シンプル イズ
「それでは、僕の手を見ていてください」
握られた矢島さんのこぶしをじいっと見る。そんなんで眠れたら、ヤバイ犯罪に使えるんじゃないの。半信半疑で睨みつける。
開かれた手から、青みがかった紫の花びらが、はらっと落ちていく。
クレマチス。
花言葉は、精神の美。
「これはもう笑うしかないでしょ。矢島さん、これ当てつけ?」
私が、言葉とは裏腹な不服な気持ちで口をむうっと尖らすと、矢島さんは表情を一気に崩すようにして、苦笑した。
眠る前の、数十分前。
「当てつけって思うってことは、花鹿さんも、それを自分で認めているってことになっちゃいますよ」
「認めてるから、ここに来てんでしょうが」
ああもう、上手くいかない。矢島さんは私がどんなオイロケな攻撃を仕掛けようが、のらりくらりの術で、するりとかわしてしまう。
おっさんとはこんなものなのか?
私は自分の持つ魅力について、再考するべきこのチャンス(と思うのも癪だけれど)をどう生かすのか、頭を巡らせていった。私の魅力に見向きもしない男が、目の前にいることが憎たらしい。
「とにかく、僕の手を見ていてくださいね。落ちていく花びらも、ちゃんと目で追ってくださいよ」
「そんで夢の中に入るってんでしょ?」
「そうです」
「うわ、マジで」
上げていた握りこぶしを下ろし、矢島さんは呆れた顔プラス眉間にシワで、私を睨んだ。
「花鹿さん、いい加減にしてくださいよ。嫌ならやめますけど」
「わかったわかったってばスンマセンでしたあー。じゃあ、見てまーす」
チラッと横目で、両手を胸の下で組んで、キッチンへのドアに背中をもたせかけている京子さんを見る。にこにこしているけれど、額に青筋が浮き上がっている(こわっ)……ように見える(こわっ)。
「はい、じゃあさっきも説明した通り、夢に入って原因を探ってはみますが、花鹿さんの場合、かなり特殊な事例です。あなたの希望に沿えるかどうかを、まずはこの目で検証させてください」
「はああーーーーい」
返事をすると、途端に脱力したような、はあぁっと矢島さんの深い溜め息。丸眼鏡が、その息で曇りそう。
「では、見ていてください」
「見てまーす」
そして、冒頭に戻る。
青みがかった紫の、クレマチスの大ぶりな花びら。それは矢島さんの手を離れると、ひら、ひら、とその軌跡を描いて落ちていく。
重力はすごい。
全てを引きつけるようにと、地面へ向かわせる。
そんなことを考えている間に、どうやら夢へと進んでいった、らしい。
✳︎✳︎✳︎
「やっぱりねえ、難しい。無理ですよーこれ」
「あら、先生でも無理なことってあるんですね」
京子さんの額に青筋が浮かび上がっている、ような、気が、する。
「だって、今回の依頼の内容ですけどね、今までになくかなりの難題ですよ」
「夢でもいいから、自分が恋人を奪われる側を体験してみたい、それでこの他人のものが欲しくなる病を治したい、だなんて普通思いつきませんものね」
「正常な思考回路から、こんな荒唐無稽なこと、導き出されますか? ふつう」
「相手の立場に立ってみるというのは、いいことじゃないですか」
「……そうですかねえ」
「まあいいじゃないですか。先生、どうぞコテンパンにしてやってください」
京子さんの毒を含むこの表情。すでに僕の中の世界遺産に登録済みだ。
僕は、身震いのする思いで、慌てて言った。
「ザ・女子高生のマキちゃんみたく、真っ直ぐでシンプルっていうか、単純なら良いんですけどねえ」
京子さんがティーポットを傾けて、カップへと紅茶を注いでいる。水音をあまり立てないように注ぐのは、もともと育ちの良い京子さんの特技とも言えるだろう。
「あら、花鹿さんね、私は意外とシンプルでわかりやすい子だと思いますよ」
「そうですかねえ。僕にはなにを考えているか、まったくと言っていいほどわかりませんが」
「ふふ、彼女がなにを考えているかなんて、みえみえですから〜」
背筋にぞわっと寒気が走るような言い方に、僕はそそくさと紅茶をすすった。
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カチコチ カチコチ
(時計の音、かな……)
機械音といえばそうなのだが、どこか懐かしい音。
(ここは、……家?)
頭をもたげてみると、自分が布団の上に横になっていることがわかった。
目の前にはリビングへと続く襖。建てつけが悪いのか、その襖と襖の合間からリビングの光が漏れている。上げていた頭を枕へと戻す。目を瞑ると、途端に鼻がきいてきて、夜ご飯に食べたすき焼きの残り香がした。
(美味しかったなあ、すき焼き……)
唐突に思い出す。
父が帰ってくる日。食卓には必ずと言っていいほど、牛肉がのぼる。不在が多い父を迎える時、母の顔もいつもより安らかで、嬉しかった覚えがある。
(お父さん、ずっと家にいればいいのに……っていうか、仕事ってなにしてるんだったっけ?)
布団の温かみに心地よさを見つけると、私はもっと身を丸くして潜り込んだ。
(なんだったっけ、えっと、……国を、守る、任務、)
すき焼きの鍋の映像が脳裏にちら、ちら、と蘇ってきて、思考を遮っていく。
その時、遠くの方で、誰かが言い合うような声が聞こえた、気がした。
鍋の中の、牛肉がクローズアップするように、それが私の脳の中のメインとなって、他の具材が霞んで見える。牛肉以外の具材は、食べても食べなくてもどっちでもいいような、それ以外のものがどうでもいいような、そんな感覚に陥った。
(肉肉肉ー牛肉牛肉牛肉ー)
そして、そこで眠りから覚めたようだ。
「花鹿さん、大丈夫ですか?」
丸眼鏡が優しく、覗き込んでいる。その隣には、京子さんと呼ばれていた女性の心配そうな顔。
がばっと身体を起こすと、その拍子に目尻に溜まっていた涙が散ったようだ。それでも構わずに、私は二人の顔を見た。
その間にも、ボロボロと涙が溢れていく。それを手で受けてみると、私のぐにゃぐにゃになった手相の上で、雫となって留まった。