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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
nightmare −サルビア
30/63

恐い夢




『nightmare』




「まだ5歳にしかならない息子が、どうしてこんな目にあわないといけないんでしょうか。恐ろしい悪夢を毎晩のように見る、その原因が分かればと思っています」


握り込んでいる両手。いつしか力が入ってしまっていたことに気づいてはいた。気づいてはいたが、それが自分の昔からの癖であるので、仕方がないと小さく思う。


心に余裕が無くなったり不安に思ったりすると直ぐに、手を握り込む癖がある。のちのちよく見ると、爪の跡がくっきりと残っているほどに。その痛みにも気づかないほど、我を忘れてしまうのだ。


この日も緊張していた。


目の前には、常に笑顔をたたえている、初対面の男性。


男のくせに軟弱そうだなという第一印象。けれど、相談内容が最近もっとも頭を悩ませている重大な問題であるということもあってか、やはり緊張せざるを得なかった。


(息子の拓海たくみのことを、こんな風に他人に相談するなんて。今までに一度もなかったから、余計にだろうか)


初めてこの『眠り屋』の看板を目にした時。


拓海が毎晩のように見る悪夢のことを、ここで相談できるかもしれないと、確かにその時はそう思った。思った、と言うか、ピンときたと言っても良い。


この『眠り屋』の事務所が入っているビル。普段は通らないこの道。偶然も偶然に、会社の後輩とランチを取りに行く時に、この看板を見つけた。


ナチュラルフードを出すことで評判のその店には、何度かランチを食べに行ったことがある。けれど、全く気づかなかったのだ。オンボロで古めかしいビルの二階に掲げてある看板に、目が届くことはなかったから。


けれど二日前、いつものように後輩に誘われてその店に向かう途中。天気予報を無視するかのように、ぱら、ぱらと小雨が降ってきた。

見上げると、おかしいけれど、確かに天気予報通りの晴天がある。


後輩がふと「狐の嫁入りですねえ」と言いながら、空を見上げている。


青空に太陽、薄く広がる雲に雨。

この幻想的な、風景。


私は仕事上、そういった自然が織りなす「表現」を大切にしていた。美しさ、そしてその美しさを炙り出すのに必要な、色合い。それらを操って映像にし、CMやプロモーションに用いる仕事。映像制作会社に属する、映像ディレクター兼カラーコーディネーターだ。


私の目に、脳に、目の前にある「狐の嫁入り」がインプットされる。空色、光彩、雨粒の輝き、そしてその動き。


私はしばらくの間、空を見上げていた。


そして、ふと視線をずらした拍子に、飛び込んできた文字があった。それを見て、私の心臓はどきりと鳴った。


「夢に関するご事情、ご相談ください」


これは、運命だろうか。


今まさに、拓海の見る悪夢は現実、私たち母子を苦しめている。


「小林さーん、どうしたんですかー」


後輩が私を呼ぶ声。それに気づき顔を戻す。まだぱらりぱらりと降っている雨の中、ハイヒールの足を滑らせないように気をつけながら、小走りでその場を去った。


✳︎✳︎✳︎


小林聡子こばやしさとこさん、映像ディレクター……とと、カラーコーディネーターですか。どうぞ、こちらへ」


舌をもつれさせながら出迎えてくれた男性は、私が玄関で差し出した名刺を丁寧にゆっくり読み上げると、私を部屋の中へと招き入れてくれた。


室内を見回す。家具は必要最低限。インテリアもさっぱりしていて、そのレトロ感に好感が持てた。


男性は、私を三人掛けのふかふかとしたソファに座らせると、少しお待ちをと言って、キッチンだろうか、のれんのかかる部屋へと入っていった。


「……黒電話がある」


すると、のれんの向こうから、笑い声が聞こえてきた。


「やっぱり珍しいですか。今どき家電話なんて。携帯を持つように言われるんですけど、なかなかその勇気が出なくて」


携帯を持ってない?

これにもまた驚く。携帯を持つのに、何の勇気が必要だというのだろうか。


カルチャーショックだ。だが、これは心の中に仕舞っておこう。無難な答えを探る。


「珍しいですね、携帯をお持ちじゃないなんて。お仕事に差し支えないですか?」

「いやあ。まったくもって、せかせかした仕事じゃないんで、今んとこなんとかなってますかねえ」


のれんの奥から、盆にコーヒーカップを二つ乗せて、覚束ない足取りで運んでくる。


慣れない手つきで、コーヒーをソーサーごと一つだけ、私の前に滑らせようとするのだが、その危なっかしい所作と言ったら。


私はつい手を出してしまった。慎重に受け取る。


「あ、すみません。今日は事務のお姉さんがお休みなので。僕、不器用なんで、こういうのなかなか慣れないんですよね」


事務を雇う余裕があるのか、と失礼にも思う。


ひっそりと置かれている黒電話を見てからはもう、あまり流行っていないヤブ医者的な見方しか、できなくなってしまっている自分に驚く。


男性は盆を置いて座った。名刺入れから名刺を一枚取り出し、中腰になって渡しくる。


「矢島と言います。初めまして」


私は恐縮することもなくそれを受け取った。


名刺は、相手に差し出された際に、交換して手渡すものだが、このタイミングに出してくるあたり社会には不慣れかと、やはり穿った目で見てしまう。


地味な服装に、落ち着きのある事務所。物腰の柔らかさは、性格に依るものかもしれないけれど。


(……顧客は、ついていなさそう)


芸能関係の制作会社に在籍する自分にとって、この地味な事務所と煌びやかな環境とのギャップに少しだけ、優越感を覚える。


「今日は、どのようなお話でしょうか」


カチャとコーヒーカップを置く音がして、私は我に返った。


「あ、あの、息子のことでご相談がありまして」


軽く自己紹介と、拓海の身辺のことを話すと、矢島さんはふんふんと相槌を打ちながら、メモを取り進めていった。


分厚い手帳は革製のもので、やはりこれも相当古いものだ。使っているボールペンも、ノックの部分から、色の塗装が少しずつ剥げかけている。


質素イコール貧乏。頭の中をよぎる。

けれどまあ、矢島さんは物を大切にするという性分なんだろうな、とも思ってみる。



「なるほど、と。では、その悪夢について、お話くださいますか?」


本題に入り、一気に緊張が高まった。


「はい、それは三ヶ月ほど前から始まりました。先ほどもお話ししましたが、私は離婚していますので、拓海には父親がいません。平日は保育園に預けて、私は仕事をしています。仕事は残業があって遅くなるので、帰ってから家事をやるんですけど、それがあっていつも拓海とは一緒には寝られませんでした。今までは」

「……今までは?」

「悪夢を見るようになるまでは、拓海は一人で寝ていたんです。小さい頃から一人寝がへっちゃらだったので、私も良くないとは思いつつ、そのまま寝かせてしまっていました」

「はい、」

「三ヶ月くらい前のある日、拓海が泣きながら二階から降りてきました。どうしたのと聞くと、恐い夢を見たと。その時は、高い所から落ちる夢だったらしいんです。関係あるかどうか分かりませんが、拓海、実際にも高い所は苦手で。高所恐怖症の気があるようです」

「そうですか」

「その翌日から、夜眠る時、恐いから手を繋いで寝て欲しいと言われましたので、家事を後回しにして、一緒に寝るようにしました。それからなんです。週に二回三回と悪夢を見るのが増えていきまして。最近では毎日のように見るようになってしまったんです」

「その時、拓海くんはどんな感じなんですか?」

「それが泣いて起きるっていうもんじゃないんです。わああって、叫びながら飛び起きるんです。そんな風になってしまうくらいの恐い夢なのかと、思うんですけど」


「その内容は?」


矢島さんが真剣な顔をして、問うてくる。


「大きなお化けが追いかけてきたり、恐い動物のようなものが襲ってきたりして、そういった類のものから逃げるという夢らしいです」

「トラとかライオンとか?」

「いえ、そういう現実の動物ではないようで。絵で描かせようともしましたが、怖がってしまって」

「そうですか」


矢島さんは何か考え込んでいるようだった。


拓海に寂しい思いをさせていることに引け目を感じていた私は、そこの部分を指摘されるのではないかと覚悟していた。


もっとお子さんに寄り添ってあげてください、もっと一緒に過ごしてあげてください、もっとお子さんに愛情と時間をかけてあげてください、と。


それなのに。


「そうですか、不思議な夢ですね。まだ5歳だというのに、想像力が素晴らしい。とにかく、拓海くんに会って話してみましょう」


私はきょとんとしてしまった。

不思議? 想像力? この人は、いったいなんの話をしているのだろうか?


この後、もっと掘り下げた説明や診断があるのかと思ったがそれもない。成功したときの依頼料についてとその説明や注意事項に留まり、次には拓海にも会って話を聞くという。


「場合によっては、夢の中に入ることがあります」


そう聞かされて、その意味もはっきりとは理解できず、すっかり怪しみの目で見るようになってしまった私は、色んな意味で不安に駆られながら、その日は事務所を後にした。

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[良い点] すごい! この 「デキる女」 っぽい思考回路! 人がどう思うか、こう言われるんじゃないか、と予測して身構えるのに、予測から外れると頼りないような不安な気がしてしまうんですねー! 色々な…
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