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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
手紙 −紫苑
19/63

恋慕の情


この世界は僕の夢。

夢の中に存在する。


これが夢だとすんなり理解したのは、「眠り屋」の矢島さんによって、事前に説明を受けていたからだ。


「先生からの手紙をあなたの夢の中に置いておきますから、読んで返事を書いてください」


さすがに最初は面食らったけれど、先生が依頼主だと聞いていたので、目の前の丸眼鏡を掛けてどこか飄々とした男を、僕はすぐに信用して話を聞いた。


「彼女からの手紙ももちろん、彼女の夢からいただいてきたものになります。だから実際には、実物の手紙というものは、この世には存在しません。夢の中での幻の手紙の交換、ということになります。どうしてそのような不可思議なことを、と思われるでしょう。しかし、これが彼女の望みです。ご理解いただけますか?」


僕は深く考えることもなく、すぐに返答した。


「はい、分かりました。大丈夫です」


そんな少ないやり取りをした後、矢島さんは自分の軽く握られている右手を見るようにと言って微笑んだ。


先生は、その時にはもう酷く病状が悪化したために、病院への入院を余儀なくされていた。

けれど。

僕には教えてもらえなかった。入院先も、そして先生の病状も。


そんな先生からの僕への手紙。

何が書いてあるのだろうか。

別れの手紙とは思いたくない。けれど、僕のことを好きだとか、そんな好意の手紙でもないだろう。別れの手紙だろうという思いの方がしっくりきて、胸が千切れるほどに痛んだ。

そう、僕の中は、両極で葛藤している。


そうだ。

後で先生の居場所を聞かなければ。お見舞いに花を持って行こう、先生はどんな花が好きだろうか。

好きな果物やお菓子はなんだろう。この両手に花やお菓子をいっぱいいっぱい、小遣いでたくさん買って、持っていこう。


別れの手紙であったとしても、それでも僕は、先生に逢いたいから。


そう考えがよぎった瞬間、矢島さんの右手から薄紫色の花びらが数枚ちらちらと落ちていくのを見た。

瞼が重くなる。


これが眠りへの入り口だと、知らされた時にはもう、夢の中だった。


そして。

僕はソファに深く座り込んで、先生からもらった初めての手紙を前にしている。


少し震える指で、そっと手紙を取り、そして、四つ折りになっていた紙を開いていく。


思ったより、丸みのある可愛い字。


一字一句、噛みしめるようにして。

一字一句、間違えることなく、記憶していく。


涙が、どっと溢れ出た。


ああ、先生が僕を連れていってくれる、僕をそばに置いてくれる。

そう思うだけで嬉しくて嬉しくて。


先生を失ってしまうかもと知らされてから、涙も底を尽きるのではないかと思うくらい泣いて泣いて泣きまくったから、涙はもう空っぽのはずなのに、不思議なことにまた涙が溢れて、零れ落ちていく。


先生が僕を好きだと言ってくれた。

先生が僕を愛してると言ってくれた。


けれど、僕は言えなかった。

伝えられなかった。


先生が余命を宣告された、あの日。


先生は激しく僕の存在を拒絶した。

もう来ないでと、もう自分の前に現れないでと、狂ってしまったかのように何度も何度も、僕をはねつけた。


あの時、僕は必死で先生の手を握って、また来るからと繰り返し言っては、その嵐のような先生の慟哭に、耐えた。

けれど、そんな僕の精一杯の言葉も、ぐちゃっと丸めて捨ててしまうような、あんなにも激しい拒絶だったのに。

それでも何度でも。明日も来るから、明日も来るからと続けた僕のしつこさに、嫌われてさえいるのだと思っていたから。


だから余計に言えなかった。

病気の先生の負担になるのも、嫌われるのも怖かった。


一瞬ふわりと身体が軽くなる。

僕は、先生からの僕あての手紙が置いてあったテーブルに目を移した。


封筒を取り上げた時は丸い形のテーブルだったような気がしたが、今は縁取りに小さなタイルが飾り付けられた楕円のテーブルに代わっていた。


いつの間に、と小さく疑問に思う。


すると目の端の方を一瞬、黒い影が横切っていった。

何だろうか、今の動物のような。


テーブルの上には、ほんのりと花のような香りを漂わせた便箋と封筒が置いてある。

薄いピンクのような、いやよく見ると薄紫色のようだ。

すぐ横には一本のペンが置いてある。


僕は手にとって、ペンのフタを外した。テーブルのそばにある小ぶりなイスに座る。


便箋を引き寄せて、さて書こうとした時。


僕はペン先を便箋につけたまま、少しだけうろたえてしまった。


一瞬、何を書いていいのか、いや何を書くべきだったのか、全く分からなくなってしまっていたのだ。


しばらくの間、僕はペンを握りしめながら、便箋を前に呆然としていた。頭の中が真っ白だった。


ところが便箋を見つめていると、先ほどまでは薄紫に色づいていた紙は、これ以上は白くはならないというほどの、純白に変わっていった。


その白さで、何かを思い出しそうだった。


白い。

手。

細っそりとした、指。

ああ、そうだった。先生の指。


すると頭の中に、言葉が浮かんだ。

先生から貰った手紙の返事を書かなければと、今度は急き立てられるように。


「……先生」


それから僕は、僕の中からあふれ出す言葉を一字一字、便箋に書きつづっていった。

一心不乱にペンを走らせた。


「せ、先生、先生、」


先生への恋慕の情を。僕の全てを、心を。先生から貰った告白と同じように。


僕は気がつくと最初に座っていたソファに横たわっていた。

いつの間に手紙を書き終え、眠ってしまっていたのだろう。


身体を起こし、あたりをぐるりと見渡してみる。

すでにそこにはテーブルやイスの存在はない。


書き終わった先生への手紙を入れた封筒もなくなっていた。何もかもがなくなっていた。


僕はソファから立ち上がり、この見慣れない部屋に一つしかない扉へと向かって歩いて行った。

先生は何処にいるのだろう。

それだけ想うと、胸がちりと痛んだ気がする。


先生を探さなくてはと、そればかりで頭がいっぱいになる。

先生に、逢いたい。

逢いたい、逢いたい。


扉に手を掛ける。

ドアノブに掛けたはずの手が、すっと空を掴む。

いつのまにか、ドアノブはなくなり、その代わりに小ぶりな引き戸の取っ手がついていた。


そう、ドアはいつのまにか、引き戸になっていたのだ。


「夢……」


呟いてから、取っ手に指を引っ掛けて、横にスライドさせる。

ガタンガタンと、それは電車が目の前を一定のリズムを刻んで線路を走っていくような音をさせて、ゆっくりと開かれた。


僕は足を一歩、また一歩と進ませる。


先生は何処にいるのだろう、それだけを想いながら。


✳︎✳︎✳︎


「このような事、本当に引き受けていただけるのですか」


僕の依頼主は、どこか陰りのある表情をさらに曇らせていた。いや、曇らせているというよりは困惑で揺らがせている、という言い方が当てはまる。


そして言葉は続けられた。


「本当にこんなこと、許されるのですか?」


今度ははっきりと疑問形にして。縋るような目。


しかし、すぐにその瞳は塞がれ、瞼がふるりと震える。


茶道の家元という職業柄、身なりはきちんとしなければならないのだろう、和服を着崩すこともなく、丁寧にきっちりと着こなしている。


今どき珍しい、全く手を加えられていない、容姿。

けれど生来生まれ持つ美しさと儚さは、触れてはいけないような、立ち入ってはいけないような、そんなバリアのようなものを形成していて、その力で僕を圧倒する。


僕が営む、「眠り屋」の事務所のドアの前に立つ、その姿。


春とは名ばかりの、まだ寒さの厳しい立春。


彼女は買い物袋を両手にぶら下げて歩いてくる僕を認めると、すっと片足を後ろに引いて体を傾け、滑らかにお辞儀をした。


その姿があまりにも美しく、けれどそれは幼子の手をすり抜けては漂い、しまいには壊れて跡形もなくなってしまうシャボン玉のように、危うい存在でもあった。


何度も人の夢の中に入り込み、不可思議な感覚を幾度となく享受してきた僕ではあるけれど、けれどこのままこの人を消えてなくならせてはいけない、僕は心からそう思った。


「彼の心の、ほんの一握りだけでいいのです。一緒にいたいのです。彼の持ち物か何かを持っていけばいいんじゃないかと思われるでしょう。自分でも本当に呆れてしまうのですが、それではだめなのです」

そっと、息継ぎをする。

「……死ぬのは怖くないのです。でも、私は何て欲深い人間なんでしょう、彼の心が欲しいのです。彼を愛してしまったことすら許されないのに、こんなこと……とうてい許されないのに……」


滑らかな頬。その頬を細く、弱々しく、涙がつたって落ちた。

伏せられた睫毛を涙が濡らし、いっそう艶やかな漆黒の色へと深めている。


「許すか許されないかは、僕には判断できません」


そう言い終わるや否や、彼女は激昂して叫んだ。

いや、実際には叫んでいなかっただろう。

けれど僕にはそう聞こえていた。


「いえ、とうてい許されるはずがないのです。そう、彼のお母さまにも、どれだけの身のほど知らずだと、そしてどれだけの厚顔だと。一体、息子といくつ歳が離れていると思っているのか、息子の人生を台無しにするなと、何度も言われました。これは許されないことだと。そうなんです、私はこんなこと、早く終わらせなければいけないのです」


「でも、あなたは遠矢くんにはっきりとは応えてはいないのでしょう。お母さんがあなただけを責めるのはフェアじゃないですね」


「遠矢くんも、お母さまに言われているはずです。彼は決して自分の口からは言わなかったけれど、私には分かります。もう子どもを持つことができない歳になってしまった私が、未来のあるまだ若い遠矢くんを飼い殺しにするのを見ていられない、そんなお母さまのお気持ちもよく分かります。ですから私は遠矢くんに私から離れてもらおうと……酷い態度をとって冷たく接してみたりもしたのですが、」


言葉が途切れ、彼女はすみません、と小さく言う。少しだけ鼻を啜りあげた。

ピンと張った糸をさらに引っ張り続ける、ありったけの力で。


「……こんな言い方、いけないかもしれませんが」


彼女は浅く一呼吸してから、吐き出すように言った。


「私の命の、先が知れて良かったと、皆ほっとしたでしょう」


顔を上げて、僕を見る。


「……私でさえ、そう思うのですから」


何という強さだ。

僕の目を真っ直ぐに見返してきた、その目。


言い切って、一瞬だけ微笑みを浮かべると、彼女は帰っていった。


夕暮れが終わり夜の帳が下りる中、その宵闇に消えていくようにして。

そんな風にして、彼女の命も消えようとしていた。


✳︎✳︎✳︎


先生、僕は先生をいつも泣かせるか、怒らせるかだったような気がしていた。

自分でも情けなくて、それが悔しくて。

先生を幸せにしたいとか、守りたいとか、一緒にいたいとか、笑っていて欲しいとか、毎日毎日、そう思っていたし、考えていたのに。

情けなくて、僕も一緒になって泣いたりして。

バカみたいだ。

先生はもうすぐいなくなってしまうのに。

思っていたことの、ひとつでさえ、できなかった。

思っていたことの、ひとつでさえ、言えなかった。

けれど、覚えているよ。

あの日のこと、倉庫を掃除した日のこと。

ゴキブリに驚いて、僕は変な声を上げてしまって、すごく恥ずかしかったんだ。

先生が退治してくれて、僕は情けないのとみっともない気持ちでいっぱいで。

でもあの時、先生は笑ってくれてたんだな。

それを聞いて、ちょっと安心した。

もしかしたら、僕は意外と先生を笑顔にできていたんじゃないかって、そう思えて。

先生が入院してから、入院先の病院とか先生の名前とか、いろいろ自分なりに調べてみたりはしたけど、僕はその頃先生の近所では噂の元になってたから、そういうの知ってそうな人には聞けないし、名前だけでもって思っていたけど、結局は調べようがなくて。さすがの僕でも、先生んちのポストには手を突っ込めなかったから。

それが心残りだったけど、まあ、先生に会って直接聞けばいいかなって。

そしたら、今度こそ先生のこと、名前で呼ぶからね。

楽しみに待っていて。

僕もすぐにいくよ。

そう、すぐにいって、これからはずっと先生のそばにいる。

今度こそ、一緒にいたいから。

好きなんだ、先生。

あなたが好きなんだ、愛してるんだ。

あなたを追っていく。

すぐにそばにいく。


✳︎✳︎✳︎


「遠矢くんの夢の中で書かれたあなた宛の手紙は、現実には文章化はできませんので、あなたの夢の中に入らせていただいて、その時にお渡しします。あなたの手紙をいただいた時のように、黒豹の姿をした夢魔に届けさせますので、驚かないように。それで大丈夫ですか」


「わたし宛の手紙……、はい、それでいいです」


彼女は少しだけ嬉しそうに、はにかむ少女のように笑った。

ここへきてやっと見ることのできた安堵の表情。


郊外に建つ、ひっそりとした病院の一室でなければと、どうにも変えることのできない現実を小さく笑う。


「厳しいことを言うようですが、手紙の内容に関しては、私は一切責任を取ることはできません。あなたの意に反する内容、または白紙であった、という残念な結果であることもあり得るのです。手紙の内容によっては、あなたの心情に深い傷をつけることにもなりかねません。それでも……」


言葉を、思いも寄らぬ力強さで遮られた。


「構いません。このような身で、傷つくことなど何があるのでしょうか」


けれど、すぐにも和らいだ表情。


「例え白紙であっても、遠矢くんの心です。彼のものなら、白紙のままでも、貰っていきます」


絡ませている彼女の両の指が、少しだけ震えたように見えた。


恥ずかしいことではあるが、実は僕の指も震えていた。


僕の場合は、目の前に存在するあまりの愛情の深さに、締めつけられた心が、全身を巡り巡って、指先までに伝わるのだろう。


僕の過去にも、同じような傷の痛みがある。


「分かりました。では、夢の中でお渡ししたら、すぐに開封し、読んでください。読み終わればその存在もなくなりますので、しっかりと覚えていてくださいね」

言葉を継ぐ。

「当たり前のようですが、夢から覚醒してしまえば、手紙は消えて無くなります。普通、人は自分が見た夢の内容を覚えてはいません。眠りから覚めた直後はぼんやりとは覚えていたりしますが、すぐに忘れ去ってしまうんです。特にあなたの場合は私が夢に入り込んで、ゆっくりと覚醒を促し覚えていられるように仕向けますので、忘れたくないのならば、起きてすぐにメモを取ることをお勧めします。そうでないと、矛盾のように聞こえるかもしれませんが、記憶はすぐに脳によって奪われてしまいますから」


「ご助言を、ありがとうございます」


晴れやかな微笑をこちらに向けながら続ける。


「でも私、メモは取りません。私が書いて文章にしたりしたら、彼からの手紙でなくなってしまうから。できるだけ覚えて、この胸の中に仕舞って逝きたいと思っています。眠り屋さん、本当にありがとう。心から感謝します」


不思議と、先ほどまで感じていた胸の痛みはなくなっていた。


その言葉と笑みに、僕もつられて微笑む。

そして、手の中に柔らかく握り込んでいた右手を彼女の目の前に掲げた。


指を広げる。


僕の手からはひとひらの薄紫色の花びら。


ちらちらと落ちていって、細いチューブに繋がれた、彼女の白い手に届く。

見届けてから、彼女を見る。


彼女のまぶたはまるで一輪の花がその生涯をそっと終えるかのように、静かに静かに閉じられていった。


そして最後に。

美しい真珠のような涙を一粒、零したのだ。


彼女の夢の中へ。

僕もまぶたを閉じる。

一粒の真珠は、僕のまぶたの裏側で、光をそっと消していった。


✳︎✳︎✳︎


僕は泣いていた。


眼を一度、閉じてみる。

すると溜まった涙が頬を流れていった。

そして、また目をそっと開ける。


こんなにも幸せな夢だったのに、なぜ涙が出るのだろう。


先生に、やっと伝えられたのに。やっと、告白できたのに。

それに、両想いだったって、分かったのに。


泣いてはいたけれど、穏やかな海で漂っているようなこの感覚。

愛していると、確かに言葉にした。

気持ちが凪いでいて、ほっとしている自分もいる。


頬が冷んやりと濡れているのを感じて涙を拭おうと、指でそっと触れる。


触れた指先に一枚、花びらがついていた。


薄紫色の小ぶりな形。覚えている。


この花びらを手にした「眠り屋」の矢島さんは、先生の依頼で来たと言っていた。

夢の中へ入らせて欲しいと。


名刺を渡された時の最初の印象、丸い眼鏡にネルのシャツという服装が、というより身にまとっている雰囲気がと言った方が良いか、何だか少し古臭いような時代遅れのような印象で、最初はかなり疑心暗鬼であった。


けれど、僕は先生からの依頼と聞いただけで、すぐに彼を信頼してその「夢」を通して行う手紙の交換という信じ難い提案を受け入れた。

僕の部屋で少しばかりの説明を受けて、早速眠りに入った。


そうだ、はっきりと思い出した。


僕は夢の中で、先生に手紙を書いた。

僕は僕の気持ちを伝える機会を得て、水を得た魚のようにペンを走らせた。


夢の中で書いた手紙をどうやって先生に渡すのか、どうやって先生に読ますのか、黒豹がどうだとか言う話もあったような、説明されてもよく分からない部分もあったけれど、先生が信用している人なら、僕もそうすべきだと思った。


「先生の入院先、まだ聞いてないのに」


目覚めるとすでに、矢島さんはいなくなっていた。


ぼうっとする頭をふらふらと起こすと、指先についた花びらを大切な宝物のように、うやうやしく手のひらに乗せる。


「この花びら、確かシオンという花だって、言っていたよな」


僕はスマホで検索し、「紫苑」の画像をタップした。

名前の通り、紫の可憐な花。


そして画面をスライドさせていた指を止める。

調べるつもりも無かったのに、最近の検索候補は親切である。


そこには、花言葉。


遠くのあなたを想う


先生、この花はあなたが選んだのですか。

僕はその場で立ち尽くし、そして、そのまま声をあげて泣いた。


✳︎✳︎✳︎


「先日はご協力いただきまして、ありがとうございました」


丸眼鏡というだけで、かっちりと固いきちんとした性格だろうと思い込んでいた僕の前に、やはりそれは間違いないと確信に至るような挨拶を寄越してから、彼は帽子を取って軽く会釈をした。


この「眠り屋」という不思議な職を選んだ、若いとも若くないとも取れる不思議な風貌を前にする。


僕はどう返していいのか分からずに返答を躊躇して、無愛想にも会釈だけをかろうじて返すと、彼はにこりと笑って一通の封筒を差し出してきた。


「生前の依頼主に、頼まれたものです。自分が亡くなったら、あなたに渡して欲しいと」


僕はもうそれだけで大きくうろたえてしまった。


あれから直ぐに、先生は死んでしまった。


葬式には行けなかった。


親戚を味方につけた母親が中心となって、皆がこぞって反対して僕を一日中見張っていたため、火葬場に近づくことすらできなかった。


死んでも尚、反対するって、どんだけだよ。

思いながら隙を見て家から抜け出し、見張りがいるであろう火葬場ではなく、家のすぐ近くにある高台にある公園に向かった。


火葬場の、煙突から先生が立ち昇っていくところは、そこから見ていた。


風の強い日だった。


先生からの手紙はもう夢の中で貰って読んで、心の奥に仕舞ってある。

それなのに、また先生からの手紙。


「これは、手紙と呼ぶべきものではないかも知れません」


心を見透かされたような気持ちがして、身体がびくりと動く。


先生が死んでから僕は、絶望の気持ちを抱いたまま長い間、細く細く息をしながら生きていた。

僕の時間は、あの風の強い日、煙突から薄青色の空へと散っていく先生を見送ったあの日から、ぴたりと止まってしまっていた。


だから今また、先生を失った現実に引き戻されて、あの押し潰されそうで狂いそうなくらいに味わった苦痛を、また味あわされるのではないかと、空恐ろしくさえ感じたのだ。


そう、狂ってしまうのかと思った。

悲しみがあまりにも大き過ぎて、息が止まるのではないかと思った。


あの、先生が死んだと聞かされた時の、言いようのない喪失感。

自分が空っぽになり、このまま消えてなくなりたいと願ったあの日。

先生の後を追うことばかりを考えている。

あの日以来、ずっと、ずっと。


直ぐには受け取れなかった。


長い沈黙の上でも、手を伸ばすことができなかった。


俯いたまま彼の靴の先を見つめ続けている僕を見兼ねたのか、彼が声色を柔らかくして言った。


「あの人は言っていました。ご自分の名前が嫌いだったと。主に男の子に付けられる名前だろうから、嫌で嫌で仕方がなかった。もっと、女の子らしい可愛い名前が良かった、と」


僕ははっと顔を上げて、彼を見た。

哀しげな微笑が漂っている。


「な、まえ……?」


「けれど、あなたが教えて欲しいと何度も手紙に書いてくれたことが、すごく嬉しかったと言って、喜んでいました。自分の名前を少しだけ好きになれました、と」


再度、封筒を差し出す。


覚えのあるような真っ白な封筒。


夢の中で、自分の心の内を書きつらねた真っ白な便箋と、先生に届いて欲しいと願って入れた封筒。


宛名は書けなかった、名前を知らなかったから。

先生へ、とだけしか書けなかった、あの封筒にとてもよく似ている。


僕が受け取ると、彼は帽子を被り会釈をした。


「では、さようなら。お元気で」


僕はその場で、真っ白な便箋を持ったまま少しの間、立ち尽くしていた。


けれど、彼が言った「名前」という言葉に我に返り、封筒を開けた。


中から便箋を取り出し開いてみると、そこには一つの名前。


想像とはかなりかけ離れた、確かに常識的にいけば、多くは男の子につけられる名前。


女の子にも、使うだろうけど……


僕は薄く笑った。

その名前を、何度も繰り返し、声にしてみる。


そして、その名が先生の姿にしっくりとしてきた頃、僕は空に向かって先生を呼んでいた。


「あきら、って、男の名前だろ。全然、先生のイメージじゃないじゃん」


けれど、書かれていた一文字の漢字の意味は辞書を引いて調べるまでもなく知っている。


「夜明けの空、という意味だよね」


そして、名前の下にひっそりと書かれている言葉。


ありがとう、

あなたには、生きて欲しい


僕の上にずしりとのしかかってきた、先生の言葉。


僕は長い間、動けなかった。動けずにいた。

けれど、それでも息はしていた。し続けていた。


僕は、未だ生きている。こうして、生きながらえている。


「って、先生が望むなら、僕は従うしかないじゃないか。先生の言うことなら、聞くしかないじゃないか。ずるいよ、先生。ずるいよ、ずるい」


涙が溢れて流れてくる。溢れて、溢れて、流れ落ちる。


僕は泣きながら、先生の名前が書かれた手紙を封筒に丁寧に戻す。


空を見上げた。


そして、静寂の夜が終わり、ゆっくりと白々に明けてゆく空を、想像した。


封筒を胸のポケットに入れる。上から手でそっと押さえてみる。


僕は大切な人の名前を手に入れた。

そう、そして心も。

一生大切にして、一生愛しむ名前。


『暁』


夜明けの空。


あの清々しいまでに身も心も洗われて、今一度生きようという力強さを分け与えてくれる、朱色に染まる明け方の空。


闇の中にいる僕の心までもきっと、その光は届くだろう。そして僕の心の中にある、欠片ほどに小さく弱々しい健全さを、きっと引っ張り出してくれるだろう。


僕は胸に手をあてたまま、声を上げて泣いた。

この声は、先生に届くのだろうか。


先生、

葬式の日、先生を見送ったあの日のように、風が強く吹く日があったなら、次の日は早起きして、力強く美しい、あの陽の光を浴びることにするよ。

あなたが恋しくて恋しくてどうしようもない時は、あなたから貰った手紙を、読み返してみるよ。


そう、あなたに貰った暁の空のもと、僕はいつでもあなたに逢える。

あなたに、逢いにいく。


僕は一通り泣いてしまうと、ゆっくりと空から目を離し、踵を返して玄関のドアをそっと閉めた。


ねえ、先生。いつか先生のそばへいった時、僕と一緒に笑ってくれる?

そしたら、何度も、先生の名前を呼ぶよ。

ねえ、先生、

僕はあなたを一生大切に、夢の中に仕舞っておく。

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[良い点] 人生で愛する人を見付ける、というのは、かけがえのない事だと思います。 例え、歳が離れていても、周りから反対されても、愛する気持ちをなかった事にはできない。 別れの間際で、お互いが正直にな…
[良い点] もうなんといえばいいのか…… 夢を通して成就したがゆえに、先生の死がより悲しい……そんな切ないラストでした。 周囲から責められても恋を捨てきれずに苦しみ、死が決まってほっとするとか……そ…
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