風
『手紙』
近づくことすら許されなかった火葬場。
長細い煙突から一筋の灰色の煙が立ちのぼる。
煙は強い風に煽られ、空へと散らばり、その薄青色に溶けるようにして混じり合っていく。
それは、僕が愛した先生の、
後ろ姿、
先生、今でもあなたを愛しています。
✳︎✳︎✳︎
あの日も同じように空を見上げていたっけ。
先生。
僕は、先生がまだこの世に存在していた時に、「眠り屋」の主人によって、僕の夢の中へと届けられた先生からの手紙を、まだ大切に持っている。
先生が一生懸命に書いてくれた僕あての、唯一の手紙。
そして、僕が心を込めて書いた、先生への返事。
夢を通してのやり取りだったから、今となっては何だか薄らぼんやりとしたものになりつつあるけれど、お互いの心を交わした記憶として、僕はその手紙を胸の内へと仕舞い込んだんだ。
それでね。
風が強く吹く日は、いつもこうして空を見上げながら、その手紙を頭の中で引っ張り出してきては、読んでいる。
授業の出席日数がぎりぎり足りず、担任のお情けで高校を卒業した日。
興味もない研究にただただ没頭するためだけに進んだ大学院での最終試験の日。
教授の推薦で就職した会社から、ひとりアパートへと帰る、いつもの日常の日。
風が強く吹く日はこうして、長い間空を見上げ、その雲の行方をずっと見続けたりもしている。
風が思い出させるから。
先生のことを。
「明日は、早起きしなきゃな」
呟くと、僕は目を閉じた。
びゅうびゅうと風の鳴る音だけを、耳に捉えながら。
✳︎✳︎✳︎
先生、この手紙は「眠り屋」の矢島さんっていう人に言われて書いています。
僕が見る夢の中で、って、これは本当にヘンな話なんだと思うけど、
僕が先生にもらった手紙を読んでから、その返事っていうか、思ったことや先生に伝えたいことを書いてくださいって、言われてて。
だから、書くけどさ。
何だか恥ずかしいな、こういうの。
笑わないでよね。手紙なんてもの、初めて書くんだよ。
先生からのラブレター(って考えてもいいよな)、読んだよ。
嬉しかった、すげ、嬉しくって涙が出たよ。
ああ、先生も僕と同じ気持ちでいてくれたんだな、って。
天にも昇る気持ちって、こういうことなんだな。
嬉しくて、嬉し過ぎて、すごく浮かれてしまっているから、ちゃんとした手紙を書けるのか、ちょっと心配しているよ。
先生は僕の先生でも何でもなく、けれど初めて会った時、僕のことを櫻井さんのお坊ちゃんと呼んだから、僕もばあちゃんの先生だったあなたをそんな風に呼んだんだ。
先生の名前も知らなかったし、ばあちゃんがいつも夕飯の時、「先生」としか話さないから、けれど茶道の先生なんだから、僕はてっきりおばあちゃん先生かおじいちゃん先生だと思い込んでいて。
それに今思えばさ、先生の名前をちゃんと聞いときゃ良かったって。
覚えてるかな、僕が母さんと一緒に先生を初めて訪ねて行った日、母さんと話すあなたとの間に、割って入るようにして「先生」って初めて声を掛けた時のこと。
先生は僕を見て、少しだけ悲しそうな顔をした。
もちろんだ、身内を亡くしたばかりの僕を気の毒にと思ったのか、今となってはどんな表情だったのかぼんやりとした曖昧な記憶になってしまったけど、確か首を少しだけ傾けて悲しそうな顔をしたよね。
ねえ、信じられないよ。先生がもうじき僕の手の届かない場所へ行ってしまうだなんて。
けれど、大丈夫だよ、すぐに僕は先生のそばへいく。
待っていてくれるよね。
そんなに長い時間は待たなくていいんだ、ほら、先生に初めて出逢った時も、ちゃんと次の日には逢いに行っただろ?
だから何の心配もしなくていいよ。
すぐ、そばにいくから。
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「ちょっとお、遠矢、降りてきてえ。これ、重いやつ手伝ってえ」
机に突っ伏して、うとうととしていた僕は、母の呼び声で目を開けた。
「ちょっと早く来て‼︎ 手伝ってくれないと終わんないのよ‼︎ ちょっと遠矢っ」
かったりぃなあ。
僕は聞こえないよう小さく文句を言いながら、階段をのろのろと降りていく。
つい先日まで祖母が使っていた和室。その引き戸に手を掛けると、ガタゴトと何かを片している音が部屋の中から聞こえてきた。
その音で嫌な予感はしたが、寝起きの思考能力ゼロの頭。何も考えず、そのまま部屋へと入った。
すると畳の青い匂いが、鼻の奥へと滑り込んでくる。
祖母の部屋はいつも和の匂いがする。生きていた時も、死んでしまった今でも。
「これ、この重いの、外の倉庫まで持ってって」
段ボールに詰められているであろう、祖母の遺品。
すでにガムテープで塞がれていたが、段ボール箱の横には「茶道 道具」と殴り書きがある。
他にも「華道」「ボランティア」「押し花」などと書かれた箱があちらこちらに置いてある。
「運ぶくらいやってよね。詰め込んだら重たくなっちゃったのよ」
責めるような口調で、母が段ボールをばしんと叩く。
片付けをぞんざいに断って、本屋へとマンガを買いに逃げたのが気に入らなかったらしい。
僕はこれ以上の抵抗で「昼飯抜き」などの制裁が返ってくるのを恐れて、のろのろと段ボール箱に手を掛けた。
ずしりと手に重さが伝わってくる。
散らばったクロックスを足で探ってひっかけると、開けっ放しの玄関から倉庫へと運んだ。
「それ終わったら、梅園さんで和菓子買ってきて。御使い物ですって三千円くらいのやつを三つ、お店の人に見繕ってもらって。お釣りはお小遣いにしていいから」
「なんだよそれ、めんどくせえなあ」
「ちょっと、昼ご飯作ってやんないわよ、早く行ってきて。三千円だからね」
頭がようやく覚醒してくる。
僕は仕方なしに、母の手から一万円札をひったくると、スニーカーを足で回転させて勢いよく突っ込んだ。
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「おい、どうして俺が、」
言い掛けたらすぐに遮られた。
「あんた、この前あったテストの結果、また出さなかったわね」
ああ、出たよ、おかんの説教。
心の中で毒づきながら、空いた方の手で頭を掻く。あ、髪なんもしてねえ、くそっ。
「たいちゃんのお母さんに聞いたの。あんた、母親の情報網なめんじゃないわよ」
これは情報を小出しにしてきて、さらに攻めてくるパターンだな。
げんなりしつつも、僕はなるべくHPを消費しないように守りを固めた。守りといっても、聞き流すだけだが。
父親は死別。実際のところ、母には頭が上がらない生活を送っているから反撃の手も鈍る。
「テストの点だって、だいたいはつかんでんのよ」
「くっそ、大志め、あいつ調子に乗りやがって」
どら焼きの袋を足にぶつけては、がさがさといわせながら、母は足早に道を突進していく。
高二の俺がついていけねえって、どんだけだよ。
少しだけ、ペースを上げる。
「あーあ、受験とか。どうすんだろうねえ、うちのバカ息子は」
独り言の域に入った母の言葉を聞き流す。
聞き流しながら、重さで底が抜けないようにと二重に重ねられた紙袋を右手に持ち替える。
なにが入っているのか、この紙袋がとにかく重い。
母が持つ、どら焼きの紙袋とは、比べ物にならないほどの重さ。
ただ、母にそれを持たせるのも酷だなと思うのは、やはり父親がいなく、朝から晩まで働きづめの母を、どこかで慮ってのことだろうと思う。
(俺はこう見えて優しい男なんだ……全然、モテねえけど)
自分で言って自分でツッコミながら、枯れ葉がはらはらと舞い落ちる、その道を急ぎ歩いた。
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呼び鈴を押す母親の指先をぼんやりと視界に入れながら、そう立派でもない玄関の扉が開かれるのを待つ。
茶道の先生の家だと聞いていたから、道中すごい門構えや大きな屋敷を想像しながら歩いて来たのだが。
第一印象は、普通の家だということ。
誰も出てくる気配がない。
紙袋を持ち替える。
その重さに負けて、不服の言葉を口にしようとした時、がらりとガラス戸が横に滑った。
扉に添えられた手が視界に入ってくる。
それは白く、すらっとして細く。
その手の白さ。
それを見た瞬間。
ずくずくと、僕の奥の奥から湧いてくる何かが、僕の心を侵食していった。
この世界の、ものではないような、まるで信じられない気持ち。
奪われたのだ。
視覚だけでなく。なにもかもを。
それから、次の瞬間に僕は確信した。
この白く滑らかな手を。このガラス戸にからみつかせている、ほっそりとして弱々しい指を。
永遠に愛することを。
それは、僕の初恋だった。
「うちの母が大変お世話になりまして」
母の挨拶の言葉が、ようやく耳へと入る。
「櫻井さんがお亡くなりになって、本当に寂しいです。ご家族の皆さまも、お寂しくなりますね」
声。細く響く。
一通りの挨拶を終え、手土産をつまらないものですけどと言って、母が紙袋を渡す。
それを受け取る、その白い手に、僕はもう一度、釘づけになった。
「本当に、こんな古いもの、使っていただけるんですか?」
その文脈から、ああ、俺が持ってるこの重たいやつ、抹茶茶碗だったのか……と思う。
事前に連絡してあったのであろう。
母はぼけっとつっ立っている僕の手から紙袋をひったくると、「遠矢。あんた、ちゃんとご挨拶しなさい。これ重いですけど、大丈夫ですか。こんなお古を使っていただけるなんて、本当にありがたいです。おばあちゃんも喜びます」
ひじで僕の腕をどんと突いてから、先生へと手渡す。
挨拶ってったて、どーしたらいいんだよ。
混乱しながらも、僕は頭を下げた。
そこでようやく、顔を見た。
顎のラインで切り揃えられた、黒髪の艶やかさ。
ほっそりとした頬。細く弱々しい眉に黒々とした長い睫毛。
一重と二重の中間。楕円の形の黒い瞳。薄っすらと色づいた、薄紅色の唇。
日本人形みたいだ。さすが、茶道の先生。頭の中はぐるぐる。挨拶ったってな。なに言やあいいんだっての。
僕は真剣になって考えた。
なにを言えば近づけるのだろうか、この美しい人に、と。なんと言って声を掛ければ、僕を。これからずっと、僕だけを。見てくれるようになるのだろうか、と。
誰か、教えてくれと、僕は耐えていた。
僕の心臓の部分に、実際は存在しない器のような部分に、どんどんと何かが溜まっていって、それが今にも溢れてしまってそのまま身体ごと溶けてしまうのではないかという感覚に、僕は耐えていた。
「ちょっと、遠矢」
どん、と小突かれた二度目の痛みを、腕に感じる。
しかし、僕がもじもじとまだ言い淀んでいると、その美しい人は線の細い低くも高くもない透明な声で、話し始めた。
「櫻井さんのお坊ちゃんのお話は、よくお聞きしておりました。とてもお優しいお孫さんだという風に、」
言葉が途切れる。
彼女はほっと小さく息を吐く。ばあちゃんのことをしみじみと思い出している、という風に。
ああ、その口から出た息を吸い込んで、僕の身体の中心に封じ込めたいという衝動。
「とてもお優しい方だと、聞いておりました。一緒に出かけるときには、おばあちゃん、そこは危ないよって、こんな皺々の手をつないでくれるのよと。とても嬉しそうに」
だめだ、溢れてしまいそうなくらいに湧き上がる感情。
「どんな方なのかとお会いしたいと思っておりました」
会いたかったと言われて、どんっと跳ね上がる。
僕の意識とは無関係の場所で、それが脈を打つ。
目の前で、母と彼女が寂しげな表情で何かを話している。
すでに視覚も聴覚も奪われている僕には、得体の知れない感情に抗う術はない。
ついに。
僕の心臓の辺りにある器が溢れて一杯になり、溢れ、零れ、そしてそれと同時に僕は言った。
「先生、僕も教室に通います」
ああ。それからは、なにもかもが美しかった。
教室を辞した後の帰り道。
僕の突然の行動を訝しむ母の顔。
枯れて葉を散らしてしまった古木の姿。
出し忘れたのであろうポツンと寂しく置かれているゴミの袋。
その世界の全てが美しかった。
全てが素晴らしかった。
僕が踏む、枯れ葉が散り散りに壊される音でさえ、心から美しいと思った。
✳︎✳︎✳︎
先生、あなたの顔を初めて見た時、僕は一目惚れってあるんだなあって単純に思った。
ああ、好きだなあって。
先生は僕の好みの顔だったんだね、多分。
いや、でもさ、一目惚れの瞬間って、本当に不思議なんだね。
最初は、先生の手に惹かれたんだ。
そして僕の中に、先生はするりと入ってきた。
そんな感じだったような気がする。
母さんと話している時に、つい先生に話しかけてしまったのはそういう理由だったんだ。
先生という存在にやられちゃったんだよ。
もう先生しかいらないって、先生だけが欲しいって、思ったんだ。
で、どうしたらいいのかってなって考えて、あの言葉が出た。
僕が先生の教室に入ると言った時、母さんは僕に、なにバカなこと言ってんのってうろたえたように言った。
だから多分もうその時に、僕が先生のことを好きになってしまったことに気付いていたんだと思う。
だから、あんなにも教室に行くのを反対したんだ。
おっと、母さんの話なんか、まあいっか。
とにかく、誰に何をどう思われようがそんなことは僕にはどうでもよくて、もう先生に逢う理由はこれしかないって思ったし、それしか思いつかなかったから。
そういえば先生もなんだか少し驚いた顔をしていたね。
先生のあの顔、可愛かったな。
先生が首をかしげるたびに黒髪が揺れて。
僕は必死になって、あなたに近づくことだけを考えた。
その髪に、白い指先に、どうやったら近づけるんだろうって、そればかり。
あの日から、あなたに逢ったあの日から。
今もずっと、考えているよ。