本当の意味で生きる
例年よりも厳しい寒さで冬が始まろうとした時、僕の事務所の玄関のチャイムが鳴った。
「こんにちは」
ドアを開けると、マフラーをぐるぐる巻きにして顔を半分ほど埋もれさせた小野さんが、立っていた。
「え、あ、お、小野さん?」
口元を隠していたマフラーを、ぐいっと下げた手には、ざっくりと編まれたニットの手袋が被せられている。
小柄な小野さんには、そのマフラーも手袋も大き過ぎる印象がある。ずいぶんと可愛らしい格好で訪ねてくれたなと、僕は少し嬉しく思った。
「どうぞどうぞ」
僕は慌てて、暖かく保たれていた事務所の中へと招き入れソファに座らせてから、常にストーブにかけてあり沸騰状態を保っている薬缶の湯で、温かいスープを作った。
そのカップを手渡そうとした時、触れた指が。
カチカチに凍った氷のようにつめたく、そして驚くほどに冷え切っていた。
「小野さんっ」
僕はカップを横に置き、思わず手を握った。
指は、真っ白で血が通っていないのが目に見えて分かる。
僕はその氷のような彼女の手を前にしてどうしたら良いかと焦ってしまった。
「小野さん、冷たすぎますよ、これ」
小野さんの冷え切った手は、先程まで暖かい部屋でぬくぬくとしていた僕の手の体温をも、するすると奪っていく。
「ちょっとこっちに来てください」
僕はその凍った彼女の手を引いて、僕が長年愛用している、マッチで火をつける型の古めかしいストーブの側へと促した。
そして、温かいスープのカップを両手に持たせる。
彼女は一口飲み、そしてほっと息を吐いた。
「矢島さん、大丈夫ですから、ちょっと落ち着いてください」
「僕は、落ち着いてますよ」
小野さんは苦い顔を作っていたが、次には薄っすらと微笑んだ。
「矢島さんがあんまり慌てるもんだから、何だか笑えてきましたよ。逆に私が落ち着きを取り戻しました」
「だって、いきなり来るから。何事かと思うじゃないですか」
「今日はお話があって」
俯いた彼女の横顔を見て、僕は嫌な予感しかしなかった。
僕の勘は良く当たる。
僕が黙っていると、小野さんがその空気を破るようにして、明るく言った。
「どさくさに紛れて、手を握られてしまいましたよ」
ぺろっと舌を出して笑う彼女は、心底。
美しいと、僕は思った。
✳︎✳︎✳︎
「すみません、私、結婚しているんです」
僕は黙って、話を聞いていた。
「矢島さんが冬になって、私の家に来てくださる前に言わなければいけないと、そう思って」
「では、二階の自宅にご主人が、」
問うているのか、ただ呟いているのか分からないような小さな声で、僕は言った。
「いえ、主人は本宅に居ます。私、事実婚というか、婚姻届は出してなくて、そういう曖昧な、妻なんです」
僕の耳は、彼女の話を、言葉を聞いて受け取っている。
けれど、僕の脳は、ただ聞いている振りをしているように、見せかけているだけだった。それほどに、耳を塞ぎたくなるような、そんな気持ちがした。
きっと、僕の目も遠く濁っているだろう。
「冬の間の生活費は、というか夏もそんなに売り上げがあるわけではないので、まあ一年中って事ですが、その生活費を貰っていますし、主人は社長さんですから、こんな話をするのも何ですけど、お金には困っていません。だから、花屋も適当にやってました」
彼女は話し続けた。
そうでもしないと、呼吸が続かないのではないかというような、そんな風に急いて。
「もちろん、そんな適当な花屋、誰も来てくれませんよね。近所の方はもちろん、お客さんがひとりもない日もありました。そして……」
すんと鼻を少し、啜った。
「……冬だけでなく、夏も。……そう、生きることも、適当でした」
そのまま続ける。
「主人は仕事が忙しい人だから、持病のある私に構う余裕もありません。それに私、正式な奥さんでもないから、ここ一年くらい、主人に会ってもいません。こちらから会いに行ったって、……面倒くさそうに、五分だけだぞ、それで用は何だ、って言われちゃうんです。そんな風では会いに行く意味がありませんから、もうね、ずいぶんと会ってないんです」
「はい、」
僕はそれこそ息継ぎのように、返事を入れた。
「でも、」
その彼女の言葉を受けて、僕は眼を。
眼を、閉じた。
「愛してはいるんです。自分でも、もう止めたいと思っているのに」
痛いほどのものが、どんどんと伝わってくる。
彼女の身体のそこかしこから。
そう、その真白の、指先からも。
僕は顔を上げた。
そして再度、返事をした。
「はい、」
「矢島さん、また来年の夏にはお店にいらっしゃって貰えませんか。今年の夏は、とても楽しかったんです。本当に、心から楽しかった」
そして、小野さんはカバンを持って立ち上がると、僕が返事を返す前に、スタスタと玄関へと歩いていった。
僕からの返事を待ちはしないというような、そんな拒絶も混ぜて、勢い良く歩いていく。
僕は玄関まで見送った。振り向いた小野さんの前に立つ。
彼女は肩にマフラーを掛けっぱなしで、両端を垂らしていた。
不躾とは思ったが、僕はその両端を取り上げて前で交差させ、ぐるりと首に回して背中へと垂らした。
その時。
少しだけ、顔が近づいた。
ふわと、花の香りが届いた。
彼女は睫毛をふるっと震わせながら、僕がマフラーから手を離すまで、そのまま大人しく、首を少し前へと傾けていた。
彼女が細く息を吐いた。
同じように僕も吐いた。
「お元気で」
僕が言う前に、彼女が言った。
それに答えて、僕も言った。
「お身体を、大事にしてください」
大き目の手袋でドアを押し、そして、彼女は帰っていった。
僕の中には、何かぽっかりと穴が開いているような、空虚な空間。
そしてここでようやく、愚鈍な僕は気がついたのだ。
僕が彼女を好きになりかけていたことに。
彼女は僕より先に、僕の気持ちに気がついて、釘を刺しにきたのだ。
そして、いや、と考え直す。
釘を刺すなどと、そういうことではない。
彼女は純粋に、直向きに、僕のことを考えてくれて、このことを伝えに来たのだ。
真っ白な雪のような人だ。
花に例えれば、その白さは、宿根カスミソウ。
花言葉は、清らかな心。
だが。真っ白な雪のような人、そんな風に思って、僕は薄く笑った。
雪などは、決して小野さんのその手に触れさせてはいけない、冷たさだ。
まだこの時期、雪は降らない。
テレビを点けて、ちょうど画面に現れた天気予報に耳を傾けながら、僕は彼女が残していったスープのカップをキッチンへと運んだ。
✳︎✳︎✳︎
どんよりとした重くグレーの雲の塊を追いやるようにして、冬の空は去り、薄い青空に温く心地よい風が吹くようになった、その頃。
ここ数ヶ月コンスタントに入っていた仕事をすっかりと片付けて、ほっと一息ついたある日の午後、僕は小野さんの花屋へと赴いていた。
去年と同じように、そのドアには「closed」の文字。
「トントン、小野さん。もうすぐ、夏ですよ」
今年の夏も、この店は開くのだろうか。
そして、僕はまた去年のこの頃と同じように、オープンを心待ちにしているのだ。
彼女には、すでに振られているというのにこの愚かな僕は、と頭を掻きたくなる。
けれど、僕はやはり。
お気に入りのバゲットを買った日。
うさぎ書房の古書セールで数冊、本を購入した日。
そして、瑠璃さんが開いた個展に寄った日などの帰り道、いつも小野さんの花屋に向かう。
そして、ある日。
「open」の看板が掛かっていた土曜日の夕方、僕はそっと扉を開けた。
リンリンと鳴る、懐かしいドアベルの音。
香り立つ花々の匂い。
花、それぞれの顔。
その彩り。
そして、その中に。
満面の、笑顔の女性。
「いらっしゃいませ」
けれど、その笑顔は直ぐにもくしゃりと歪んでしまい、その長い睫毛も伏せられてしまった。
その伏せられた睫毛から、涙が伝って落ちていく。
手で口を押さえると、その細っそりと長い指の間から嗚咽が漏れた。
そして、その指は、白くなかった。
✳︎✳︎✳︎
「小野さん、お久しぶりです」
僕が声を掛けると、彼女はポケットから桜色のタオルを出し、涙を拭いた。
「矢島さん、お元気でしたか」
「元気ですよ。あなたもお元気そうですね」
「はい、」
「しつこいようですが、ここのところ、またもやオープンを願って通っていました」
「心待ちにしていてくださいましたか?」
涙を拭きながら、悪戯っ子の顔をして、笑う。
「もちろんです」
「矢島さん私、冬の間に花の名前を沢山覚えたんです。花言葉も。図書館から、こんな分厚い図鑑を借りてきたんですよ、褒めてくださいな」
手と手を立てて合わせるようにし、その両手の間に空間を作る。
その間から僕を覗き見て、そして、また笑った。
いつまでも流れ続ける涙を、今度はそのままにして。
僕はこの人は一生このまま変わらないのだろうと思った。
きっと、何ら変わらずに、僕の前に居続けてくれる。
僕も笑って言った。
「小野さんの、下の名前って、何て言うんですか?」
「京子です」
「では、今日から京子さんとお呼びします」
「シャレですか?」
くすっと笑う。
「ご主人のお名前で呼びたくないんで」
僕がむうっと唇を結び、横へと視線をずらすと、京子さんはおや、という顔をした。
「あらやだ、矢島さん。横顔、金魚みたい」
そして、続けて優しく言った。
「小野は旧姓です。主人の名前ではありません」
そして、
「『元』主人ですね。もう、別れてきました」
京子さんはさらっと言って、僕をほうけさせた。
そして去年の夏、いつも座っていた丸椅子を持ってくると、
「コーヒー淹れますね。矢島さん、夏を待っていてくれて、本当にありがとうございます」
僕は、差し出された丸椅子に、そろっと音もなく腰かけた。
「私ね、この冬。たくさんの、色々なことをやってみました。さっきも言いましたが、花の名前と花言葉、たくさん覚えました。それから、色々なお菓子を作りました。マドレーヌとか、クッキーとか。これ、というレシピも手に入れたんですよ」
「美味しそうですね」
「もちろん、美味しいですよ、今度ご馳走します。後は、主人のことをたくさん考えました。考えた末、結論を出して、そして別れてきました。これが一番大変でした。お金ももう貰えませんから、しっかり働かなくては」
苦笑いを寄越しながら、スプーンで掬って、マグカップにインスタントの粉を入れていく。
「私、ずっと自分は独りぼっちだと思って生きてきました。主人とも心を通わせることもなく、冬なんかは病気もあって、特に暗く引きこもってしまっていました。本当に自分は孤独だと思っていました。でも、違うんです。本当の私は、独りぼっちということではなく、これはただの依存だということに気がついたんです」
一気に話して空気が足りなくなったとでもいうように、彼女は小さく息継ぎをした。息継ぎを何度か重ねながら、マグカップに湯と牛乳を注ぎ入れた。
「私、主人に依存していたんですね。私の全ての不幸を、主人と病気のせいにして生きていたんです。そのことにようやく、気づきました」
そして、もう一度。小さく。
「……本当の意味で生きるということは、確かに寂しくて辛いことなのかも知れないけれど、……誰のせいにもせず、誰にも依存せず、ちゃんと自分の足で立って生きていくことなんだって、気づいたんです」
差し出されたマグカップ。
ミルクがたっぷりのカフェオレが、渦を巻くようにして揺れている。
京子さんの手元に視線を運ぶと、同じくカフェオレが。
同じものを飲んでいる、僕はそれだけでなぜか、ほっとした気持ちになった。
「矢島さん、私あなたを好きになりたいんです。マドレーヌなんかを焼いている時、あなたに食べさせてあげたいって、何度も思いました」
伏せられる、いつのまにか濡れていた睫毛。
「……けれど、今の私はですね。あなたには、決してお勧めすることができない、私なんです。私がたとえひとりでも、ちゃんと自分で自分を立ち上がらせて、そしてしっかりと歩くことができるようになるまで、どうか見守っていてくれませんか」
その瞳に溜まっていた涙が。ほろと落ちる、かと思った。
けれど。
それは、色素の薄い瞳から、どうでも落ちるものかと、そこで必死になって留まっている。
「夏は花屋を開きますので、あなたがいらっしゃってください。でも冬は、……」
そして、京子さんが顔を戻して、僕を見る。
真っ直ぐに。
僕を。
「冬は、私が、あなたの元を訪れます」
僕は、ふっと吹き出して言った。
「はは、それはナンパでしょうか」
「いえ、違います」
その力強さのある否定に、僕は眼を少し丸くしてから、苦笑した。
京子さんはひとくち飲んだカフェオレのマグを机の上へと置くと、僕の眼を再度、真っ直ぐに見て言った。
「すみません、これは私が本当の意味で生きるための、数ある計画の内の一つです」
さっきまで、今にも泣き出しそうだった、京子さんの表情。
それが今では、とても清々しい笑顔になっていた。
雨上がり。雲の隙間から太陽が差し、次第に青い空が垣間見えてくる、そんな清浄な表情。
「でもね、それが……それが私にとって、最重要課題なんです。矢島さん、私、自信を持ってあなたの下のお名前を呼べるようになるまで、矢島さんのこと、先生とお呼びしますね」
「え、どうして先生だなんて、」
突然の提案に驚き、僕が不服の旨を言い掛けると、直ぐにも強く遮られた。
「だって、色々なことを教えてくれた、私の先生ですもん。あなたはぼんやりと座り込んでいた私の手を引っ張って、明るい場所へと連れていってくれた。そして、手を……真っ白で冷え切った手を、必死になって温めてくれた。待っていてください、私、ちゃんと先生の……あなたの隣で、歩いてみせますから」
そして、にこっと笑った。
信じられないくらいの美しさ。
その美しさは、真白。
京子さんの笑顔は僕の中で、白く、そしてそれは透明になることなく、真っ白のままに僕の隅々にまで染み渡っていく。
僕はまた、この人を好きになり始めても良いのだろうか。
自分に良いように解釈して、微笑む。
そして、僕も力強く頷くと、京子さんと同じように、カフェオレを啜った。