覚醒
「もう大丈夫」
私がそう言うと、矢島さんはどこか困ったような顔をして、適切な言葉を探すように、一つ一つ丁寧に言った。
「花鹿さん、あれはあなたの夢の中にずっと眠っていた潜在的な記憶です。思い出したくもない記憶だったのかもしれません。それを僕が引っ張り出してしまって。結果、成功したとあなたは思うかもしれませんが、それこそ嫌な思いをさせてしまい、申し訳ないです。荒療治だったと言われると、返す言葉もありません」
「ううん、元々、無理難題を押しつけたの、私の方だし」
「夢の中では、最愛の恋人が、花鹿さんを手酷く振るという寸劇を披露する予定でしたが……」
「夢魔って、そんなこともできるの?」
私がピンクのカーディガンを羽織りながら尋ねると、矢島さんが私のカバンをロッカーから取ってきてくれた。
「もちろん、できますよ。夢魔は何にでもなれますからね」
「イケメンの予定だった?」
おどけて言うと、もちろんです、と言う。
「あなたをメロメロにしてから、好きな人ができたと言って、どばんっと振る予定だったんですけどねえ」
「うわ恐っ、それ震えがくるやつ」
とは言っても、それ、私が今までやってきたやつ。
「もうすぐ京子さんが、花鹿さんのために絶品なアイスを買ってきてくれますよ」
「ふふ、それ二人で仲良く食べちゃってください」
「そうですか。それでは、ごきげんよう。マキちゃんによろしく伝えてください」
「マキは今、宮田とラブラブだから矢島さんの相手は無理かも」
「花鹿さん」
強い声。
「いけませんよ」
矢島さんが、ギロッと睨んでくる。本人は睨んでいるつもりかもしれないけれど、全然そんな風に見えないのは、もともとそういう風貌なのか、それとも性格なのか。
そして、私は。
「うん、大丈夫。矢島さんが治してくれたでしょ?」
「心の持ちようです」
「はいはいはいー、わかってますぅ」
カバンを素直にありがとうと受け取る。そして、踵を返してドアの取っ手に手をかけた。
その瞬間。
なにかが私の中で爆ぜた。
それが、愛しさなのか優しさなのか、なんなのかはわからないけれど、それはなんらかの衝動で。
ドアに向けていた身体を。
私を送り出そうとして、後ろを付いてきていた矢島さんの方へと、くるっと向けると、数歩歩いていって矢島さんに抱きついた。
そして、頬にちゅっとキスをする。
「あ、こらっ」
矢島さんが焦った顔を浮かべたのを満足げに見おさめると、私は笑って言った。
「矢島さん、すき焼きねえ、肉肉肉ーーーって言ってくれたの、ほんと助かったよ‼︎ アイスは京子さんと仲良く食べてねっ。ありがとっ」
そして、これくらい勘弁してねって言いながら、私は満足して、『眠り屋』の事務所を後にした。
踊り出しそうに軽い足で、だだだだっと階段を一気に降りていく。
そしてオンボロビルのエントランスを抜ける時、私は生まれ変わるのだ。
✳︎✳︎✳︎
「怒」
「怒、じゃありませんよ。京子さん、いったいなにをそんなに怒っているんですかっ」
「ムカっ」
「だから、ムカっっじゃなくてえ」
「私がアケミマートにアイスを買いに行ってた、その隙にいぃ」
「って、京子さんっ。いったい何のことを言ってるんですか⁇」
「先生、洗面所の鏡をよーーーーく見てきてくださいな」
「え? 鏡ですか?」
いそいそと僕は洗面所に入っていき、手洗いの鏡を覗き込む。
「あっっっ」
そこに映るのは、間抜けな僕の顔……ではなく、僕の頬にくっきりとつけられた口紅のあと。
「花鹿さんーーー‼︎」
僕は慌ててタオルを棚から引っ張り出して、焦る気持ちで頬をゴシゴシと拭く。
「違うんです、これは違うんですよ」
「怒ー」
ああああ、京子さんの額に雷のような青筋が浮かんでいるのが、手に取るように見えますよ。
「京子さん、もう勘弁してくださいよ。花鹿さん、治ったって言ってましたから」
「自己申告でしょ」
「いや、いや、ちゃんと夢の中でも確認しましたからねっ」
「ふんだアイス、全部食ってやる」
「こわあっ、ブラック‼︎」
✳︎✳︎✳︎
カチコチ カチコチ
(時計の音、かな……)
機械音といえばそうなのだが、どこか懐かしい音。
(ここは、家?)
襖の向こう。ボソボソとくぐもった声だったものが、次第に熱を帯びていく。
「……やっぱりそうだったのね。あなた最近、全然、家に帰ってこないから……だから、なんかあるとは思っていたのよ‼︎ あなたっっ、よくも私を裏切ったわね‼︎」
狂ったようなキンキン声が小さな官舎の一室に響く。
「うるさいうるさいっ」
それにかぶせるように太く、重い怒号。
「任務任務って言って、結局は、……結局は浮気してたんじゃないっ」
「おまえがそんなだから、俺は家に帰ってこられなかったんだっっ。家にいても少しも休まらない、……そうだ、安らげないんだ。俺の気持ちも考えろっ」
「だからって、浮気なんかしていい理由になんか、ならないでしょっっ‼︎」
「ああもうこれだからおまえはっ‼︎ ……もう無理だ。もう限界だ。おまえとは離婚する」
「イヤよ、絶対離婚なんてしないっ。あの女のもとになんて、行かせるもんですかっ、あんただけ、幸せになるなんて許せないぃぃ、あああっっ」
絶叫。
襖の向こう。
両親が、言い争っている。
悲しみと痛みで、胸が潰れそうになる。
女が悪いのか。男が悪いのか。それとももしかしたら、どちらも悪くないのかもしれない。そんなこと、子どもの私に分かるわけがない。
浮気相手に夫を奪われた妻。そして夫を奪い返そうとする妻。必死に逃げようとする夫。
その、奪い、傷つけ合う、ひどい光景。
醜い狂人のような母の顔。鬼のような形相の父の顔。今ここで目の前の襖を開ければ、その悲惨な光景が目に飛び込んでくるはず。
けれど、私は布団をかぶる。潜り込んで、縮こまっている。
鬼と鬼が、言い争う姿など、誰も見たくはない。
その時。
飛び交う怒号に混じって声が聞こえてきて。
(牛肉牛肉牛肉)
すると、私の脳裏の映像に、変化があった。
牛肉が山盛りの、豪華なすき焼き鍋。
ぐつぐつと音を立てて、食欲をそそる匂いを振りまいている。
鍋の側には、黄金色の黄身をたたえた、生卵。
お箸をもって、その先を黄身へとつける。ぷつっと穴が開いて、とろりと黄身が流れ出た。
すき焼きの、お肉をつけて、食べよう。
お腹いっぱいに。
すると、さっきまで聞こえていた罵り合いも、どこかへと去っていく。
食べよう、食べよう、食べよう。
肉肉肉ーーー‼︎
牛肉、牛肉、牛肉を。
鍋を囲む、家族三人の姿。まだ、私が小さい頃。
皆んな、幸せそうにすき焼きを食べている。
そうだ、理想は。
こうして、培われていく。
こうして、積み重ねていく。
「幸せになりたいだけなの」
私は泣きそうな顔で、ぽつんと呟いた。すると。
ぐつぐつと音を立てていた、すき焼き鍋。頭から、すっぽりとかぶっていた布団。狭い官舎の一室。立て付けの悪い襖の染み。ずっとずっと今まで、わだかまっていたのに、その記憶に蓋をしてきた、両親の罵り合い。
全てが、さあっと風に、水に、流されるように、無くなっていったのだ。
そして夢から、覚めた。
生まれ変わろう。私は、幸せになりたいだけ。
喧嘩する両親の、醜い姿。
本当はそんなもの、この手でぶっ飛ばしてやりたかった。
そうだ。
誰かを奪い、相手や自分が不幸になるなら……。
誰をも奪わず、誰をも奪わずに、幸せになれることだってあるかもしれないと。
夢を見る。
それは、生まれ変わる夢。
悲劇を目の当たりにして逃げていた自分からの覚醒。
(あなたならきっと、できますよ)
それは、
奪うことなく、幸せになること──
『眠り屋』さんが、そう、耳元で囁いてくれたから。
クレマチスの花言葉は、『精神の美』。
人は美しく、気高く生きた方が良いに決まっている。
そう、
これからは、
奪うんじゃない。
『誰かのものじゃない誰か』を、
自分で、見つけていく。