少女と青年
「あのう……」
僕は男性の斜め後ろに立って、同じくして水面を覗き込んでみた。それでも彼は僕の気配には一向に気づかず、ただ水面を見つめ続けている。
彼の視線を辿ってみると。
アメンボかなにかが、その水面に小さなさざ波を立てている以外、特に何も見当たらない。
じっとなにを見ているのだろうか。
「なにか、気になることでもありますか?」
僕は斜め後ろから、彼の横へと進み出てから、慎重に問うた。
すると男性は、そのまま俯いてしまった。時々、短い睫毛が伏せられる。
まだ若い、二十代くらいの青年だ。こめかみ辺りのシャキンとした刈り上げを、最近の若者はツーブロと言うのだと、京子さんに聞いたことがある。
遠くを見つめているような、見つめていないような、そんな虚ろな目。水面から外した視線は、今度は自分の足元あたりをぼんやりと見ているようだ。
「だ、大丈夫ですかね?」
話し掛けたのが耳に入ったのかどうか。返事はない。
と、そこで男性の身体がゆらりと動いた。けれど、ゆらりとしただけで、やっぱりそのままの姿勢を崩さないのだ。
僕は話しかけるのを諦めて、手にしていたアイドル名鑑を袋から出し、少し読んでみようと思った。
その時。
「その人ね、夢を見ているの」
痩身のこの男性には似つかわしくない、可愛らしい声がした。
「はい……?」
僕は振り返り、声の主を探す。
視線を移していくと、そのまま川べりの斜面を上がっていった小径に、小さな女の子が立っている。
腕を後ろに組んでいるからだろう、背筋をぴっと伸ばして、何とも姿勢が良い。
ふわりと軽い印象の、薄い橙色のスカート。そのスカートには、大きなポケットが二つ。そして襟もとに上品なフリルのついた、真っ白な半袖のブラウス。
少女と青年。
男性のTシャツに綿パンという、カジュアルな服装が、少女の服装とはあまりにも対照的で。
正反対の外見に、とうてい二人が知り合いとは思えずに、僕は少しだけ混乱した。
「……夢ですか、けれど目は開いているようですよ」
僕が、僕の目線より上にいる女の子へと返事を投げると、今度は女の子が斜面を駆け下りてきて、僕の視線の隣に並ぶ。
足元を見ると、ピアノの発表会にでも履くような、黒く光るエナメルの靴。
これ以上はないというくらい完璧な、良いところのお嬢さんだ。
横に並べば、僕の肩くらいにしか身長が及ばない。歳の頃は11、12歳程度だろうか。
女の子が青年と同じように、川の水面を見ながら言った。
「眠っているのではないの。目は開いていても、夢を見ているの」
人形のような姿に、人形のような喋り方。僕は不審に思いつつも、話を進めていった。
「それは不思議ですね。あなたのお兄さんですか?」
「ううん、お父様のお友達よ。スズメさんって言うの」
「あの、鳥の? 雀ですか? 変わった名前ですね」
僕はその名前の響きに薄っすらと笑った。けれど、そんな僕の様子を、女の子は気に入らなかったようだ。
「変わってるだなんて、そんな事ないっ‼︎ 可愛い名前よっ‼︎」
少し強い口調に、怯む。怯んだけれど、僕は慎重に訊いた。
「……君は?」
すると。
「わ、私は、」
そこで言い淀んで、むうっと唇を突き出して、黙ってしまった。
僕は、改まった声で言った。
「僕は矢島と言います。以後、お見知りおきを」
腕を大きく振って、前へと持ってきてから、頭を下げる。その英国貴族のような仰々しい礼の仕方に、少女はふふ、と短く笑った。
「……私はね、テンと言うの」
「動物の?」
「ううん、天使の天」
「それはまた、」
「べ、別に変わってないし、変な名前でもないっ」
言い掛けて直ぐに遮られる。荒げられた声が、小さく震えていた気がした。
僕は、その少女の怒った横顔を、少しの間見つめていた。そして、それから顔を戻し、水面を見ながら言った。
「天使の天ちゃん、可愛らしい名前だと思いました」
心からの感想を正直に伝える。
横で、少女があっと小さく言いながら、恥ずかしそうに俯いたのが分かった。彼女がそうやって今まで、その名前をからかわれてきたのだろうことも。
「……あ、ありがとう」
「どういたしまして」
「ねえ、アイドル好きなの?」
僕が抱えている本を見てから、天ちゃんは訊いた。
それにしても不思議だ。先ほどからのこの少女とのやり取りを聞いているはずなのに、それでも青年はまだ、微動だにしない。
「これはですねえ、話せば長くなるんですよ」
僕は、アイドル名鑑の表紙を手で撫でると、大いにため息をつきたい気分になった。
少女は笑いながら、その場に座って言った。
「良いよ。時間はたっぷりあるから、聞いてあげるよ」
疑問に思う。時間はたっぷりある? こんなに暑い一日なのに?
僕は、川べりの青年を見た。
「では、天ちゃん。僕の話が終わったら、この青年の話をしてくれますか?」
「うん、いいよ」
僕は流れ落ちる汗をタオルで拭き、事務所を出る時に京子さんにカバンの中に押し込められたペットボトルを取り出して、喉へと水分を流し込んだ。
梅ジュースの爽やかな酸味が、口へと広がった。




