ラナンキュラス番外編 「蕾」
「わああああぁぁぁ……」
止まぬ拍手と歓声。
ステージの真ん中には、深紅のドレスを着た女性が立つ。
右手にはマイク、左手をこれでもかというほどに広げて、観客の注目を集めている。
ステージ袖に立っていた僕は、それを見てはいなかった。
僕が実際見ていたのは、その後ろにひっそりと立っている、女の子。小学生の高学年に満たないくらいだろうか。まだその顔には幼さの名残りが見える。
「……すごい」
僕は呟いていた。ステージや観客の盛り上がりではない。
女の子が持つ、腕の中に抱えられたいっぱいの花束に。
花の名は、ラナンキュラス。
鮮やかなオレンジ色に埋もれてしまわぬようにという、その女の子の母親による配慮なのか、白レース柄のワンピースと黒の靴を可愛く着こなしている。
その時。
さっと波が引いたように、客席が静かになった。
その沈黙を不気味に思いながら、僕は視線を客席へとやる。みな一様に、先ほどまで笑顔だった、その余韻をまだ浮かべている。
(まるで仮面だな)
妬みや嫉妬の入り混じる、笑顔という仮面。
今日、このホールは、映画関係者、スポンサー、制作会社などの人種で埋め尽くされている。これがビジネスチャンスと捉える輩もいるだろう。
会場を飛び交っている無数の名刺。内ポケットの名刺入れは、きっとその枚数の多さでパンパンに膨れ上がっているはずだ。
(何回も同じ挨拶するのって、めんどくさくないのかな……)
この会場の何もかもが、偽善やら欺瞞やらにしか思えないのは、僕の心の問題。なのかもしれないが。
(ああ、早く家に帰りたいな……)
華やかで幸せに満ちているように見えるこのホール。けれど、この受賞を心から喜び、祝う人など家族以外、誰一人としていないのだ。
例えば僕。
この映画界では、完全につまはじきにあっている。
僕に、心からの祝福を向けてくれる人は、ホールの片隅で拍手する、僕の母親と姉だけだ。
ラナンキュラスを大事そうに抱えている女の子が緊張した面持ちでいるのだって、僕に花束を渡すタイミングを間違えないようにと、それだけで頭の中をいっぱいにしているのだろうしな。
受賞作である、この自主制作した映画作品。僕は監督として、この作品への向き合い方を間違え、そしてそれを前面に出してしまうことで、スタッフからの反感を買う羽目となった。
そういう意味では失敗と言えるだろう作品だというのに。
(キャスティングが神がかってるだって? バカ言うなよ、予算的にど素人しか使えなかっただけだっての)
ネットに発表したのもいけなかった。
動画サイトにアップしただけでたちまち話題となり、そして間が悪いことに、日本で話題になるより前に海外でも評判となってしまった。海外の映画祭で特別枠とはいえ、賞をもらってしまったのだ。
妬みや嫉妬とは恐ろしい。
行く先々で素人監督が実力ではなく運やネットの力で賞を取ったなどとと、嫌味を言われ続けて頭にきて、作品をちゃんと観てからこき下ろしてくれと言い放ったこともあった。
(それにこんなの、たんなる自主制作映画だしな)
ただ。
そんな気持ちとは裏腹に、当初は僕が創り上げた作品なんだぞという自負やプライドがあった。
だが、虚栄だった。
この作品が、膨大な僕のわがままで、できあがってしまっているのだとは、露も知らずにいて。
僕は薄っすらと笑った。
『監督賞』。
受賞した賞のこの冠で、仲間だと思っていたスタッフの不満が爆発した、というわけだ。
わがままな僕にようようついてきてくれていたスタッフも、これで完全に失った。
ワンマンだったのだ。それに気づかなかった。制作途中、何度もスタッフの交代はあった時点で、不満が充満していることに気づくべきだった。
「もうついていけねえ」
辞めていく者の不満、だんとつ一位の言葉。
つぎはぎだらけの現場。それでもなんとか完成まで持ちこたえたというのに。
今回の『監督賞』で、全てがBAN‼︎
この会場に、スタッフたちの姿はない。空っぽの授賞式。
そして。
空っぽの、『監督賞』。
(だからって今さら反省ですってのもな……もう遅いんだよ)
もう一度、遠い目でステージを見る。深紅のドレスの女性が封筒を開ける。その中にあるのは、僕の名前。
頭でわかってはいても、心がついていかない。空虚で意味のない、僕の名前が、もうすぐ誇り高く、呼ばれるというのに。
(早く帰りたい)
あ、でもあのラナンキュラスだけは貰って帰ろう。
盾やトロフィーは、この場に捨てていったとしても、あの花束だけはもらっていこう。
不思議にも、そう思ったのだ。それだけ、このラナンキュラスに、恋のような熱を持って、惹かれていた。
「ユウバリ国際映画祭、短編映画部門、監督賞は……『終わりに告ぐ』藤堂雅史さん‼ 藤堂監督、こちらへどうぞっ‼︎」
高らかに声を放つ。望まないのに、それはまるでファンファーレ。
僕は無表情を貼りつけたまま、暗い舞台の袖幕から眩しいくらいのステージへと歩いていった。オレンジの、ラナンキュラスを目指しながら。
✳︎✳︎✳︎
「……あ、あのぉ、」
隣に誰かが座ったことに気がついてはいた。
のっぽなバス停の案内板。その横に、そっと置いてあるベンチ。膝の上には、ついさきほど渡された、オレンジ色のラナンキュラスの花束。そのラッピングがガサと音を立てる。
僕は、表彰式会場を泣きながら抜け出した。
(大の男が、泣きながらだぞ。笑えるな)
通り過ぎていく人たちが、ギョッとした目で見るのにも慣れてきた頃、このバス停が見えてきて。ポツンと置いてあるこのベンチに価値を見出した。足も痛かったし、鼻水もかみたかったので、僕はそこに座ったのだ。
このベンチで、ずいぶん泣いた。目の周りの皮膚につっぱったような違和感がある。鼻をかみすぎたのか、鼻の中と鼻の下が乾燥してヒリヒリと痛い。
そりゃあここはバス停だから、他の乗客もいるだろう。けれど、周りには誰もおらず、ここならもっと泣いてもいいのか、なんて思っていると。
「だ、大丈夫ですか?」
声のする方。ゆっくりと、僕の隣へと視線を移した。
中学生くらいの、まだ幼い面影を残す、女の子。制服に白いハイソックスで中学生くらいだと判断したわけだけど、その女の子は驚くことにもう一度、僕に大丈夫ですかと問うてきた。
僕は最初、無視しようと思った。顔を真っ直ぐに戻し、車道を見る。車が右へ左へと、走っていく中、そうしようと決めていた沈黙が、次第に苦痛になってきた。無視できるほど、人間ができていない。
心の中では、中学生に気を使われるとはな、と失笑の嵐が巻き起こっている。
そうだ。やっぱり、無視はいけないな。
「……ああ大丈夫です」
大丈夫と口にした途端、少しだけ重たさから解放される。
授賞式では結局、僕はランキュラスだけを女の子から受け取ると、その他の名声やらなんやらをそこに全て置いて、会場を後にした。
「と、藤堂監督、ちょっと待ってください、監督っ」
どうしていいのかわからずにおろおろしている赤いドレスの司会者が、何度も僕の名前を叫んでいた。その声が、まだこの頭の後ろ側に貼り付いているような気がする。
「あーあ、やっちゃったな……」
言葉が先に出て、涙が後から追いついた。
握っていた最後だったはずのティッシュが、いつの間にやら何処かへと飛んでいってしまったようだった。空になった手で、涙を拭う。
「……あ、あの……これ良かったらどう、ぞ」
女の子がなにやら差し出してくる。可愛いクマのキャラクターが描かれているハンカチ。
これはありがたくない、受け取ってはみるものの、使えないだろうこれは。
ぼんやりとした目でそのハンカチを見ていると、女の子はカバンを脇に抱えたまま、僕の横にちょこんと座り続けている。
「…………」
無言が続く。
僕が隣に座った彼女を気にせず、思考を巡らせていった。
(どうせ嫌われるんだったら、やっぱりトロフィー貰っときゃ良かった……)
映画。
結局、それが頭を占め始めた。
(いやいや、トロフィーなんて貰えるか。そうか、受賞辞退でも良かったのかもしれないな……)
そんな風にぐるぐると考えていると、鼻の奥がツンとする。まだ涙が出るのか。
(けれど、僕が監督なんだからな。言いたいこと言って何が悪いっていうんだ)
「はああ」
思ったより大きな溜め息が出て、涙が乾燥した頬を伝った。ポタリポタリとラナンキュラスの上に落ちていく。
「……もうやだな」
呟く。
すると隣の少女の存在を思い出した。少女が立ち上がり、静かに去っていったからだ。
あー、大人っていうか人間失格だな。中学生に、気を使わせるだなんてな。それに、どう見ても不審者だろ。不審者で通報だろ。
「もーいやだ」
大人とは思えないセリフ。ぽろっと口から零れて落ちた。
受け取ったハンカチを握りしめる。
「最低な人間だな、僕……」
映画が好きだった。観るのも好きだが、僕にもこれくらいなら作れるかも、そう思ってからは、制作に夢中になった。よく妹や弟に、考えたストーリー通りに演技させ、ビデオに録って親や親戚に見せたりしていた。
小学校の高学年の時、夏休みの工作でクレイアニメの動画を作ってからは、背景に音楽を流したり、編集したりが面白くなり、時には自分も出演して凝った動画を撮っては、友人たちに披露した。
そうして試行錯誤で作った映画。それが、過大な評価を受けてしまった。
−−−−−−受賞の連絡を貰った時は、あんなにも嬉しかったのに。自分の才能を認められた気がして、天にも登る気持ちだったのに。
『監督賞』。
他のスタッフたちとの溝が決定的になった。
「おまえがひとりで作ったようなもんだろ。おまえが貰いに行けば?」
そういうわけじゃない、そんなつもりじゃないと話し合いの席を設けては何度も釈明した。その結果繰り返されたのは、「その時言ってくれたら良かったのに」と、「俺ら何度も言ったよな」との応酬。
けれど、僕の態度が心底許せなかったのは事実なのだろう。大半のスタッフが去っていったのだから、まあそういうことなのだろう。
後の祭り。全ては遅すぎたのだ。どうしてみなが、監督である自分の言う通りにしないのか、常に不満に思いながらカメラを回していたのだから、自分にも心当たりがある。
「……僕が悪いんだ、僕が全部……」
手元から、借りたハンカチがポロッと落ちた。それで我に返り、やれやれと思いながら、クマ柄のハンカチを拾おうとした手に。
「はい、これどうぞ」
ほわっと温かみ。
缶をつかまされて、姿勢を直した。
ホットコーヒーかと思いきや。
お汁粉の飲料缶。
ナンダコレ。
僕が、呆気にとられていると。
「私、拾いますから」
僕の目の前にすっと座り込み、ハンカチを拾い上げ、僕の空いている方の手に、そっと押し付けた。そして、こちらを見る。その探りを入れるような目。
心配そうにしているのか、不審に見ているのかは、重そうな前髪の隙間から、ちらとしか見えない瞳からは知ることはできない。
けれど、僕は右手の中に押し込められた温かみに、救われる思いがした。
「あったかい」
「飲めばもっとあったかくなりますよ」
「これ、」
女の子が慌てて立ち上がった。緊張感が伝わってくる。
「あ、大丈夫です‼︎ 毒とか入ってないですから‼︎ あそこの自販機で買ってきたんです。ほらあそこ、角の唐揚げやさんの店の、」
「……毒入りだなんて思ってないよ。こんなおっさん殺してどうすんの」
盗られて困るものは、このラナンキュラスだけ。
「僕、これしか持ってないし……」
僕がそう言うと、怪訝そうだった目つきが、一瞬にして消え去って。
彼女は、控えめに笑った。
「あは、」
少し重たそうな前髪で、眉や瞳は隠されている。けれど、その薄紅色の唇が遠慮がちに笑っている。
その時、ふわっと香りが上がってきて、鼻孔をついた。ラナンキュラスの甘さ。
僕は、それでようやく、自分を取り戻したのだ。
「お汁粉、ありがとう」
礼を言うと、女の子はベンチに座った。僕と人ひとり分の距離を保って。
「あ、あの……ジャニーズの前田くんに似ていますね」
「はえ?」
僕はその距離に気を取られていたから、変な反応になってしまった。
「ごめん、ジャニーズは詳しくなくて」
「ドリームスっていうグループなんですけど」
「ああ、あのグループの。……いやいや似てないよ」
「似てますよ」
あ、そう。
心ここにあらずの雰囲気で、缶のプルタブを開ける。カシュと軽い音。口にひとくち含むと、小豆の甘さがじわっと沁み込んでいくように広がった。
「うん、美味し」
「良かった」
「あったまる」
「良かった」
「ジャニーズの前田くん?」
「はい、前田くん」
「好きなの?」
「まあ」
「……似てる?」
「似てます」
そんな会話を交わしながら、お汁粉を半分くらい飲んだ頃には。
僕は女子中学生相手に、もちろん大人気ないことにではあるが、彼女のことが気になって仕方がなくなっていた。
「ありがとう、甘くて美味しい。ねえ君、僕の恋人になってくれませんか」
言ってから、おっと、と自分で自分に驚いてしまった。
信じられない。こんなことを言うなんて。怪しい男だと思われたに違いない。
けれど、女の子は。
小さく小さく、言った。
耳に届く、はい、との言葉。慌ててその横顔を見ると、少女は器用にも、口元だけを緩ませていた。
✳︎✳︎✳︎
二台目のバスを見送ってから、僕は飲み干して空になった缶を足元に置いた。
横並びに座る、僕と少女。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまです」
ここへきてようやく、中学生に奢ってもらうなど、大人として失格だろうと正常な思考を取り戻すことができ、僕はポケットからサイフを出した。
「いくらでしたか?」
すると、少女は首を振って、ううん、良いんですと両手を上げた。
「私が勝手にしたので」
その言葉。受け答えが大人が使うようなもので、まだ若いのに、とちょっと感動。全身に広がるお汁粉の甘み。とろりととろけて、細胞という細胞の全ての、糧となっていく。
「キミ、中学生?」
「はい、中三です」
ちらと見ると、少女は恥ずかしそうに地面を見つめている。地面を見つめる横顔が、その角度から動くことはそうそうなかった。
「なんかごめんね」
「いえ……」
「今からどこいくの?」
これはもう不審者決定だが、女の子がその言葉でベンチを立って逃げ出さないということは、まだ大丈夫なのか、ギリセーフか。一台目のバス見送ったしな。
「ピアノです」
「そうなんだ。でもなんでバスに乗らないの?」
「あ、えっと、」
途端にどもり始める。
(ああ、やっぱり僕のせいか)
「ごめん、僕が引き止めてるね」
「い、いえ違います」
「僕はもう大丈夫ですから、次のバスには乗ってくださいね」
「あ、はい、いえ、あ……はい」
その曖昧な答え方。中学生って、まだおぼこい。
「あの、……その花束きれいですね」
行ったばかりの次のバスは、すぐには来る気配はない。僕はほっと胸を撫で下ろし、膝の上に置きっ放しになっていた花束を手に取った。
「これねえ、ラナンキュラスって言うんだ」
「ラナンキュラス」
「うん、綺麗だろ? 僕が一番、心惹かれる花だ」
「心惹かれる?」
「ん? なんかおかしかった?」
ふと横を向くと、慌てて顔を真正面に戻す。そして、いえ、おかしくないです、と恥ずかしそうに俯く。
「綺麗な表現だなって思って。普通、好きとか使うから」
僕は、なんとなく納得した。
映画を作る上で映画監督というのは構成力はもちろん、登場人物の会話力というものも試される。基本、脚本は脚本家が書くのだが、その場にしっくりくるような台詞回しが、必要だったりするのだ。その都度、そのシーンの雰囲気も相まって書き加えることが多い。
「まあ仕事柄、文章を書くのは得意な方なのかもしれないな」
「私は国語、苦手で。いつも赤点です」
恥ずかしそうに、唇に力を入れて結ぶ。
僕が言葉を続けようとすると、ガガガッと騒々しいエンジン音が聞こえた。僕ははっとして大通りへと顔を向けた。遠くから、バスがやってくるのが見える。
「君、乗らなきゃ」
僕は心とは裏腹に、跳ねるように叫んだ。
その言葉に、少女がカバンを抱え直しながら、慌てて立ち上がる。
バスがスピードを緩めながら、目の前のバス停留所の停車位置に停まろうとしている。僕は慌ててお礼を言った。
「あ、ありがとう。このお汁粉も、あとハンカチも。これ使ってないからっ」
バスが、フシュッと音をさせて、人を飲み込んでしまうくらいに大きくドアを開けた。
僕がハンカチをぐいっと前に出すと、少女は慌ててそのハンカチを受け取った。その表情は驚きと困惑。
困惑?
カバンを胸に抱きしめている。
「早く乗らないと」
僕が急かすように言うと、彼女は静かに。
すとんとベンチに座った。
動かない僕と、立ちはしたがすぐに座ってしまった少女の姿を見て、バスはドアを閉めてしまった。
「あっ」
僕は慌てて立ち上がったが、もう遅い。バスはそのまままたブロロロロとエンジン音を響かせて、去っていった。
「ねえ、君はもう乗らないといけないよ」
すると、抱えていたカバンをさっとベンチに置くと、彼女は恥ずかしそうに少し笑って、呟くように言った。
バス賃がないので、と。
そこで愚かな僕はようやく気がついた。貴重なバス賃は、僕のお汁粉に消えてしまったのだということに。
慌てて上着の内ポケットから財布を取ろうとした瞬間。
彼女の俯いた横顔が目に飛び込んできた。
ドキッと胸が鳴ったような気がした。
恥ずかしそうに目を伏せ、何もない地面をじっと見つめてる。
陶器のような頬が、寒さでほんのりと色づいていて。
この寒空の下、お汁粉が必要だったのは、君の方だったのかもしれないのに。
貴重なお金で、僕を温めてくれた。
じわりと、嬉しさがこみ上げてきて。こみ上げてきた嬉しさは、春の花のように明るい色へと色づいていき、それは愛しさへと変化してくいく。
僕は、そろっと静かにポケットから財布を引き出した。中から百円玉を二つ、つまみ上げて握ると、彼女の目の前に差し出す。
「君はもう次のバスに乗らないと……」
さっきと同じ台詞なのに、胸には。心臓を両手で掴まれて、思い切り押し潰されるような、鈍い痛み。
まだ一緒にいたい。もっと色々、話したい。
離れがたい。離れがたいのだ。
世間的に中学生はまずいだろうけど、そんな邪な考えはない、ただほのかな恋心のようなものだろうと思う。
(もう映画とか、賞とか……どうでも良くなってくるな。あーあ、なんかどうでもいいな)
清々しい気持ち。夜露がおりたある朝の、きんと冷えた空気のような。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ時のような。
「君、」
僕が彼女の名前を尋ねようとしたその時。
歩道のずっと奥の方で、女性の金切り声が聞こえた。
「あ、ママっ」
彼女が立ち上がると同時に、横にあったカバンがどさっと落ちた。
「こんなところで、なにやってんのっ‼︎」
年配の女性がすごい剣幕と勢いで、距離を詰めてくる。
僕は慌てて、「君、名前はっ?」
彼女も慌てて、「舞です、舞っていいます」
そして、僕は抱えていたラナンキュラスの花束を、彼女の胸元に押し付けて渡すと、すぐにカバンを拾った。
「君によく似合うよ。ありがとう、舞ちゃん」
「あ、あの」
「またここで会えるかな」
「舞っっ‼︎」
母親の怒声が上がる。
その声に反応して、彼女は母親の方へと振り返った。その後頭部に向かって、「お汁粉、ありがとう」と告げた。
彼女がもう一度、こちらへと振り向いてくれる。
けれど。
なにかを言いたげにしていた彼女は、カバンを受け取ると、頭を下げて走っていった。母親をここまで導いてしまえば、僕の立場が不利だと思ったのだろうか。小走りで、走り出す。そして、母親に立ちはだかるようにしてから少し立ち話をすると、二人は並んで帰っていった。どうやって言いくるめたのか、僕を守るようにして。
彼女は一度も振り向かずに、去った。
僕は、ぽつんとひとり、残された。
バス停のベンチで感じる、この空虚感はなんだろうか。
今さっき生まれたばかりの僕の小さな小さな恋。それまでは唯一無二の存在だったラナンキュラスは、その恋と引き換えに、彼女へと差し出した。
けれど、きっとまた会える。
明日も明後日も明明後日も。
きっと僕はここに来て、彼女を待ちわびるのだろう。
大丈夫。時間はある。
もう二度と、映画なんて作らないし、映画監督なんかもこっちから辞めてやるから、時間はたっぷりとあるだろう。
そしてもう一度。
ラナンキュラスを君に捧げよう。