自分を好きになること
「私の婚約者です」
そりゃそうだ。
矢島さんが、驚きの顔をして、私をぽかんと見ている。
駅に着いて改札から出る。そのまま帰りの切符を買う。そして新幹線に乗り、帰る。帰りの新幹線で、再度私の夢へと入る。
そんな予定だったはずが、その予定を見事なまでにぶち壊して狂わせている私。
駅に着いて改札から取り敢えず出る。そのまま帰りの切符を買わず、そして新幹線に乗らず、私は矢島さんの腕を掴んで引っ張っていった。
そしてビルの正面のロータリー。
車を停めて待っていた男と、三人で対峙。
誰も何も言わないので、私はもう一度通る声で言った。
「私の、婚約者の矢島さんです」
丸眼鏡がカチャと音をさせたような気がする。けれど、構わず、私は続けた。
さようなら、私の遠恋。
遠恋とは、私にとっては決して『遠距離恋愛』のことではなく、『遠い恋』のことだった。
「私たち、もう直ぐ結婚するの。だから、もうここには来ない。ずっとずっと、迷惑かけてごめんね」
彼が、細い声で言った。
「……そ、そうなんだ。おめでとう」
ほっとしたというような、安堵の吐息。それを悟られないように、必死で隠そうとして失敗していることに、彼は気がついてない。
そして、私はその事実に傷つくのだ。
桜を嫌いになった、あの時と同じように。
私が傷つくばかりだと思っていた。ううん、もしかしたら私が彼を傷つけているかも、そう考えてみたこともあったっけ。けれど、何度となく考えてみても、自分が傷つくばかりのように思えて、私はもうこの時点で、これが正しい恋ではないことを知っていたのかもしれない。
(もう、終わりにしなければ)
唇をぎゅっと噛む。震えていることを悟られたくなくて。
込み上げてくる呼吸。高まっていく心臓。
強く強く強く、さよならをするんだ。
これ以上、振り回されたくない。
さよなら、私の恋。
私の、
その時。
突然、意識を引っ張り戻されて、はっとした。身体が驚いて、心より先に震え始めた。
手を。
手を、握られていた。しっかりと、けれど優しげに。
驚いて、あっと声に出しそうだった。
矢島さんの体温に、優しく包み込まれた手の中に、これはという強い意志を感じて、私は少しだけ日和ってしまう。
私は、噛んでいた唇を自由にした。もう別れるのだから、どう思われても構わない。震えていても、もう構わないんだ。
「良い人なの?」
そう彼が聞いた。
「うん、とても」
私が言った。
「そっか、良かった。……じゃ、俺、もうそろそろ行くわ」
彼が言って、車に乗り込んだ。
うん、さよなら。
心がそう言って、涙が一粒、ぽとりと落ちた。
涙は次第にその量を増し、ついには次々に溢れてきて、止まらなくなった。
けれど、私はもう泣きじゃくることはしなかった。狂って、泣き喚くこともしなかった。そんなことは、もう今までに散々、やってきた。
矢島さんはその間ずっと、ずっと手を握っていてくれていて。
あ~ぁ、この人を好きになれば良かったなあ。私は涙を拭きながら、何度もそう思った。
✳︎✳︎✳︎
「そりゃあ、僕だって驚きましたよ。まさかこんな展開が待っているとは」
苦笑いを見せながら、私の前に大福とコーヒーを置く。
大福とコーヒー。私はそれを見て、大いに笑ってしまった。
「すみません、まだお茶っ葉を買いに行ってなくて。僕、普段はコーヒーか紅茶しか飲まないので、それで事足りてしまってるんですよ。こうやって、和菓子をいただくと、あ、お茶っ葉⁉︎ って、思い出すんですよねー」
「でも、良かったかも。大福と言っても、中身は生クリームですから」
「ええっ⁉︎」
大きな声を上げて、大福を取り上げて見回すと、
「中身が生クリーム⁉︎ それは一体、どういうことでしょうか⁉︎」
くすくすと笑いながら、私も大福を手に取った。
「生クリーム大福って、食べたこと無いですか? 売ってる時には冷凍されてて、外に出しておくと一時間くらいで解凍されて、ちょうど良い感じで食べられるんですよ。冷んやりして、美味しいですよ。これならコーヒーに合いますから」
「うわあ、待ってくださいよ。これは常識が覆されますねえ。しかも、いとも簡単にです。世の中にはまだまだ、知らないことがありそうです」
大げさ過ぎ‼︎ と、笑う。
矢島さんがわくわくしながら、包装紙を開けて、パクッと口に入れる。手元に残った半分を見て、さらに驚く。
「ん、ん、生クリームとあんことお餅‼︎ なんですかこれは⁉︎ この人知を超えた組み合わせ‼︎」
そんな様子を可笑しく思いながら、私も生クリーム大福を口に入れた。
「美味し」
そして、温かいコーヒーを堪能する。
「矢島さん、それにしてもあの時は、驚かせてしまって、本当にすみませんでした」
私は申し訳ない気持ちで謝罪の言葉を重ねた。
「実は、って、こんなこと言ったら申し訳ないけれど、夢のことはどうでも良かったんです。ただ、彼と別れたくて。私一人では、別れを切り出す勇気なんて出ないから、それで誰か一緒にって思って。浅はかな私に付き合わせてしまって、本当にごめんなさい」
矢島さんは口をもぐもぐとさせていたけれど、それをコーヒーで流し込むと、私を見て言った。
「でも本当に良かったのですか? あんなにあっさりと別れてしまって」
(……あっさり)
その言葉を聞いて私は苦笑し、そして今までにあった色々なことを思い出していた。
初めて会ったのは、高校の卒業式の日だった。友達の先輩で彼を紹介された時、なんとなくその時にはこの人を好きになるかも、という予感があったんだ。
デートは遊園地。ソフトクリームを食べたっけ。
入りたがっていた有名企業に就職が決まって、喜ぶと同時に、不安にもなった。遠恋になるとわかって、ついていきたいと思った。結婚してもいいと思った。けれど、それは彼の考えの中には微塵もなく、叶わなかった。
走馬灯のようにとは意味が違うけれど、そんな風にして彼との思い出と、私が負った傷が、交互に反芻するように蘇ってくる。
「どんどん自分を嫌いになるんです。私、春も冬も好きでした。でも、彼が嫌がって。冬は出かけるの寒いし面倒くさいから来ないでくれって言われたんです。それで冬を嫌いになって……春の桜も、好きだったのに。彼の一言で、とうとう嫌いになってしまった。好きなものより、嫌いなものが増えていって、それでどんどん自分も嫌いになっていくんです」
矢島さんがティッシュをくれた。箱ごとで、少し笑ってしまったけれど。
「好きで好きでどうしようもなくて。強くてぶれない気持ちがあったから、遠恋になっても続ける自信もあった。けれど、こんなにも自分をどんどん嫌いになっていくのに、彼のことはちっとも嫌いになれないんです。途中からそれを、ずるいって思うようになってしまった。私はこんなに嫌いなものにまみれて汚れていくのに、どうしてあんただけ変わらないのって」
私は息継ぎをするようにしてから、続けた。呪詛のような言葉がほとばしってくる。
「ずるい。あんただけ、ずるいって、思うことしかできなくなって。でも、」
ふ、と息を吸う。
「でも、好きなんです。好きなのをやめられないの。同じ空の下で、息をしているってだけで、心から愛しくって。こんなに好きになるのなんて、きっと一生に一度だと思います。私は逢いたくて逢いたくて仕方がなかったけど、でも、……でも、向こうは違ってたみたい」
息苦しさを感じながら、続けた。
「向こうで彼に、……他に好きな人が出来ちゃったんです。それでも会いに行ってたら、別れて欲しいって言ってんのに何でそんな嫌がらせするんだって言われ、て。それで、もう……む、無理、って、」
「夢の中であなたは、とても幸せそうでした」
強い声に、はっとして顔を上げた。
「僕もこれが、至福というものなんだろうなって、思い知らされたんです。新幹線の中で、あなたは幸せだった。それは間違いないです」
くしゃっと苦笑い。丸眼鏡も一緒に、歪みそうなくらいに。
「それでもですね、嫌いなものが増えてしまったのなら、どうぞこれからは、好きなものをたくさん増やしていってください」
そして、私の胸の奥深くに、言葉を滑り込ませてきた。
「そしてその夢は、無理に嫌いにならなくていい。あなたの中のどこかに、仕舞い込んでしまいましょう」
私は涙をそのままに、声を上げて泣いた。
わああっと両手に顔を伏せて泣く、私を置いて、矢島さんはキッチンへと入っていった。
✳︎✳︎✳︎
結局、矢島さんは私の夢の中を一通り見ただけで、少しもアクションを起こさなかったと言う。
「あなたがあまりに幸せそうなので、他の夢が見たいと言ったあなたの言葉に誤りがあるのではと思ってですね。その場は様子を見ました」
そう言って、支払う料金も、掛かった経費の請求のみ。
「今回は残念ながら、私はあなたのお力にはなれませんでしたから」
「そんなことありません。あの場に一緒にいてくれて、ん、」
相当泣いて、落ち着いたと思ったけれど、まだ燻っているのかな。言葉を続けようとしたら、喉の奥からなにかが込み上げてきて、ごくっと鳴った。
助かりました、と言いたいのか。ありがとう、と言いたいのか。
きっとそのどちらもだと思う。けれど、もっと相応しい言葉があるのではと探ってみたけれど、とうとう思いつかずで、言葉は続けられなかった。
そんな私の様子を見かねたのか、矢島さんが優しく言った。
「桜の他にも美しいものは、両手に抱えきれないほどたくさん、この世界には溢れていますよ」
見本のような笑顔と思っていたけれど、それが心のこもった温かい笑顔だと知る。
私は、仔犬のように頭を撫でて慰められたような気がして、ほっと安堵した。
✳︎✳︎✳︎
日々が段々と落ち着いてきて、日常を取り戻してくる。
気温が徐々に上がり始め、身体が自然に半袖を欲してくるのを知る。
そうやって季節は、全身で感じるものなんだと分かると、私はお気に入りの萌黄色の半袖ブラウスで、外へと飛び出した。
桜の木は、すっかり葉桜になって、今度はその緑陰で、私の心を魅了するのだ。
桜の花びらが遺していった、桜蘂の小道を、歩いていく。
もう、なにかを嫌いにならなくていい。
そう思うと、なんだか自分が少しだけ強くなっているような気がして、自然と笑みが零れる。
日にち薬とは、よく言ったもの。その効き目を実感する頃、人づてに彼が向こうで結婚するということを知った。
けれど、私はこの遠恋から、ようやく解放されたのだ。
以前の私だったら。
きっと嫉妬か羨望かの痛みに苦しんで、深く薄暗い穴の中で、のたうち回っていたのだのだと思う。
もう。
電話した時に、携帯の向こうから漏れてくる、赤の他人の声に嫉妬しなくてもいいし、『この電話は電波が届かない場所にあります』というアナウンスで、気が狂うほどの猜疑心に襲われることもない。
そんな自分を縛る枷からは、解放されたのだ。
「梶田さん、あなたが見たままの、美しい桜を好きになってください。桜だけではなく、あなたが見たもの、見つけたものをそのまま好きに、」
矢島さんが微笑みながら言った。
(そんなことしたら、アケミマートのイケメン店長も、勿論あなたのことも、好きになってしまうじゃないですか)
心で冗談を言いながら、私は笑った。
「来年の春に、もう一度桜を好きになれるかどうか、試してみますね」
「大丈夫。きっと、好きになれますから」
あの後、矢島さんが他の夢も見たいなら、夢に入って何とかしてみますよ、と言ってくれた。けれど、私は断ったのだ。
なんとしてでも終わらせなくてはと思い込んでいたあの夢。
あの夢だけは私の至宝。
否定もせず、嫌いにならなくてもいいと言ってくれた、ただそれだけで、私は救われた。
新幹線の中で、矢島さんのハンカチに包まれていた白い可愛らしい花。
それは、ハルジオン。
花言葉は、追想の愛、だという。
愚かしいこの私は、それでもまだ、この青い空は愛しい人に続いている、なんてそう思っている。
そして時々。
朝、眠りから覚めると涙を流している時があって、そんな時はきっと、あの夢を見ているのだと思う。