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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
nightmare −サルビア
32/63

母親というもの


「結論から言うとですね。拓海くんの見ている夢は、小林さん。あなたがその理由の一端であると、言えるようです」


私は、やはりそうかと半ば得心し、けれど奈落に落とされたような深い悲しみを感じていた。


今回。夢による診断には、二回の機会が必要だった。


一回目。

拓海だけが、まずは眠りに就いた。傍らには、矢島さんが眠る。


その様子を私も見ていたのだが、こうすることによって、拓海の夢の中に足を踏み入れたのだという(これがまだ信じ難いのだが)。


結果を先に言ってしまうと、この時矢島さんは、原因らしき事象を何も掴めなかったのだそうだ。


そして、再度その原因を探るべく二回目をお願いしますと言われた時、私は一瞬戸惑ってしまった。


このまま何も成果が出ない状態が続き、もう一度もう一度と、高額な料金を請求されるのではないだろうか、そう思ってしまったからだ。


そんな気持ちを見透かされたのだろうか、矢島さんは次のような条件を提案してきた。


「何度も足を運んでいただくのは、大変申し訳ないと思います。けれど、どうしても、二回目をお願いしたいと思っています。それで、今度はお母さんも一緒に眠っていただけないでしょうか。なるべく、いつもの条件下で夢に入ってみたいと思うのですが。もちろん二回目以降の料金は不要です」

「お支払いしなくても良いということですか?」

「はい」


拓海は矢島さんに懐いていたし、次で終わらせるという矢島さんの意気込みも感じられ、了承した。


そして、二回目の今日。

いざこの事務所で眠りに就こうとしても、緊張してなかなか眠れない。

もちろん拓海は、すでにころんと眠ってしまっている。

小さい頃からの寝つきの良さが、ここでも遺憾なく発揮された。


手には、拓海の肌の温かさ。

拓海の小さな手が、私の手の中にくるまれている。


眠れなくてすみません、と恐縮する私に、矢島さんは微笑みを浮かべながら言った。


「寝ろと言われても、そうそう眠れませんよね。大丈夫ですよ、では僕の手をそのまま見ていてください」


矢島さんが軽く握った右手を上げる。私がそれを見ていると、赤い何かがはらっと落ちていった。


目を凝らしてそれを見届けようとした時にはもう、目蓋に重みを感じてくる。


矢島さんが。


何かを言ったような、気がした。


✳︎✳︎✳︎


「拓海っ」


私は、がばっと身体を起こした。その拍子に、掛けてあったブランケットが、見事に滑り落ちていく。


はっきりとした覚醒。


私は、開いた目を数度、瞬かせた。首の後ろあたりが重い。そして身体全体にある、少しの気だるさ。


拓海はもうすでに起きていて、よく見ると、チョコレートケーキを口一杯にほうばっている。それは眠りに入る前、京子さんの手作りですと、矢島さんが嬉しそうに眺めていたチョコケーキだ。


「ママ、起きたの? ママも食べる? はい、あーん」


フォークに刺さった、ひと口大のチョコケーキの欠片。


それを見て。

なぜか、涙がぽろっと溢れた。


これはずっと後になっても、私と拓海の人生の中でも、忘れ得ることのなかったもの。


たったひとつの、安堵の涙だった。


✳︎✳︎✳︎


私こそが、悪夢の原因。


「結論から言うとですね。拓海くんの見ている夢は、小林さん。あなたがその理由の一端であると、言えるようです」


矢島さんにはっきりとそう言われて、確かに納得したはずなのに。


私はどうして良いのか分からなかった。

おずおずと口を開く。


「やはり拓海に寂しい思いをさせているのが良くないのでしょうか。もっと一緒にいる時間を増やした方が良いんでしょうか。愛情不足だなんて、自分では認めたくないんですけど、やはりそれが原因で……」

「小林さん」


矢島さんは、私の言葉を遮ってから、じっと私を見つめて続けた。その丸い眼鏡を通して、何を見ているのだろうと思うほどの、長い時間をかけて。


その鋭い視線に負け、顔を熱くさせながら、私はあの、と声を掛ける。


「ああ、すみません。私は拓海くんが悪夢を見るのは、あなたが原因とは言ってませんよ」

「え、」

「そういう風に聞こえてしまったのでしたら、謝ります。まあ、とにかく一度手を繋いで寝るのをやめてみてください。それか最初だけ繋いでいて、拓海くんが眠ったら、手を離してあげてください」

「それは、どういう?」


いつの間にか握り込んでいた手を、解放する。じっとりと手のひらに汗をかいていた。開いたり握ったりを繰り返してみる。


「小林さん、拓海くんは感受性がとても豊かですね。どうやらお母さんの頭の中にあるイメージを受け取ってしまう性質を持っているようです。不思議なことですけど、手を握って寝ることによって、伝わってくるんでしょうね。お母さんのイメージが拓海くんの頭の中でも装飾され、その結果このような悪夢となっているようです」


私はまだ理解できずにいた。


「拓海くんの夢の中へ入りましたが、追いかけて来ると言うオバケですね。色が沢山混ざり合ってできていたんです。単色のままだと、えっと、例えば拓海くんの好きな色、ピンクなんかは単色だと綺麗ですよね。けれど、それに他の単色、緑とか青とか赤とか。それらを混ぜ合わせると、何とも言えない汚い色になりますよね。どうやら拓海くんの脳は、その汚い色をオバケのような姿に具現化して、拓海くんに夢として見せている、そう考えられるんです」


「……はい、」


何とか言葉を絞り出そうとして、失敗する。そんな私の様子を見て、矢島さんはにこっと笑いかけてきた。


「その色のオバケですが、あなたのお仕事で心当たりはありませんか? 映像ディレクターとありましたが、色彩の使い方で悩んだり、映像が複雑だったり、そういう事はありませんか?」


矢島さんが、私の顔を窺い見る。


「5歳の拓海くんが、そんな複雑な色の絡まり合いによる集合体を知る機会はないはずですし、ましてや理解しているはずもなくて。拓海くんが好きなはずの色、青やピンクもどこにも見当たらないですしね。しかもオバケは白なんだと認識しかしていないのにと、そこで僕は気がつきました。誰か大人が創るイメージが、流れ入っているんじゃないかと。そう考えると、手を繋いで眠っているあなた以外に考えられませんから」


その通りだった。


たくさんの指摘と訂正、いわゆるダメ出しを食らった、今請け負っている仕事も、色の使い方なんかにずいぶんと文句を言われていた。カラーコーディネーターとしての自負も地に落ちてしまうほどに。


ここ最近は、色見本表を手放せないでいる。それが現実だ。カラーチャートと睨めっこしては、どの色を使うかを、捻り出していた。

言われてみれば、自分の頭の中は、あらゆる色たちが、汚く混ざり合っていたのかもしれない。まるで、使い古した絵の具の筆を、洗い終わった水のように。パレットの上に出して混ぜた、何十種類ものアクリルガッシュや水彩絵の具のように。


「最初は、高い所から落ちる夢だったようですが、種類が違うんですね。それが手を繋ぐきっかけとなってしまったようですが、高所恐怖症の方はよく見る夢なんですよ。面白いですよ、高い所から落ちる夢を見て起きると、実際ベッドから落ちてたりすることもあるんです」


私の前にカップが差し出される。京子さんがそっと置いてくれたものだ。


紅茶の優しい香り。ゆらりと湯気が揺れて、私へと届いてくる。

私は矢島さんを見た。


私は今、情けない顔をしているのだろうか。


「それでは、私が悪夢を見ていて……?」

「いえ、そうとも限らないんです。大人になれば、経験も増え、知識も増える。理解の幅が広がります。たとえばその複雑な色の絡まりを、大人であるあなたは一つの事象と捉えることができ、消化できているんだと思います。現にあなたは悪夢を見ていないわけですから。あ、違いますか? 小林さんは恐い夢って、見てませんよね? あ、見てました?」


慌てて言う矢島さんに、京子さんが被せてくる。


「あらら、先生はいつもどこか抜けてるんだから。すみません、こんな頼りない人で。申し訳ないですね」

「えええー⁉︎ 頼りないってねえ。そういうこと言われるとですね、僕だって傷つくんですから。勘弁してくださいよ、京子さんー」


少しふくれた矢島さんに、私もつられて笑う。


「いえ、でもそうなんです。私は悪夢は見ていないつもりです」

「そうですよね、良かった、解決です。そういうわけで、拓海くんが悪夢を見る理由。それはあなたにあります。けれど、同時にあなたが原因ではないということです」


矢島さんが笑って言った。


「しかも、それは大したことではないんですよ。手を繋がなければ、もう悪夢を見ることはないでしょう。ただ、その悪夢を拓海くんの脳が覚えてしまっていると思うので、少しの間まだ現れるかもしれませんが……でも次第に、記憶が曖昧になって、忘れていくと思いますよ」


ここでようやく、ほっと息を吐くことができた。細く細く、少しずつ。私は息を吐き出した。


優しさを含んだ、矢島さんの声が続く。


「小林さん。どうか、あまり考え込まないでください。この世界にある、たくさんのできごとの9割がたは、実はそう大したことじゃないんです。拓海くんがチョコレートを好きなことに、理由って必要ですか? 拓海くんは楽しく幼稚園に通っていて、帰ればお母さんが一緒に寝てくれる。それで良いんじゃないでしょうか。そしてそれがきっと、一番の幸せというものです」


矢島さんがにこっと笑った。その隣で、京子さんも笑っている。


そして、拓海もチョコレートケーキの破片を口の周りにつけて、笑っている。


頬に涙を感じた。熱く熱を持った水滴が、頬を伝って落ちていく。


そうだ。


拓海とは。


起きている時には、手を繋ごう。

そして、眠っている時には、隣でその寝顔を見ていよう。

家事なんか後回しにして、もしそのまま眠ってしまったとしても。

明日の朝に、片付ければいいじゃないか。

それができなければ、思い切って、食洗機を買っちゃおう。


「そして何よりですね。お母さんの心、拓海くんへ伝わっているわけですから」


私が眠りに入る時。

矢島さんが囁いた言葉を思い出す。


「サルビアの花言葉は、家族愛です。あなたはもう十分に、拓海くんの母親ですよ」


ありがとう。私を母と、認めてくれた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 矢島さんにも、いろんな面があるんだと思いますよ。 このお母さんには、矢島さんの言葉が染み入ったようだから、相手によって言葉の選択を変えられる、カウンセラーとしての能力がある、という事なんだ…
[良い点] 全部分から、拓海くんが素直に育ってるのがわかります。 もちろん保育園の力は大きいけど、お母さんが一生懸命育ててるんだな、というのが誰から見てもわかるでしょうね。 そこをきちんと汲んだ矢島…
[良い点] とっても良い結末でした。 大人の脳が処理している事を子供の脳は十分に受け止めきれない、という観点に基づいたストーリーも秀逸です。 子供の言葉のあどけなさが上手に書けているので、そこで感情移…
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