花束を
「映画、撮るぞ~‼︎ おうっ‼︎」
またもや、突拍子もない行動。握りこぶしを天に突き上げている。そんなオーナーを前にして、皆んながキョトンとしつつも視線を合わせた。
「えっっとですねえ。今度はなんっすか? 今、映画って聞こえたんですけど」
呆れ口調の神谷君。
そして、続けて。
「は⁉︎ え、映画? ……は⁉︎」
世界遺産登録の顔。
「うーん、なーんかさあ、映画監督がね。このちぐらのこと、どうやら気に入っちゃったみたいでさ。この前の定休日に下見で来たんだけど、ロケ地っていうの、使わせてくれって。んでまあ、いいよ~ってなって」
「まじでか。しかし、オーナー、いいよ~じゃ、ねえっすよ。まったく、この人はあ……それで、どんな映画なんですか」
「ほら最近、地元が好きーみたいな映画あるじゃん。地元密着っての? そんな感じだってさ。金石町を舞台に繰り広げられるハートウォーミングなやつよ」
「へぇ~、そんなの作るんっすね。まあ、ちぐらが出るのは楽しみですけど、俺らには関係ねえなあ。あ、撮影の見学はできますよね?」
相変わらずののっぺり感で、オーナーは火のついていない煙草を口元でふりふりしている。
「んー、まあ、できんじゃねえ? 監督はあれだ、藤堂雅史っての」
「え」
珍しく宮さんが反応して、厨房から出てきた。
「宮さん、知ってるんですか? 俺、知らねえや。まいまいは知ってる?」
私は、首を振った。
映画はあまり見ない、特に邦画は苦手。
映画を二時間、じっとして見られる人って、素晴らしく尊敬するくらい。
「知ってるべよ。藤堂雅史って『終わりに告ぐ』作った人っしょ。あんま有名人は使わねえってので有名。素人さんをオーディションとかやって、探してくるんだと。それがまた絶妙な人を拾ってくるもんだから、キャスティングが神。って、映画新報に載ってた。何とかっつー、外国の賞も取ってるべよ」
宮さん詳しいんですね、と私が言うと、ちぐらの雑誌置き場から一冊雑誌を取り出して、ふりふりと振ってから寄越す。
「映画新報」と堅い文字で書かれ、演技派で名高い女優が斜めにポーズをつけた表紙。
「その号じゃねえけどな。ずいぶん昔のことだ」
さっそくページを開こうとした私をがくっとさせる。
私はそっと雑誌を本棚へと戻した。
この雑誌置き場には、色々のジャンルの雑誌が所狭しと並んでいる。
ちぐらの従業員が自分が読み終わった雑誌を十人十色に置いていくもんだから、古いが新しいが関係なく、お客のニーズに答えてるのかなんてもっと関係ないね、という体で、色々なジャンルの雑誌がずらりと並んでいるのだ。
本当にここは、何が何でもとにかく頑固に、自由人の集まりなのである。
メニューも宮さんが勝手に変更したり。
新しい料理を提案する時も、賄いで出して私たちの反応をこっそり覗き見てから、次の日にはもうメニューに手書きで付け足したりしている。
お客さんから注文されて初めて知る、新メニュー。
心臓に悪いんで止めて下さいと、私が何度言っても、ついぞ直らなかった。
ほら、カウンターの裏で、そうやって悪戯心丸出しでニヤニヤするの、止めてもらえませんかねえ。
「……いつから撮影なんですか?」
私は皆んなが聞きたがっているであろうことを、率先して問うた。
「ああ、撮影は定休日にしてもらったから、今度の水曜日だな。じゃ、9時集合で」
ここ、喫茶ちぐらが映画の舞台。見たことも聞いたこともない映画監督だけれど、それは凄いことだと思ったし、楽しみにも思った。
心の中にぽつりと湧く、今日のこの喜び。
なんとなくだが、こういう感情を大切にした方がいい。そうすることで、人間らしい私に近づける気がして。生きているという実感を、手に入れられるという気がして。
そんなことを、このちぐらに来てから考えるようになった。
✳︎✳︎✳︎
そして、その時はやって来た。
映画監督、藤堂雅史。
宮さんにその名前を聞いたからといって、私は映画新報の他の号を漁ったりしなかったし、ネットでその名を検索したりもしなかった。
だから、どんな面立ちをしているのか、どういう人柄なのか、先入観はまるで皆無だった。
雑誌にも載るような有名な人だから、どんなに偉ぶってる人なのかと想像していたのだが。
監督は、こげ茶の綿パンに軽い素材の襟つきのシャツを着て、やって来た。
足元は、裸足に草履。
少し歳上、いやもう少し上の三十歳くらいだと思う。けれど童顔。髪はウェーブがかかり、くるくるとしていたが、それなりにまとまってはいる。
全体的にゆるいが、可愛らしい人だ。
第一印象はそうだった。
そして、なぜか手には花束。
何だっけ、あの花は確か……?
私は神谷君の陰に隠れるようにして、その新進気鋭の若手監督を見つめていた。
目が合う。
そして。
息が止まりそうになった。
目の覚めるようなオレンジ色に染められた花束を、私の前に掲げるから。
どうしてなのか、どうしたらいいかも分からずに、私は神谷君の背中に隠れるようにして、顔をうずめた。
「君の、彼氏?」
小さな声が耳に届いた。
そっと肩越しに覗いてみる。
彼は、なぜかとても悲しそうな顔をしていた。
今にも泣きそうな、泣き出しそうな子どものように。
「その人と付き合ってるの?」
私に訊いているのだろうか。
神谷君が後ろを気にするようにして、そっと声を掛ける。
「まいまい訊かれてるよ」
私が顔を振ると、神谷君が前を向いておずおずと言う。
「あの、俺。この子の彼氏とかじゃないですけど」
藤堂さんがすぐに、ほっと息をつく。
優しい、柔らかい声色になる。
「そっか、良かった。なら、そこから出てきてくれないかな。そんなにこの人にくっついたりしてると、僕はずっとヒヤヒヤしていなければならないから……」
私はなにがなんだか分からない、混乱した頭を抱えたまま、しばらくの間呆然としていた。
だって、映画監督? こんな人知らないのに。
けれど、彼はお構いなしに、私の腕を引っ張り、そして花束を抱き締めさせた。
「やっぱり似合う、舞ちゃん」
名前を呼ばれて。
花の名前を突然に。
思い出す。
ラナンキュラス。
この目の覚めるような、鮮やかなオレンジ。
温かみのある色に惹かれて仕方がないのです、と誰かが言った。
そうだ、君に似合うね、とも。
あれは誰だったのだろう?
私の記憶の底に、この花とともに眠る存在。
思い出せそうで、思い出せない。
私が自分には持て余してしまうほどのラナンキュラスの花束を、このままどうしたら良いのか考えあぐねていると、神谷君がそっと囁いた。
「貰っといたら?」
見上げると、神谷君がにこりと微笑む。
そしてその目線の続きで藤堂さんの方を見、そして言う。
「どうして、私のことを、」
知っているのですか、そう訊きたかった。
けれど、彼が余りに悲しそうな目で私を見つめ続けるので、私は続きの言葉を呑み込んでしまった。
「……ありがとう、ございます」
そう言って俯き、花束を再度、抱え直した。
✳︎✳︎✳︎
そして、映画の撮影は始まった。
オーディションで拾ってきたという、いかにも素人っぽい男女が私の目の前で演技を繰り広げる。
最初。
文化祭で発表したりする、高校生の寸劇でも観ているようだった。
私がそう感じる度に、というわけではないだろうけど、同じようなタイミングで二人の役者に、藤堂さんからの演技指導が入る。
演技について、何度も話し合ったりするものだから、その度に撮影は中断を余儀なくされ、ストップする。
けれど、その二人の演技。
藤堂さんの指導が入るたび、その演技に繊細さと大胆さが相容れない形で宿り始め、そして撮影が終わる頃には。
まるで、中堅の俳優のそれであるような力強さと輝きと自信で満ち溢れた。
白熱した演技だった。
今回の映画は、ネットで配信されるショートムービー。この白熱の演技に映像や音声、音楽やシナリオなどの調整や処理を施していったら、どんな仕上がりになるのだろう。
出来上がりが楽しみだね、そう小さな声で耳打ちする神谷君に目で、こくんと合図する。
私は花束を貰ってからは、カルガモのヒナのように神谷君の背中について回っていた。再度、藤堂さんに声をかけられようものなら、どうやって応えて良いか分からなかったから。
けれど、それから藤堂さんからは声をかけられることはなかった。
撮影に没頭している、そんな印象があった。
彼が行う演技指導は、それが始まると途端に熱を帯び、身振り手振りがとても大袈裟になる。
「出たな、藤堂メソッド」
長い間連れ添っているであろう、スタッフの一人が呟く。
「今日は神がかるのがいつもより遅かったよな。なんか気掛かりなことでもあったんかな」
「だなあ」
もう一人が答える。
私はそんなやりとりをぼんやりと遠くに聞きながら、撮影の間中、頭の中を占めていたラナンキュラスの花束について、なんとか思い出そうとしていた。
この人は私を知っている。
そう、そして 私もこの人に会ったことがある。
晴れた日。
バス停のベンチ。
私はラナンキュラスのオレンジ色に輝く花びらを一枚千切り、親指と人さし指で摘んで目の前にかかげてみた。
そして、その奥に見える遠い記憶に、目を凝らしていった。