青とピンク
「小林さん、部長にダメ出しされてましたねえ。今回は自信作だったんでしょう?」
私の斜め後ろから、一つ歳下だけれど同期の佐藤が、ぬっとカップのコーヒーを差し出してくる。
この会社界隈で、一番美味しいと評判のカフェのコーヒー。カフェインを欲していたこの絶妙なタイミング。
私は正直、ありがいと思った。が、それを表面に出すのが自分の弱さであるかのように感じられて、そのまま無言で受け取った。
「キツイっすよね、正直。俺らがあんまし関係ねえ部分で、ごちゃごちゃ言われてもねえ。企画は良いんだから、そこ評価してくんないと」
同期だけれど、役職は私の方が上だから、佐藤はいつも敬語で話しかけてくる。
「まあ、でも制作側ばっかのせいにも出来ないから。ムカつくけど、言われたとこ、全部直すわ」
「そっすね」
私の背後から離れようとして、佐藤が足を止めた。気配で分かる。そんな様子を感じて、私は振り返った。
「何?」
なにかを言い淀むような一瞬の間があり、それから佐藤が口を重そうに開いた。
「あの、余計な事かも知れませんが、」
「うん、」
「小林さんの言い分も分かるんですけど、あんまり言い過ぎないようにした方が良いです。さっきの会議ですけど、部長とのあの言葉の応酬、見てられませんでした。小林さんの評価も落ちちゃいますし、皆んなにも、」
「嫌われる、か」
「……はい、」
私は、はあっと溜息を吐くと、「気をつける」とだけ言って、佐藤を手離した。
もともと男社会のこの仕事に、女の私がどうして身を置く事ができるかと言えば、勝気でいざという時に踏ん張りのきくこの性格のお陰だと言えなくもないのだが、それが災いして、人間関係の構築は散々なものだ。
それで結婚も駄目になったのだけれどと、それには苦笑するしかない。
加えて、毎晩泣いては飛び起きる拓海の件もあり、ここのところ自分の中にある制御不能のイライラとした気持ちが、刺々しく他人を傷つけているという自覚があった。
学生の頃から、睡眠時間に関しては必要以上に取らなくても平気な口だったので、寝不足はそんなに影響は無いはずだ。
けれど、母親のくせに自分の子どもを安穏に眠らせることもできないのかという、どこからともなく現れては消える自己嫌悪。それが影響していると言えば、そうなのだろう。
母親として失格なのだろうか、と。
仕事をパートに切り替えて、もっと拓海と一緒にいる時間を作った方が良いのだろうか。
離婚の時にも、同じようなことで散々悩んだけれど、手にする給料を考えたらパートになるのは経済的にも辛いと考えてしまった。
お金の事で苦労したくないことと、大学で学んだ映像関係のノウハウに加え、仕事をしながら必死に勉強して取ったカラーコーディネーターの資格を無駄にしたくなく、私は結局、この仕事を選んだ。
そう、私は拓海の子育てのあれやこれやの中で、その点に強い引け目を感じているのだ。
任される仕事をバリバリこなすほど、上り調子に上がっていく自分の評価。その代償として与え続けられる育児への引け目の数々。
比例して蓄積されていき、それは時々、顔のない怪物のように膨らんで、自分を襲ってくる。
母親失格のレッテル。それを持った手を振りかざして、どこまでも追いかけてくるのだ。
それは容易に抜け出すことのできない、迷路に迷い込んだ時のように。
けれど、私は走り続けるしかない。どんなにもがき苦しんでもこの世界は必ず、月曜日の朝を、美しく迎えるのだ。
佐藤に貰ったコーヒーに口をつける。その舌と脳で糖分を感じると、疲れが少しだけ癒される気がして、ほっと息をつく。
佐藤に感謝しなければいけないのだ。頭では分かってはいる。
けれど離婚してからは、素直になった試しがない私の性格を、今日はいつも以上に恨めしく思うしかできなかった。
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「このマド、マドレ、おいしいね」
「マドレーヌ、このお姉さんが作ったんだよ。拓海くん、君、お菓子は何が好きなの?」
「チョコレート」
「そうなんだあ、僕もチョコ大好きですよ」
ニコニコと笑顔たっぷりな矢島さんと、先日来た時には不在だった事務員の女性とが、拓海を挟んで話し掛けている。
「このおじちゃんはねえ、チョコばっかり食べてるから、虫歯になっちゃったんだよ。拓海くんも気をつけないといけないわね」
「ぼく、はみがきする」
「うん、エライぞー」
「ちょ京子さん、おじちゃんっていうの止めて下さいよ。折角、京子さんのことお姉さんって言ってあげたのに……自分だけ卑怯ですよ」
「拓海くん、今度来る時にはね、お姉さんがチョコケーキ作ってあげるね」
「うん、たべる」
「…………」
矢島さんが言葉を失くしている。不服そうな顔でコーヒーをがぶっと飲み干す様子を見て、私は吹き出しそうになった。
拓海も二人に挟まれてキョロキョロしている。そんな様子を、私は微笑ましく見ていた。
前回よりもリラックスしている自分を認める。
爪が食い込むほど手を握り込むこともなく、そして仕事のイライラを表に出すこともなかった。そう、平穏な自分を保っていたのだ。
それでは始めましょうか、と矢島さんが座り直したのを機に、私は口を開いた。
「私は席を外した方が良いでしょうか」
ん? という顔をしてこちらを見てから、矢島さんが言った。
「居て頂いて大丈夫ですよ」
「そ、……そうですか」
浮かしかけた腰をソファへ沈めると、矢島さんが身体を少し斜めにした。
拓海の隣に座っているので、話しにくいだろうに、そのまま手帳を広げて話し始めた。
「拓海くんは今、何歳ですか?」
「5歳です」
私が答えると、矢島さんがニコッと微笑みながらこちらを見る。口元で人差し指を立てる、シー……のポーズ。
私は慌てて口をつぐむと、軽く頭をすみませんと下げて、ソファに座り直した。
矢島さんはまた身体を拓海の側へ向けると、再度同じことを問うた。
「さて、拓海くんは何歳ですか?」
「5さいぃ」
「幼稚園に通っているのかな?」
「うん!」
保育園よと言い掛けて乗り出した身体を、ぐっと元に戻す。
「僕は幼稚園に行ったことがないのですが、そこは楽しい所なのですか?」
「いったことないの? なんで? すごくたのしいよ」
「幼稚園に行って、何をするのですか?」
「おりがみとか、おままごととか、オモチャであそぶの」
「あれ、外では遊ばないんですか?」
「お外でもあそぶよ。おだんご作ったり。スベリ台がいちばん好き。でもねえ、いつもみんながならんでて、じゅんばんだから、いっかいしかやれないの」
京子さんと呼ばれた事務員が、ふふっと笑う。美人だ。その笑い方が可愛らしい。京子さんは微笑ましそうに、二人のやり取りに耳を傾けている。
「そうですか、拓海くん。絵本は好きですか?」
「好き。先生がよんでくれるの。あと、シズちゃんがよんでくれる」
「シズちゃん?」
矢島さんが、首をかしげるようにして訊く。
「ハヤシシズちゃん。もう字がよめるんだ」
「そうなんですか。拓海くんも読めるの?」
「ぼくは、よめなーい」
仕事から帰って家事をしてから拓海と一緒に布団に入ろうと思うと、本など読み聞かせる暇がない。
年長だと、もう字を読める子も多いと、保育園の先生には聞いているけれど、そろそろ字を教えないといけないと思いつつ、なかなかそれができていなかった。
落ち込みが、一層深くなる。
「拓海くんは、色は何色が好きですか?」
字を読めない事について、何かを言われるかと思ったけれど、違う話題になった。ほっと胸を撫で下ろす。
「アオと、」
「はい、」
「……ピ、ピンク」
「ああ、ピンク。桜の色ですね。綺麗な色が好きなんですねえ」
これには驚いた。
ピンクが好きなんて言うと決まって、男の子なのにピンク? の類や、ピンクは女の子の色だよ、などと言われるのがオチだったけれど。
矢島さんは違う。
(変わってる人だな)
心で思い、様子を見守る。
「じゃあねえ、ここからはちょっと恐い気持ちになってしまうかもしれないけど、頑張ってくれますか?」
すると、途端に拓海の表情が強張っていった。
ここへ連れて来る時、拓海が見る夢についてお話しするのよ、と言い聞かせておいたから、何を訊かれるのかは分かっているのだろう。
「頑張ってくれたら、後で一緒にチョコを食べましょう。僕のお勧めのチョコがあるんですよ、美味しいですよ~。何か形も可愛いんです。キノコみたいで」
拓海が顔を上げて、うんっと嬉しそうに頷く。
この矢島さんという人は、子どもの扱いに慣れているのだろうか。保育士さんのような、優しい話し方だ。
「拓海くん、拓海くんが思うオバケってどんな顔だと思いますか?」
「白くて、ふわっとして飛ぶの。目と口が黒くて、いつも笑ってるの」
「笑っているんですか? こんな感じ」
矢島さんが、口角を上げて口を開き、目尻に皺を寄せて、笑って見せた。
「うん、」
「その笑ってるオバケが追いかけてきたら、恐いのかなあ」
呟くように訊く。
すると、あんなにも恐がっていた拓海が、すらすらと話し始めたではないか。
「そんなの恐くないよ。もっと恐いオバケがいるもん。色もぐちゃぐちゃだし、顔もぐちゃぐちゃなの。ぼくをおいかけてくるんだよ。それがこわいの」
「ふうん、そのオバケは何か話してる?」
「わかんない、ちかづいてくるからにげるの」
「なるほど、と」
私は、拓海が今にでも興奮したり泣き出すのではないかと、はらはらしながら見ていた。
矢島さんが、ありがとうございましたと言いながら立ち上がると、キッチンへと入り直ぐに戻ってくる。
「では、チョコ食べましょうか」
手にはキノコ形のチョコの箱。
拓海の表情がそれを見て、ぱあっと明るくなった。
ビリビリと開け口の包装を千切って、拓海に持たせる。
「あ、アレルギーは大丈夫ですか?」
振り返って、私が頷くのを見ると、矢島さんが拓海に声を掛けた。
「お皿に出して、何個あるか数えてみてください。みんなで分けると、一人何個食べられますか?」
拓海にそうさせておいて、矢島さんは私を真っ直ぐ見た。
「やはりですね。拓海くんの夢へと入らせて頂きたいのですが、いいでしょうか?」
「あ、はい。何か分かりましたか?」
私の質問に、矢島さんが答えようと口を開いた所で、拓海が叫んだ。
「一人、六個だあ‼︎」
「六個も食べられるんですか? それは嬉しいですねえ。じゃあ、いただきましょう」
そして、みんなで。ぱくぱくっと、あっという間に食べてしまった。拓海と一緒に、一箱をみんなで分けて。
「はい。これママの分」
小さな手に、キノコがむっつ、ころころと揺れている。
「拓海にあげる」
「え、いいのー?」
喜ぶ、拓海の顔。こうして久しぶりに面と向かって見ることができた。
その後、私はとても嬉しい気持ちになって、この事務所を後にした。