冬を耐えて
「大丈夫ですか」
か細い声が掛けられて、俺は瞑っていた目を開けた。
……空は晴れて、青い。
そこへ太陽の射す光が目に飛び込んできて、俺の目の前はゆらゆらと揺れた。
「大丈夫ですか、轢かれてはいないと思いますけど」
もう一度問われ、俺はがばっと飛び起きて、声の主を真正面に見据えた。
俺の突然の動作に驚いたような表情の、白髪の老婦人。
その短く切り揃えられている滑らかな髪は、丁寧に後ろへと流されて、所々に黒髪も混じってはいるが圧倒的なその白髪の量が、名のある寺の枯山水のような美しさを彷彿とさせている。
白いブラウスに薄桃色のカーディガンを羽織り、脚を折って片膝をついているパンツはキャメル色の細っそりとしたデザイン。
上品な女性だった。
けれど、それだけではない。
俺の胸ポケットに存在する写真から抜け出したような、その顔。写真の中の彼女そのものだ。
もちろん、歳相応と言っていいのだろうか、目尻や口元に皺は深く刻まれていたし、肌はカサカサと乾燥し、ところどころに粉を吹いている。
けれど、そのまま歳を重ねて、そしてこれからもそのまま歳をとっていく、それが確信できるような、この俺の目の前の老い。
それは奇跡でも見ているかのようだった。
俺は、慌てて写真を上着の胸ポケットから取り出すと、彼女へと差し出した。
彼女は不思議そうな表情を浮かべてそれを受け取り、その写真を見た瞬間。
「あらあ、懐かしい。私もずいぶんと歳をとってしまいましたね」
そう言って、俺に笑いかけた。
その笑顔は、あのワンピースにあった、大輪の花のようだ。俺が一生忘れ得ない、美しい笑顔だった。
✳︎✳︎✳︎
「和男さんの所の、お孫さんでしょ」
墨汁が香る、広い和室に通された。その部屋にはたくさんの和机が並べられており、俺はテトリスみたいだなと思いながら、その机を避けながら進む。
その中でも比較的大きな机の前で、俺は座布団を勧められた。
和男は俺の祖父の名前だ。そうですと頷いてから、差し出された湯呑みを手に取り、口元へと運んだ。その俺の手には、大きな絆創膏が貼られている。
結論から言うと、俺は車とぶつからなかった。
ぶつかりそうになった軽自動車は、実はそんなにスピードを出していなかったらしい。けれど突然視界に現れた車に驚いた俺は、とっさに足で急ブレーキをかけ、けれどその勢いのまま車が通り過ぎた後、俺は見事に転がり倒れた、という顛末だ。
軽自動車は走り去り、俺はそのまま道路に横たわった。
書道教室のこの縁側から垣根越しに、とよ海さんがその一部始終を見ていて駆けつけてくれた、ということだった。
「お父様は早くにお亡くなりになって、残念です。寂しくなりますね、御愁傷様でございます」
僕は手に持っていた湯呑みを机に置いて、慌てて頭を下げた。
「ご丁寧に……ありがとうございます」
「あなたは大丈夫ですか? ご兄弟はいらっしゃいませんでしたね?」
多少の遠い親類はいれども、ほとんど天涯孤独と言ってもいい状況になった俺を、気遣う優しい言葉とその眼差し。
掛けられた気遣いに感謝の意を伝えた。
「はい。でも俺、もう社会人なんで。一人でやってけます。大丈夫です」
「あらあら、和男さんに似ず、しっかりしていらっしゃいますねえ」
笑うと、目尻の皺に深みが増して、一層自分との歳の開きを感じた。
写真の女性に会ったら、自分はどう思うのだろう。
どう感じて、どう考えて、どんな顔をするのだろう。
この恋に、どう答えを出すのだろうか。
夜眠る時。
目を瞑ってしまえば、その事ばかりが頭を占めた。昨日なんかは結局、寝付いたのは明け方で。俺はもし会えたら、どう告白したらいいのかをずっと考えていた。
そして、決意した。ありのままの自分を伝えようと。
この恋慕の気持ち。
けれど、いざ彼女を前にすると、口に重い石でも入れられたように、まるで言葉が出てこなかった。
それは自分が想像していたより、彼女が高齢だったことに起因しているのだろうか。父親の相手だと思い込んでいたのもあって、まさか祖父の同級生だとは、思いもしなかった。
俺は頭の中で祖父の歳を計算し始めてしまっていた。
そしてそれが、俺の中にあったはずの恋心をひどく裏切ってしまうような、背信行為のように思えて仕方なかった。
それなのに数を数えることを止められない。
葛藤の末、祖父の歳を再確認してみて、俺はがっくりと落ち込んだ。
純粋で綺麗だった大切ななにかを、自分の手で汚してしまったような気がした。
そんな俺の胸の内を知らずして、とよ海さんは話を進めていった。
「和男さんとは小学部から同じで、机を並べて勉強していました。家も近所だし、よく川原なんかに出かけては、川に石を放って、どちらが遠くまで飛ばせるか競争したりして」
苦々しい気持ちで、とよ海さんの思い出話を聞きながら、父親よりは厳格でなかった祖父の顔を思い浮かべる。
「私、その頃は勝気でお転婆だったから、男の子が寄ってこなくてね。それに加えて私は今風に言うハーフとやらでしたから、男の子の友達は和男さんだけでした」
ふふと笑って、手元の湯呑みを取り上げた。手の甲の皺や血管が、その薄い皮膚に張り巡らされている。
「ハーフ、」
「はい、父が北欧の方で。国は分からないんですよ、母は捨てられたと言っていましたから、訊くに訊けなくて」
どうりで、その日本人離れした顔立ち。日本と北欧の特徴を併せ持っていることに納得を得た。
「写真を、持っていてくれたんですね。これを渡した時には、大事にすると言ってくれました。私には親切で優しい人でしたけれど、あなたにはどんなおじいちゃんだったのかしら?」
口角を上げて、俺に微笑みかける。
「俺にも優しいじいちゃんでした」
俺の父親はともかく、祖父は、と心の中で付け加える。
「私は独り身ですので、子どもとか孫とか、よく分からないんですけど、うちに来る生徒さんのような感じかしらと、いつも思っています」
「独身、ですか」
「はい、まあ、」
そして、ここで沈黙となってしまった。俺は仕方なく、縁側へと視線を移した。
庭にはたくさんの植物が植えられている。大きなガラス窓の向こうに、一振りの白い花に目が留まった。
あれは確か。とよ海さんが着ていたワンピースの、花……。
そこまで思い巡らせた時、とよ海さんに話しかけられ、現実へと引っ張り戻される。
「私、この書道教室でお習字を教えているんです。あなたのお父様もこちらに通わされていましたよ。嫌々だったようで、いつもお母様と言い争いをしていました」
「ち、父は、どれ位通ったんですか?」
「そうですねえ、十年ほどでしょうか。小学校から始めて高校まで続けられたので、十二年ですか。嫌々の割には長続きしたこと」
彼女は手を口元へと持っていき、笑った。
「段もお取りになって、もう直ぐ師範をというところでお辞めになってしまいました。そこまでやったのにもったいないって、何度も説得したのですけど」
俺は俺の中で、ある一つの考えが、むくむくと芽生えて大きくなっていくのを感じていた。その芽生えはいつしか成長して、俺の口からぬるりと這い出した。
「け、結婚を申し込まれませんでしたか?」
途端に。
彼女の顔色がさっと変わった。
つい先ほどまで、にこにことしていた柔和な表情が、厳しい表情へとすうっと移行していくのを、俺はスローモーションのように見た。
「……和男さんからなにか、お聞きになっているんですか?」
間があってからの聞き返しだった。
俺は、彼女が容易にその問いに答えてくれるだろうと、高を括っていたのかもしれない。
「いえ、特には」
俺はそう答えた。
けれど、もし結婚を申し込まれたのが真実だとしたら。とよ海さんの同級生である祖父と、書道教室に通っていたという父親。どちらから申し込まれたのだろうか、という疑問が頭を占めた。
確かに言えることは、祖父と父、同じ血が脈々と受け継がれていてそれは今、俺の身体中にも同じ血が廻り回っているということ。
三世代続けて、同じ女性を愛するなどということが、果たしてあるのだろうか。
心の中は、荒れ狂ったように疑問でいっぱいになった。
俺はもう一度、その疑問の答えを知りたくて、彼女を真正面から見た。
けれど、おののいてしまった。
彼女の表情は。
苦悩と哀しみ。そして怒り。
深い、傷跡にすら見えるほどの。
その傷が、彼女にとって一生癒えることのない、ぐずぐずと膿んだものだということが、手に取るようにわかるほどの。
とよ海さんの顔は、まるで般若の面を連想させた。
その途端、俺は問うたことをひどく後悔した。
そこにあるのはそれほどの、痛みだった。
「もう、話したくはありません」
そして彼女は唇を固く引き結んでしまった。
写真を突き返される。
俺は彼女の前から去らねばならなかった。何も言わずに俺は退散するしかなかった。とよ海さん、祖父、父。三人の過去に、何かがあったことには違いない。
俺はとぼとぼと帰りの道を引き返した。
空気の抜けた風船のように、しぼんでしまった恋心を、背負わされたまま。
そう遠くはないはずなのに、なかなか自宅に辿り着くことができなかった。
永遠に、何にも辿り着けないような気がした。
✳︎✳︎✳︎
「はいよ、宮さんの特製ミックスサンド」
「ああ、サンキュ」
喫茶ちぐらの縁側に案内されてそこに座ると、俺はそのまま裏手の森をぼんやりと見つめていた。
風は冷たいが縁側は大きなガラス戸によって遮られており、オレンジ色の太陽が暖かい日差しをぬるい空気としてたっぷりと湛えている。
覇気のない俺の膝の上を、ミケがお構いなしに横切っていった。このぬるい雰囲気といい、働いている従業員の優しさといい、俺の心はそれだけで癒される気分になった。
「神谷あ。お前の職場なあ。何だよ、これぇ」
俺は思いっ切り、はあっと盛大な溜息とともに、ごろんと縁側に転がった。
「はは、良いだろ~。遠慮せずにゴロゴロしていけよっ‼︎ 金はちゃんと取るけどなっ」
神谷に、立て膝をバシッと叩かれる。くっそ~と心で毒づきながら、俺はそのまま腕を伸ばし、んんんっと背伸びをした。
温かい日差しが、雲の切れ間から漏れ届く。陽だまりの中、干した布団になったような気持ちで、目を瞑った。
俺がとよ海さんを見つけたという、ことの詳細はすでに神谷には話してあった。
だからであろう、特製ミックスサンドしか頼んでないのにセットされている、この生クリーム山盛りなカップケーキは。下手くそなソフトクリームのように生クリームが乗っかっているが、これは神谷がやったに違いない。
俺は、目を開いて天井を見つめた。古めかしい天井板を見ると、少しほっとする気持ちになった。その天井板に、写真のとよ海さんの顔を思い描く。
三世代に渡って同じ女性を好きになるなんてこと、
けれど俺は……。
やはり、写真の中の彼女を好きだったのだ。
歳を重ねた、現し身の彼女を前にして。確かに好感を持てる人ではあったけれど、この激情を伝えるまでには至らなかった。
真の現実を見せられて、俺の恋は時間を飛び超えることができなかったのだ。
俺はこうも考えた。
神谷と行った『眠り屋』で、もしも夢の中とはいえ写真のままの彼女に会っていたら。
俺は間違いなくこの恋にのめり込んでしまい、現実と夢の狭間にある高い高い壁の前で、狂ってしまったに違いない。
「これで良かったんだな……」
カウンターで料理待ちの神谷には聞こえないように呟く。するといつの間にか、俺の隣に座り込んで丸くなっていたミケが、にゃあと応えた。
✳︎✳︎✳︎
それから一ヶ月程うだうだと過ごしていた、ある週末の日曜日のことだった。
神谷以外、訪ねてくるような友人の一人も居ない、俺のアパートのチャイムが珍しくピンポンと鳴った。
チャイムは二度鳴った。
俺は咥えていた歯ブラシを慌てて口から引っこ抜き、水で口をゆすぐと、タオルを掴んで口を拭きながら、玄関のドアを開けた。
すると、そこには思いも寄らぬ人が立っていた。
「こんにちは」
とよ海さん、本人だった。余りの驚きに、俺は固まってしまった。
「突然来てしまって。すみません。これ、少しですが良かったらどうぞ召し上がってください」
頭を軽く下げて、紙袋を差し出してくる。紙袋には雨月庵のロゴ。
けれどそんなことより何より、俺は驚きが大き過ぎてしまって、言葉が一つも出てこない。放心状態で紙袋を受け取った。
「この前は失礼いたしました。せっかく訪ねてきてくださったのに、嫌な気分でお帰ししてしまって。あの後とても後悔しました。本当にごめんなさいね」
俺はドアを押して、どうぞと中へと促した。けれど、とよ海さんは玄関に立ったまま、ここで良いですからと言って、和服を正した。
俺は今まで家の中にいて気づかなかったが、どうやら外は軽く雨が降っているらしい。とよ海さんは、ハンカチを取り出して、着物の肩を軽く払った。
そして、小ぶりな鞄から封筒を出す。
「これ、どうぞ貰ってください」
受け取った封筒は、銀色の草花模様の縁取りがなされた、上品なものであった。裏を返す。蝋を溶かしてその上から印を押す封蝋。古いの西洋の封書のように、ひっそりと閉じられている。
俺の祖父の時代に、このような洒落た封筒を手に入れることは難しかっただろう。
それは一見して、その中身を大切にしていたことが窺い知れた。
「開けて良いんですか?」
とよ海さんは続けて鞄の中から折り畳み傘を取り出すと、「私が帰ってから、見てください」と早口で答えた。
そして、もう一度丁寧に詫びると、そのままあっさりと帰っていってしまった。
ここのアパートの住所は、父親の家の隣人にしか教えていない。
何かあったら連絡をしてくださいとお願いをして、携帯の番号とこのアパートの住所を渡してあった。
その家主に聞いて、来たのだろうと思う。
俺は1LDKの部屋へと戻ると、中央に置いてあるローテーブルの前に座り、そのままその封筒をしばらくの間、見つめていた。
そして、深呼吸をする。封筒の封蝋を指で取った。
封筒の中身を取り出す。
想像していた通りのもの。
二枚の古びた写真。一枚は祖父、もう一枚は父。
俺が見つけた彼女の写真と同じような古さの父。そしてそれよりもさらに古めかしい、祖父。
ああ、そうなのだ。
その時、とよ海さんは、愛する人とともに写真の交換をしたのだろう。
恥ずかしそうに頬を染め、俯く彼女。そしてそれを眩しそうに見つめる恋人の存在。
お互いに好意を持って。
けれど、祖父も父も。
違う女性と結婚し、とよ海さんは独身を貫いた。
とよ海さんのあの憎しみや哀しみを含んだ表情。
けれど、二人の写真は。こんな風にして、大切に保管されていた。
心から愛していたのだ。
祖父や父が彼女をではなく、彼女が祖父と父を。
事実はこうだ。
祖父や父は彼女に好意を持ち、写真を交換するまでに至った。が、直ぐに他の女に気が移って、違う女と結婚した。
彼女は二度も裏切られたのだ。
浅はかな親子によって。
二度も。
交換したはずの彼女自身の写真は一枚は失われ、そしてもう一枚は、銀行の封筒に入れられ、食器棚の引き出しの底に。
スプーンやフォークの下に隠されていた秘密の恋などではなく、ただ単に忘れ去られていただけのことだったのだ。
俺はそれに気がついて、愕然とした。
こんなにも、彼女の封筒は良い香りをさせているというのに。
大切に封をされ、恭しく彼女の手によって守られていたというのに。
その時、唐突になにかを思い出した。
それは、椿。
あのワンピースの花柄。あれは椿だ。セピア色の中では、その色はわからない。けれど、書道教室の庭でひっそりと咲いていたのは、雪のように真っ白な椿だった。
なぜか、涙が溢れてきた。
祖父と父の写真を前にして、その二枚の写真を、狂ったようにぐちゃぐちゃに丸めて、そして破り捨てたい気持ちに襲われた。
けれど、できなかった。
俺は大声を上げて、ひとり泣くことしか、できなかった。
✳︎✳︎✳︎
白椿の花言葉は、完全なる美しさ。 椿は別名、耐冬花とも呼ばれている。