不眠
『母』
「なあ、もういいんじゃないかな。そんなに頑張らなくたって」
その言葉に振り返る。見知らぬ男がそう言ったように聞こえた。
「美香、あまり気に病むと、本当に心の病気になっちゃうぞ」
見知らぬ男と思った顔は、よく見れば、夫の圭吾だ。
ふと、コタツの上に目を遣る。電源のついたコタツはもちろん、温かいはずなのに、自分の身体は冷え切っているような感覚に陥った。心が冷えると、身体も冷えるんだなあ、頭のどこかでそう思う。
机の上にある、山盛りの薬、薬、薬。
ビニール袋から全部出したところで、手が止まった。こんもりと雪で作ったカマクラみたい。丸く積まれたまま、放置してある。錠剤、粉薬、漢方。
(……えっと、これはなんの薬だったっけ?)
そろっと手を伸ばす。指先が、香貫 美香と印字してある薬袋に触れた瞬間。乾いていた頬にどっと涙が流れて、みるみる湿っていった。
「なあ、美香。これ、言って良いのか悩んだけどな……」
圭吾が、言いにくそうに口を開ける。
少しの合間があってから、圭吾は思い切ったように言った。
「子どもが居なくたって、夫婦だけでも、二人で幸せになれば良いんだからさ」
その言葉に、身体がびくっと揺れた。拍子、大粒の涙がボロボロと溢れていった。
こんな風に何年も。そして毎日。薬の山を前にして、何度も何度も涙を流してきた。
その涙の理由は、途中から。なぜか、わからなくなった。
本当に、わからないのだ。なぜ、悲しくも虚しくもないのに涙が出るのかが。
ただ、涙が出る。
この目の前にある山盛りの薬がなくなる頃には、ようやく持ち直した心がリセットされる。けれど、人生は一度きり。人生のリセットだなんて、それこそ遠くの存在に思える。
年月だけが、残酷に過ぎていくのを、ただ見ているしかない。
来月、またひとつ、歳をとる。
✳︎✳︎✳︎
眠れない、と思ったのは、病院に通い始めてから二年が経った頃だった。
「眠ろう眠ろうと考えると、余計に眠れなくなっちゃうよ」
三つ上の姉が、唇を歪ませてそう言った。姉の足にまとわりついてはしゃぐのは、双子としてこの世に生を受けた、甥っ子と姪っ子だ。生まれた時は、あんなにも可愛いくて愛しいと思ったのに、自分には手に入らない存在なのかもと思うと、途端に近寄りがたくなってしまった。
そんな思いを感じ取ってか、甥も姪も私には近づかない。
「不妊治療はどう? 順調?」
姉が言葉を選んで、慎重に聞いてくる。その後ろに、母の姿が重なった。
「うん、心配かけてごめん」
「そんな風に思わないで。あんまり思いつめちゃだめだよ」
「うん、でも私、頑張ってるから。お母さんにもそう言っておいて」
思い切って、一息のフレーズで言った言葉。その言葉に重なるように、奥の子供部屋から、わあああん、と泣き声が上がった。
「んとに、もうっっ。毎日毎日……。飽きるくらい喧嘩ばっかで、本当に嫌んなるっっ」
呆れた声でそう言いながら、姉がキッチンのテーブルから離れて双子の元へと行く。取り合いになっていた玩具をぐいっと取り上げると、姉は腰に手を当てて、怒鳴り声を上げた。
「あんたたち、いい加減にしなさいっ」
ぺんっ、ぺんっと頭を小突く。
私は苦笑い。
般若のような顔で怒る姉の様子を見て、ああ、もしうちに、あかちゃんが来てくれたなら、私は怒鳴ったり、叩いたりなんてしないのになあーなんて、ぽつっと思う。
これでもかって言うくらい甘やかして、愛してあげられるママになれるというのに。子ども好きの圭吾だって、イクメンパパになって、休日にタカイタカイなんかをするのだろうに。
虐待する親の、不幸な家にはあかちゃんが生まれるのに、なぜうちには来てくれないんだろう。テレビのニュースを観ながら、いつもぼんやりそう思う。
そっと立ってカバンを持ち、私は姉の家を出た。
大通りを抜けて、いつもの帰り道から、横道へと入る。この道沿いには、ちょっとオシャレなベーカリーがある。前から入ってみたいとは思っていた。
もし、ダメでも。
帰りにそのベーカリーで、カスタードクリームのぎっしり入った極上のクリームパンでも買って帰ればいいや、そんな気持ちでおんぼろなビルのエントランスに足を進めた。
一階には、古着屋。店内にディスプレイしてある、少しくたびれた洋服を見て、たぶん古着屋だろうと思ったのだけれど、よくよく覗いてみると、古着の他に文房具やアクセサリーなんかも置いてあるようだ。
(帰りに見に寄ってもいいし……)
貰った名刺の事務所は、このおんぼろなビルの二階にある。
(ちょっとアクセサリー見て、クリームパンでも買って帰ろう)
私はそう思いながら、重い足を引きずって、奥の階段を上っていった。
✳︎✳︎✳︎
『眠り屋 どのような夢でもご相談ください 矢島』
私は、手書きでそう書いてあるドアの前に立った。看板を指でなぞってみる。
(やっぱり……『夢』って書いてある)
夫の圭吾が会社の同僚から、『眠り屋』の名刺を貰ってきた。
あまりに眠れなくなった私を、心配してのことだ。
心療内科で出して貰った睡眠導入剤も効かないし、婦人科でもらった漢方も効き目なし。アロマもヒーリングミュージックもダメで、もうまずもって眠れないのだから、夢がどうとかって、それ以前の問題で。相当、場違いな気がしていた。
「こうして来てみても、やっぱり……」
違和感しかない。
とにかく話だけでも聞いてこいという圭吾を納得させるためにも、大きな溜め息をひとつ吐いてから、私はチャイムを鳴らした。
返事がしてドアが開いて、丸眼鏡の怪しい男性と、いやにニコニコして愛想の良い美人な女性を前にしても、私はその印象を変えなかった。
「事務の京子さんです」
矢島と名乗った男性が、嬉しそうに相方の女性を紹介する。
私は会釈をし、そして不眠症の旨を告げた。
「ああ、眠れないんじゃあ意味がないですねえ。僕のところは、『夢』についてお話をお伺いして、それでその『夢』に合ったアドバイスをするところですから」
そう何度も『夢』を強調されて、すぐにも追い出されると思ったら。
矢島さんは「そうなんですか」と神妙な面持ちで言っただけで、しかも京子さんと呼ばれる女性が、チョコレートケーキとコーヒーを出してくれようとする。
コーヒー。
カフェインという、眠れなくなる飲み物の代名詞。
私が呆気に取られていると、「あ、もしかしてコーヒーは嫌いですか?」などと、あっけらかんと聞いてくる。
妊娠にも悪いかも、なんて勝手に思って、好きなのにずっと今まで口にしなかったものが、ふんわりと香ばしい匂いを放っている。ローストされたコーヒー豆のいい香りが、鼻の奥をつんつんとつつく。
美味しそうなチョコレートケーキと相まって、私はついに白旗を上げた。
「……美味しそう」
呟いて顔を上げる。
すると、京子さんがにこっと笑って、どうぞ召し上がってくださいな、と手で促してきた。
フォークを手に取り、その先をチョコレートケーキにすうっと入れる。それを掬って口に含むと、ほろ苦い甘さが口の中に広がった。
「美味しいでしょう」
京子さんでなく、矢島さんが得意げに言う。
「京子さんの作るスイーツはこの世のものとは思えない美味しさですよ」
「あら、先生。その褒め言葉、いつも的外れですよって言ってるじゃないですか」
「いやあ、だって、これ以上の褒め言葉ってあります?」
「やだやだ。この世のものとは思えないだなんて。地獄にこんな美味しいもの、あると思います?」
同じような口調で返す。お客を無視でもしているかのような軽快な会話に、私はふふっと笑ってしまった。
「どうぞ、コーヒーも」
勧められて、口をつける。
美味しい。
美味しい。
温かくて、
美味しいのだ。
いつのまにか、私はまた泣いていた。
キョトンとしている矢島さん。慌てて奥へと走っていき、ティッシュの箱を抱えてきてくれる京子さん。
「……眠れないんです。私、眠れないんです」
差し出されたティッシュで、涙を。
拭った。