虹色の蝶
「矢島先生、ありがとうございます。あれから私、すっかり画を描くことができるようになりました。私、治ったんですね。本当に良かった」
僕の事務所を訪ね、両手を合わせて喜んでいる瑠璃の顔は、内からにじみ出る健康そのもので埋め尽くされていた。
初めて僕の前に座った時に見せた、儚く消え去ってしまいそうだった彼女の姿は今、至福の色で染め上げられ、生き生きと光り輝いている。
そんな瑠璃も美しい。
こんな姿を見せられては、夢魔が恋をし惹かれる気持ちも理解できる。
合わせた手の、白く張りのある皮膚に、それがまるでカンバスのようであるかのように、絵の具の染みが点々とついている。
色とりどりの、そしてあの虹色の蝶のような散らばり。その染み。
「そうですか、それは良かった」
「今日は謝礼を持参しました。取り決めにあった金額で、本当によろしいのでしょうか」
僕は差し出された封筒を貰うと、中を見て確認し、領収書に金額と名前を記入し、手渡した。
「これで結構です、どうぞご機嫌よう」
瑠璃はにこりと微笑むと、踵を返してドアへと進み出た。
しかし、つと立ち止まると、
「ですが、まだあの夢を見ることがあるのです。時々、ですけれど。何か意味でもあるのでしょうか。このままにしておいても大丈夫でしょうか」
そう、瑠璃の夢と画は返された。だが、もちろん夢魔が、すんなりと瑠璃を諦められるとは思っていない。
「大丈夫ですよ、何か不自由に思っていることがなければ」
「いえ、今のところは、」
「では、お気になさらずに。ただの無害な夢と思ってください。そういえば……」
僕は今までの会話の自然な流れを断ち切らないようにと、慎重に問いかけた。
「描きかけだった画は、完成したのですか?」
「ああ、はい、昨日の夜に何とか」
一瞬。ほんの一瞬。
表情に暗い翳りが差した。
依頼を受けてから、僕が見逃して、夢魔が見逃さなかった死の翳り。
それは目の前を横切っていく雲雀の飛行のように一瞬で飛び去っていき、あっという間にその姿をくらませてしまった。
そう、次にはもう、瑠璃は微笑んでいた。
身体の奥底からみなぎるようなエネルギーが溢れ出し、その集大成がここにある、輝くような笑顔。
弧を描く眉、盛り上がる頬。
この健全さはどうだ。
こんなにも、身も心も健康そのものであるはずなのに、その命は突然に、自らの手で断ち切られるのか。
どこからどう見ても健全なる瑠璃を見て、予告も無く突然の事故で逝ってしまった夫の画の完成を、どれだけ待ち望んでいたか。そして、その完成がどれだけ彼女を喜ばせているのかを知る。
僕は矛盾する公式を二つ同時に思いも寄らずに抱えてしまったような、そんな複雑で暗たんたる気持ちのまま、瑠璃を玄関まで見送った。
今夜は自身で描いた夫と二人きりの、至福の時間を過ごすに違いない。
僕はリビングに戻ると、ティーカップに二杯目のお茶を注ぎながら、彼女の虹色で飾られた手を思い出していた。
✳︎✳︎✳︎
「どうされたのですか、矢島先生、突然」
僕は瑠璃に謝礼を貰った日の夕方、アポイントなしで瑠璃を訪ねていた。
窓から差し込む夕陽の光が、初めて瑠璃の夢へと入ったあの日と同じように、しかし今度は瑠璃ではなく、玄関に立つ僕の横顔をオレンジに染め上げている。
ほんのりと暖かい感触。
それと同時に、彼女を前にしての、痛いほどの感覚。
「いや、近くで用事を済ませてきましたので、そのついでに」
「ですが、昼間にお会いした時には、そのようなことはひと言も……」
夫との二人きりの時間を邪魔されたからか、不服そうな面持ちで、中へと招き入れる。
振り返るその瞳が怪訝そうに僕を見る。
僕は構わず、被っていた帽子を取りながら、笑顔で玄関に入った。
通されたリビングには、あの時と同じ場所に、あの時と同じ状態で、白い布をかぶったカンバスが立て掛けられている。
きっとこれが、亡き夫の肖像画。
僕はどんな男が彼女を愛したのか、そして今夜にでも彼女を冥府に連れていこうとしている男の顔に、興味を持たざるを得なかった。
しかし、僕が亡き夫の顔を見る必要はなく、昨夜完成したこの画は、夢魔が瑠璃の夢の中から、その目を通して見ているはずだった。
夢魔が見ているのなら、それでいい。
瑠璃を救うのは僕ではなく、あの哀しみと深い愛情に満ちた黒豹なのだ。
コーヒーを二つ、盆にのせて運んできた瑠璃を遠くに見ながら、僕は当たり障りのない世間話をした。
コーヒーを盆から下ろして一つを僕に差し出し、ミルクや砂糖、そして自分のコーヒーを置いてからようやく座った瑠璃に向かって、僕は軽く握りしめていた手を差し出す。
「何ですか、先生?」
怪訝な目で、僕の握った手を見つめている。
僕は笑顔を向けただけで、声は発することなく、瑠璃を眠りへと誘っていった。
僕の、一本ずつ開かれていく指。
最後の指がひらかれて、中から赤い花びらがひらひらと落ちていくのを目で追ったのを最後に、瑠璃は机に置いていた腕の上に頭を預けて深い眠りへと入っていった。
僕はここへ来る途中、美しい庭先でひっそりと咲いていたアネモネの花を見つけると、詫びを言ってから花びらを一枚分けて貰った。
花言葉は、儚い恋。
そして、赤いアネモネのそれは、
———君を愛す
夢を見る者と夢に巣食う者との、交差しない愛。
自分が創り上げる偽物の世界でしか愛しい者に触れることが叶わない、夢魔の哀しい宿命。
まして、瑠璃が自ら命を絶ってしまっては、その夢も『無』へと消え去ってしまい、もう二度と、二度と触れられなくなる。
僕は瑠璃の痛々しい過去と、今にも千切れそうな夢魔の想いに、胸が締めつけられ苦しかった。
あの砕け散ったガラスを虹色の蝶にして空高くに放ったのは、瑠璃の心を一瞬でも奪いたいという欲望の表れなのだろうか。
『このまま、夫の画を描くことを、忘れていってくれればと、願っている』
僕はテーブルの上にぽつんと落ちている、このアネモネの美しい花びらが、一陣の風にでも運ばれてゆき、黒豹の元に届いたならと願った。
✳︎✳︎✳︎
机に顔を横たえて、長い時間眠っていた瑠璃の目に光るものがあり、僕はそれがこぼれて机の上へと落ちるさまをじっと見つめていた。
その透明な美しさは、水晶の欠片のようであり、また葉に溜まった朝露のようでもあった。
小ぶりで形の良い鼻を伝って、何度も落ちては机を濡らしていく。
僕が机に落ちた水滴に手を伸ばそうとした時、突然瑠璃の目が開かれた。
それはまるで、一輪の花が咲き誇る季節を間違えて開花してしまったというような、驚きの中での目覚めだった。
「わ、わたし……」
丸く見開かれた瞳が僕をゆっくりと捉える。
ガタンッ。
瑠璃は椅子を鳴らして、そのまま勢いよく立ち上がった。
部屋の片隅に置いたイーゼルに乗せてあるカンバスに歩み寄り、そして。
かぶせてあった白い布を掴んで、勢いよく、ばっと取り去った。
そこには、僕が想像していた顔に近くもあり、遠くもある一人の男の顔が、実に丁寧に描かれていた。
そして胸が痛む。これほどの愛情に。
夫へのできる限りの想いを、織り込んでいくように、丁寧に、丁寧に、そして大切にと。
瑠璃は床に擦るほどの白い布を手にぶら下げたまま、カンバスをじっと見つめていた。
瑠璃の、その瞳。
最初は驚きの瞳であった。
しかしそれはすぐに、深い穴をさらに深く掘り下げるような、鋭く厳しい視線に変わっていった。
しばらくして、一つの大きなため息をつくと、瑠璃は僕の方に振り返り、頭を下げた。
「……矢島先生、すみません。私、いつのまにか眠ってしまったようで。申し訳ありませんでした」
そしてまた姿勢を戻すと、カンバスに白い布を掛け始めた。
斜め後ろから見る、ほっとしたというような、安堵の表情。
「いえ、構いませんよ。とても美味しいコーヒーをいただいていました。これは、キリマンジャロですか? それともブルーマウンテン、かな……」
瑠璃はふふと笑うと、コーヒーの味に本当は詳しくない僕に、失礼に当たらないようにと、軽い口調で言った。
「いえ、これはモカという豆です」
ああ、そうですか、と頭をかいて世間話に失敗し苦笑いをしている僕に、彼女は向き直って訊いた。
「私、先ほど夢を見ていました。矢島先生がなさったのですか?」
「何のことでしょう」
思ったより強い口調で僕が返したためか、瑠璃は言葉を改めた。
「あ、いえ、あの……し、死んだ主人が夢に出てきたのです。そんなことは、初めてでしたので、それで……」
「ご主人を亡くされていたのですか、……すみません、気が回らずに。ご事情を知りませんでしたので」
「そうでした、話しておりませんでしたね。半年前に、事故で亡くしました。主人は私の見る夢には一度も出てきてくれなかったものですから、お話ししなくてもいいと思いまして」
言葉の端々から、夢でもいいから夫に会いたいという気持ちが痛いほど伝わってくる言い回し。
夢魔も彼女に寄り添いながら、この痛みに耐えていたのだろうか。
「お悔やみ申し上げます。それで、ご主人とは話せましたか?」
少しの時間を置いて、瑠璃の目から、先ほどの名残りでもあろう涙が、零れて落ちていった。
「主人が……」
困ったように眉を下げる。そんな表情を浮かべてから、瑠璃はひと息をついた。
「……主人が、『僕の顔はこんな風だったか?』と、苦笑いをしていました」
「苦笑い……」
「矢島先生、あの蝶です。主人を囲むようにして、あの虹色の蝶が舞っていました。すごく綺麗でした。すごく綺麗で、私……」
言葉が呑み込まれる。
けれど、すぐにも瑠璃は僕を真っ直ぐに見据えた。力が宿った視線で。
「矢島先生、私亡くなった主人の顔を描いてみたのです。先ほどの画がそれです。先生もご存知でしょうが、夢に画を奪われてからは、まるで描けなくなり困惑しました。けれど、先生のお力をお借りして、昨日何とか描き上げて。そう、完成したのです」
僕が頷くのを見て、少しほっとしたような表情を見せる。
「出来上がった時には、主人が生き返ったように上手く描くことができた、と喜んでいました。でも、先ほど夢の中の主人に『僕の顔はこんな風だったか?』と問われ、もう一度画を見てみると……主人の顔が違っているように思えてきて、」
「人間の記憶には曖昧な部分が存在します。そういった曖昧な部分がないと、自分で自分を生かしにくくなるのでしょうね。けれど愛情というものは、曖昧のようにみえて、実際はそうではありません。あなたがご主人を想うのと同じくらいに、ご主人もあなたを想っているのでしょう……」
僕は、にこりと笑ってから続けた。
「夢とは、人の想いの結晶ですから」
「人の想いの結晶……」
瑠璃は流れゆくのをそのままにしていた涙を、服の肩口の部分でぐいっと拭った。
その行為に、横着してすみませんという照れたような笑いをすると、僕の前に手を差し出した。
「矢島先生、私、主人の顔をもっとちゃんと思い出すことにします。あの人、少し怒ったような顔もしていましたから。僕はもっとイケメンだぞって言いたくて、夢に出てきたのかも知れません」
ふふふっ、悪戯っ子のように笑う。
「それから、あの虹色の蝶も。私が見たあの幻想的な世界も、描いてみたいのです。出来上がったら、見に来てくださいますか?」
「もちろんです、楽しみに待っています」
僕は差し出された手を軽く握ると、机の上に乗せてあった帽子を被り、玄関へと向かって歩き出した。
この哀しき未亡人を、あの夢魔が救った。
亡き夫の顔を借り、瑠璃に自死を思い直させたのは、紛れもないあの黒豹だ。
そして美しい虹色の蝶を放ち、氷のように頑なであった彼女の心を解かして暖めた。
精一杯の愛情で。
そしてその愛情は、瑠璃と、そして瑠璃の亡き夫のそれらが、本来あるはずのない世界で交わり昇華する。
僕は玄関を出ると、すでに薄暗くなった道すがら、上着のポケットに入れてあったアネモネの花びらを取り出した。
そして、心に染み込んでくるような深く濃い赤色が、簡単に掻き消されてしまうような宵闇へと、風に乗せてそっと飛ばした。
✳︎✳︎✳︎
季節が夕陽を暖かく感じさせたあの頃とは真逆になり、少し肌寒く周りで軽い風邪が流行り出した頃、僕の元に一通の招待状が届いた。
事務所宛。それは飾りも何も無いシンプルなもので、ここからさほど遠くない画廊の住所と、差出人の名前のみが書かれていた。
僕は馴染みのベーカリーショップで、決まった曜日に予約を入れてある絶品バゲットを一本受け取ると、その足を画廊へと向けた。
透明なガラスと擦りガラスが複雑な模様を作り上げているレトロなドアの前に立つ。バゲットを持つ手を替えてからそっとドアを開けた。
中には誰も居ないようだ。
係りの者も直ぐに戻るつもりであろうか、マグカップからは湯気がくゆり、コーヒーのほのかな香りがする。
手近にあった何かのリモコンで押さえつけられた、読みかけの本。
何もかもがそのままにしてある風景だ。
僕はさらに、画廊の奥へと入っていった。
「素晴らしい作品ばかりですね」
感嘆の吐息。色彩を解き放ってそこにある、数々の絵画。物言わぬ彫刻たち。
漂うように、薄っすらと流れるショパンの『雨だれ』。
時が止まったこの部屋で、僕は一枚の画の前に辿り着く。
それは僕が瑠璃を通して見た、あの虹色の蝶の群れ。カンバスを埋め尽くさんとして、たくさんの愛しき蝶が舞い踊っている。
羽ばたきは七色。
それは混じり合わず、それでいて色と色とが側に寄り添っているような、そんな不思議な技法で描かれていた。
けれど所々に。
色と色とが混ざり滲んでいる部分を見つけると、瑠璃と瑠璃が知るはずもない夢魔の愛情が、盲目的に触れ合っているのだろうかと思われて、少し嬉しく、そして哀しく思った。
僕はその画からそっと離れた。
係りの者であろうか、扉の透明な部分のガラスの向こうに、袋を下げて小走りで向かってくる男が見えた。
僕はポケットから招待状を出し、留守の店に無遠慮に入ったことを詫びるつもりで、ドアに近づいていく。
そして、見つけた。
もう一枚の画。
扉の横に、ひっそりと掛けられている画を。
そこには瑠璃と僕とが共有したあの虹色の蝶。
その中に。
一頭の黒豹が、こちらをじっと見つめる姿があった。
憂いを含むエメラルドグリーンの瞳。
そしてそのビロードの背中に愛らしい手を伸ばし、黒豹と同じような面持ちで、こちらをじっと見つめる少女の姿も。
胸が熱くなった。
僕はその少女が、瑠璃自身であることを願いながら、ゆっくりと扉に手を掛けた。