恋しい
「ねえ、加納先生、どうしたの? なんで最近、図書室にいないの?」
私が、テンションMAXで図書室のドアを開けて、抜き足差し足忍び足で奥の閲覧コーナーへと近づくと、そこに先生の姿はなかった。
夢の中で、先生にキスをした、翌日のこと。
私にしてみれば、確かに勇気はいったけど、ちょっとぶつかったくらいの勢いで、キスしただけなんだけど。
これを機に、先生が少しでも私を好きになってくれたなら、なーんて思っただけだったんだけど。
図書室に。
いつまで待っても、先生は現れなかった。
次の日も、またその次の日も。
とうとう痺れを切らした私は、授業が終わるとすぐに廊下に飛び出して、教室を足早に離れていく先生を捕まえ、問い詰める。
「ねえ、どうして……」
「ああ、忙しくてな」
そうなんだ。
「じゃあ、今度いつ行く?」
「当分、行けないか、な」
先生の様子が、ちょっとおかしい。
ちっとも、私を見てくれない。
心が冷えていくように。
隙間風でも吹くように。
私は身震いする。
そうだ。
これはきっと、この前。夢の中で私がムリヤリにも、キスをしたからだ。
「せんせ、い」
次の言葉を探しているうちに。
先生は、ふいっと顔を背けたまま、廊下を歩いていってしまった。
置いてきぼりを食らうのは、思ったよりもキツい。ボディブローのようにじわりじわりと効いてくる。
このまま嫌われたら……と思うだけで、ぞっとした。
「こんなの、ツライよ」
鼻の付け根がツンと痛む。私は自分の目に手の甲を擦りつけると、ポケットティッシュを出して鼻水をかんだ。
「こんなことになるなら、やめれば良かった」
後悔が身体中を駆け上がり、ぐるぐる巻きにして縛っていく。
ざわざわと教室の喧騒。
授業が終わった今、すぐにでも他の生徒が廊下へと躍り出てくるかもしれない。
けれど私はその場で身動きが取れなくなり。
置いてけぼりを食らった廊下で、ひとり泣いた。
✳︎✳︎✳︎
「ほらあ、言った通りじゃない」
声を上げたのは、いつも『眠り屋』の事務所で、なんだかんだとスイーツを焼いている京子さん。
「先生の言うことを、ちゃんときかないからあ」
「そんなこと言わないで、助けてよう」
情けない声だけを上げて、私は京子さんの次の言葉を待った。
それはいつも的確なアドバイスをくれる京子さんを信頼してのことで、決して矢島さんを侮っている、とかそういうことではない。
そんなことをごちゃごちゃと考えていると、ミケが大きな欠伸をしながら、私の足にすり寄ってきた。
構わず、目の前で拝むようにして、両手のひらを合わせる。
「お願いしますっ‼︎ この通り‼︎」
さっきまで、膝の上にミケをのせて遊んでいた矢島さんが、ゆっくりと立ち上がってキッチンへと入っていくのを、視界の縁で捉える。
そのキッチンの中から、声が届いた。
「まったく、はるひさんはちょっと頭を冷やした方が良いようですね」
「反省してるってば」
「そんな態度でですか?」
「うーん、矢島さーん」
コーヒーのお代わりをマグいっぱいに持ってきて、矢島さんは再度、一人掛けのソファに座る。
いつもは温和な矢島さんの険しい表情は変わらない。今回、この強固な牙城は崩せないようだ。
「わかったよう、自分でなんとかする」
帰り支度をし始めると、京子さんは心配顔を浮かべながら言った。
「はるひちゃん、無茶なことしないでよ」
私は、うんわかったと返事をし、事務所を後にする。
『眠り屋』の事務所から、足早に帰路につく。私は、先ほど矢島さんに言われたことを思い出していた。
「はるひさん、無花果って知ってますか?」
唐突すぎて、私はへ? と思った。京子さんもくすくすと笑っているから、なんか冗談でも言うのかなあ、なんてなま返事をしたら。
「知ってるけどー?」
矢島さんは声の調子を変えないで、続けて言った。
「イチジクって、『花の無い果実』と漢字で書くように、花を咲かせないんです」
「へえ、そうなんだ」
「だけどですねえ、実はその果実の内側に、花を含んでいるんですね。無花果は、自分の中で花を咲かせるんです。それは外からはまるで見えません」
「え、すごっ」
矢島さんは声を荒げることなく、私に言い聞かせるようにして続けた。
「夢というのは、自分が与えられた財産のひとつなんです。よって、誰にも邪魔されてはいけない。依頼者から頼まれて夢に入る私でも、夢にはなるべく触れないように、細心の注意を払っています」
「じゃあ、夢って、無花果みたいなものってこと?」
「そうです。自分の内側で秘密裏に咲かせる、花のようなものですから」
路地を曲がると、少し向こうに線路の踏切が見えてくる。学校の帰りでもいつも、この踏切を渡って、家へと向かう。
突然、カンカンカンと警告音が響き、真っ赤な信号がチカチカと光る。
足を止めた。
遮断機が、その身を揺らしながら、ゆっくりと降りてくる。
そして、まだ電車の来ない線路の先を見つめながら、私は矢島さんの言葉を反芻した。
「無花果の花言葉は、子宝に恵まれるや飽和、豊富などなんですけど、もうひとつあるんです」
「え、なになに?」
実りある恋。
実りある恋にするには、やはり現実を見つめなければならない。
私は、まだ来ない電車が目の前を横切るその瞬間までに、心を決めると誓った。
✳︎✳︎✳︎
「はるひ、こんなことはだめだよ」
僕は、彼女の両肩を押さえつけて、彼女との距離を取った。
「だめなんだ、許されない」
はるひの唇が少し、開いた。
桜色の、少しだけ厚みのある、柔らかい、くちびる。そのくちびるがふると震える。
そしてその目。真っ直ぐに僕を見上げてくる。その瞳はいつも、僕に向けられる。躊躇なく、縋るように。
はるひの吐息を感じる。薄く開いたくちびるの間から吐き出される、甘い甘い息。それが僕のくちびるにかかって、そのたびにどくっと何度も何度も、心臓が鳴った。
(夢だ、これは夢だ)
分かってはいるが、目ははるひに釘づけだ。
くちびる。瞳。まつげ。頬。その髪。
その全てに、このくちびるを這わせたい。
(願望だ、それも分かっているんだ。だからもう……もう勘弁してくれ、)
半分は、降参。あとの半分は諦めきれない恋情。
隠さなければいけないとわかっていても。
僕は教師だ。僕は、はるひの先生なんだ。
「好きだよ、はるひ。好きなんだ、君が好きなんだ」
抑えようという気持ちとは裏腹に。吐き出される言葉。
夢だ。
認めたっていいんだ。これは夢だから。もう、どうなったっていい。仕事をクビになったって、それでいい。
「好きだ、好きだ、はるひ、」
僕は、はるひを搔き抱き、その首筋に口づけた。何度も、何度も。
夢だから、これは夢だから。
そして、突然に目が覚めた。
目に入ってきた光景は、いつもうたた寝をする図書室の本棚ではなく、僕のアパートの天井だった。
✳︎✳︎✳︎
「加納先生、今、ちょっといい?」
呼び止められ、僕はその声に、口から心臓が飛び出しそうに驚いてしまった。ビクッと身体を跳ね上げたのを見られただろうか。それを誤魔化すように、宙を彷徨った手を上着のポケットに突っ込んだ。
はるひの夢を見た次の日の帰り。学校の校門へ向かうと、はるひは鼻歌を歌いながらそこに立っていた。
僕は、なんでこんなタイミングにと思って心で苦笑した。邪な夢は、まだ僕をじりじりと、苛んでいる。
けれど平静を装って、何事もなかったかのように、はるひの前を通り過ぎようとした。すると、ふんふんと鳴らしていた鼻歌をやめて、はるひが声をかけてきたのだ。
「お、おう、なんだ?」
「あのね……これなんだけど、」
そして。
おずおずと差し出された、小さな紙袋。シンプルだけれど変な模様で彩られたデザイン。
「なんだ、これは」
「なんだ、これは……じゃないでしょ」
ここまで面と向かって、ずいっと出されると、受け取るしかない。
「いや、ナンダコレハってなるだろ、普通」
「バレンタインでしょ、わかんない?」
「……えっ」
後ろめたい気持ちが身体も心も支配していた。
僕は夢とはいえ、はるひを抱いた。その艶かしい光景が蘇ってきて、僕は雷に打たれたように、動けなくなった。
自分の脳裏に焼きついた、はるひのくちびる。生々しい、自分の中の欲。
「うわっ」
手の上に乗せていた小さな紙袋が、バサっと音を立てて、地面に落ちた。
それを目で追う、はるひの瞳。スローモーションのように目に飛び込んでくる。
「……ちょっとお、落とすなんてひどっ」
その言葉で、はるひを見る。
はるひの顔は。
みるみる曇っていった。
「わ、悪い」
僕は慌てて、落ちて傾いている紙袋に手を伸ばそうとした。
けれど、はるひの背後から騒がしい声が聞こえてきて、僕は手をすぐに引っ込めてしまった。
はるひと僕を避けて、三人の男女の生徒が怪訝な顔をして通っていく。
僕がその生徒たちを気にしているうちに、はるひはヒザを折って、紙袋を拾った。
「やっぱ、だめかあ。現実でも夢でも。だめなもんはだめってね」
矢島さんの言う通りだったな、やめときゃよかった……。
そう最後に呟いて、はるひはスカートを翻して、帰っていった。
最後の。
はるひの顔が、眼に焼きついて離れない。
あんな悲しげな顔は、今までに見たことがない。
はるひはいつも笑ってて。
笑いながら、せんせー今日も図書室で待ってるねーって。
僕に向かって手を大きく振ってきて。
あんな引きつった偽物の笑顔。
せんせい、せんせい、って、いつもいつも、僕のことを。
「……矢島……って、誰だよ」
呟くと。言葉は、乾いた陶器のような音がした。
✳︎✳︎✳︎
「がんばりましたね」
私は真っ赤になっているであろう鼻と、腫れぼったくなったまぶたをティッシュで交互に押さえつける。押さえたティッシュをくるくると丸めて、ゴミ箱へと放った。
「うん、でも正攻法でもだめだったあ」
みるみる涙が溢れてくる。矢島さんにもらった、今開けたばかりの箱からティッシュを引き抜く。
「悲しみは雨のように振ってくるんだなあ」
なんとなく呟いてみると、京子さんがキッチンから声を張り上げてきた。
「あら、できたじゃない。来週の国語の宿題。確か、詩を書くんだったよね? それ、提出したら?」
「京子さん、容赦ないぃぃ」
私が再度、ぶびびびと鼻を大仰にかむと、京子さんは笑って言った。
「夢を使って誘惑しようなんて横着したのは誰だったかなー⁇」
「あれから先生の夢には入ってないってえ。先生ってば最近、図書室来なくなっちゃったし……。だからバレンタインにと思って、チョコ用意したのに。落とされたあ、しかも拾ってもくれなかったあ」
駄々をこねる子どものような声が出て、少しだけ恥ずかしくなる。私は情けない顔を、両手で覆った。
こんな顔。ママには見せられない。
帰ったらすぐにお風呂に入って、それからもう寝てしまおう。っと、その前にアイスを死ぬほど食ってやるからな‼︎
「でもね。がんばりましたよ、はるひさんは。見直しました。結果はどうであれ、これではるひさんの道はひらけました」
「言ってる意味がわかんない」
ずびっと鼻をすすりながら、私は家へと帰った。
✳︎✳︎✳︎
「はるひ、どこだ。はるひ、はるひ?」
いつものように夢から覚める。
僕は泣いていた。
バレンタインのチョコを落としてしまった日から、はるひは僕の元へと来てくれなくなった。
ただ。
授業で顔を合わせるだけの、先生と生徒の関係。それでも、視線は合わない。黒板に書いている手を止めると、はるひはさっと俯いてしまうらしいから。「らしい」というのは、僕もしっかりとはるひに視線を留められない、という理由がある。
しんと静かな教室の、ただの空間と成り下がったスペースを漂う、僕の空っぽの視線。
前は、事あるごとに、はるひを盗み見ていたというのに。
もちろん、話す機会がある化学の実験も、当分の間、予定はない。
はるひは夢にも、現れなくなった。
せめて夢の中だけでもと、はるひを抱こうとする、邪な僕が悪いのだ。
部屋の天井を見つめる。枕に滑り落ちていった涙は、きっと吸収され、その染みはもう冷えているだろう。
「はるひ」
名前を呼ぶ。愛しい彼女の名前。
脳裏に焼きつく、入学式の日の弾けるような笑顔。
思い出した笑顔が眩しくて、僕は慌てて目をつぶってしまった。
涙が、流れ落ちていく。
けれど僕は自分を厳しく叱責するしかない。
邪なんだ、この恋は。
分かっているんだ。僕が、何もかも悪い。彼女に恋した自分が悪い。
学校に行く。何食わぬ顔で、授業を終える。教室から廊下へと。背後で、次ー音楽室移動だよーって元気よく叫ぶ、はるひの声だけを拾う。
これでもう、僕の仕事は終わったのだから、このまま職員室へと戻るべきだ。
けれど。
僕は。
図書館へと向かってしまう。
はやる心。
邪でも愚かでも、はるひ、君に逢いたいんだ。
はるひは今から音楽室に向かうのだから、図書室で本物のおまえにかち合ってしまうことはないから。
ああ、はるひ。
触れたいんだ、君に。
夢でもいい。
夢だから、
夢の中だけ、だから。
✳︎✳︎✳︎
「せーんせ」
耳に心地よい、声。
「音楽、サボっちゃった」
(こら、だめだろ?)
「ねえ、もう、横着しないから」
うとうとと、まどろんで。
「だから、少しだけ、ね」
夢か現か。
指先に、ほんのり温かさ。体温、
これは、おまえの体温か? あったかいんだな。
「は、るひ」
まだ、醒めない。
「はるひ」
愛しさが、ふわふわと。
「なあに、せんせい」
「好きなんだよ」
「……ほんとう?」
可愛い声だな。もしかして、僕を疑ってるのか?
「ほんとうだよ、」
「……寝言でも、……ウレシイ、ヨ」
どうした? おまえ、涙声だぞ。
「夢でもいいもん」
指先の、その体温が。
ふるっと震えた。気がした。