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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
夢を彷徨って −アネモネ
2/63

黒豹


そして、僕は今日という日を選んで、瑠璃の夢に入ることを決めた。


夕日の光に包まれながら、横たわって眠りに就いている瑠璃の横顔を見ていると、なぜあんなにも画を描くことに固執するのであろうかと、不思議に思えてくる。


もちろん、思い切ってその理由を尋ねてみた。


けれど、瑠璃は。

薄っすらと笑うだけで、僕の問いかけには口を噤んでしまったのだ。


(これは夢の中で探っていくしかありませんね……)


今回は様子を見るだけの試みではあったが、しかしその固執する理由がどこにあるのかを少しでも探ることができれば、などと考えていた。


たったあれだけの夢の内容で、あんなにも歓喜し、けれどそれとは真逆に憔悴し、疲労し、縋るようにして僕に頼らざるを得ない理由は何だろうか。


僕は瑠璃を起こさないようにと細心の注意を払いながら、そっとその手に触れた。


この沢山の画に囲まれた、ちょっとした美術館のような、静謐な部屋で。


夕暮れがすっかり終わり夜のとばりが下り始める外の様子と同じ様な感覚で、僕は瑠璃の夢へと深く誘われる。


そして気がつくと、僕は青いソファに座り、ぼんやりと天井を眺めていた。


刻、刻、刻、刻……


何かの音とも言葉ともとれるような妙な音が響いている。僕はその規則正しいが、奇妙でもある音を唐突に、頭の中で数え始める。


いち、にい、さん、しい……


すると途端に音が止む。


「おっとっと、これはもう始まっていますね」


夢の始まりを悟った僕は、すぐに瑠璃が話していた窓のそばに近づき、カーテンを翻してその中へと身を隠した。

窓は腰より上の高さだが、カーテンは足元まで伸びている長いものだ。


「少し狭いですが、なんとかなるでしょう」


カーテンの中で身を縮こませる。


窓とカーテンの大きさに矛盾がある点。


これは僕がよく使う手法で、身を隠す場所をあらかじめ作っておくやり方だ。

話を聞くと、どうやら身を隠す場所はカーテン以外にはないという判断で、瑠璃が眠りに入るきわに、カーテンを足下までの長さのものにしておいてください、と耳元で囁いた結果だ。


この方法で、二つほどなら夢の中に必要なアイテムを置いたり、夢の中のディテールを変化させたりすることができる。

けれど、やはりそれも夢自体を作り変えてしまわないよう、改ざんが最低限で収まるように慎重に検討し、実行するのだ。


カーテンからちらりと覗いてみる。

ソファには先ほどまで僕が座っていたのと同じようにして、そこにはすでに瑠璃が座っていた。


夢の中の瑠璃は現実の瑠璃よりも儚く、しかしそれは見ようによっては、魂のない人形のような瑠璃であった。


部屋にもまるで存在感というものがない。

そんなジオラマ化された部屋の真ん中で、ぽつんと座っている瑠璃の様子を見て、僕は異様な感覚を覚えたのだ。


違う。


これは瑠璃の夢じゃない。


誰かによって、夢がすり替えられている。


(これはいったい……どういうことだ)


今までに起こり得なかったケースを前にして、僕は激しく動揺した。


危険と判断すれば、すぐに夢から出て、瑠璃を目覚めさせなければならない。


そう考えを巡らせているうちに、瑠璃はその魂が宿ってはいない抜け殻のような身体を動かし始めた。

ソファを離れ、僕が隠れているカーテンに近づいてくる。


想定内ではある。すり替えられた夢であるということ以外は。


瑠璃はゆっくりとした動作で、カーテンを開けていく。

僕のすぐ近くに瑠璃の横顔を認める。


窓に手を掛けた時、瑠璃の唇が何かを囁いた。

耳に届いた言葉に、ぞっと背筋が凍った。


———どうか 私を 連れていって、


僕の耳にその言葉が届いたと同時に、ガラスにヒビが入る音が鳴り始めた。

ビキビキビキッと、耳をつんざくような嫌な音をそこら中にばらまき散らして、僕の顔のすぐそこにあるガラスにも亀裂が入っていく。


(うわっっ)


僕は思わず耳を手の平で押さえつけた。


身体中に悪寒が走り回るような、そんな不快な音。それなのに瑠璃は、まるで平気な顔をしている。


(やっぱり、これは……この夢は、)


何者かが見せている夢と判断して間違いない。


そして次の瞬間。


ガラスは割れ、そこかしこへと飛び散った。

しかし、今度は無音の爆発だった。


そう、砕かれたガラスは、すでに虹色の美しい蝶に、姿を変えていたのだ。


それは、息を呑む美しさ。僕は一瞬で、言葉を失った。


蝶はきらきらと光る鱗粉を散らしながら、虹色の羽を目一杯に広げ、羽ばたいている。

散りじりになって飛び、あるいは舞い、あるいは螺旋を描くようにして上昇していく。


瑠璃の髪にその羽を絡ませながら、ばたつく蝶。

その度に瑠璃の黒髪は、風に解き放たれた蜘蛛の糸のような儚さで、その身を散らしていた。


美しい、美しい。なんという美しさだ。


さらに言葉を失う。そして虹色の色をまとっているはずの蝶の群れは、青く澄んだ空の色に邪魔されることなく、徐々に舞い上がってその色を浮かび上がらせていった。


まるで緻密なステンドグラスが、早送りのスピードで、どんどんと創り上げられていくように。


僕はいつの間にか目の前の光景に見入ってしまっていた。完全に自分の役割を忘れ去ってしまっていた。


だからであろう、目の前から音もなく飛び込んできた黒い影に気づけずに大仰に驚いてしまったのは。


「わっっ」


その黒い影を避けようと、僕はしりもちをついてしまうほどに、後ろに飛びのいてしまっていた。

頭からすっぽりと被っていたカーテンを押し退けて、瑠璃を視線だけで探す。


すると瑠璃はソファに横たわり、目を伏せていた。

気を失っているようにも、眠っているようにも見える。


そうだ、これは瑠璃じゃない。人形だ。


そして、そんな偽物の瑠璃を守るようにして、一頭の黒豹が。側に寄り添い、そして僕を凝視していた。


『……お前は何だ。何者だ』


低い唸り声とともに、問い掛けてくる。

しかし、返事を待たずして、僕の方へと身を翻してきた。あっという間に音もなく近づき、飛びついてきた。


「わ、ちょ、ちょっと待ってください!」


僕は腕を前に出して、顔の前で盾を作った。

しかし、飛びつかれた拍子に上半身は倒され、そのまま後ろへと転がる。床で頭をごつんと打ってしまった。

夢とはいえ、しかもこれは他人の夢だから、僕の五感は現実と同じだ。痛みで涙がじわりとにじみ出る。


けれど構わず、黒豹が襲ってくる。黒豹の鈍く光る鋭い牙が、僕の眼前で威嚇してくる。


僕は『降参‼︎』、というように、両の手の平をかかげて振った。


「る、瑠璃さんを助けに来ました‼︎」


その言葉が耳に届いたのか、黒豹は少しの間を置いて、僕の上からのいてくれた。

そしてその場で行ったり来たりを繰り返すと、のろのろと瑠璃の身体に寄り添って、身を落ち着かせる。


僕はその様子を見てほっと息をつくと、体勢を立て直し、よれた服を少しだけ正してから立ち上がった。


「僕は眠り屋の矢島というものです。あなたは……『夢魔』ですね」


間髪入れずに黒豹が返す。


『どうしてここにいる、なぜ、ここに留まることができる?』


その長くビロードのように美しい尻尾で、瑠璃が横たわっているソファを何度となく、ピシリピシリと叩く。

低くうなり続けながら、宝石のように輝くエメラルドグリーンの瞳を、こちらに向けている。


「僕は瑠璃さんの依頼でやって来ました。僕もお訊きしたいです。これはいったい、どうやって(・・・・・)いるのですか?」


『……瑠璃の依頼だと?』


黒豹は、何かを思案しているように頭を揺らした。

しかし長い沈黙の末、遂には口を開く。


『……瑠璃の夢を、私が創り上げた夢と交換しているのだ』


「でも、瑠璃さんは自分が見ている夢と思っていますよ。ちゃんと内容も覚えています。まるで自分の目で見たかのように」


『お前、何を言っているのだ』


黒豹は馬鹿にするようにして喉を鳴らしながら笑った。


『私は夢に住まうものだぞ。瑠璃の本物の夢とすり替えるだけだ、それ位は容易にできる。だが、夢というものは、その本人が見るもの(・・・・・・・・・)だからな』


「なるほどそうですか。でもなぜ、そんなこと、」


僕が口を出そうとすると、黒豹は言葉をかぶせてきた。


『瑠璃にこれ以上、画を描かせたくない。こうして美しい世界を見せていれば、そのうち画を描くことへの執着を忘れてくれるだろう』


黒豹は瑠璃の腕に顔を擦り寄せた。

その頬が瑠璃の肌に触れるか触れないかの近さで、そっと。


『夢魔』なのだから、それはもちろん偽物の身体だ。生身のような体温など感じられないはずなのに、その温かみを少しでも感じ取ろうとするように、目を細めて神経を研ぎ澄ませている。


その様子で、僕は悟った。

彼は彼女を愛しているのだ、と。


「でもどうして、画を描かせないように?」


さもおっくうそうに、黒豹は頭をもたげて身体を起こし、ペロリと舌で口をなめると、再度その上半身をその場に落ち着かせた。


『人間よ、愚かな生き物よ。お前は一体何をしにきたのだ。瑠璃のことを何も知らぬとはな。それで助けに来たなど、よく言えたものだ。くくっ』


黒豹が喉を鳴らして低く嘲笑する。

僕は少しだけムッとした。


「瑠璃さんは画が描けなくて、失意のどん底にいます。画を描きたいと心から望んでいます。それが瑠璃さんにとって大切な生きがいだというのに、どうして取り上げるようなことをするんですか。そっと見守るだけでは、だめなのですか」


僕が言い終わらないうちに黒豹が立ち上がり叫んだ。


『ここから出て行け‼︎』


ごうっと、威嚇をはらむ低く地響きのような声に、僕がびくりとして動けないでいると、黒豹は僕の想像をはるかに超えた言葉を口にした。


『今描きかけの画が完成したら、瑠璃は自ら命を絶つつもりでいる。瑠璃の意志は固い。お前に一体何が出来るというのだ? 二度とここへは来るな』


そう言うと、いかにも愛しそうに、瑠璃の頬に鼻先を擦り寄せる。


黒豹はそのままそっと目を閉じた。


✳︎✳︎✳︎


それは男性の顔らしかった。


まだ目も鼻も、いや命そのものを吹き込まれてはいない、描きかけの画。

イーゼルに立て掛けてあった唯一の画。


眠りからまだ覚めぬ瑠璃の横顔に一言詫びを入れてから、覆われている白い布をめくり上げて、その画を見た。


あなたは誰ですか。


この画が完成したら、瑠璃は自らの命をその手で終わらせようとしている、と夢魔は言っていた。


白い布を元どおりに掛け直すと、僕は少しの時間が経ってもまだ眠りから覚めない瑠璃の家を辞した。


そっと扉を閉めて出た明け方の町は、空気がしんと張り詰めている。

瑠璃はもう今頃は、早起きが得意な小鳥のさえずりにでも起こされているだろうか。


帰る間際。

いまだ目覚めぬ瑠璃を見た。


僕に邪魔をされた時間取り戻すようにして、夢魔が少しでも長くと瑠璃と一緒の時間を過ごしているのだろうか。

そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。


黒豹の深い愛情。僕は少し泣いた。


涙をぬぐった跡に風が当たって、冷える。僕の心も、そうやって冷えていった。


✳︎✳︎✳︎


『何をしに来た、今すぐ帰れ』


いらいらとした怒りを隠しもせず、黒豹はぐわうっと牙をむいた。


瑠璃の側に寄り添う時間を邪魔されたくないという、黒豹の気持ちが痛いほど伝わってくる。


僕は過日、二度目の試みを瑠璃に頼んでいた。


「申し訳ないのですが、もう一度。夢へと入らせて欲しいのです」


「はあ、」


瑠璃の顔には、ますますの暗い影がまとわりついていた。前回から一週間ほどしか経っていないにもかかわらず、瑠璃のこの暗い表情。 それは、いっそうの暗闇の底へと、沈んでいるように見えた。


「眠れてはいるのですが、筆やペンを持つだけで、手が震えるようになってしまって……」


いや、実際にはあまり眠れていないのだろう。目の下の隈が厚みを増している。

瑠璃が両の手をぎゅっと握り合わせるのを見て、僕はそう確信した。


夢魔が見せた、美しい至福の夢。それも、ただいっときの安らぎに過ぎなかったようだ。


あの日以来、僕は考えていた。

このままこの状態、すなわち絵を描くことができないという状態を続けることで、瑠璃に及ぼす悪影響への僕の憂慮が、現実にもたらされていたことに間違いはなかったのだ。


この疲弊し、疲れ切った表情。


自分の身体の一部分となるまで、画を描き続けてきたライフワークなるもの。それを突然に奪われ、心身ともに弱っていく瑠璃の、この姿。


「今度は、上手くいくと良いのですが……あ、いえ、直ぐには解決はしないと分かっております」


成果の出なかった前回の結果。瑠璃は、僕の失態を責めているのではないというように、口調を優しげにする。


しかし、あれは僕自身が、いや他の誰しもがはばからず、僕の失態であったと明言してもいいものだった。

僕は、僕自身を激しく叱責したし、後悔もしていた。


もっと、ましなやり方があったのではなかったか、と。


「お手間を取らせて申し訳ないのですが、どうぞよろしくお願いします」


僕の丸い眼鏡の奥にある何かを感じ取ろうとしているのか、じっと見つめられ多少狼狽してしまった。が、「それでは、お願いします」と僕が言うと、はい、と軽く頷き、すぐに眠りに入ってくれた。


さあ、次にはやり方を違わぬようにしなければ。僕は知らず知らずのうちに握っていた拳の力を、ゆるりと解くと、夢へと慎重に入り込む。


そうして僕は今、黒豹と対峙しているのだ。


「今日はお願いをしに来ました。あなたに頼みたいことがあります」


今後、瑠璃を助けるには、この哀れな夢魔の協力が必要となる。

どうか折れてくれと、心で強く願う。


『無知で愚かな男よ。夢とはいえ、このままここでお前を食い殺すこともできるのだぞ』


鼻に皺を寄せて、鋭く尖った牙を見せつけてくる。

低くうなる声は腹の底へと響き、野生の獣に対して誰しもが感じる恐怖を、感じさせた。

けれど、ここで引くことはできない。


瑠璃は前のようにソファに横たわり、人形のようにその目を閉じていた。

夢魔が余計なものを見せたくないのであろう、瑠璃はさらなる深い眠りの中にいるようだ。


「瑠璃さんに、画を返してあげてください」


ここまで言うと、黒豹はぐわっと口を開けて飛びかかってきた。のしっと重みを感じると、僕はそのビロードのように美しい毛並みを持つ、しなやかな身体を両手で押しのけながら、精一杯叫んだ。


「瑠璃さんの、描きかけの、画を見ました‼︎ あれは、瑠璃、さんの、恋人でしょう‼︎」


黒豹の爪に引っかかれながらも、なんとか防ぐ。けれど、そう言った途端に、黒豹の身体を押し戻していた両腕から力が抜けた。

黒豹は僕から素早く飛びのいてくれた。


僕はフゥと息を細く吐くと、引っかかれた痛みを少しでも和らげようと、ミミズ腫れが走った両腕をさすった。


『……あれは、瑠璃の夫だ。死んだ、夫の顔だ』


呟くような、小さな声で。

痛みを伴った、苦しげな声で。

愛する女が、自分ではない他の男を愛する。そんな残酷な運命に耐えようとする声で。


しかし、そんな夢魔の痛みと同時に。

愛しい夫を失い、夢を彷徨い歩く瑠璃の苦しみ。


その悲哀に、僕の心はずくんと痛みを覚えた。


僕の遠い記憶の中にもある、似たような傷。


僕の持つ傷と、瑠璃の持つ傷に。

黒豹という借り物の姿でしか、愛しい人に触れることさえ叶わない夢魔の痛みが共鳴して、僕の心を揺さぶる。


涙が頬を伝った。


『何のつもりだ。それは一体、何のための涙だ』


あざわらうようにして、低く言う。

黒豹は音を立てず静かに瑠璃へ近づくと、その透明な頬へとそっと鼻を近づけた。


まるで、大切にしている者へ贈る、キスのように。


そして瑠璃を起こさないようにと、そっとソファの上に飛び乗り、瑠璃に寄り添うようにして身体を横たえた。


どこか遠くの方で鐘の音が鳴る。

夢の終わりに気づく。


「……どうか、僕のお願いを聞いてください」


僕は急がなくてはと、黒豹に話し掛けた。


「瑠璃さんを、助けたいのです」


ゆっくりと、正確に。もう二度と、間違えないようにと。


僕が話し終わると、黒豹は愛しそうにもう一度だけ瑠璃の頬に鼻を近づけ、やはり瑠璃を起こさないようにとソファからそっと降り、のろのろと窓へと向かって歩いていった。


歩くたびに背中で動く、しなやかな肩。


僕はいまだに頬を伝って落ちる涙をそのままに、その黒く美しいビロードの背中を見つめていた。



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