違和感のなかの恋心
事務所に戻ってから、僕は京子さんがいれてくれたレモネードを一気にあおり、お代わりで梅ジュースを飲んだ。
「手作りのレモネード、美味しいでしょう。さっき持たせたペットボトルの梅ジュースも、私のお気に入りなんですよ。梅シロップを作ってから、水や炭酸で薄めるんです」
僕は冷房のかかった涼しい部屋のソファで横にだらんと伸びながら、そうなんですかと言いつつ、今度はアイスを食べる。
「先生、そんなに冷たいものばかり食べたら、お腹こわしますよ」
そしてその京子さんの予言(?)は当たることとなる。
「ほらごらんなさい」
京子さんの、鬼の首でも取ったかのような、あのドヤ顔。
悔しくもあるが確かに僕はその日、腹痛で苦しんだ。
そして今日。
誰もいない事務所で、温かいスープを飲みながら、その愚かな行動を反省をしていた時のことだ。
事務所のチャイムが鳴った。
ドアを開ける。そこには果たして、雀さんが立っていた。
「おや、こんにちは。昨日はクッキーをどうもありがとうございました。美味しかったですよ、すごく」
僕がにこっとして、中へと招き入れると、雀さんは恐縮した様子で入ってきた。
「あのクッキー、浮き粉っていう材料が入っているんです。それ入れると、食感が軽くなるんです」
「浮き粉ですか。初めて聞く名前ですが、そうなんですね」
僕は尋ねた。
「それで今日はどのようなご用件でしょうか」
まあ詳細については天ちゃんから聞いてはいるが、その事については口外できない。
それが天ちゃんとの約束の一つだからだ。
「……それがその、今日は、俺が見る夢の話を聞いてもらいたくて、」
僕は、雀さんの話を聞くべく姿勢を正した。
ただ。
今日も朝から猛烈に暑い日となっているはずなのに。そんな中、僕は汗をかきながら、温かいスープをふーふーしながら飲んでいたというのに。
あの時の天ちゃんと同じく、雀さんは事務所を訪ねてきた時から、一向に汗をかいていなかった。
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雀さんの話は大方、天ちゃんの話していた通りであったが、二点ほど食い違いがあった。
一つは帝洋ホテルのパティシエとしての仕事は、クビになったわけでなく、自分から望んだ自主退社であったというのだ。
これは天ちゃんの思い違いであろうか。それとも訊き間違いであろうか。
「職場の皆んなにまで迷惑を掛けていると思うと、申し訳なくて。突然、睡眠状態が襲ってくるので、何度も手が止まってしまうんです。その度に同僚が手を止めて、揺り起こしてくれるんですけど」
雀さんは、深くため息をついた。
「最初はこの病気を理解してもらえて、ありがたいと思いましたが、実際忙しい時なんかは俺にかまってる暇なんてなくてですね。皆んなの足を引っ張りたくなくて、自分から辞めました」
寂しそうな表情を浮かべる。身体つきから想像できる、その性格にも線の細さが伺えた。
「今、病気と仰いましたが、病院などで診て貰ったのでしょうか?」
「はい、でも精神的なものだって、心療内科を紹介してもらいました。でも俺、心療内科なんて……」
「お気持ちは分かりますが、事実として申し上げますと、それが一番手っ取り早い方法なんですよ。原因が心因性のものであるならば、ですけど」
そして、二つ目。
雀さんは何の躊躇もなく、さらりと言った。
「ずっとこのかた独り暮らしですが、それが何か?」
この件に関しては、僕はうーんと唸ることしか出来なかった。
一体どういう事だろう。
天ちゃんと天ちゃんのお父さんの話が、1ミリも出ない。ここへ来て彼女の話は、その真実味を失っていった。
「恋人は、……おっと、これはプライベートの質問ですね。すみません」
僕が慌ててひとりツッコミをすると、雀さんは、なんなく言った。
「別に大丈夫ですよ。ここ数年彼女はいません。友達も知り合いもあんまりいないし、寂しいもんですよ」
あはは、と苦く笑う彼の瞳。
気になることはたくさんあったが、手帳のカレンダーを開いて日にちを確認する。
「分かりました。では、5日はどうでしょう。普通に眠っている時に見る夢では意味がありませんから、丸一日一緒に行動して、雀さんが休眠状態に入った時に、僕が夢の中へ入ることにしましょう。それで大丈夫ですか?」
「はい、それでお願いします」
そこかしこに感じる違和感は確かに、膨れて大きくなっていた。
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「どうして嘘を?」
僕の横に座った天ちゃんは、そのふっくらとした唇をむうっと噤んでしまって、何も返してこない。
「まあ、別に良いんですけど。怒っているわけじゃありませんからね」
何度目かの怒っていないアピールをした時に、ついに天ちゃんは口を開いた。
「……ご、ごめんなさい、嘘を吐いたわけじゃないのだけど、現在の雀さんについては、知らないこともあって……それに、」
唇を一度だけふるっと震わせ、そして続ける。
「それに、私と雀さん。と、歳がちょっと離れている、から……ふ、不審に思われるかなと、……思って、それでお父さまのお友達っていうことに、」
言葉が小さく小さく消えていった。
「そうでしたか」
天ちゃんとこうして話ができたのは、雀さんと夢に入る約束をしてから、すぐのことだった。
僕らは再度、川べりで座り込んでいた。
過日となにが違うか? といえば、相変わらずの暑さに加えて、そよそよと少しだけ風が吹いていることだろうか。
その微風は時折、川べりに生える葦のように背丈の長い草をゆらりゆらりと揺らす。
けれど、風もまたその温度と言ったら、熱風と言い換えても過言ではないほどだ。
「……今日も暑いですねえ」
僕は何度もタオルで汗を拭った。
けれど、横に座る天ちゃんの涼しげな表情。相変わらず、なんの音もさせずに、遠くを見つめている。
そこで僕は気づいた。
天ちゃんの涼しげな様子。先日と同じく、額や首元には、一粒たりとも汗が見当たらないのだ。
「あの、」
その不思議な事象を言葉にしようとした同時に。
「あのね、本当のことを言うとね」
天ちゃんが、話し始めた。
「私と、……私と雀さんは幼なじみなの。っていっても、私の方が十歳も下だけど。私、雀さんの家の近所に住んでて。小さい頃から良く遊んでもらってて」
「えっと……天ちゃんは幾つなんですか?」
「十五」
えっ、と僕は声を上げてしまった。そんな歳にはまるで見えない。まだ小学生かと思っていた僕は、慌てて口を噤んだ。
「良いの、矢島さん。でも、驚いた? 私、見かけがこんなんだし、実際歳も十個離れているから、雀さんにも妹みたいにしか……見てもらえなくて」
少しの間があった後、 僕はその言葉をできるだけ丁寧に口にした。
「……好きなんですね」
薄っすらと口元を緩めると、天ちゃんは微笑みながら力なく頷いた。
「うん、……好き」
天ちゃんは、丁寧になぞるように言った。
「ずっと雀さんを見てきたけど、現在が一番、……辛そう」
その言葉の言い方。違和感?
けれど、原因不明の病を患い、仕事を失って失意のどん底にいる雀さんを見ての言葉であろうと、僕も悲しく思った。
「全力を尽くしてみます。天ちゃんはあまり心配しないように」
「矢島さん。雀さんを助けてくれる?」
不安で揺れる瞳。
「はい、必ず」
「ありがとう‼︎」
すると、天ちゃんは夏の暑さに負けず、太陽に向かって花を咲かせる、向日葵のような笑顔で笑った。
この笑顔に雀さんが惹かれないわけがない。
僕はそんな風に思いもしたのだった。