手繰り寄せて
「まいまい、舞ちゃん」
神谷君の声で、我に返る。
整然と並べられた大皿に、品良く盛られた宮さんの料理を前にして、私は箸を握り締めていた。
声のした方に顔を上げる。
神谷君が心配そうに見つめてくる。
「どうしたの、食べない? 気分でも悪い?」
そうだ、無事に撮影が終わった後の打ち上げである食事会に突入していたんだった。
豪華な料理は用意できねえけど、と宮さんが言ってたっけ。
「ううん、ぼうっとしてただけ。ごめん、食べる」
そう言うと、目の前の小皿を取る。
「そう、何が食べたい? 俺、取ってあげるよ。野菜が良い、それとも肉?」
「あ、うん、お肉かな」
「貸して、ほらこぼすなよ」
その時、がたんっと大きな音がして、誰かが立ち上がった。
見上げると、そこには二三人挟んで隣に座っていた藤堂さん。
皆んなが彼を一斉に見る。
その前に陣取っていたオーナーも、彼を見上げていた。
「……舞ちゃん、ちょっと良い?」
藤堂さんがつかつかと寄って来て、机に乗せて箸を握っていた私の右手の肘をぐいっと掴むと、その勢いのまま立ち上がらせる。
顔は……私を見てなかった。
「ちょ、何すんですか」
神谷君が私の腕を掴んでいる藤堂さんの手に手をかけようとする。
それをふいっと避けると、
「すみませんが、この子ちょっとお借りします」
そう言って、私をぐいっと引っ張った。
皆んなが呆気に取られている。
そんな中、ぐるりと喫茶スペースを回り込んで、和室の縁側を通って、庭へと連れていかれた。
引っ張られる腕が、痛いような痛くないような。
私の足には余りある、誰かのクロックスが、ジャリジャリと引きずられる音をさせる。
そして、森が。
ざわり、と大きく揺らいだのを感じた。
「あんまり、仲良くしないでください」
藤堂さんは私を見ずに、冷たさをはらむ声で言った。
「あの人が好きなんですか、舞ちゃん、それとも他に好きな人がいるんですか。特別な人がいるんですか、あの人は特別なんですか」
責められるように矢継ぎ早に質問され、それに答える間もなく、また質問を繰り返す。
そして、最後にぽつりと言った。
「……僕のこと、憶えていませんか?」
冷たさを含んでいたのにいつの間にか、その冷たさは哀しみに変わっていた。
今にも震え出しそうな、そんな弱々しい声で。
私は掴まれた腕をだらんと垂らしたまま、空を見上げた。
昼間の晴れた空とはうって変わって、この吸い込まれそうな漆黒の星空。
辛うじて月の明かりが、ぼうっと二人を照らしている。
声の相手に向き直る。
月明かりだけでは、表情は見えなかった。
けれど、声と掴まれている指の感覚で分かる。
あなたは今、とても辛そうな顔をしている。
私は腕を離そうと、そっと彼の手に指を絡ませた。
その手がびくりと動く。
「ごめん、痛かった、ね。乱暴だった、こんな風にするつもりじゃなかった。花束を渡して話をしたかっただけなんだ。お互い笑って話ができればそれでいいって……思ってたのに。考えもしなかった、恋人がいるなんて。だから、君があの人とずっと一緒に、仲良さそうに……話しているのを見ると……悪かったよ、僕は君の恋人でも、」
一瞬の、無音。
「恋人でも何でも、ないのに」
そして、申し訳なさそうに言った。
「ごめん」
「ううん、いいんです。私が、悪いから。忘れていた、私が悪いんです」
彼がはっとして顔を上げたのが分かる。
真っ暗なほとんど暗闇である中での、仕草や息遣い。
感覚が研ぎ澄まされて鋭敏になる。
身体のどこもかしこも、敏感になっている。
こんな感覚の中では、一つでも間違えると、その傷で容易に深手を負ってしまうから。
暗闇の中での宝探しのように、私は手を伸ばして慎重に探っていく。
「思い出し、た?」
「うん、思い出した」
言った私が小さく震える。
「……良かった」
ほっ、と安堵の吐息は彼。
「……良かった。あの時、僕は君に助けられたんだ。だからずっと、君を探していたし、君を大切に想ってきた。……探していたんだよ」
バス停のベンチで座る二人。
少し距離をあけて。
あれは、私が中学生の時。
バスで通っていた、ピアノ教室。
時間待ちの時、あなたに逢った。
あなたは疲れ果てて、ぼろぼろだったね。
そして、私の横で静かに泣き始めた。
「ありがとう、探してくれていたんですね」
涙を拭いもせず、ただただ涙を流し続けるあなたに、そっとハンカチを差し出した。
あなたは涙で溢れる瞳を私に向けて、口元だけで笑ったね。
「有名になれば、君が見つけてくれるかもしれないって。けれど、失敗だった。君は映画を見ない人、だったんだね」
バスが何台も止まってはドアを閉め、そして通り過ぎていく。
あなたはその時、手に抱えきれないほどの、オレンジ色のラナンキュラスを抱えていたね。
空は碧く晴れていたのに、橙色の花びらの上にポタポタと落ちた涙の粒が、まるで雨粒のようだった。
「オーナーに聞いたんですね。ごめんなさい、私、じっと座ってるの苦手で。映画館とか、暗い場所も苦手で」
あなたは、私が差し出したハンカチを使わなかった。
ずっと握り締めていた。
「でも君はあの時、ずっと僕の隣に座っていてくれた。途中、スイッと立ち上がるから、もう去ってしまうんだって思ってたら。君は戻ってきて、どうぞって缶のお汁粉を」
「マイブームだったから」
「ふふ、何でお汁粉、って思って」
彼は受け取って、泣き続けながら飲んでくれた。
そして言った。
『ありがとう、甘くて美味しい。ねえ君、僕の恋人になってくれませんか』
そして私が言った。
いいですよ、と。
幼い恋の記憶。
泣き通しだったあなたの横顔ばかりを見ていて、自分では気がつかないうちに、私は恋をしていたのだ。
私は、その時中学生。
本当に本当に、幼くて。
連絡先も知らない人に、どうやったらもう一度会えるのだろうと、必死になって考えた。
けれど、結局良い考えは思い浮かばず、自分の幼さに愕然とするしかなくて。
どうしようもなく、初恋は心の奥深くに封印して、そのまま諦めてしまった。
「もう一度、もし逢えたら、また言おうって心に決めてて。舞ちゃん、僕の恋人になってください。君が好きなんです。あの時からもうずっと」
封印されていた、あの頃の幼い恋。
今日のラナンキュラスが、その扉の鍵となってくれた。
薄暗がりで、私には見えなかったけれど、彼が笑ったような気がして。
私も同じように笑って。
そして言った。
うん、いいですよ、って。
✳︎✳︎✳︎
「……ほんと、すごい偶然って、あるんですねえ」
丸眼鏡をくいっと上げて、「眠り屋」矢島さんは、感心したようにほうっと息を吐く。
実は、今回の映画撮影には矢島さんが深く関わっていたのだ。
もともと矢島さんとオーナーは旧知の仲だった。
そのオーナーが藤堂さんとは同級生で、高校時代の友人だったらしい。
「知り合いってこと、早く言ってくれよ。知ってたら気軽にサインとか貰えたじゃない」
そう宮さんに責められたオーナーはのらりくらりと返事をかわす。
「だって、誰も訊かなかったじゃん」
オーナーはくわえていた煙草をいつものように箱にしまうと、胸ポケットに押し込んだ。
「禁煙、続いてますねえ」
矢島さんがニヤニヤと笑う。
相変わらずマイペースなこの人。
そんな矢島さんのもとへ、スルスルと人をよけながらミケが擦り寄っていき、にゃあと甘えた声を出す。
「いやあ、火着けたらそこで試合終了だからなあ。ただの禁煙とはいえ、どんな勝負も負けたくないんで」
珍しくオーナーの強気な発言。
「でもなあ、今回は負けを認めざるを得ないかなあ。くっそ矢島あ、おまえは余計なことしやがって」
「これは運命ですからね。誰しも、運命に逆らうことはできないものですよ」
何の話だろうと、紅茶の入ったマグを両手でぐるりと持つ。
ふわっと香るロイヤルミルクティーの優しさ。
そこへ、藤堂さんが会話に入ってきて、ますます話が見えなくなった。
「僕が、矢島さんに夢を見る依頼をしなければ、こんなことにはならなかっただろうけど。でも斎藤には悪いが、舞ちゃんは絶対に譲らないからな」
オーナーは、斎藤っていう名前だったんだ。
「それって、どういう……」
すると、矢島さんがミケを抱き上げて、愛おしそうに撫でながら言う。
「夢の依頼ってことで、斎藤君に藤堂さんを紹介されたのが始まりでしたね。僕はですね、まあ信じられないかもしれませんが、他人の夢の中に入ることができるんです。それで夢に関する仕事をしているんですけど、藤堂さんがご自分が見る夢の内容を映画にしたいとおっしゃって」
矢島さんが、ひざの上でミケをひっくり返して、おなかを撫でる。
「僕が、彼の夢の中に入ってですね。その内容を記録するということになったんです。まあ、言ってみれば、夢の文字起こしって感じですかねえ」
「そうなんだよ。夢ってさ、朝起きるとぼんやり覚えてはいるんだけど、時間が経つと忘れちゃうだろ。だから、起きたらすぐにメモを取っていたんだけど、矢島さんにはそのメモに、僕が忘れていたこととかを、付け加えて貰ったりしてたんだ」
「じゃあ、今回の映画って」
「そう、僕の夢の話でもある」
そんなことが、可能なんだろうか。
不思議に思っていると矢島さんが言った。
「そしたら、舞ちゃん、あなたが出てきたんです。髪型は違うし、今よりもっと幼いような感じだったけど、絶対に舞ちゃんだって思って。よくよく訊いてみると、藤堂君の初恋の相手だっていうじゃないですか。それで、今でも探してるっていうから。名前も一緒だし、喫茶ちぐらにいるよって話したら、すぐに斎藤君に電話して、ね」
「おうおう、すっ飛んで来やがったのな。今日は定休日だって言う前に電話切りやがって。ま、おまえ、うちの店来たことねぇし、映画に使って貰えたら良い宣伝にもなるしって、下衆な下心もあったしなー。まあ、まいまいのツンデレを奪われたのは、聞いてねえしって感じで、まじ想定外だったけど」
「ツンデレは禁止用語ですよ」
「お、いけね。でも藤堂、お前まいまいのツンは俺たちが大切に育ててきたんだからな。まいまい泣かせたりしたら、出禁にすんぞ」
「分かってるよ、やっと見つけたんだ。大切にする」
そして、オーナーはポケットから煙草の箱を出すと一本くわえて、今度はライターで火をつけた。
「そう言えば、オーナーはどうして煙草に火……」
「だって可愛い女の子の前でなあ。パカパカ吸うの、できないっしょ」
そして、オーナーはすーっと深く煙草を吸い込むと、それから一気に吐き出して、美味いと言わんばかりに目を細めた。
✳︎✳︎✳︎
「……あの頃の僕は、本当にぼろぼろだったんだよ」
藤堂さんは苦笑し、うつむいたまま、話し続けた。
「低予算で製作した自主映画が、海外の名のある賞を取ってしまってから、僕は映画界からつまはじきにあってさ。スタッフも離れていって、誰も僕を必要としてくれなかった。どこへ行っても嫌味を言われたしね。邪魔者扱いされて、散々だったよ」
惨めだったんだ、と歪めた顔で言う。
「好きでこの世界に入ったのに、映画のことを考えるのも嫌になっちゃって。どん底だった。あの時、僕は生きてる気がさえしなかった。それを舞ちゃんに助けて貰ったんだ」
藤堂さんと二人、縁側に座り、しんと沁みるような夜空を見上げていた。
「私、助けるだなんて。一緒に座ってただけですよ」
「ううん、色々な話をしてくれたね。気が紛れたんだよ、すごく」
「そう言えば、ラナンキュラスの話もしましたね。藤堂さん、大好きな花だって」
「うん、したね、好きだって言った気がする。そう言えば舞ちゃん、お汁粉を渡してくれる時。そん時に言ってくれた言葉って、覚えてる?」
私は、記憶をひっくり返してみたけど、お汁粉を握り締めて自販機からダッシュしたことしか思い出せなかった。
あの時、早くこの人を暖めてあげなきゃって、必死だったから。
「君、こう言ったんだ。ジャニーズの前田君に似ていますねって」
私は驚いて、声も出せなかった。私がオーナーに言われて救われた言葉と同じような。
「僕はそんな風に言われたことがなかったから、似てないよって言ったけど、君は似てるって。それにジャニーズってだけで、何だか気持ちも少し嬉しくなって浮かれてしまって。そんなイケメンに似てるだなんてね。それから、もしかして前田君が君の好みの人なのかなとか、ファンなのかなとかって考えたら、もっと嬉しくなっちゃって」
藤堂さんは、宮さんが淹れた紅茶を美味しそうに啜った。
「そんな単純なことで嬉しくなってしまってね。今まで抱えてきた問題なんて、実は些細なことなのかもなって。そう思えてきて、気持ちが軽くなったんだ。うん、君がそう思わせてくれたんだ」
「あの、ラナンキュラスは?」
藤堂さんがうつむいて、恥ずかしそうにしながら頭を掻く。
「映画がねえ、国内でも賞を取っちゃって。その授賞式の時に貰ったやつなんだ。授賞式でもさ、裏で散々イヤミを言われて、我慢できずに会場を飛び出して。ふらふらしてたから、あのバス停のベンチね。舞ちゃんが帰ってしまって、我に返ってみたら、ここどこだよってなって、困った」
はにかんだように笑う顔。覚えてる、その表情に心臓をぐっと掴まれたんだ。
「そうだったんだ、きっとこの人、彼女にでも振られたんだろうなって思ってた。でも、ぴったりだったんですね、ラナンキュラスの花言葉は名声とか名誉、だから」
恋をした中学生の私は、家に帰ってからすぐにラナンキュラスの花言葉を調べたから覚えてる。貰った花束を、まずは大切に花瓶にさして。
「ううん、もう一つあるんだよ。晴れやかな魅力っていうんだって。矢島さんの知り合いの花屋さんに教えて貰ったんだ。それこそ、君にぴったりだ」
「晴れやかな魅力? そんなの、」
私じゃないよって言いかけて、止めた。
止めることができたのだ。
ちぐらのオーナーに、神谷君や宮さんに、そして皆んなに出会わなければ、きっと否定に否定しまくって、傷つけていただろう。
自分自身を。この自分の手で。
「ありがとう、ございます」
「君に……逢いたかった。もう一度逢いたかったんだよ、心から」
あの時、私はピアノ教室に来ないという先生からの連絡を受けた母に見つかり、怒られながら引きずられるようにして家に帰るまで、この人の隣に座り続けていた。
そして別れ際、君の名前はと訊かれ、舞、と答えた。
君に似合うから、とラナンキュラスの花束をくれた人。
「あの、神谷って子。すごくかっこいいし、ジャニーズの前田君にちょっと似ている気がして、君と彼を見た時から気が気じゃなかった。それで、舞ちゃんの彼氏かもって思ったら、頭ん中パニックになっちゃって。仲が……仲がすごく良さそうだったから、余計に。ずいぶんと失礼な態度をとってしまった。彼にも謝らないと」
私がふふっと笑うと、藤堂さんも笑って手を伸ばす。
伸ばした先に、私がいる。
私は以前、オーナーと話した蜘蛛の糸のことを思い出していた。
今まで私は、この両目を必死で瞑ってきた。傷つかないようにと、なにひとつ現実を見ないようにと、両手で覆いながら。
そんな私に、糸など、見えるはずもない。
私はこの喫茶ちぐらに出逢い、ここでようやく両手を取って、目を開けることができたのだ。
そして、目の前には。するすると降りてきた糸。
手繰って手繰って、ようやく這い上がったゴールは、それは例えようのないほどの、美しい光景だった。
この世界のどこかでは、誰もが自分じゃない誰かに救われている。
けれど、誰しもその糸は、自分の腕一本で登っている。
一生懸命に。
あるだけの力を振り絞って。
それが自信となり、あるいは糧となり、そしてそれは巡り巡って、また違う誰かへの一助となる。
私は今、手繰り寄せているこの弱々しく千切れそうに細い糸を、けれど皆んなが一緒になって紡いでくれたこの糸から、決して手を離さないようにと、心に誓った。
そして、この喫茶ちぐらを改めて、心から愛おしいと思った。