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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
鈍色の天使 −向日葵
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一途に想う





鈍色にびいろの天使』





身体中を流れていく汗を、どうすれば少しでも不快に思わずにいられるか。


手に握っているハンドタオルで首元を拭きつつ、僕はその日、ぶらぶらと川沿いを歩いていた。


つい、先ほどのこと。


「ちょっと、矢島先生‼︎ またそんなところでゴロゴロして‼︎」


この日は仕事もなく、ソファで横になって本を読んでいた僕なのだが、このだらしない姿によって、僕は久し振りに京子さんの怒りを買った。


「いいですか先生。人間ってのはね、ぐーたらになると、どんどんと体力が落ちていくんですよ。運動が大切です。運動しないと‼︎ さっき、うさぎ書房の辻さんから、予約した本が入荷したって連絡を貰いましたから、散歩がてら取りに行ってください。ちゃんと遠回りしていってくださいよ。川沿いです。川沿いを歩いていってくださいね。サボって近道を行こうだなんて、絶対ダメですよ」


この有無を言わせぬ京子さんの圧。


「……はいはい、わかりましたよ」


そんなこんなで僕は、根っこの生えてしまった重い腰をようやく上げると、身支度を整えて事務所を後にした、というわけだ。


夏。


事務所のドアを一歩出ただけで、どっと汗が噴き出してくる。


「あ、暑い……」


こんな猛暑の中へとほっぽり出した京子さんを少し恨めしく思いながらも僕は一応、京子さんの言い付けを守るべく、川沿いの道の入り口へと向かった。


僕は普段からこの素朴な川沿いを歩くのが好きだ。だが、今日はどうだ。この尋常でない暑さ。めまいがして倒れそうになる。


「京子さんめ」


ぶつぶつと文句を言いながらも、足をなんとか運ぶ。


が、僕は少し歩いたところで、はたとその足を止めた。


川べりに一人。男性が立っていて、じっとその水面を見つめている。


背は高く、身体つきは痩せ気味で細っそり。背中に、哀愁を漂わせている、気がする。


「これはなんとも珍しい。こんな小さな川で佇んで、なにを楽しんでいるのでしょうか」


浅い川だ。自ら飛び込むなんてことはまあ、ないだろう。


そう思った僕は、足を止めることなく、そのままその場を通り過ぎた。


首から流れ落ちた汗が、Tシャツにじわりと染み込んでいくのを肌で感じながら、ただただ歩き続けた。


✳︎✳︎✳︎


「うわあ、これ本当にねえ、……むう」


絶句とはこのようなことを言うのだろうか。あまりの驚きと落胆に、次の言葉が出ない。


そんな僕の様子を見ていた、うさぎ書房の辻氏が、これだけは言わなければなるまいというような力強さで、言い切ってきた。


「矢島さん、今さら要らないなんて、絶対にダメですからね。うちは基本、返品はお断りしているんです。どうでも買ってもらわないと、困りますから」


僕は一冊の本を前にして、頑固に考え込んでいた。その理由を指で辿る。


『アイドル名鑑』


本の一番最後の索引にて。


『沢田リコ』


そして、そこにある数字をパラパラとページをめくっては探し、そして落胆した。


「矢島さん、ニヤニヤしないでもらえます?」


辻氏がすかさず、指摘してくる。


「この顔のどこがニヤニヤだって言うんですか。僕は落ち込んでいるんですよ。だってこの本、絶対に詐欺じゃないですか‼︎ こんな分厚い本なのに、リコちゃんがたった二ページ、それに4980円という、信じられない値段設定‼︎ 高いです、これは高過ぎです。こんなことは常識的に言っても、絶対にあり得ません‼︎」


「値段のクレームは出版社にどうぞ。矢島さん知ってるでしょうけど、予約本は基本、返本はできないんですよ。ちゃんと、買ってください」


「……わ、分かってますって」


辻氏が僕の手からひょいと本を取り上げると、レジへとさっさと持っていって、バーコードを通してしまう。


この分厚い本が、無理矢理に紙袋に入れられて封をされるのを、財布を持ったまま、僕は虚しく見つめているしかなかった。


「まいど有難うございましたあ~」


間延びするような語尾を若干斜め上へと伸ばしてから、辻氏がにこりと笑顔を作って、手を振る。


「……じゃ、じゃあ、また」


渋々のていで僕も手を上げて、うさぎ書房を後にした。


その帰り道の、重い足取りといったら。


「あーあ。いくらリコちゃんのためとはいえ、これは高い買い物ですよ。花月くんに頼んで、アケミマートで売ってもらいましょうか。たったの二ページに、この値段。悔しさを通り越して、発狂ものですよこれは」


アケミマートの若き店主、花月くんはいやにアイドルに詳しい。


店頭に時々、アイドルのカレンダーやポスターなどを置いているあたり、隠れアイドルオタクじゃないかと僕は疑っている。

本人は店の売り上げのためだと、激しく否定してはいるが。


だがこの件については、つねづね世間には厳しい目を向け続けている京子さんにもきっと、賛同してもらえるであろう。


「はああ、この前買ったグループの写真集の方がまだ良心的でした」


僕は独りごちながら、行きにも通ってきた川沿いの小径を進む。


すると。


「おや?」


行きの川沿いに見かけた男性の姿が、まだそこにある。


奇妙なことだった。このゆだるほどの暑さの中、先ほどと変わりのない姿で、川の水面をじっと見つめている。


僕は、その男性に気を引かれた。


先ほど見かけた時から、小1時間は経っているだろう。その場から動いた気配が、微塵も感じられない。


なにがなんだか訳が分からないが、場合によっては消防に通報して救急車を要請、ということもあり得るのだ。


「大丈夫なんでしょうか……」


僕は川べりの草に足を取られながら注意深く傾斜を下り、そして慎重にその男性に近づいていった。


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