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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
糸 −ラナンキュラス
26/63

仄暗い穴の底より


記憶の奥底で眠る、

あの花の名前はなんだったのかな?

あの時は、大切にしていたはずだったのに、

長い年月のうちに、忘れてしまった。

奥底へと沈んでしまったものには、

もうこの手は届かないのかな?


諦めの気持ちが湧いてきて、


それからはもう、手も伸ばさなくなってしまった。

それからはもう、眼もつぶってしまった。


自分の眼を自分の両手で覆って、なにもかもを見えなくすることに、精一杯だったから。





『糸』





喫茶ちぐらは、森の中にある。


カフェと言うより喫茶店。

と、声を大にして言いたいのは、古民家を改装してオシャレにと言えるほど、そこまで改装していない点。

オーナーが少し変わり者だったりする点。

メニューに「ハムエッグ」がある点など色々な理由がある。


けれど、その中で一番のこれだという理由。


それは私、佐藤舞さとうまいがその喫茶ちぐらのアルバイトの一人であり、しかもその私が、オシャレという領域とは、地球と太陽くらいに遠い距離において、生息しているという点でだ。


大学二年、法学部の私、であるのになんだかな。


同い年の女友達はみんな、可愛いフリルの綿菓子みたいなミニスカートをフワフワとさせていて、爪にはそれぞれ違うカラフルなネイルをさしている。


女の子はキャンバスだ。色とりどりの絵の具で描き、美しく飾ることができる。


けれど私ときたら。そんなオシャレや可愛いには、なんとも近寄れない存在なのだ。

だからこんな私には、そういった類の友達もいないし、キラキラな恋の一つもしたことがない。


時々。

私はどこか、壊れているのかな、とも思う。

なんとなくわかってはいても、どうすることもできず、ただ手をこまねいて見ているしかない。


✳︎✳︎✳︎


喫茶ちぐらの面接を受けた時はまだ、ちぐらが森の中へ移転する前のことだった。


元の店舗は大学からアパートへの帰り道、比較的近所にあって、入ったことはなかったが店内に入る入口のドアの横にあったアルバイト募集の貼り紙を見て、私はなけなしの勇気を奮い立たせ、震える指でスマホを押した。


これ以上、病気がちの母とそれを支える父に迷惑をかけるわけにはいかない。


そんな気持ちで臨んだ、面接。


私は茶色のシャツを首が締まるんじゃないかってくらい、ボタンをきちんと留めて、そして細くもなく太くもない、中途半端な幅の、黒の綿パンでちぐらへと向かった。


佐藤さんさあ、そういう服ってどこで買うの? 逆に興味あるわ。それにその重たい前髪、なんとかしよーよ。そっからだよ。そっから変えていこーよ。


ヘアアイロンで巻いたと思われる栗色の髪の同級生に、ゼミの最中に面と向かって言われたことがある。

もちろん言われるまでもなく、野暮ったいのは自分でも重々承知している。けれど、どうしたらいいのかは、自分でもわからない。


だからこの面接も、たぶんてか絶対。落ちる。


「佐藤……まいちゃんね。はいはい。えっとキミは、本当に大学生?」


ほら、やっぱり。いつものことだから、慣れているとはいえ、本当に大学生? の言葉で、もう決定打を打ちこまれた気持ちになって、地味にキツイ。


色付きのリップくらい引いてこれば良かったのかな。接客業なんだから、くすんだ顔ではダメってわかってはいるんだけど。


「……はい、いちおう、大学生、です」


下を向き続ける目線。喫茶ちぐらのオーナーとは、まだ一度も目線が合っていない。


第一印象。

人は外見で判断する。

この時点で私はもう、不採用決定なのかもしれない。


根暗なレッテルを貼られては、人から絡みにくいと敬遠されてきた。いや、レッテルを貼られるとか、そういうことではない。根暗なのは、私の本質であり性質だ。


「うわ、暗っれーなおい」

「でしょ。うっとうしくない?」


逃げることも、抵抗することもできない、暗く深い穴にドスンと落っこちた私に、周りの人たちはさらにスコップですくった土を浴びせかけていく。

それも容赦なく。


面接だというのに、じわりと目尻に涙がたまる。


けれど。私が丁寧に記入した履歴書。それをじっと見ていた目を上げて、そして言ったんだ。


「まるで見えないなあ大学生には。童顔っていうか、言われない? そうそう、あの子役のさあ、誰だっけ?」


最初、このオーナーがいったいなにを言いたいのか理解することができなかった。

私は、膝の上で強く握り締めている両手に目を遣った。

けれど、彼は構わず、話し続ける。


「誰だっけ……えっとお。あ‼︎ そうだ‼︎ マナちゃんだっけか? 本もたくさん読んでるっていう。おーーーー似てる似てる、すっごく似てる〜ふんふんふーん〜」


オーナーの鼻歌。ホームドラマやバラエティー番組にも引っ張りだこの、人気子役の名前を挙げた。


私は、ピシッと背筋を伸ばした状態で、固まり続けた。

そのままの状態で、永遠が来るんじゃないかと思うくらいの長い時間に耐えた。

するすると落ちていく視線。浅い呼吸。


少しすると、突然に悲しみが襲ってきた。

そっか、私からかわれているんだ。

落ちていく。仄暗い、穴の底へと。私には一生、這い上がれない穴の中へ、ずるずると。


(やっぱり不採用だ。しかもバカにされてい、る)


そして、それに気づいてしまったら。襲ってきていた悲しみが途端に、どっとその容量を増やしていった。

目尻に溜まっていた涙の量が、じわりじわりと少しずつ体積を増す。


「えっと君ねえ、採用したいんだけど、いつから来られる……っとおわあっ‼︎ ななななんで泣いてんの⁇」


真っ暗闇の、穴の中。足を滑らせながら、落ちていく。

のだと、思った。


「え、」


私は思わず、二度オーナーの顔を見る。


「俺か‼︎ 俺だよな⁇ もしかして子役に似てるが地雷だったか⁉︎ スマンスマン。許してくれ……で、いつから働ける⁇ 今、人手不足だからー……早く来てくれると、助かるんだけど……やべえもうこんなとこじゃ働けねえって思ってる⁇」


面接はこの容姿でいつも不採用。だから、採用だなんて思いも寄らなかった。


見た目を何とかしてから来いって、言われたこともある。そう言われた帰り道、美容院の前で一時間うろうろしたこともあったっけ。


芸能人だなんて、そんな可愛い子には……。


「……似て、ません」


それだけを言うので精一杯。涙がぼろぼろと溢れた。

私はふらふらと森の中でも彷徨い歩いている気持ちに陥った。


「おおう、似てねえ似てねえ……ってか似てるとは思うけど、ってやべえ、いやいや似てねえよな。うん。似てねえ」


慌てるオーナー。横にあったミネラルウォーターをごくりと飲む。


別に可愛いねって、言われたのでもなく、元気で明るいねって、褒められたのでもない。

それなのに、どうしてこんなに嬉しいのかな。


ようやくじっくりと見れた、オーナーの顔。視線があって、真剣な眼差しになる。


「ええっと、いろいろ失敗しちまったようだけど……う、うちで働いてくれる?」


冷たいと思っていたオーナーの声に、暖炉で手をかざしているような温かさが宿る。


いまだ無言の私を前に置き、オーナーは胸のポケットから煙草を取り出すと、その残り少ないうちの一本を細く長い指で挟んで口に咥えた。


けれど、火を点けることはなかったのだ。口の端に煙草を咥え続けて、頬杖をついたままの顔を窓の方へと向けている。


そしてそのまま、窓の外を見続けてくれた。


その間に。

私は一通り泣き、そしてオーナーがそっと差し出してくれたハンカチで、涙を拭いた。


人って。


こんなにも簡単に。

他人を救い出せるのか。


この人はたったこれだけのことで、私が落ちてもがき苦しんでいた深く暗い穴の中から、まるで芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、するすると私を這い上がらせたのだ。


結局、カンダタは堕ちてしまったけれど、私はあっけないほど簡単に、そのまま明るい世界へと登っていった。


そして今。

こうして、ここに居る。


喫茶ちぐらの面接は、私の光となった。


そんな私の胸に中にしまってある、大切な面接の時のことを、何かの拍子でオーナーに話したことがある。


「え⁇ 地雷じゃなかったの⁇ ……いやあマジでやっちまったと思ったっての‼︎ 本当に似ていると思っただけだったんだけどなあ」


オーナーは、頭に手をやりながら、不思議そうに首をひねった。


「でもなあ、まいまいは罪人ではないし、俺はお釈迦さまでもねえしなあ。まいまいが救われたと思ったのなら、それはおまえ自身が自分を救ったんじゃねえの? 糸を一生懸命登ってきたのは、おまえ自身だろ?」


そして、私の前髪をそっと、人差し指で掻き上げた。


「おまえは自分の評価ってのを人任せにしすぎだっつーの。そういうもんは、自分で判断・確認・精査するもんだぞー」


前髪をすいっと上げてから、自分の胸ポケットに手を持っていく。


「自分の価値ってのはな、自分が決めるもんだ」


煙草の箱を出し、中から一本つまみ出してから口の端に咥える。


さあ、これが喫茶ちぐらのオーナーだ。この飄々としたオーナーの元、私は徐々に落ち着きと前向きさを取り戻していけた。


暗くて陰鬱、コミュ障がゆえ絡みにくいし、合わないし、合わせにくい。

私の大学での評価は、すぐには変わらない。


けれど、以前と同じような乱暴さで、同じ言葉を言われても。

以前と同じように感じて耐えていた痛みは、二度とはやってこなかった。


今、私には私が自分で手に入れた、居場所がある。


✳︎✳︎✳︎


「え‼︎ 引越し? って、移転? はあ?」


ちぐらのバイトの一人である神谷かみや君が、いつもの声を出す。


毎回、突拍子のないオーナーの発言に、神谷君は。

毎回、こんな風に同じ反応を見せて、オーナーを喜ばせている。


「出たっ神谷のこの驚きの顔‼ ︎まさに絵に描いたようなっ‼︎ ああギネスとか世界遺産とかに、ぜひとも登録認定されて欲しい……ね、まいまいもそう思うよなあ」


私に同意を求めてくる。これもオーナーの日常だ。


「そうですね、でもその顔でなんらかの偉業を成し遂げてからでないと登録は無理ですね。ピアスをあと100個くらい足したら、ギネスならいけるかもしれません。で、一体どこへ移転するんですか」


「100っ‼︎ 血まみれか‼︎ 出た出た〜今度はまいまいのクールビューティー‼︎ あ、いや、イマドキはツンデレって言うんだっけか?」


両手を合わせて、パチっと叩く。


「…………」

「…………」


私と神谷君の沈黙に耐えかねたオーナーが、慌てて続ける。


「……でね、金石町の山際の方に、ちょうど良い物件見つけちゃってさあ。いま流行りの古民家ってやつさ。それがあ、すっげ良い物件なんだよ〜。味があるっていうのかなあ。まあ、ぶっちゃけ田舎ってことだけど」


金石町。

頭の中に地図を拡げ、場所や距離を確認する。

うん、自転車で通えます。


「でねえ、引越し手伝ってくんない? 俺さあ金、あんまなくって引越し屋をさあ、頼めねえんだ。メシ奢るから」


「うっわ、俺ぜってー重いもん担当じゃないですか。ほら見て、まいまいのこの細腕、ちょー非力だし。みやさんもなんか使えなさそーだし」


神谷君が私の腕を持ち上げて、ぶらぶらさせる。


そして宮さんとは、うちの店のシェフ兼パティシエ、いや、料理長だ。


私は腕をされるがままにしておいて、神谷君を見上げて言う。

「私、箸より重い物は、持てません。無理です」


無理、で思い出したことがある。

初めてこの神谷君を紹介された時。


耳にたくさんのピアス、茶髪を少し伸ばして、前髪をカチューシャで留めていた彼。手首にはたくさんのミサンガ。


速攻で「チャラくて無理」って思ってしまった。

思ってしまったのだけど。


けれど、余りにもオーナーが私と神谷君二人を引き合わせた時に、ワクワク感丸出しで「ははん、これ神谷ね」って紹介するもんだから、私は初対面の挨拶とかとんでもなく苦手だったけれど、何とか声を絞り出したんだっけ。


「ま、舞って言います。よろしく……お願いしま、す」


すると神谷君は笑って、


「うん俺、神谷。よろしくね。あと俺ゲイだから、なんか無理って思うことあったら、遠慮なく言ってね」


私は驚いて、そして笑ってしまった。

だって、チャラい男無理って思ってたから、そっちか‼︎ ってなって。

自分で突っ込み入れちゃったんだ。


「ごめん、そっちは良いんだけど、チャラいのが無理、ってか苦手です」


神谷君は大笑いして、私の頭をグリグリと手で押さえると、


「じゃ、まいまいの前では、チャラ男封印して、大人しくすっかあ。あ、まいまいで良いよね」


私はこくりと頷いた。

ふと見ると、オーナーも笑っている。


ここは、暖かい場所。私はようやく見つけたのだ。

涙がにじむのを、笑い過ぎのせいにしてから、この日。

私は、喫茶ちぐらの一員となった。


「そんなわけで、今度の日曜、集合な~。助っ人も呼んどくから。そいつ、ちょっと変わりもんだけど」


変わり者のオーナーが言う変わり者とは?


「じゃあ、金曜から店閉めちゃうから、もう来なくていいぞ」


「はあ〜⁇ 金曜日だと⁉︎ 明後日じゃねえか。今週いっぱいの分の買い出し、もう終わってるっての。無茶ぶりすんなよなー」


料理長宮さんの呆れた声が、カウンターの奥から聞こえてくる。

それに呼応して、オーナーが声を張り上げた。


「よっしゃ‼︎ その食材でちぐら新装開店パーティーしよーぜ‼︎」


✳︎✳︎✳︎


道なき道を進むって言うと、一体それはどんな所だってことになっちゃうけど、新しいお店はどっぷり深い森の中にある一軒の古民家を改装したものだった。


半分はカフェスペース、半分は調理場と遊び場。


「ちょ、オーナー、遊び場て‼︎ この畳の部屋で、トランプとかウノとか、やっちゃっていーんすか? って、俺、昼寝るかも」


神谷君が、嬉しいのか楽しいのか、それともこの一風変わった間取りに戸惑ってるのか、微妙な表情を浮かべながら、重たそうな段ボール箱を持ってうろうろする。


タオルをハチマキのように巻いて、いやその巻き方ちゃうやろ、だっせーなと、宮さんに突っ込まれていたオーナーも、持っていた段ボール箱をどんと床にバウンドさせて置いた。


「おうおう昼寝ねえ、いいんじゃね⁇ でも、神谷に縁側で横になられちゃ邪魔だわな。おまえ無駄にでけえし」

「無駄て‼︎」


そうなのだ。和室の面に沿って、昼寝できそうな縁側まである。

目の前には庭というよりは森。そのまま森の中に入って行方不明とかになってしまうのではというような、この大自然に満ちあふれた環境。


庭にできた小ぢんまりとした畑では、宮さん特製のハーブやら青紫蘇やらを育てて、お店で出すらしい。


「縁側には、猫が似合いますよねえ。ちょうど、僕の事務所に美人の猫が一匹居候しているんで、今度連れてきてあげましょう。ミケって言うんですけど、可愛いですよ~」


この丸い眼鏡がすごく良く似合っている男の人は、引越しの助っ人としてオーナーが連れてきた、ちょっと不思議な人、矢島さんだ。


「眠り屋」という事務所を持ち、オーナー曰く「夢」を扱う探偵(?)のような仕事をしているらしい。

どうやらオーナーとは旧知の仲らしい。


この二人、さっきから軽口の叩き合いばかりしている。


「そうなると、本当に猫ちぐらだな。喫茶ちぐら改め、喫茶猫ちぐら。どうよ?」


なぜかドヤ顔のオーナー。


「でもここだと、森の中に入り込んじゃって、出てこられなくなりそうですね。可哀想ですが、アケミマートで、ミケ用に首輪を購入しなければなりません」


「あそこ、何でも売ってっからなあ。ふつーに首輪も置いてそうだな。でも生きとし生けるものはさあ、こういう大自然が良いんだよ、本当はさ。猫も然りってね。誰が鎖に繋がれて生きたいかって話さ」


話が一向に終わらない。

もちろん、荷ほどきも進まない。


「そこのお二方、もう少し真面目にやっていただけると助かるんですが」


私が深いため息とともにそう声を掛けると、眠り屋の矢島さんは、すぐにシャキッとなって、ちゃんとやってますからね、とアピールしてくる。


「いいですねえ、ツンデレ。うちのミケにも習わせたい」

「でしょ~、まいまいのツンは癖になるでしょ」

「デレの部分も、拝見したいものです」


神谷君が最後の大きな段ボール箱を運び終え、その箱をがばっと豪快に開ける。


たくさんのミサンガに占領されている彼の両方の手首が、見事にそのスナップを効かせて、旧ちぐらから持ってきた座布団を、出しては放り投げ、出しては放り投げる。


そんな神谷君が、私が二人にツンツン言われて言葉をなくしているのを見兼ねて、声をかけてくれる。


「ちょっとまいまい、こういうのって法律で処罰とかできねーの? セクハラとか、パワハラとか、そういうのでさあ」


大学では、法学部の授業も休まず受けて、ちゃんと単位も順調に取っているんだけど、法律についてはいまだ、ちんぷんかんぷんで。

けれど、ここはきちんと言わねば。


「私が弁護士か、検事になったあかつきには、ちゃんと何の罪に当たるかを、事前に書面で、ご連絡しますね」


「え」

「え」


二人同時の反応が笑える。


「矢島あ、ツンデレは禁止用語にしよう」

「同感ですね。けれど、ミケはちゃんと連れてきますよ」

「お、ミケのツンデレが見られるってことだな……あ、と、禁止用語言っちゃった」

「あはは、言ったそばから。バカとしか言いようがないですね」


オーナーと矢島さん、無限ループ突入。


私と神谷君は目を合わせると、お互いに苦笑してから、段ボール箱を一つ一つ開けていった。


✳︎✳︎✳︎


そんなこんなで、ドタバタの引っ越しから一週間ほど経った頃、喫茶ちぐらはNewオープンした。


以前からの常連さんが、旧ちぐらよりも遠出になってしまうにもかかわらず、意外にもほとんどの人が足を運び続けてくれたのもある。


けれど、畳のスペースで囲碁や将棋を楽しんだり、読書を堪能したりしている人達の間では、口コミで広まって、なんだかんだ言ってもなかなかの繁盛ぶりとなった。


そして、新たに増えたこの縁側。

子どもを遊ばせるママ友の場となり、少し暇な時は神谷君の昼寝や私の勉強の場所にもなっていった。


休憩時間にこの縁側で、宮さんが淹れてくれたカフェオレを飲む。


私はここを愛してて、ここで私は生きている。


例え全世界の人々が私に生きるな、と言ったとしても、私はここでなら自分らしく生き続けられるだろうと思う。


「自分は自分だし、他人は他人だしなあ」


私が落ち込んだ時、横に座って訥々とオーナーが話してくれる。


「そうそう、それでな、こっからが大切なんだ。自分の生き方も他人の生き方も、どちらも肯定する。これだこれが大事」


オーナーがひざに乗ったミケを撫でながら、続ける。


「そのままを享受するっての? そんな中でな、同じ方向へと歩く人を見つけてだな。その人と手を繋げたら最高にハッピーってことで」


森の奥から聞こえてくるのは、鳥のさえずりや、羽ばたきの音。

木ノ実が落ち、幹にあたって、コツンコツンとこだまする。

時折、ざざあっと風が森の木々を揺らし、大きく大きく森がしなる。


「ありがとうございます」


私の口からするりと出た言葉。どうして、その言葉だったのか、今なら分かる。


「あー俺、また良さげなこと、言っちまったかあ」


なんだか得意げな顔のオーナーが、ちょっとウザい。


「……はあ」


そうなのだ。ここではいちいち返事も気にしなくて良い。


こう言ったら機嫌を損ねるかなとか、変なこと言って無視されるんじゃないかとか、私の返事なんて求められていないんじゃないか、とか。


気にしなくてもいいんだよ。

そんなこと、どうでもいいことなんだよ。


その根底には、信頼関係。それがあるから生返事も許される。


穏やかな世界。心安らぐ世界。

日がな一日を、そうやって過ごす。

そんな世界があることを、私はここ喫茶ちぐらに来て、初めて知ったのだ。


私はオーナーから、ミケを取り上げると、ミケの鼻に私の鼻を近づけて、キスするようにくっつけた。


「にゃああ」


ほんのりと香る、ミルクの匂い。

さっき宮さんが牛乳、あげてたっけ。


「可愛いだろ」

「はい、可愛いです」

「そうだよ、可愛いんだよ」


オーナーは、森の奥をぼんやりと見つめながら、胸ポケットから煙草を出して、火をつけずに咥えた。

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