写真の中の花
『現し身のあなた』
まだ寒さの残る、冬の朝だった。
俺がその写真を見つけたのは、本当に偶然だったと言っても良い。
それは実家の台所に置かれている、どこにでもあるような薄汚れた食器棚。引き出しをガシャと引っ張り出すと、使い古しの箸やスプーンをありったけ握り、すべてを片っ端からゴミ袋に捨てていく。
最後にトレーを取り上げて、それをゴミ袋に放り込む。そこで俺は、すっかり冷えてしまった手を、止めた。
「なんだこれは」
トレーがあったその下、引き出しの底。セピアに色褪せた、一通の封筒。
その封筒はところどころ破れ、ボロボロで原型を保っていない。
「……もしかして、へそくりか?」
この家の最後の住人となった父親が亡くなり家を売ろうとする、その後片付けをしている時だった。
封筒の表面には最近、経営統合して国内最大のメガバンクとなった銀行の、かつての栄華の名の名残り。
金かと、はやる気持ちを抑えながらそっと指でつまんで、封を開けた。中から紙のようなものを引っ張り出す。つるりと滑らかな感触で金ではないとわかり、落胆した。
一枚の写真。
「誰だ、これは」
それは母でもなく、祖母でもない、俺には見覚えのない女性の姿のものであった。
✳︎✳︎✳︎
俺には長い間、母親がいなかった。
幼い頃に母を病気で失ってから、俺は傲慢で高潔、厳格な父親に叱責されながら育てられた。
よく発狂せずにここまで成長できたと、時々。自分を褒めたくなる。
男親というものは、こうも硬いものなのか。言い訳すると殴られ、主張しても殴られ、終いには沈黙していても殴られた。
ある日、我慢を制御していたメーターがばちんと切れた。父親がこの実家から通える近くの大学を受けろと、命令してきた時だ。
俺はそれに逆らって、高校を卒業したのを機に就職し、家を出た。その間もずるずると確執は続いたが、手探りで一人暮らしを2年続け、やっと人並みの生活を安穏に送れると思った矢先。
俺の元へと訃報が届いた。
まだ寒さの続く、冬の早朝だった。
父親が事故で、呆気なく死んでしまったのだ。
嫌悪していた父親だったこともあり、別れはあっさりとしたものだった。葬式が滞りなく終わってからも、涙は1ミリも出なかった。
仕方なしに、実家を片付けるため、遺品を片っ端からゴミ袋に入れていく。
一日でも早くこの家を、処分してしまいたい、という一心で。
なにかに取り憑かれたように、俺はゴミ袋の山を黙々と作っていった。日が暮れるころ、すっかり片付いた部屋をぐるりと見ると、ようやく一息つこうという気になれた。
父が書いた日記を読んだり、昔撮った写真を見たりと感慨にふけって、大切な俺の人生の一日を、無駄にしたくない。
手元に残った財産も、地位も、名誉もない。
「俺のようになれとか偉そうなこと言って殴ってた割には、大した男じゃなかったな」
母はどんな人だったのだろう。
少し気になったので、アルバムから笑っている母と小さい頃の俺が写る写真を、数枚めくって剥がす。
ジャケットの内ポケットにその写真を入れると、あとのアルバムはそのままゴミ袋に入れた。
幸せな家庭の象徴のひとつであるはずのアルバムは、厚みのないペラペラのものが二冊。
母の死後、ぷつりと写真が途絶えたのにはきっと、父親が仕事と子育てに追われて、写真なんかを撮ってる場合じゃなかったんだろうという想像はできた。
想像はできたが。けれど、許せない。頭では理解できるが、心が緩まないのだ。高1の時、たいした理由もなく殴られて吹っ飛んだ際に、壁に打ちつけてできた左の額の傷が、時々疼くように痛む。
「いや、理解したいとも思わねえ」
俺は残り少なくなった片付けの続きをようやく始めた。できたゴミ袋の口を何重にも固く固く結ぶと、そのまま廊下へとぽいっと放り出していった。
夜。ようやく綺麗になった誰もいない部屋に、コチコチと時計の音が響く。
気づくと終電がなくなっていた。俺はこの日、この実家に泊まる覚悟を決めた。
もうこの家には戻らない。二年前にそう決心したはずなのに。心の拠りどころのようなものが、意外と脆くも崩れ去っていき、心細くなる。
あの暴君のように振舞っていた父親はもういないのだから、緊張などしなくていいのにもかかわらず。
「……もう寝よ」
尻の座らない落ち着かない思いがしたが、リビングの真ん中に、適当に布団を敷いて横になった。
父親の布団は使いたくないと思い、自分が2年前まで使っていた布団を押入れから引っ張り出した。少しカビ臭いが、我慢して目を瞑る。
コチコチと耳にうるさかった時計も、ついさっき乾電池を抜いてやったから、今は沈黙を守っている。
しんとした、静寂の中で。目蓋の裏へと躍り出てくるものは。激怒はすれどいっぺんも笑ったことのない、父親の顔。
いつの時でも、なにに対しても、常に腹を立てていた。
「……つまんねえ人生だったな」
自嘲の気持ちになるが、笑うこともできない。俺の表情筋は、この家と父親によって、奪われたままだ。
「あーあ俺だってなあ。親父と一緒で、つまんねえ人生だよ」
もう何も考えたくないと、俺は必死になって目を瞑った。
✳︎✳︎✳︎
明け方、まだ早い時間に目が覚めた。
冷蔵庫も含めた電化製品は何もかも、コンセントを抜かれて、リサイクルショップの迎えを静かに待っている。それが墓場に立つ墓標のように思えて、朝から気が滅入る思いだった。
気を取り直してマフラーを首に巻き、朝食を摂りに近くの喫茶店へと向かう。そこで、モーニングセットを食べてから家に戻ると、まだ完全には止めていない水道と電気。ファンヒーターを点け、インスタントコーヒーを淹れて飲んだ。
キッチンでそうやって時間を潰している間。何度となくテーブルの上に目を遣る。そこに投げ出された、一枚の写真。
古封筒に入っていた、古びた写真。
セピア色と言えば聞こえは良いが、薄っすらと茶みがかり、ところどころに染みをつけた、長い年月の経年劣化を思わせる、その姿。
いったい。この女性は誰なんだろう。
記憶の海を泳ぐ。数少ない親戚の顔ぶれの中にも、まったく見覚えがない女性だ。
ずいぶんと昔のもののようだが、女性は時代に沿った和装ではなく、大ぶりな花の柄のワンピースを上品に着こなしている。
「なんの花だ?」
花に興味なんてない。だが、この花が誰でも知っているだろう、普遍的に愛される花だということだけは、なぜかわかった。
この写真が、セピア色にまみれてなければきっと、その色合いから判明するのかもしれない。それほどに存在感のある、花の柄だった。
痩身ですらりと腕が長く、小ぶりな両の手を身体の前で上品に重ね合わせられている。
上半身しか写っていないので、背丈がどれほどであるのかはわからない。
ただ。
その顔。
美人とも言えるし、そうでないとも言える、独特な特徴を持った顔。
眉は弓なりの良い形であるが、少し太めで主張が強い。その眉にインパクトがあって彫りが深いため、外国人なのではと思わせるような、はっきりした顔立ちだった。
だが鼻は小ぶりで低そうだし、唇も薄く平たい。目は一重。
それぞれの顔のパーツはそのバランスを絶妙に保っていて、清々しい配置でとても好感が持てた。
そして瞳。
くっきりとその黒い輪郭を描いている。長い睫毛に覆われた、神秘的な瞳。
その瞳に、強く惹きつけられている自分を認める。
「本当に……いったい誰なんだろうな」
写真を手に取って、裏返してみる。
裏にはなにも書いていなかった。表と同様、茶色の染みがぽつぽつと、足跡をつけていくような汚れがあるだけだ。
表に返して、改めて思う。
この女性は一体誰なんだろう、と。
もう冷め切ってしまったコーヒーをちびりと啜る。暖房は点いてはいるがこの寒々しいキッチンで、リサイクルショップの担当者が玄関のチャイムを鳴らすまでの長い時間、俺は物を言わぬ写真の女性と二人、ずっと顔を見合わせていた。
✳︎✳︎✳︎
「おい、本当にそんなことできるのか?」
俺が声を掛けると、「いや、できるかはわかんねえけど、まあ話だけでも聞いてもらったらいいんじゃね?」と男が言う。
「俺、そんな金ねえぞ」
「大丈夫だよ、そこんとこはちゃんとした人だからさ」
俺の短い歩幅に合わせながら、隣を煙草をふかしながら歩いている男。
こいつは、俺がリサイクルショップのトラックを見送るために玄関の外に出た時、ばったり会った神谷という男だ。俺の高校の同級生でもある。
俺は高校を出て直ぐにも就職してしまったから、そこで高校の同級生とはほとんど縁は切れてしまっていた。
「おう、安納じゃねえか」
だから声をかけられた時は、その背の高い男が誰だったか直ぐには思い出せなかったのだ。けれど、クラスの中心的な存在だった神谷を思い出すのには、そうは苦労しなかった。
神谷は耳にピアスをたくさんあけていた。
「おまえぇ、めっちゃチャラいな」
「なんかわからんけど、こうなった」
話を聞くと、まだ大学生だと言う。
立ち話も何だからどっかカフェにでも入ろうぜと言う神谷を、俺んちここだからと家へと誘った。
残しておいたケトルで湯を沸かし、紙コップでインスタントコーヒー作る。
それを熱そうにずずっと啜うと、神谷は言った。
「俺がバイトしてるところのコーヒーの方がうめえ」
「おい、無茶言うなよ。インスタントだっつーの」
お互いに近況を簡単に報告し合うと、神谷が神妙な面持ちで、「お悔やみ、いや、この度は……えっと何だっけ」と、言う。
俺は、そんな神谷のアホっぷりに、ははと声を上げて笑った。
「そんなんじゃないから、無理しなくていい。お前がどう思うかは知んねえけど、俺マジで悲しくも何ともないんだ」
神谷は神妙な顔をして、そっかと言って、紙コップに口につけた。
俺は自分を不思議に思った。
このタイミングで、自分が笑うことが出来るとは、と。
俺はようやくあの父親から解放されたんだな。そう思うとなぜか、その笑いが優しい光のようなものに包まれていく。
(ああ、ようやく解放されたんだ)
感慨にふけっていると、神谷がキッチンのテーブルの隅に置いてあった写真を手に取って見る。
「これ、お前のおかん?」
「それがさあ、違うんだよ」
そしてその写真との経緯を話すと、神谷が話に乗ってくる。
「なんかすげえ独特な雰囲気の人だな。なあ、失礼なこと、言っていいか?」
俺は直ぐに察して、「ああ、親父かじいちゃんの浮気相手的な?」
「悪りい、ちょっとそう思った」
何だよこいつ、意外とストレートに言うな。高校の頃、こんなヤツだったか?
そう思いながら、コーヒーの入った紙コップを置いた。
「実はな。俺もそう思ったんだ。やっぱなあ、そうだよな。でもまあ、母ちゃん早くに死んで長いこと親父も独身だったから、浮気とは言えないかも知れないけど、な」
「この写真の古さからいくと、お前の祖父さんの可能性もあるな。でもこれ。この封筒さあ」
封筒を持ち上げて、裏返す。
「この銀行、祖父さん世代にはなかったんじゃねえかな」
俺は少し驚いて、言った。
「なんだよ神谷、詳しいな」
「俺んち、父ちゃんが銀行勤めてるから、そっちの話は詳しいっていうか」
「じゃあ、やっぱ親父の相手ってことか」
そんな風にして、あれやこれやとその写真について、しばらくの間話していると、神谷が驚くようなことを言い始めた。
「お前、この人のこと好きになってねえ?」
俺は最初、その言葉に驚いた自分しかいなかった。どこをどう見ても、驚きと動揺しか見当たらなかった。
けれど、その瞬間が過ぎると、冷静さが勝ってきて、神谷の言葉に俺はあっさり納得するしかなくなった。
「……そうかもしんねえ」
写真の中の誰とも分からない、正体も消息も分からないような女性に恋なんてするのか?
けれど、この問いの答えはすぐに出た。
逢ってみたいのだ、この人に。
「探偵とかに頼んで、調べてもらうべ?」
神谷が慎重に言葉を継いだ。
「それ考えたけどな。だけどさ、見つかったとしても、もうおばさんだろ」
「まあ、それは間違いないな。親父さんと一緒ってことは。五十代か?」
「そんなんで逢ったってなあ」
「そうだな」
「でも。このままの、この人に逢いたい」
俺があんまりしみじみと言うもんだから、神谷は何か考え込んでいるようだった。
こんな馬鹿げた話に笑いもせずに付き合ってくれるとは、高校の時そんなに良さげな奴だったか、などと思い出してみる。
今よりはチャラくないだけの神谷の顔しか浮かばない。
そんなことを考えていると、あのさ、と声が掛かった。
「俺の知り合いに、ちょっと変わった人がいてさ。その人、ちょっと特殊な人で、他人の夢の中に入れるっていうか。あ、全然怪しい人じゃねえよ。その人に、夢で会わせてもらうっていうのは、どう?」
「はあ、お前、何か宗教にでも入ってんのか?」
「違げえって。まあ、最初は皆んなそういう反応なんだよな。いいや、忘れてくれ」
そして神谷は話題を変えた。
夢で逢える、そう聞いて少しだけぐらりと来たけれど、怪しいものには近づかない方が身のためだと思い、その場はそれで話を収めた。
けれど、実家の片付けが終わって、自分の家に帰って三日程して落ち着いてくると、夢でも逢いたいという気持ちがどんどんと湧いてきて、俺を狂わせる。
こんな風になってしまうのを恐れて、実家にいる間に写真は処分しようと何度もゴミ袋の中へと突っ込んではみたのだ。
けれど、突っ込んでは取り出して突っ込んでは取り出してを数回繰り返していたら、急に俺はバカかという気分になり、結局ジャケットの内ポケットに入っている母親の写真と一緒に、自宅に持ち帰ってきてしまったという。
「俺、何やってんだかなあ。写真しかない見ず知らずの人に逢ってみたいだなんて、頭おかしいぞ」
心からのため息を盛大に吐く。
そして写真を持ち、机に置いてあったスマホを取り上げると、数少ない友人のアドレスの中から追加したばかりの電話番号を表示し、それをタップした。
そして今。こうして神谷と肩を並べて歩いているというわけだ。結局、俺は怪しいと思いつつも、神谷の話に乗ったのだ。
けれど、こうして神谷の隣を歩いているにもかかわらず、俺の心の中はやっぱやめときゃ良かったという後悔の念が、先ほどから渦巻いて仕方がない。
自分が言い出したというのにこの寒い中、首をすくめながら重たい足を無理矢理にも動かしてロボットのように道を歩いている。
「お前、煙草吸うんだな」
咥え煙草の神谷を横目で見る。
「んあ? ああ、ちゃんと灰皿持ってるからな」
「いや、別に咎めてねえし」
軽口を言い合いながら、神谷は軽快な足取りで、古めかしいビルのエントランスへと滑り込んでいった。
俺も入ろうとして、足を止める。数歩、後ろへと下がって、二階の窓を見上げた。
そこには確かに、『眠り屋』なる看板が掲げてある。
俺は写真の入った胸のポケットの辺りを確認すると、ひやりとするエントランスへと足を踏み入れた。