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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
奪う −クレマチス
12/63

覚醒

「もう大丈夫」


私がそう言うと、矢島さんはどこか困ったような顔をして、適切な言葉を探すように、一つ一つ丁寧に言った。


「花鹿さん、あれはあなたの夢の中にずっと眠っていた潜在的な記憶です。思い出したくもない記憶だったのかもしれません。それを僕が引っ張り出してしまって。結果、成功したとあなたは思うかもしれませんが、それこそ嫌な思いをさせてしまい、申し訳ないです。荒療治だったと言われると、返す言葉もありません」

「ううん、元々、無理難題を押しつけたの、私の方だし」

「夢の中では、最愛の恋人が、花鹿さんを手酷く振るという寸劇を披露する予定でしたが……」

「夢魔って、そんなこともできるの?」


私がピンクのカーディガンを羽織りながら尋ねると、矢島さんが私のカバンをロッカーから取ってきてくれた。


「もちろん、できますよ。夢魔は何にでもなれますからね」

「イケメンの予定だった?」


おどけて言うと、もちろんです、と言う。


「あなたをメロメロにしてから、好きな人ができたと言って、どばんっと振る予定だったんですけどねえ」

「うわ恐っ、それ震えがくるやつ」


とは言っても、それ、私が今までやってきたやつ。


「もうすぐ京子さんが、花鹿さんのために絶品なアイスを買ってきてくれますよ」

「ふふ、それ二人で仲良く食べちゃってください」

「そうですか。それでは、ごきげんよう。マキちゃんによろしく伝えてください」

「マキは今、宮田とラブラブだから矢島さんの相手は無理かも」


「花鹿さん」

強い声。

「いけませんよ」


矢島さんが、ギロッと睨んでくる。本人は睨んでいるつもりかもしれないけれど、全然そんな風に見えないのは、もともとそういう風貌なのか、それとも性格なのか。


そして、私は。


「うん、大丈夫。矢島さんが治してくれたでしょ?」

「心の持ちようです」

「はいはいはいー、わかってますぅ」


カバンを素直にありがとうと受け取る。そして、踵を返してドアの取っ手に手をかけた。


その瞬間。


なにかが私の中で爆ぜた。


それが、愛しさなのか優しさなのか、なんなのかはわからないけれど、それはなんらかの衝動で。


ドアに向けていた身体を。

私を送り出そうとして、後ろを付いてきていた矢島さんの方へと、くるっと向けると、数歩歩いていって矢島さんに抱きついた。


そして、頬にちゅっとキスをする。


「あ、こらっ」


矢島さんが焦った顔を浮かべたのを満足げに見おさめると、私は笑って言った。


「矢島さん、すき焼きねえ、肉肉肉ーーーって言ってくれたの、ほんと助かったよ‼︎ アイスは京子さんと仲良く食べてねっ。ありがとっ」


そして、これくらい勘弁してねって言いながら、私は満足して、『眠り屋』の事務所を後にした。


踊り出しそうに軽い足で、だだだだっと階段を一気に降りていく。


そしてオンボロビルのエントランスを抜ける時、私は生まれ変わるのだ。


✳︎✳︎✳︎


「怒」

「怒、じゃありませんよ。京子さん、いったいなにをそんなに怒っているんですかっ」

「ムカっ」

「だから、ムカっっじゃなくてえ」

「私がアケミマートにアイスを買いに行ってた、その隙にいぃ」

「って、京子さんっ。いったい何のことを言ってるんですか⁇」

「先生、洗面所の鏡をよーーーーく見てきてくださいな」

「え? 鏡ですか?」


いそいそと僕は洗面所に入っていき、手洗いの鏡を覗き込む。


「あっっっ」


そこに映るのは、間抜けな僕の顔……ではなく、僕の頬にくっきりとつけられた口紅のあと。


「花鹿さんーーー‼︎」


僕は慌ててタオルを棚から引っ張り出して、焦る気持ちで頬をゴシゴシと拭く。


「違うんです、これは違うんですよ」

「怒ー」


ああああ、京子さんの額に雷のような青筋が浮かんでいるのが、手に取るように見えますよ。


「京子さん、もう勘弁してくださいよ。花鹿さん、治ったって言ってましたから」

「自己申告でしょ」

「いや、いや、ちゃんと夢の中でも確認しましたからねっ」

「ふんだアイス、全部食ってやる」

「こわあっ、ブラック‼︎」


✳︎✳︎✳︎


カチコチ カチコチ


(時計の音、かな……)


機械音といえばそうなのだが、どこか懐かしい音。


(ここは、家?)


襖の向こう。ボソボソとくぐもった声だったものが、次第に熱を帯びていく。


「……やっぱりそうだったのね。あなた最近、全然、家に帰ってこないから……だから、なんかあるとは思っていたのよ‼︎ あなたっっ、よくも私を裏切ったわね‼︎」


狂ったようなキンキン声が小さな官舎の一室に響く。


「うるさいうるさいっ」


それにかぶせるように太く、重い怒号。


「任務任務って言って、結局は、……結局は浮気してたんじゃないっ」

「おまえがそんなだから、俺は家に帰ってこられなかったんだっっ。家にいても少しも休まらない、……そうだ、安らげないんだ。俺の気持ちも考えろっ」

「だからって、浮気なんかしていい理由になんか、ならないでしょっっ‼︎」

「ああもうこれだからおまえはっ‼︎ ……もう無理だ。もう限界だ。おまえとは離婚する」

「イヤよ、絶対離婚なんてしないっ。あの女のもとになんて、行かせるもんですかっ、あんただけ、幸せになるなんて許せないぃぃ、あああっっ」


絶叫。

襖の向こう。

両親が、言い争っている。


悲しみと痛みで、胸が潰れそうになる。


女が悪いのか。男が悪いのか。それとももしかしたら、どちらも悪くないのかもしれない。そんなこと、子どもの私に分かるわけがない。


浮気相手に夫を奪われた妻。そして夫を奪い返そうとする妻。必死に逃げようとする夫。


その、奪い、傷つけ合う、ひどい光景。


醜い狂人のような母の顔。鬼のような形相の父の顔。今ここで目の前の襖を開ければ、その悲惨な光景が目に飛び込んでくるはず。


けれど、私は布団をかぶる。潜り込んで、縮こまっている。


鬼と鬼が、言い争う姿など、誰も見たくはない。


その時。


飛び交う怒号に混じって声が聞こえてきて。


(牛肉牛肉牛肉)


すると、私の脳裏の映像に、変化があった。


牛肉が山盛りの、豪華なすき焼き鍋。


ぐつぐつと音を立てて、食欲をそそる匂いを振りまいている。


鍋の側には、黄金色の黄身をたたえた、生卵。

お箸をもって、その先を黄身へとつける。ぷつっと穴が開いて、とろりと黄身が流れ出た。


すき焼きの、お肉をつけて、食べよう。

お腹いっぱいに。


すると、さっきまで聞こえていた罵り合いも、どこかへと去っていく。


食べよう、食べよう、食べよう。

肉肉肉ーーー‼︎

牛肉、牛肉、牛肉を。


鍋を囲む、家族三人の姿。まだ、私が小さい頃。

皆んな、幸せそうにすき焼きを食べている。


そうだ、理想は。

こうして、培われていく。

こうして、積み重ねていく。


「幸せになりたいだけなの」


私は泣きそうな顔で、ぽつんと呟いた。すると。


ぐつぐつと音を立てていた、すき焼き鍋。頭から、すっぽりとかぶっていた布団。狭い官舎の一室。立て付けの悪い襖の染み。ずっとずっと今まで、わだかまっていたのに、その記憶に蓋をしてきた、両親の罵り合い。


全てが、さあっと風に、水に、流されるように、無くなっていったのだ。


そして夢から、覚めた。

生まれ変わろう。私は、幸せになりたいだけ。


喧嘩する両親の、醜い姿。

本当はそんなもの、この手でぶっ飛ばしてやりたかった。


そうだ。


誰かを奪い、相手や自分が不幸になるなら……。


誰をも奪わず、誰をも奪わずに、幸せになれることだってあるかもしれないと。


夢を見る。

それは、生まれ変わる夢。


悲劇を目の当たりにして逃げていた自分からの覚醒。


(あなたならきっと、できますよ)


それは、

奪うことなく、幸せになること──


『眠り屋』さんが、そう、耳元で囁いてくれたから。


クレマチスの花言葉は、『精神の美』。

人は美しく、気高く生きた方が良いに決まっている。


そう、

これからは、

奪うんじゃない。

『誰かのものじゃない誰か』を、

自分で、見つけていく。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「誰かのものじゃない誰か」を自分で見つけていく…。 道徳としてはそれが正しい事なのでしょうが、例え誰かの物であってもどうしても手に入れたい相手と言うのも時には現れたりする物です。 人はそ…
[良い点]  今回は深くて難しいテーマでした。  物語の最後に三千さんの思いが語られており、そのとおりだと思いました。  大切なものほど自分で見つけて、いっぱい努力しないと本当に自分のものにならならな…
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