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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
宝箱の在り処 −柊
40/63

飾り箱に触れる


翌日、僕は事務所にある自分のベッドではなく、見知らぬ部屋の見知らぬベッドで眠りから覚めた。大河内氏が僕のためにと用意してくれた数ある客室の中の一つである。


夢の中で見た、小ぢんまりとした部屋とはまた違って、この部屋にはまた独特な雰囲気がある。 僕はその慣れない雰囲気の中、伸びをしたり盛大に欠伸をしたりして、少しずつ覚醒していった。


朝食を用意して貰えるということで、ダイニングルームに移動する。

そこで、大河内氏、加賀さんと一緒に食事を取る。


「さあ、どうだったかな? 何かヒントのようなものはあったのだろうか」


首を横に振ると、彼もふっと短い息を漏らして、諦めの雰囲気で首を横に振った。


「そうか。なかなか上手くはいかないものだな」


僕は、手に持っていたパンを皿に置いた。


「大河内さん。そう広くない部屋で、薄紫色の家具が揃えられている部屋は、どなたのものですか?」


ガチャンと皿が鳴った。大河内氏の手元を見ると、どうやらバターナイフを取り落としたようだ。そして彼の顔色がみるみる変化していった。


「私の、……母の部屋だ」


予想が当たり、僕はもう一つ問うた。


「お母様の写真はありますか? できれば、父君とお祖父様のも見せてください」


そして、数分後。僕は、並べられた三人の写真を前に、うーんと唸ってしまった。


「本当だ。失礼を承知で言わせていただけば、確かにあまり似ていらっしゃらないですね」

すっと、二枚の写真を並べる。


「……このお二方はそっくりですが」


大河内氏の父と祖父。二人には、世間一般の親子に違うことなく、その血筋を強く感じることができている。


それが互いに。違う人生で、違う性格で、違う性質であったとしても。


「似ているのは唯一、見かけだけなのだ。二人は非常に仲が悪かった。私の父は、女遊びや道楽が酷くてね。よく芸者や水商売の女に入れあげていた。反対に祖父は煙草の一つでさえやらない堅物でね。そんな正反対の二人だから、分かり合えるはずがないのだ。母はその二人の間で、苦労していたのだと思う。男運がよっぽど、」


ふっと笑った。


「悪かったのだな……最悪だったのだ」


そして、この人も。諍いだらけの両親の姿を見て、同様に苦労してきただろう。


僕は、少しの沈黙の後、もう一度、夢に入る了解を取った。


昨晩。

夢の中で飾り箱を持ち去った人を思い浮かべる。


確かに、この三世代の写真の中の、ひとりの人物だ。


その行為に何か理由があるのだろうか?

大河内氏の中に、いや、この屋敷の中に、その理由があるのだろうか?


僕は朝食を終えると、途端にヒマになって手持ち無沙汰になってしまった。散歩に出て、ぶらぶらと道を歩く。そして、後ろから車で追いかけてきてくれた運転手と、その場でちょっとの時間、世間話をした。


ポニーのいななきが、遠くに聞こえた。


✳︎✳︎✳︎


二日目。


前回と同じように柊の小枝に咲いた花を使い、夢へと入っていく。


柊には「用心深さ」「保護」という意味がある。そのチクチクした刺々しい葉っぱが、魔除けや厄除けに有効だという言い伝えがあるからだろうか。


昨晩は僕のミスで、夢の中の人物に見つかってしまった。


確かにそれほど大騒ぎにはならなかった。が、その後やはり違和感を感じた大河内氏は、無意識にそうなってしまったのだろうが、僕はあの後、夢から直ぐにも追い出されてしまったのだ。


覚醒した僕は、用意された客室へとのこのこと引き下がった。自分の失態を悔しく思いながら、眠りについたのだ。


「今夜は慎重にならなければいけません」


一歩、一歩と夢へと足を踏み入れる。


昨日の夢の続きか、もしくは最初からであればと願いつつ、僕はいつものようにカウントを始める。


そのうちカウントは、ジャリ、ジャリ、と地面を足で踏みつけるような音に変わっていった。


昨晩と同じようにして窓から見下ろしてみる。


するとそこには。片足のケンケンで飛び跳ねる男の子。昨日、縄跳びをしていた男の子だ。


二度跳んで、三度目には両足をパッと広げて着地した。


ケンケンパ、と僕が呼んでいる遊びだ。薄っすらと地面にマス目が描いてある。その靴底が地面を蹴るとき、ジャリ、ジャリと音がするのだ。


そして、傍らには。遊ぶ我が子を見守る母親の姿。


今度は真正面。その柔和な表情に、溢れんばかりの愛情が浮かんでいる。


ああ、なんという眼だ。

母というものは皆、我が子をこのような眼で見つめるのか。


身が震える。それほどの感動。


けれど、今日はその感動に身を任せていてはいけない。僕は身を翻して窓から離れると、直ぐにも長椅子の後ろへと隠れた。


(同じ轍は二度と踏みません)


心で呟いてから、そっと覗き見る。確かに、丸テーブルの上には飾り箱。


ドアが開いた。

人が入ってくる。

飾り箱を、抱えて持ち出す。


ここまでは昨日と同じ。


僕は、長椅子から躍り出て、ドアの隙間から身を滑らせると、その後をそっと追った。そのうち、僕が最初に通された大広間へと着いた。

またドアから身を滑り込ませて部屋へと入り、近くにあったソファの後ろへと回って身を潜めた。


その人は抱えていた飾り箱を、テーブルの上へと置くと、部屋から出て行った。


(いったい、どういうことでしょうか……)


僕が頭をひねりながらも、ソファから出ようとした時。


また直ぐにドアが開いて人が入ってこようとした。


僕は息を潜め、ソファの陰からそっと覗き見た。


先ほどの人物とはまるで違う人物が、今度はその飾り箱を取り上げると、脇に抱えてから、部屋を出て行こうとする。


そしてまた。

僕は後をついていった。


けれど、不可思議なことが起きた。なんと飾り箱は、最初に持ち出された部屋へと戻されたのだ。


薄紫色の家具に囲まれた、今は亡き母君の部屋へと。


その人は、テーブルに置いた飾り箱を、その細く弱々しい手で撫ぜている。愛情深く、何度も何度も。


僕はそこで夢の終わりを悟った。

胸に少しの痛みを感じながら。


✳︎✳︎✳︎


「飾り箱のことは、ご本人とお母様、あとは加賀さんしかご存知ないと仰っていましたね」

「ああ、そのはずだが」

「大河内さんがまだお若い頃、お祖父様とお母様が喧嘩をなさって、その飾り箱の取り合いになったことはありませんか?」

「え、」


大河内氏は、んんんと、唸りながらしばし考え込んだ。そして、思い出したように言った。


「そういえば、ひどい怒鳴り合いを聞いたことがある。私が高校生の頃だったと思う。学校から帰ったら、大きな叫び声が聞こえてきて、母に向かって、いったいどこに隠したんだと、祖父が怒鳴り散らしていた。その時はなんのことかまるで分からなかったが、あれはその飾り箱のことだったのだろうか」


僕は頷いてから、慎重に言葉を進めた。


「夢の中で、お母様の部屋から飾り箱を持ち出したのは、お祖父様でした。そして、それを取り返すようにして、お母様が再度、ご自分の部屋へと持ち帰った」


大河内氏は、身を乗り出すようにして言った。


「だが、母の部屋もくまなく探してみたが、見つからなかったぞ」

「はい、それでどこかへと持ち出したのではないか、と思いました」

「じゃあ、私が失くしたのではなく……?」

「お母様によって、隠されたのではないでしょうか。けれど、この屋敷はお堅いお祖父様が隅々まで把握していらっしゃるでしょうから、屋敷の中では見つかってしまう可能性があります。たとえば、お母様が懇意にしているご友人か知人の方はいらっしゃいませんか? 懇意にしている銀行とか?」


大河内氏には、心当たりがあったようで、すぐさま立ち上がると、加賀さんに自分の携帯を持ってこさせた。


そして、どこかへと電話し、一言二言話をすると。


受話ボタンを切って、僕の方にゆっくりと振り返って言った。


「……あった、……見つかった」


「そうですか。それは良かったです」


僕は、放心状態の大河内氏に、にこりと笑いかけて言った。


✳︎✳︎✳︎


クリスマスが近づいた。


マキちゃんと京子さん主催の、なんとも騒がしいイベントをようよう終えてから、お正月まではちゃんと飾っておいてと言い含められていた事務所の電飾を、マキちゃん神サマごめんっと心で言いながら、僕は思い切ってそのコンセントを引き抜いていた。


その電飾を力づくで壁からはがして、ぐるぐる巻きにして仕舞っている最中に、事務所の黒電話がリリンと鳴った。


電話とそれから一時間後の、秘書の加賀さんの登場で、僕は再度大河内さんの大きな屋敷へと招かれたわけだが。


いつも暇ではあれど、事前に電話でアポイントを取ってくれたことに感謝をしつつ、僕は大広間で出された洋菓子などをほうばりながら、大河内氏の登場を待っていた。


「矢島さん、その節は世話になった」


そう言いながら部屋へと入ってきた彼の側には、いつものように加賀さんが付き添っている。


「実は飾り箱の中をね、まだ見てはいないんだ。是非とも君と一緒に、開けたいと思ったもんだから」


なんだか最初のいかめしい印象とは違って、角が取れて丸くなったように思う。と、言うよりは、誰にも見せられない重要な懸案が手元に戻ったことに、心底ほっとしている部分もあるからだろう。


「結局は母が、懇意にしていた質屋の主人に預けていたんだよ」


そのカラクリがあまりにも滑稽で、僕はふははっと吹き出してしまった。


「本当に、笑い話だな。母の実家は旧家の名門だったのだが、次第に財産を減らしてしまってね。よくその質屋に家財を入れていたらしい。それで、その飾り箱は絶対に売らないという条件で預かって貰い、祖父が亡くなってから自分か息子に渡して欲しいと、言い含めていたそうなのだ」


大河内氏は、そのまま淡々と続けていった。


「けれど、祖父が死ぬ前に、母自身が死んでしまったから、そこら辺がうやむやになってしまったらしい。それでも祖父が亡くなったら息子に渡せば良いと思い、今まで預かっていた、ということだった」

「お祖父様が亡くなられたことは知らなかったのですか?」

「いや、知っていたのだよ。けれど、肝心の飾り箱自体のことを忘れていたらしい。そのご主人もかなりの高齢でな。店の金庫に入れっぱなしだったそうだ。危ないところだった」


苦く笑い、ひとつだけ溜め息を吐いた。


その質屋で聞いたという話がある。

彼は訥々と語り始めた。


「……母の実家の借金、を……私の父が肩代わりしたそうだ」


そこで、大河内氏はおや、という顔をした。

僕の飲んでいたティーカップが空だということに、気づいたのだ。隣に置いてあったポットを取って、新しい紅茶を注ごうとしてくれる。


すみません、ありがとうございますと僕は恐縮した。


大河内氏は、それから同席している加賀さんのティーカップにもポットの紅茶を注ぎ、そして最後に自分のカップにも注いだ。


加賀さんが、秘書という立場上、深く頭を下げた。


「母との結婚が条件ではあったが、自分の財産で全ての借金を支払ったそうだ。当然、祖父は反対だったがな。よく祖父に、この貧乏人がと、母が罵られていたのも頷けたよ。子供心にも、どうして母が貧乏人などと罵られるのか、分からなかったんだ」


そして、一通りお茶を飲んでしまうと。


大河内氏は、飾り箱をテーブルの上へと置いた。


「僕なんかが拝見しても大丈夫なんですか?」

「君が見つけたんだろう。権利はある」


ははっと笑って、首元から鍵を引っ張り出す。


「それに何もかも話したんだから、もう隠すこともないよ。君は口の堅い男だしな」


僕のなにを見ての評価なのかはさて置いて、では拝見します、とだけ答えて、飾り箱に見入った。


鍵を回す。

カチャリと軽快な音がして、蓋が開いた。


一瞬。


隣に座っている加賀さんの身体が、ゆらりと揺れたような気がした。


「え、……と。紙、だけ?」


僕の惚けたような声が、弱々しく響く。


大河内さんが、その一枚の紙を中から引っ張り出して、ひらける。


薄っすらと裏側に写っている流麗な文字。達筆と言うよりも、その漢字の一字一字が丁寧に書かれた、まるで一枚の文様のような手紙であった。


美しい。

それは一つの完成された美術品。


大河内氏は、声を抑えながらも、丁寧に読み上げていった。


『唯臣、元気にしていますか。これを開けた時にはもう、お祖父様はお亡くなりになっておいでですね。これは私の遺書代わりでもあります。よく読んで、心に留めておいてください。先ず話したいことは、あなたの出自についてです……』


一息の沈黙があった。僕は目を瞑った。すると途端に耳へと神経が集中していくのが、手に取るようにわかった。


『……あなたは、まるで父親には似ませんでしたが、間違いなく父、貞臣のお子です。これに関しては、お調べになってくださっても構いませんよ。


没落した家の行き遅れの娘を、なんの見返りもなく、お嫁に迎えてくれた貞臣さんを、私は深く敬愛していました。最終的には、あんな夫婦関係ではあったけれど、初めは彼も私を愛してくれていたのだと、いまだ信じています。


けれどいつからか、心は擦れ違ってしまい、そのことをとても悲しく残念に思っていました。世間体を気にし、外側からの偏った見方しかできないお祖父様は、あなたのことを正真正銘の貞臣さんのお子ですと何度説明して差し上げても、まったく納得できないようでした。


ついに私は、本当に一度だけですが、声を荒げて言ったことがあります。お調べくださって結構ですと。それで、多少気が収まったのか、それ以降は特に何も言ってこなくなりました。


その後はあなたも知っての通り、お祖父様は事業にのめり込んでいったので、私たちに構う余裕もなくなったのかも知れませんね。


だから、あなたには大河内家を継ぐ正当な資格があります。あなたは何も心配せず、後継者としてこの家の家長を立派に務めてください。それが私の願いです』


大河内さんが深い溜息を吐いた。


「私は大きな勘違いをしていたのだな。長年の自分の馬鹿さ加減に、呆れを通り越して、笑えてくるよ」

「でもまあ、これは仕方のない思い違いだと思います。そう思わせられるような、環境だったのですから」


手紙を持ち直す。そして、咳払いを一つすると、先を続けた。


『この飾り箱についてですが、一つ言っておきたいことがあります。


これは私がお渡ししたクリスマスプレゼントのお返しにと、或る方に頂いたものです。この飾り箱を、私はずっとこのかた大切にしてきました。


図らずも、私が自分が思い描いた幸せな人生とはほど遠い、不幸な生活によって辛い思いをしていた頃、私を慰めて寄り添ってくれた方です。


一度だけ、お祖父様にこの飾り箱を取り上げられたことがありました。私があまりに大切にするので、お祖父様はこの箱の中に私の浮気の証拠でも入っているのだと勘違いをされたようなのです。その時にはまだ、この手紙を入れてはいませんでしたので、大事には致りませんでしたが。


そして、この手紙を書き上げ、飾り箱に入れてあなたに託しましたが、また取り上げられるのではと心配になったので、信用のおける方に預けることにしました。勝手にしましたので、あなたには大変心配を掛けたのではないかと思いますが、あなたの手元に無事に届けられることを信じています。


この飾り箱を私だと思って、どうか大切にしてください。


私の結婚生活は不幸せなものでありましたが、唯臣、あなたが居てくれて、本当に心から幸せでした。あなたが貞臣さんと私の息子で良かったと、心から思います。あなたはどうか愛しい人を手離さないように。


身体に気をつけて、いつまでもお元気でいてください』


声が震えていた。


そして、 隣で座って聞いていた加賀さんも、静かに涙を流していた。


僕は静かに席を立った。


玄関から出ると、自分の吐いた白い息がふわっと顔にかかる。


雪でも降りそうな曇天の分厚い雲に押されて、いつもより低く重い空を見渡すと、僕は門へと向かって歩き出した。


そして、いつものように後ろから、そろそろと車が近づいてくるのを感じると、僕は何となくそれを嬉しく思った。


✳︎✳︎✳︎


悪夢のクリスマスも終わり、事務所の部屋もすっかり元通りになった。


僕は、はあ、これでようやく落ち着けますよと、息を吐いた途端に。

京子さんが、松やら竹やら鏡餅やらを持ってきて、さて次はお正月飾りですよ‼︎ と、ニヤリと笑って僕を恐怖に陥れた次の日。


僕が、お正月飾りの前でひとり、途方にくれていると、驚くことに大河内氏ご本人が、訪ねてきてくれた。


それはもちろん、依頼料の支払いではあったのだが、僕は秘書の加賀さんが来るものとばかり思っていたので、少し面食らってしまったのだ。


そんな僕の驚きの顔を見て、ふははと笑って言う。


「何だ、そんなにおかしいことか?」


苦笑を浮かべながら、僕は部屋の中へと案内する。


僕が覚束ない手元とその手際の悪さでお茶を淹れて勧めると、彼はまずまず美味しそうに飲んでくれた。


「何だこのマドレーヌは。絶品じゃないか。どこの洋菓子店のものだ?」


僕が得意になって、京子さんが作った洋菓子は天下一品ですと褒めちぎると、その女性を紹介しろと言う。


「いやいやいや、ちょっと待ってください。片や自由業のふらふらとした男で、片や大金持ちのイケメン紳士では、無論のこと僕の方が断然、が悪いですから、紹介はちょっと。心の狭い男だと思っていただいても構いませんよ」


僕が、そう敗北感丸出しで言うと、彼はあははと大笑いして言った。


「失くしたものを、夢から探し出すなんていう、離れ技をあっさりとこなしたものだからな。これは凄い男がいるもんだと思っていたが……。君もただの男だということだなあ」

「まあ、そういうことですね」

「好きなんだね」

「はい、」

「では、大切にしなければいけないな」

「もちろんですよ」


「母が貰ったというあの飾り箱だがな。実は、加賀がやったのではないかと、私は思っている」


突然の話の方向転換だった。僕は、真っ直ぐに彼を見た。そして、彼もまた。僕を真っ直ぐな目で見つめていた。


「……確かめたのですか?」


「そんな無粋なことはしないよ」


そして、にっこりと笑った。


僕はその答えにとても満足した。


ようやくこの人は。

数あるしがらみの中から、解放されたのだ。


大河内氏の母君の手紙の内容を知って、静かに流していた加賀さんの、あの涙。あの涙のひと粒。実はそこに深い意味が、隠れているのかも知れない。


けれど今度はそれを探さないでいてくれる、大河内氏の優しさと配慮に、僕は心を打たれたのだった。


「君の名義の口座に、謝礼を振り込んでおいたよ。君の提示額とは大幅に違ってはいるが、気にせず貰っておいてくれ。私の気持ちなんだ。返してきても、絶対に受け取らないからね」


そして彼は、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、帰っていったのだった。


✳︎✳︎✳︎


「いやあ、あの時は今にも増して、私も頑固者だったからなあ。これでも丸くなったんだよ」

「そうですか、そんなこと言って。僕はあの時の恐怖をまだ忘れていませんよ。本当にこれ、笑い話じゃないですけど、僕はATMの前で腰が抜けちゃったんですからね」


大河内氏の探し物を見つけてから、丸一年が経とうとしていたこの日。

僕は、久しぶりに大河内氏の訪問を受けていた。


思い出話をしながら僕たちは、彼が絶品と評した、京子さんお手製のシュトーレンを食していた。


一年前。

そうなのだ。

大河内氏が、依頼料を振り込んだと言うので、銀行に確認しにいった時。


通帳を記帳し、手に取って確認した時の、僕の驚きようと言ったら。


そこには一生のうちにもあまりお目にかかれないだろう、破格の金額が記されていた。


僕は最初、目をしばたいた。間違えて、桁がずれて印字されたのかと思ったのだ。


けれど、慎重にゼロの数を数えていくうちに。僕は、震え始めた足に力を入れることができなくなり、とうとう腰を抜かしてしまったという。


僕はすぐにも、大河内氏に会いに行った。


「絶対に返します‼︎」「返されたって、なにがなんでも受け取らないからな」の押し問答の末、僕の方が折れて受け取るはめとなったのだが。


「そうは言っても、税金でかなりもってかれただろう。手取りはそんなになかったはずだよ。でもね、あの時君に、これは脅迫レベルの犯罪ですよ、とか言われた時には、笑っちゃったけどね」

「ですけどね、僕もやはり仕事に見合った金額をいただかないと、気持ちが収まらないんですよ」

「それならばその金額でも安いくらいだよ。あの後、君は私が見た夢の内容をこと細かに説明してくれただろう」


彼は、しばし目を伏せた。


「母のことは、一度も夢を見たことがなかった、というか君が言うように、覚えてなかっただけなんだろうけどね。けれど君があの時、教えてくれた。私がどれだけ母と幸せに生きてきたのかを。それだけでもう十分だった。ただ単に、あの飾り箱を見つけるだけでなく、君は私にとって大切な思い出も見つけてくれたんだ」


「僕はただ見たままをお話ししたのであって」


頭に手を遣りながら、僕は俯いた。


「君にしかできない仕事だ」


褒められて素直に喜ぶ子どものように、僕の中に芽生える感情があった。


「それで、今日来たのは他でもない、ただのお喋りなんだが」


京子さんが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、彼は話を続けた。


「あの例の、DNA鑑定の件だが。三人ほど後継者が名乗り出ていただろう、あれ、皆んな偽物だったぞ」

「そうなんですか、それは良かったですね。では、大河内さんだけが正統な跡継ぎというわけですね」

「今のところ、そのようだ。それで思ったんだ。父は女性関係においてはだらしなかったと思い込んでいたが、実はそうではなかったのかも知れない、と」

「ご両親は、お互いにす擦れ違っていただけで、実はずっと想い合っていたのかも知れませんね。強い愛情がなければ、大金を出して借金を肩代わりするなど、到底できることではありませんから」


「そうだな」


そして、黙り込んでしまった。

けれど、僕もそれで良かった。


なぜなら一年前、二度目の来訪の時、ここへ足を運んでくれた加賀さんのことを思い出していたからだ。


大河内氏の母君は、自分があげたクリスマスプレゼントのお礼に飾り箱を貰ったと、手紙には記していた。


彼はその飾り箱について、加賀さんが母君へ贈ったものではないかと推測していた。


そして。

僕には、その贈られたプレゼントは、加賀さんのあの帽子であるような気がしてならないのだ。


加賀さんが二度目にこの事務所を訪れ、中へと入ってくれた日。

加賀さんはコートを裏返して、自分が座るソファの横へと置いた。


けれど、帽子だけは。自分の膝の上に乗せていた。一度も、手元から離さなかったのだ。

両手で包み込むように、大切そうに抱えて。


見当違いだろうか、それも今となっては分からない。


「それより、君は京子さんとはうまくいっているのかね」


思いも寄らぬ言葉に僕が慌てふためきながら、キッチンの主には聞こえないよう小さな声で諌める。


「うわ、ちょっと大河内さん‼︎ キッチンに居るんですから‼︎」


大河内氏は悪戯顏で笑い、口元を手で押さえながら、おっとっととおどける。


「止めてくださいよ〜、本当に‼︎ 心臓が口から飛び出すところでした。大河内さんには本当に、してやられますよ」


僕が声をひそめてそう言うと、彼は嬉しそうに言った。


「なあ矢島くん。実は私にも大切な人ができたんだ。今までは父の影響で恋愛や結婚などは一生縁遠いのだろうと思っていた。けれど、母の手紙を読んで、考えが変わったよ。そこで思い切って、前から気になっていた女性に声を掛けてみたんだ」

「おおお。それは良かったです。良縁に恵まれたようですね」

「今度、紹介するよ。私は別に、君にでも誰にでも紹介できる、心の広い男だからな」


ふっと僕が吹き出すのを見て、大河内氏は楽しそうにお茶を飲んだ。


そして僕も。もうすぐやってくるクリスマスに、今年もまたガチャガチャとした騒がしさがやってくるぞと辟易しながら、遠い目をしてお茶を啜った。

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― 新着の感想 ―
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