から業務用ではないか? というバニラアイスのパッケージを引っ張り出してきて、これまたそれ用ではないか? というような大きなスプーンを戸棚から取り出すと、僕の座る机に運んできた。そして、力いっぱいにぐるりと掬って、ガラス皿に盛る。
まだ真冬と言える二月の半ばに、そんなにも大盛りでアイス、と僕も苦笑する。
「うーん、そうですね~。正蔵さんには先日、図書館で久し振りにばったりお会いしたわけですが。その時にお聞きした話がまあ、夢に関する今回のお話だったってこともあります」
京子さんが続けて二杯目を掬う。
「そして、ご覧の通り灰汁の強い気性の激しい方なので、柔和な先生にぶつけてみたらどうなるのかなあって思ったら……悪戯心がふつふつと……ふふふ」
僕が受け取ったガラス皿のアイスを口に運んでいると、その様子を横目で見ながら京子さんは悪魔のように微笑んだ。
「どんな化学反応を起こすのかなぁ~って。ふふふ」
真冬のアイスをすっかり堪能した僕は、藍色の美しいガラス器と小ぶりな銀のスプーンを京子さんに突っ返す。
「相変わらず悪戯っ子ですねえ。アイス美味しかったです。ご馳走になりました」
立ち上がって冬用の分厚いコートを羽織りマフラーを巻くと、その背中に声を掛けられる。
「あ、先生待って。これをお持ちください。綺麗でしょ」
京子さんの手には手折られた、ひと枝の白椿。数個ある蕾のうち、二つがその大輪の花を咲かせている。
見る者の心に真っ白な跡を残していく白椿の花の清廉さ。
「綺麗です」
花の芳しい香り。
鼻をくすぐる若干の花粉を感じながら、まだ来ぬ春、少しも緩まない寒さの中、僕はフラワーショップ京子を後にし、事務所へと帰った。
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寒さがピークを迎えようとしていたある日の午後、正蔵の翁の夢へと入る準備が整った。
夢魔を呼び寄せる算段はつけてある。なんにでも変化することができる夢魔に頼み、正蔵さんの宿敵、『大介』さんへと変身してもらう。
「罵倒される役だなんて、本当に心苦しいんですけれど……」
僕が先に入っていた正蔵さんの夢の中でそう言うと、夢魔はぴくりとも表情を変えず、その牙を見せた。僕と長年交流のある、黒豹の姿をした夢魔だ。
『気にするな。それよりその男の顔を見せろ』
僕は、正蔵さんから預かった写真を見せる。
『なかなかのハンサムだ』
「ですよね」
牙を見せながら夢魔は、その黒豹の姿を次第に曖昧にしていき、そして見た目を完全に『大介』へと変化させた。
どこからどう見ても、写真の左半分の男だ。
「それでは、正蔵さんを連れてきます。よろしくお願いします」
これほど簡単な依頼はない。怒鳴られるだけの役の夢魔には悪いが、それでスッキリできると言うなら、これほど楽なことはない。
始まるまでは、そう気楽に思っていた。
が。
「大介えぇ! この恩知らずめ! ユキさんを返せ、この泥棒ネコが!」
物陰から姿を隠しつつその様子を見ていた僕は、ギョッとして立ち上がった。
怒鳴りつけている内容が、聞いていた話と噛み合わない。その時、僕はようやく気がついた。
写真の片割れの存在。不在であったその右側の存在を確認するべきだったということに。そしてそれをいたく後悔する羽目になるとは。
「貸した金を返せ!」の予定が、「ユキさんを返せ!」にすげ変わっている。
僕は慌てた。まさか暴力は振るわないだろうと思い込んでいたことも、あだとなってしまった。
「この野郎! わしのユキさんを掻っさらいやがって! どの面下げてわしの前に現れたっ! この裏切り者がっ! ユキさんを返しやがれっっ!」
正蔵さんは唾を飛ばしながら、『大介』を思いっきり、罵っている。そのすざましい勢いに、夢魔も動揺しているのか、じりじりと後退していく。
その態度が気に入らなかったのか。
「逃げるのか、卑怯者めっ!」
遂に正蔵さんが、大介の襟首にガバッと食らいついた。両の手をワイシャツの襟に食い込ませて引っ張ろうとする。
僕はあっと声を上げ、その場に躍り出た。夢魔を怒らせれば、依頼者の身が危険に晒される。
次の瞬間。
その襟首を引っ張り上げていた正蔵さんの両手が、すかっと空を切った。大介は、いや大介に化けた夢魔は、一瞬にして消え去ってしまったのだ。
「うお、待てっ! 大介めえぇぇ、待たんかっっ!」
空を抱いた両手を握りこぶしにし、正蔵さんはありったけの声で叫んだ。はあはあと背中で荒い呼吸をしている。
焦った僕は、少しずつ覚醒を促すことにした。夢から覚める準備を整える。
ああ、なんとも無様な結末だ。今までにないような失態に、僕はどうしていいか、わからなくなってしまった。