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眠り屋 〜夢の綴り帳〜   作者: 三千
夢を彷徨って −アネモネ
1/63




『夢を彷徨って』




夕焼けの淡いオレンジ。セピア色に染め上げられていく部屋。すり切れたガラス窓の隙間からはたくさんの光が神々しく差し込んでいる。


目を戻すと、そこにはひとり、眠る女性。


ベッドに横になった彼女の頬は、

腕は、

そっと掛けられた毛布は、

その光によって、淡く淡くオレンジ色に照らされていた。


「私が描くはずだった画を、取り戻して欲しいのです」


最初は、凪いだ海のように穏やかだった。

けれど、一通りの話しを終える頃には、とうとう。


「どうか、私の画を取り戻して下さい。私、何としてでも画を描かなければならないのです。お願いします、どうか……どうか、お願いします……」


切迫していく言葉。その激情。

彼女が、懇願するように心の底から吐き出した言葉が蘇る。


「どうか、……お願いします、」


そんな彼女の姿を思い出しながら、僕はこのオレンジ色に染め上がった部屋で、んと頬づえをついた。


(彼女にいったい、何があったのでしょうか……)


話の概要は把握している。これが僕の仕事なのだから、ちゃんと夢の話(・・・)も聞いている。

ただ、何が原因の根元にあるのか。


腕時計を見る。


すると今まで息をひそめていた秒針が、刻、刻、刻……と、耳へと滑り込んでくる。


そして僕は今一度、目の前に横たわっている一人の女性の横顔に視線を戻した。


眠る顔。そしてそれを染める夕暮れの陽の光。泡立つようにほんのりと色づいている、肌の細胞一つ一つ。

その細胞の集合体である女性が、こうして暗く、もやもやな悩みを抱えながら、今。僕の目の前で生き、そして眠る。


「夢です、夢のせいなのです。助けてください、矢島先生」


切れ長の目の下には、くま。青ざめた額に、寄せられる眉根。その色の悪い表情で、彼女はそう言い切った。


僕は数日前に、僕の事務所にやってきて、そう懇願する彼女の顔を思い出すと、途端に肩の荷が重くなり、陰鬱な気持ちになった。


そんな気持ちを少しでも紛らわせようと、今は眠っている彼女の横顔から目を離し、ゆっくりと辺りを見渡してみる。


あるアパートの一室。


机の上には絵の具や筆が散らばり、彼女が描いたのであろう画が部屋の一角に寄せられて、窮屈そうに壁にびっしりと立て掛けられている。


風景画、人物画、静物画。その種類も多種多様だ。


けれど、ふと。

狭そうに肩を寄せ合っている画の塊とは別に、ひとつだけイーゼルに掛けられているカンバスに目が留まった。


白い布が被せられた、描きかけであろうその画は、部屋の隅にひっそりと置かれている。


「あの画を、完成させなければいけないのです。私、どうしても描き上げなければ、」


この白い布に覆われた画が、その描きかけだという作品なのだろうか。


彼女が溢れ出す激情とともに解き放つ言葉の数々と、そんな彼女の必死な顔を思い出すだけで、僕はこの依頼から逃げたい気持ちになるのだ。


ここへ来ても、まだ。不可解な依頼に、僕は戸惑っている。


再度、腕時計を見る。ふうっと息を吐くと、意識を集中する。

それから、眠りはそう深くないだろう依頼者を起こさないようにそっと、彼女の手の甲に自分の手を重ねる。


手に触れることは、事前に交わした契約書で了承済みだ。


ゆっくりと、深く深く、目を閉じていく。

陽の光によって、まぶたの裏側までオレンジに染まる。


それは夕暮れになると誰もが感じる虚しさの象徴の色だけれど今日は。


彼女の冷え切った心と身体とを包み込む、優しく暖かい焔のように、僕には思えた。


✳︎✳︎✳︎


眠り屋(ねむりや) どのような夢でもご相談ください 矢島』


僕が構える事務所、おんぼろビルの二階に掲げた看板。


このような職業を生業としていても、僕自身、今までに一度も「夢」というものを見たことがない。

というより、あまりに深く深く眠り込んでしまうようで、「夢」を見ていたのかどうか、それすらも知り得ないのだ。


ただ。

夢を見ない代わりに、他人の夢へと入り込むことが出来ることに気がついたのは、僕がまだ大学生の時だった。


確かに一般科目であった心理学の授業で、フロイトの夢判断というものを、かじった覚えはある。が、実際に夢など見ないのだから、『夢』の持つ意味など勉強しても、なんの知にも徳にもならない。

……と、ある時まではそう思っていた。


「そうそう文学。文学ならまだわかります。僕だって、本はたくさん読みますからね。けれど、問題は宗教学と心理学です。あんなふわっとして掴みどころのないもの、僕には一生理解できないと思いますよ」


僕が大学時代、周りに吹聴していた言葉だ。


けれど、ある日。

かっ、と雷が落ちたのだ。まさしくそれが、転機というものだった。


僕はその日、かねてから夢によって悩まされていたある友人を救った。


友人がおおいに悩まされていた夢の話をすると、それは夢の中でも定番と言えば定番なのだろう、よくある『追いかけられる夢』というやつだ。

誰しもが一生に一度は見るだろう、その夢。

友人は、般若の面を着けた着物の女に追いかけ回され、悩み、そして疲弊していた。


僕はそんな彼の夢の中に潜り込み、幸運にも原因を突き止めることができたのだ。

その原因は実にしょーもないものだった。


「安藤くん、君が付き合ってる恋人の妊娠についてだけど、君のお母さんに正直に伝えることで、この件は解決すると思う」


彼はショボショボとしていた寝不足の目を、カッと見開き、震えながらこう言った。


「……そんなことしてみろ。絶対にママに殺されるぞ……」


けれど、まあそんな事実をいつまでも隠してはおれず、彼はとうとう彼女と学生結婚することを決めたのだ。彼を夢の中で追いかけていたのは、彼がその恐怖心から創り上げた「般若」=「お母さん」だった、という理由。


「矢島くん、これで安心して眠れるよ。……ありがとうな」


ママにこっぴどく怒られたという彼に、弱々しくとも礼を言われた時は、こんな社会貢献もありなのかも、と思ってしまった。


思ってしまったのだ。


そうして僕は、『眠り屋』なるものを開業した。


それは依頼者の夢へと入り込み、その原因を探るという、いわゆる『夢』に関する探偵のようなものだ。


依頼を受け『夢』に入る時には、下見を欠かさないようにしている。その際、留意しなければならない注意点がある。それは『夢を見ている本人やその他の登場人物とは、なるべく接触しない』、ということだ。


慎重に慎重を重ねて原因を探る。


ただ、時と場合によっては、本人や登場人物との接触も必要になることがある。そういった面からしても、ある意味これは強引な解決方法と言えるのかも知れない。

その点は、依頼者に対し、事前にインフォームド・コンセントを行うようにしている。


もちろん、眠る依頼者の手に触れるということも、了承してもらわなければならない。セクハラで訴えられたらと思うと、身震いがするほどの恐怖だ。女性のヒステリーほど恐いものはない。


けれど、納得してもらわねばならない諸々の約束事の中で、これが一番厄介だったりするのだ。


さも嫌そうな顔で依頼者に、「手を触る? すみませんがそれはお断りします」と速攻で言われると、丸眼鏡をちょっと指で上げてから、「ですよねー」と苦笑いで返すしかないからだ。


✳︎✳︎✳︎


小雨が続いて、家に足止めを余儀なくされていた、ここ一週間。

彼女は女性の持ち物とはとうてい思えない真っ黒なこうもり傘をさし、僕の事務所を訪ねてきた。


ピンポン。チャイムに背中を押されるようにしながら、玄関のドアを開ける。

そこには色のない、真っ白な顔があり、僕はぎょっとして驚いてしまった。


彼女は瑠璃るり、と名乗った。


僕は普段通りの白いワイシャツにこげ茶のベストという格好で、彼女を部屋に招き入れた。

このスタイルは仕事の時の、僕のユニフォームにも等しい。そう声を大にして言いたいが、実はこれが僕の一張羅、唯一僕の容姿に違和感なくマッチする洋服でもある。


瑠璃に椅子を勧める。


すると彼女は、桜の花びらを連想させるような淡いピンクのワンピースを少しだけ持ち上げ、まるで音もなく座った。


息をする、生命を維持しようとする、そのなんらの音さえ聞こえてこない、静けさとともに。

絹糸のような黒髪が一本一本、さらさらとその華奢な肩から滑り落ちていく。


席に着くと、思いあまったように彼女は言った。


「私が描くはずだった画を、取り戻して欲しいのです」と。


僕はまず、温かい紅茶を淹れた。

熱くてかなわない紅茶を、口を尖らせたまま、お互いに一口ずつ、ずずずずっと啜る。

そして、僕が愛用の手帳を取り出し、そこにペン先をひたりと押しつけると、瑠璃は堰を切ったように話し始めた。


「私、毎晩のように同じ夢を見るのです。それはとても不思議な夢で……」


温かい紅茶によって、頬はほんのりと色づいてはいたけれど、その瞳はまるで深淵を覗き込んでいるかのように暗く、暗く、ひやりと冷たかった。


「…………」


ふいに言葉を失った瑠璃は、顔を上げ懇願するようにして僕を見た。


いつのまにか、その目には涙が溜まっていた。その涙が、夜空を滑るほうき星のように、いくつもいくつも頬を滑っていく。

僕はティッシュを取り上げると、箱ごと彼女の前に差し出した。箱ごとだなんて、男として失格のような気もしたが、出してしまったものを引っ込めるわけにもいかない。


「その夢に、あなたの画を奪われたというのですか?」


「おかしな話ではありますが、私にはそう思えてなりません」


ティッシュを一枚引き抜き、それを目元に当てる。


「私、美大を卒業してからは趣味と仕事と半々ではありますが、ずっと画を描いてきました。下手の横好きというもので、人に話すのは恥ずかしいのですが、子どもの頃から画を描くのが好きで、今までかなりの時間をそれに費やしてきました。白いカンバスを前にすると、いつも自分がどんな画を描きたいのかが自然と湧いてきて……ですが、」


「それが、描けなくなった、ということですね」


「はい」


瑠璃の表情が、雨が降り出す前の空模様のように、みるみる薄暗く曇っていった。

美しく程よい額にも翳りが差し、眉根に深い溝を作った。そして突然、その長く黒々とした睫毛が、きつくきつく伏せられたのだ。


小刻みに震え出す声。


「どうか、私の画を取り戻して下さい。私、何としてでもあの画を描かなければならないのです。お願いします、どうか……どうか、お願いしま、す……」


(あの画、……)


激しさを増しながらもそれを必死におさえて絞り出す声。

そんな弱々しい声も、次第に小さくなり、ついには消えていった。


僕は次に訪れた沈黙には答えず、不躾であったであろうが構わずに、じっと彼女を見つめ続けた。

言葉の端々からぴりぴりと感じ取れるほどの、瑠璃の内に秘めた激しさ。


しかし、そんな危うい姿に、僕も確信する。

やはり、『夢』が全ての元凶であることを。

そう、僕はその時点で、彼女の『夢』を疑っていた。


瑠璃がすでにぬるくなっているであろうアッサムティーに口をつける。

僕は少し顎を打ち、先を促した。


「それは、どんな夢なのでしょうか」


「それが不思議な夢なのです。画が描けなくなった原因でもあるのに、全然嫌な感覚はありません。そう、夢から覚めると不思議なくらい心が軽くなっているというか……」


「……はい」


「満たされているのです」


瑠璃がほうっと、小さく息を吐く。

夢の内容を思い出しているのだろうから、この穏やかな表情は瑠璃の『夢』が引き出しているのだろう。


僕は話の内容に付け加えて、彼女のそういった印象を手帳に記していった。


「私はそこがどこなのか、見覚えのない部屋に居ます。最初は決まって部屋の真ん中にある青いソファに座っています。部屋には家具はそのソファ一つしか置いてなく、窓が一つあるだけで、扉がありません。その部屋は殺風景であるはずなのに、なぜか暖かいのです。柔らかい光の中にいるような、そんな感じです」


僕は彼女が夢の内容を思い出しながらすらすらと話を進めているのを、途中で邪魔して中断させたくなかったので、メモに押しつけていたペン先を見つめながら、そのまま続きを待った。


「私は立ち上がり、窓に近づいていきます。その時は窓の外を見たい、と思っているようです。カーテンが閉めてあるので、それを両手で開け、ガラス窓を開けようと両手で前へと押しました。あの、分かりますでしょうか、こう真ん中から割れて、手で押して開ける形の……」


瑠璃が水泳の平泳ぎのように、すいと両手を前に出してそのまま広げる。


「はい、分かりますよ。両面の外開き窓ですね」


「そうです、それです。私はその窓を開けようと、こう両手で押した瞬間、見る見るうちにガラスに細かいヒビが入っていくのです。そして、スローモーションのようにゆっくりではありますが、窓ガラスは割れて、飛び散ってしまうのです」


瑠璃の顔が少しばかりの興奮で紅潮する。


「危ない、と思うのですが、とっさに身体を避けたり手で遮ったりする間もなく。けれど散ったガラスが……」


「……ガラス、が?」


「あの、散ったガラスがたくさんの蝶になって……。羽を虹色に光らせながら、そこかしこへと散らばっていくのです。そしてしばらくすると、虹色の蝶は、澄んだ青空へと一斉に羽ばたいていくのです」


瑠璃の表情から、それがどんなに美しい光景かは容易に想像がついた。

瑠璃しか見ることのできないこの光景に、彼女自身囚われている、そんな印象もあった。


「美しいのです。心が洗われるような、美しさなんです。ご理解いただけるでしょうか」


すると、瑠璃はあっと声を上げて、小さく飛び上がった。


「私の夢の中に入られるんですから、矢島先生も見ることができますね」


ここへきて、初めての笑顔。

蕾が急にその花を開花させたような。

そんな瑠璃のはにかんだ笑顔に、僕も笑顔で返す。


「よしてください、先生だなんて……でもまあ、そうですね、楽しみです」


瑠璃がほうっと小さく息をつく。


「それからですが、蝶が飛び去るのを見届けると、私は枠だけとなってしまった窓をそれでも閉めようと思います。手を伸ばそうとすると、いきなり何かが飛び込んでくるのです。それは、一匹の黒豹なんです」


「黒豹?」


息をつくのかと思ったが、瑠璃はすぐにも続けた。


「私は驚いて、慌てて後ろへ下がります。いつも決まってソファに足を取られて倒れ込んでしまうのですが、不思議と恐ろしい気持ちはありません。黒豹は私へと近づき、身体を擦り寄せてくるのです」


「その黒豹は吠えたり、威嚇してきたりはしないのですか?」


「いえ、擦り寄ってくるだけで、私がソファに座ると膝の上に頭を乗せてくるのです。それが甘えて、頭を撫でて欲しいというような様子で。おかしな話ですが、私もなにかしら愛情を感じているようです。なので、何度も撫でてあげるのです、何度も」


ああ、なるほど。それが夢から覚めた時にある充足感、満足感に繋がるのか、そう思ってメモを取る。


「そうしてるうちにどこか遠くの方で鐘の音が鳴り始めます。黒豹は頭を上げて、一度だけ喉を鳴らして唸り声を発すると、鋭い牙を少しだけ見せるのです。そこで決まって夢から覚めます」


「不思議な夢ですね」


「はい、最初見た時には、断片的にしか覚えていなかったのですが、毎晩、寸分違わずに同じ夢を見ていれば、目が覚めても覚えているものですね。そんな風に最初はうろ覚えだったのですけれど、一つだけ確信していることがあるのです」


瑠璃の表情が、みるみる硬直していく。


「その夢を初めて見た日から私は画を描けなくなった。おかしいのです、筆に手を伸ばすことすらできないのです」


そして瑠璃の瞳は、濁ったものへと戻ってしまった。


そう、やはり原因は、ここ(・・)にある。


僕はペンを置くと、息をついてテーブルの上で両手の指を絡ませて握り込んだ。


「そうですか」


「私、今描きかけで置いてある画を、どうしても完成させなければいけないのです。何とかなりますでしょうか、先生」


不安そうに見つめてくる、その視線。ゆらゆらとして定まらない。弱々しいその存在に、僕は心を打たれていた。

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