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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
手紙 −紫苑
18/63


どれだけ母が行くなと言い続けても、僕は毎日のように先生の教室へと通った。

誰に反対されようが、僕には先生が必要だった。

僕には父親がいないけれど、例え父親がいて、だめだ行くなと殴られたとしても、腫れた頬であっても構わずに、僕は先生の教室へ行ったに違いない。


この頃、僕が、ひどく歳の離れた先生に夢中なっていることは、誰の目にも一目瞭然だった。


両想いになって結婚できたとしても、先生のあの歳じゃ、もう子どもを授かることはできないし、孫のお世話をすることが夢だったんだから、と母から何度も同じことを言われ続けて、僕はうんざりしていた。


そんなことを言われて、先生はそんなに歳だったのかと改めて思ったこともあった。けれど僕は、結婚とか子どもとかをどうこう考えるより、先生と一緒にいたい、ただただそれだけだったのだ。


僕を懐柔しようとしていた母は、何を言っても効き目がない僕に腹を立て、手がつけられないほどに激昂するようになっていった。


そしてついには、先生を汚い言葉で罵倒し始めたのだ。


自分の立場も歳もわきまえずに、未成年を誘惑しただの、何だの。


「あなた、これがどういうことなのか、わかっているんですか? まだ子どもの遠矢をいい風にたらしこんで、いったいどうするおつもりですか? 遠矢はまだ未成年ですよ。そんな未成年をたぶらかして、これはもう犯罪としか言いようがないでしょう。いったい、どう責任を取ってくださるんですかっ‼︎」


そうやって今度は、先生の自宅にまで行って、騒ぎ立てた。味方につけた親戚を連れだって、だ。


永遠に続くかと思うほど、繰り返される先生への罵詈雑言。

その悪口のひとつたりとも、先生には当てはまらないというのに。


僕は先生への罵りの言葉をひとつも耳には入れないようにと、振り切るようにして背後でドアを乱暴に閉め、毎回、家を飛び出るように、先生の教室へと向かった。


「遠矢っ、待ちなさいっ、待ちなさいぃぃ」


道に靴下のまま飛び出した母の金切り声が、肌に刺さる木枯らしの風の中、いつまでも響いていた。


✳︎✳︎✳︎


先生の点前。

正面から見る。

それは完璧なまでに洗練されたもの。


一つとして無駄な所作はない。

指先が。

流れるように、次の動きへ。


教室の、生徒の誰もの、そして僕の目をも釘付けにする。


その度に、揺れる黒髪。無表情、沈黙の淡い唇、茶筅を持つ手。


僕が愛した白い指。手の甲から伸びる、細くて弱々しい指。その指先には、切り揃えられた、薄桃色の爪。


綺麗だな。

すごく、綺麗だ。


一度だけ、勇気を出して、先生の点前は綺麗ですねと言葉にしてみたことがある。


けれどその時。

先生は何も答えてくれなかった。

ゆらゆらと揺れる、困ったような笑みを、浮かべただけだった。


冗談だと取られただろうか。僕の本心なのに。


その時、僕は考えた。

先生にとって、これは迷惑な恋なのだろうかと。


母に浴びせられる、貶めの言葉。

そして、好きだとも、ごめんなさいとも言えない、僕の情けない存在自体でさえも、もしかしたら迷惑なのかもしれない。


迷惑かもしれないと。


胸が痛むほど、考えた。

胸が痛むほどに、考え続けた。


✳︎✳︎✳︎


ねえ、先生。

先生の名前、なんていうんだろうな。

今まで生きてきた中で、って言っても、まだ高校生だけど。これほど知らないことで後悔したこと、一度もないくらいだ。

名前、聞いときゃ良かったって。

きっと名前もきれいなんだろうな、そうなんだろうな。

僕はすぐに櫻井さんの坊ちゃんと呼ばれるのが苦痛になって、僕のことを名前で呼んで欲しくて、僕の名前を教えたよね。

先生はすぐには呼んでくれなかった。

でも、そのうちに呼んでもらえるようになって。

先生が僕の名を呼ぶ度に、腹の底から何かがこみ上げてきてさ、何か存在感っつうか分かんないけど、とにかく腹の中があったかいような、くすぐったいような気持ちになってさ。

それがすっげ、愛しいっていうか。

僕は茶道に関してはあんま興味なかったから、こう言うと先生は怒るかもしれないけど、全然いい生徒じゃなかったよね。

先生に近づきたくて、本屋で初心者向けの本も買ってみたけど、よく分かんなくて興味も持てなくて。

先生が好きなもの、僕も好きになりたくて、最初は必死だったけど。

でも結局挫折したんだ。

意外と難しいんだよ、茶道って。

あ、笑わないでよ。

茶道が、奥が深いんだってことぐらいはわかるんだから。

そのことについては、先生とたまに話したよね。

先生は無理して好きにならなくても良いというようなこと言って、僕に少しだけ笑いかけたんだよ。

眉間に小さな皺を寄せながら、だったけど。あれは先生、絶対に呆れてたね。わかってたって。

そうだな、もっといろいろと話せば良かったって、今になって後悔してる。

告白とかさ、大人の先生にするのは絶対無理って思って、僕の気持ちを全然伝えられなかったし、先生の気持ちも全然分かんなかったから、デートにも誘えなかった。

余計な声を掛けて、失敗したくなかった。嫌われるのが、怖かったんだ。


✳︎✳︎✳︎


遠矢くん、この手紙は私の夢の中で、あなた宛に書いています。手紙というより、自分の気持ちを整理したくて、書いているような気もしています。

あなたに見せることのできる、最初で最後の手紙です。

けれど本当は、見せてはいけないものなのです。

これまでずっと、ひた隠しにしてきた私の心の中。

ごめんなさい、私は自分でも恐ろしいほどの身勝手さで、あなたを連れていこうとしている。


あなたが教室へと来てくれるようになって、家族を早くに亡くして独りに耐えていた私は、あなたのお陰で心と身体の健康を取り戻していきました。

そう、あなたのお陰なのです。

いつも優しく接してくれて、いろいろと面倒な家の仕事も手伝ってくれたりしましたね。

外の倉庫を掃除した時のこと、覚えていますか。

虫の苦手なあなたに代わって、ゴキブリを私が退治したりして。

あなたのあの、慌てようと言ったら。

私は感情を表に出すことを忘れてしまっていて、顔には上手に出せなかったけど、心から、心から楽しかった。

あなたの心身ともに持ち合わせている健康的な部分が私に伝染して、私はずいぶんと救われていたのです。

あなたに逢って、元気になる自分を嬉しく思っていましたし、あなたが見せるひたむきで真っ直ぐな姿、それが私を少しずつ良い方向へと変えていきました。

毎日、あなたが来るのを楽しみにしていたのです。


私はもともと身体は弱かったのですが、このように患った病気で先が知れた時、どうしてといよりは、やっぱりそうなんだ、そういう運命なんだと受け入れる気持ちが先に立ちました。

その時点でかなり病状は悪化していました。急に症状が酷くなったように思えたのは、それまでも色々と前兆は出ていたのだけれど、毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったから、気付かなかっただけで。

そしてあなたに出逢って、元気になってきているという気持ちがあったから、やっぱり落ち込んでしまいました。

こう言うとあなたは怒るだろうけど、長くは生きられないと感じながら今までの日々を過ごしてきたので、少しのことですが覚悟のようなものもあったのです。

けれどそれはそんなに力強いものではなかったのですね。

そして、余命をはっきりと知ったあの日。

私はひどくあなたにあたり散らしてしまいました。自分でも、頭がおかしくなったのでは、と思うくらいに。

あなたはすごく困った顔になって、哀しい顔になって。

あなたが悪いんじゃないのに。

それなのにあなたは手を、ずっと手を握ってくれていましたね。

ずっと、手を握っていてくれた。

そして、あなたに別れを告げなければと思うにつれ、私は私でなくなっていったのです。

どうして、あんな冷たい態度をとれたのだろうかと、今になって思います。

自分の命の期限を知り、あなたを私という存在から切り離すことから始めたわけだけど、なかなか上手にいかなくて。

あなたを苦しめるばかりだった。

あなたと、あなたのご家族をも。

謝らなければなりませんね、本当にごめんなさい。

あなたには、あなたにひどい態度をとって傷つけてしまったことを。

あなたのご家族には、あなたの心を連れていってしまうことを。

櫻井さんには、あなたのおばあさまには向こうで会った時、お詫びしようと思っています。

許していただけるといいのですが、そんな風に淡い期待を抱いても仕様がありませんね。

こちらの世界で許されないことは、あちらの世界でもきっと許されない。

それは変わらないでしょう。


あなたの心を、連れていきたい。

そう口に出した時、眠り屋の若いご主人は目を丸くされていました。

きっとなんて馬鹿なことをと、呆れられて断られると思っていました。

だから、ご相談にのりますよ、と言われた時には、少し驚きました。


私はあなたの心の内側を知りたいと願いました。

あなたの心に私という存在が大きく占めてはいなくても、それでもあなたが私を、ほんの一握りでも想っていてくれたなら、と願って。

その一握りの心を貰って、死にたいと願って。

だから、私はもうすぐいなくなってしまうけど、あなたの心を連れていきたいのです。

ずっと、私のそばで寄り添っていて欲しくて。

この手紙を読んで、あなたも私のこと、きっと呆れるでしょうね。

信じられないと。

こんな人とは思わなかったと。

自分の我儘であなたの心の一部を連れ去ってしまう、卑怯な人間だと罵るでしょう。

それでも構いません。

私が死んだら、こんなこと忘れてください。

私のことも忘れてください。

けれど、私は……、

私だけはあなたが欲しくて。

あなたのその笑顔、その目、優しく包み込むようなその目が好き。

一緒にいたくて。

そばにいて欲しくて。

言葉にしたことはなかったけれど、私はあなたに恋をしているのです。

信じられますか、あなたを愛しているのです。

こんなこと、言うつもりはなかった。

本当にごめんなさい。

許されない。

こんなこと、許されないのに。

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