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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
鈍色の天使 −向日葵
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向日葵の笑顔



夢魔に夢を見せられてから二ヶ月ほど経った頃のことだった。



あの殺人的な猛暑が嘘のように退いて、肌寒く長袖の上着が要るか要らないかくらいの季節の、ある日。


僕の事務所に来客があった。


「はーい、」


ドアを開けて、少しだけ驚く。


紙袋を下げて立っている男性。


雀さんだった。


Tシャツに綿パンのシンプルな出で立ち。薄いだいだい色のニット帽をかぶっていた。


その帽子を見て、僕は胸が締めつけられる思いがした。


「……その帽子、天ちゃんの好きな色ではないですか?」


天ちゃんが履いていたスカートを思い出したのだ。それは夏を彩る向日葵ひまわりのように、人の心をも元気にするオレンジ。


「矢島さんは、なんでもお見通しなんっすね」


僕は事務所に彼を招き入れた。


雀さんはソファに腰を落ち着けると、少しの間を置いてニット帽を取った。


茶色に染めてあった髪色は黒に変わり、ほとんど坊主と言っていいほど短く刈られている。


「悪性の腫瘍でした。でも初期のもので、それも小さいうちに発見できたので、手術で取り除けました。後遺症もほとんどありません。矢島さんのお陰で命拾いしました。本当になんて言っていいか……ありがとうございました」


「いや、天ちゃんのお陰ですよ。僕は夢を見せられただけです」


雀さんは、僕が出したコーヒカップに手を伸ばしては、引っ込めてを何度か繰り返したのち、意を決したように、口を開いた。


「……て、天は、元気でしたか? あ、いや、それはおかしい質問ですよね、すんません」


慌てて、コーヒカップを取り上げる。二、三口ずっずっと飲むと、テーブルにカチャリと音を立てて置いた。


「とても可愛らしい女の子でした。あなたのことをとても注意深く見ているように感じました。心配だったんでしょうね。それで病気のことにも気づけたのかも知れません」


正直に言うと。


こうして雀さんが来訪してくれる前までは、僕に夢を見せたのが天ちゃんだろうが、夢魔だろうが、正直どちらでもいいという気になっていた。


たとえ夢魔だと判断するとしても、それは僕の主観でしかないし、この世界ではなにが真実なのかは、分からないのだと思う。


けれど、こうして雀さんを前にすると、僕が見たその夢が真実となって、色鮮やかに彩られるのだ。


雀さんの側で見守っていたのは、天ちゃん自身だったのではないかと思いたくなり、僕は少しだけ困った。


「辛そうにしている雀さんを、それはそれは心配していました」


それでも。


夢とはいえ、自分の目で見た限りのことを、伝えたかった。


「……そうなんですか。そ、それなのに……俺を見てた、はずなのになあ。根性もねえ左官の俺を、……パティシエだなんてなあ……わ、笑っちまうなあ」


雀さんが両手をひざの前で組んだ。その手をじっと見つめたまま、視線を離そうとしない。


涙を、必死で堪えているのだ。


僕は、そっと立ってキッチンへと入ると、京子さんが僕のおやつにと余分に作ってくれたマドレーヌを小皿に取り分けた。


すでに雀さんにはホットコーヒーを出しているにもかかわらず、やっぱりマドレーヌと一緒にアイスコーヒーも飲んでもらおうと思いつくと、いちからじっくりコーヒーを淹れるべく、ヤカンに水を入れて火にかけた。


聞こえてくる慟哭は、沸騰するヤカンの音によって、僕の耳に届く前にかき消されていった。



✳︎✳︎✳︎




「俺、実は大学出てすぐに帝洋ホテルにパティシエ見習いで入ってるんです。大学出でよく雇ってもらえたなって今でも思うんですけど。小さい頃から甘いもん作るの好きで、よく天にも作ってやってたんです」


ふっと、微笑を浮かべる。


「あいつ、あんまり美味うまそうに食べるから、俺も嬉しくて。その天の顔を見て、大学行ってる途中で決めたんですよ、パティシエになろうって。帝洋ホテルに就職したのを報告した時は、すっげえ喜んでくれて」


雀さんは一呼吸ついてから、俯いた。


「でも……それから三年もしない内に、突然死んじまった。信じられます? まだ、十五だったんですよ」


肩を震わす。


「俺、好きだったんです。小さい頃から、天のこと。でも、キモいじゃないですか、十も離れてんのに……」


すんません、ぐいっと手で涙を拭った。


「……き、嫌われたくなくて、作った菓子をやる時以外は、必死になって距離を取ってました。でも天が大人になったら、ちょっとは付き合える可能性が出てくるかもしんねえって、そう自分に言い聞かせ、て、待って、待って、待って……い、いつまでだって俺、待つつもりで」


次々に零れ落ちる涙が頬を伝って流れていく。


嗚咽がこぼれた。


涙の粒は、その嗚咽のたびに、ぽとりぽとりと彼の握った拳の上へと落ちていく。


「……て、天が死んで、もうそれで俺は駄目になっちまって……俺ら両方、母親がいないんですよ。だから、天が小さい頃から支え合ってたっつうか。はは、俺だけ支えられてたのかも知んないですけど、」


僕は、腰を浮かせてボックスティッシュを差し出した。雀さんはこくっと頷くと、二、三枚を引き出して、鼻をかんだ。


「俺、そっから帝洋も辞めて、最近までずっと引きこもりだったんすよ。んで、これじゃあダメだと思って外に出て。でも、やっとありつけた左官の仕事も、何度も怒られんのが嫌で辞めちまって。情けねえったら、ないっすよ。天が俺のこと見ててくれたんだったら、こんな体たらくのバカみてえな俺をどう思ったか……そう思うと本当に恥ずかしくて、情けなくて、」


僕は、ずっと黙って聞いていたけれど、口を開いた。


「左官屋さんのお仕事は、病気の件が影響していますので、仕方がありませんよ。ご自分を責めてはいけません」


いや、気持ちは十二分にも分かる。僕の胸にも同じような痛みがある。けれど、僕は続けた。


「左官って、ケーキにクリームを塗っていくように、壁を土や漆喰しっくいで塗り上げていくんですね。僕、あれから左官の仕事を調べたんです。そしたら京子さんが、……えっと事務所のお手伝いの方なんですけど、その方もスイーツを趣味で作ってて。その京子さんが、ケーキ作りに似てるなって」


「あはは、まあ実際やってみると全然違うんですけどね。クリームを塗り上げていくっていう部分だけは、似てるかも知れねえ。そんなこと考えたこともなかったですけど……」


少しの沈黙があったそこで、僕は呼吸を整えた。

そして意を決して言った。


「……雀さん、天ちゃんもあなたを、好きだと言っていました」


この事を伝えるべきかどうか。


僕はかなりの間、迷いに迷っていた。


愛情というものは他人の口を通しただけで、その温度を一気に失ってしまう。


そんな冷めてしまった生気のないような、けれどなによりも尊い意味を持つこの言葉を、僕の口を通して伝えるべきであろうか。


しかもその相手は。心底、痛恨の極みであるのだが、もうこの世に存在しない。



それでも、これこそが、真実なのだと。



僕に見せた回りくどいほどの夢で伝えたかったのは、このことだったのだと、僕は信じて疑わない。


信じて疑わないのだ。




「すみません、言うかどうか迷ったんですが。でも、天ちゃんが自分は妹のようにしか見てもらえなかったと、そんなような思い違いをされていたので……両想いで、良かったです。本当に良かった」


雀さんの目に。涙が溢れる。唇を震わせながら。


「て、天が? 俺のことを? ……まじですか、嬉しい、めちゃくちゃ嬉しいです」


一呼吸置いて続ける。


「すげえ、……すげえ嬉しいです、それ聞けて。両想いかあ、なんだ、良かった。本当に、良かったなあ」


噛みしめるように呟いた雀さんは、瞳から涙を溢れさせながら、笑った。


「矢島さん、俺ね。俺のこの命、天に助けてもらった命なんで。今度からはちゃんとしようって思います。天に心配ばっか、掛けられねえから」


そして、雀さんは帰っていった。


悲しみや痛みをたくさん抱えて。




天ちゃんと雀さんと僕の三人で、一生懸命に掘り起こしたものが、今。


それぞれの足元に横たわっている。




✳︎✳︎✳︎




長く寒い冬が終わり、うららかな春を『眠り屋』の事務所の窓辺で待ち遠しく思っている頃、雀さんが事務所に、寄ってくれたことがあった。



ドアを開けると、雀さんは挨拶もそこそこに開口一番、こう言った。



「矢島さん、俺、もう一度パティシエ目指します」


そして、ずいっと紙袋を差し出してくる。


中を覗くと、行儀良く並んだクッキーが、美味しそうにビニール袋にくるまれている。


ふと見ると、その紙袋には、帝洋ホテルのロゴ。


僕はまず、帝洋ホテルの懐の深さに、拍手を送りたい気分になった。


実は雀さんが手術後、初めてここへとやってきた時にも、手作りのクッキーを持ってきてくれていた。それを思い出したのか、雀さんが照れながら言った。


「この前のより、ずっとずっと美味しいですよ」


そう言うと雀さんは、照れ笑いも混ぜて、にかっと笑った。


まるであの向日葵ひまわりのように。


僕もその笑顔につられて笑ってしまった。


向日葵の笑顔には、そんな不思議な力がある。


夏の小径に凛として咲く、そんな向日葵の花言葉のように、きっと天ちゃんがあなたを見守っている。



──貴方だけを見つめています



僕は心からの満足とともに、振り返って手を振りながら帰っていく雀さんの後ろ姿を、いつまでも見送っていた。



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