転生者の前世や長寿種族と精神年齢〜「肉体に精神が引っ張られる」なんてありえない
異世界転生につきものの問題として、今回は転生主人公の「前世」における人生経験といわゆる「精神年齢」の関わり、それと関連してエルフなどの長寿種族における「精神年齢」の成長について考察してみようと思います。
なろうの小説で様々あるファンタジー設定に含まれる誤謬やごまかしを明らかにし、時間と経験の重みというものを強調することが本エッセイの目的です。
タイトルから大丈夫だとは思いますが、「肉体に精神が引っ張られる」のような言葉にピンとくる、なろうの異世界ファンタジーになじんだ方を読者として想定しています。そのためなろう的によく知られている事柄に関しては説明を簡略化することがあります。
ここで批判されている設定などを有する作品の実例の名前は挙げていませんが、何十本何百本というなろうファンタジーをご存知の皆さんであれば確かにそういうものがあると承知していただけるはずです。私としてはどれも少なくとも四つ五つと簡単に実例を挙げられるようなありふれた設定ばかりを取り上げたつもりであり、特定の作品を指弾するものではありません。
目次
0.はじめに
1.前世持ちの人間の精神年齢
2.長寿の種族の精神年齢
3.隠棲する賢者の精神年齢
4.おわりに
(5.乳児の身体)
0.はじめに
ここで「前世」や「転生」という言葉を使っていますが、言うまでもなくいわゆる「転移」でチートをもらって若返りを果たした場合も似たような問題が起こります。あるいは時間の「巻き戻し」によって一度人生を体験して二周目をやり直すような場合も同様です。それゆえ以下で「転生」といった場合、若返りや巻き戻しなどの類似の体験をすべて含むものとします。
また「精神年齢」という用語について、ここではどちらかといえば比喩的な理解に重きを置きます。それは老人や長寿種族の問題をもっぱら扱うためで、子どもの知能発達を測定する心理学的なそれでは適当でないからです。したがって本稿ではたとえば老衰して死を受け入れる境地にある状態を老人の精神年齢と言い、逆に幼児らしい遊びに夢中になる状態ならば幼児の精神年齢というように解します。
1.前世持ちの人間の精神年齢
話をわかりやすくするため、まずは極端な場合として一定のシェアを占める、老人が大往生して「転生」する場合を例として取り上げましょう(これは生前が武術の達人や、あるいは現地主人公であれば魔法の達人の賢者など、転生後の強力な能力を正当化する理由としてよく使われる設定で、書籍化作品にもいくつもあります)。中年で「転生」する主人公の場合も年齢ギャップが穏やかになるだけで、ある程度は同じ議論が通用するはずです。
テンプレではよく「肉体に精神が引っ張られる」などと言い、前世持ちの主人公の心の若さというか幼さを正当化します。若い作者が老人の精神世界を理解できずうまく描写できなかったり、あるいは老人相応の枯れた生き方では物語に盛り上がりを作りづらかったり、といったことが理由です。
しかしこんな俗説を本気で信じあまつさえ言い訳にするのは、厳しく言えば思考停止であり荒唐無稽です。一生涯を生きた経験という記憶を忘れたわけでない以上、精神は必ずそれ相応に老成します。
たとえば死生観ひとつ取ってみても、高齢の主人公は親や友人など周囲の人々が次々に死んでこの世からいなくなっていくこと、また自分の体も衰えて緩やかに死に向かっていることを直に経験しているのですから、年を経て自分も他人もいずれ死ぬものという認識を従容として心から受け入れていて、人生に対する考え方が幼気な少年とは根本的に異なります。他人や自分の死や老化の体験をきれいさっぱり忘れるのでもないかぎり、この精神の変化は決して元には戻りません。
これは死に限らず社会に関する見方や人との関わり方など他のなんでもそうで、人生で経験した諸々の出来事と時間の積み重ねが老人なりの考え方を不可逆的に形成してしまうものです。そしてそれを記憶しているかぎり影響を及ぼし続けます。初恋は二度経験できないように、一度恋愛や結婚、別れと死などを経験した人物が、それ以前の心的状態に戻ることはありえないということです。
つまり精神年齢は経験=記憶と密接に関連しているのであって、身体とではありませんから、前世の記憶を保ったまま精神だけが若いというのは矛盾しています。記憶が連続しているかぎり、精神も前世のものです。
(もっともこの「精神」「身体」という言い方は心身二元論の立場に立った表現で、記憶も精神も脳という生理学的身体の一部とみなすなら話は変わってきますが、それは言葉の綾に過ぎません。その場合はどうやって記憶だけを、細胞から何からすべて異なる新しい体の若い脳に持ち越すのかという問題が生じてしまうため、転生の前提そのものが破綻します。)
2.長寿の種族の精神年齢
実はこのことは「転生」だけの問題ではありません。なろうの異世界ファンタジーではよく、エルフなどをはじめとした長寿の種族がたとえば百歳でようやく大人と言われ、百年生きているのに人間の二十歳相当の未熟な精神を有しているという設定が見られます(計算の簡単さのため、エルフの寿命は人間のちょうど五倍と仮定します)。
いえ、「よく」などと言いましたがこれはごまかしで、エルフなどが出てくる小説ではほぼ百パーセントそういう設定になっていると言っても過言ではないでしょう。しかしこれもまた馬鹿げたことであるのは今更繰り返すまでもありません。それは人生を過ごした時間というものを軽視しすぎです。
(ついでに言うといわゆる「ロリババア」のヒロインは掃いて捨てるほどありふれていますが、これも同じ理由で理解不能です。キャラクターとして嫌いというのではなく、ただ老人言葉を話すだけのそれは一個の人間として見たとき内面世界が真摯に考えられていない感じがします。)
人間以外の種族について人間の精神年齢を当てはめることにはもとより無理がありますが、それでも比較がまったく成り立たないというわけではないので、それについて見ていきましょう。
そもそも同じ(または翻訳可能な)言語を話し同じような知性を持つかぎり、「精神構造」とやらが異なるという議論はあまり説得力を持ちません。同じように愛を喜び子を慈しみ死を悼むならばそれらの体験から受ける衝撃(人生に及ぼす影響)も同じであり、それに伴う「精神的成長」も基本的に同一だと推定するのが正当です。
まず確かにこのエルフなどの長寿種族について、前項でなされた人間の死生観の議論はやや弱まります。というのも人間と同じ割合でたとえば七十年生きた「若い」エルフが、それまでに親や同年代の友人の死を経験するかというとそれはしないからです。
したがってこの点では、エルフだけの社会で暮らしている七十歳の「若い」エルフが、人間で相当するたとえば十四歳の少年に近い理解(無理解)を持っているということは考えられます。
しかしどんな社会でも高齢者やあるいは若くとも事故死(ファンタジー世界なら戦争や魔物との戦闘も含む)などで人が毎年亡くなっていくことは共通していますから、十四年の間に人間の少年が身近な人の死を一人かもしくはまったく経験しないのに対し、七十年の間にエルフの「少年」は単純計算で五倍多くの訃報に接するわけで、ここでもやはり十四歳の人間と七十歳のエルフが同じ精神を持つというのは蓋然性が低いです。
また、もしこのエルフが都市で人間などの他種族とともに暮らしているという場合(冒険者だったり、魔道具屋を営んでいたり)、七十歳のエルフは同じ年に生まれた人間の知り合いたちが全員老化して亡くなっていくのを目撃するので、この場合はなおさら「人間の十四歳相当の」精神ということは不可能です。
最初に述べたように「死を受け入れる境地」を老人の精神年齢と呼ぶならば、この七十歳のエルフがそのまま人間の精神年齢七十歳に当たるとも言えませんが、自分および同胞の死以外の経験と認識について言えば七十年相応のものを持っていると言えるでしょう。
そこでより適切な例として、今度は学びを例に取ってみます。もちろん中世ヨーロッパ「風」の異世界で私たちが考えるような「学校」はありませんが(実際の中世では司教座聖堂付属学校や修道院の学校で世俗の人間も受け入れていましたが、これは領主や貴族の息子、裕福な商人の息子に限られていました)、年長者に付いて狩りを学んだり職人に弟子入りして技術を学ぶこと、あるいは普通に親から農作業や内職などを教わること一般を「学び」と総称します。もちろん魔法やそれ以外の学術でも構いません。
こうした学びの経験において、二十歳の人間と百歳のエルフが同じレベルにあり同じ考え方を持っているなどということがありうるでしょうか? 物語の設定ではよく「子どものうちは人間も『亜人』も同じように成長し、それから緩やかに老化する」と言われますから、同じ十歳から「学び」始めたとして、人間のほうは十年、エルフのほうは九十年です(別に五十歳から始めても五十年です)。
世界の時間の流れが異なるわけではないのですから、単純に言って九十年同じ仕事を続けたエルフは、その道九十年の人間国宝レベルの人間とまったく同じ技術と哲学を有しているはずです。人間の二十歳よりはずっと高い達観した精神を持つことになるでしょう。
前項で触れた達人の前世にも共通することですが、五十年や百年という研鑽の日々で達したはずの悟りの境地を忘れ、百年分の能力だけがそのままというのは辻褄の合わない話であり、卓越した能力には必ずその鍛錬で得た精神性というものが相伴うはずです。
そしてやはりこれも仕事や技能面の成長に限りません。九十年同じ作業を続け、百年の日々の生活を送る(毎日人と関わり、食事をし、時には喧嘩をし、……)ということを本当に正しく想像していれば、百年経っても若い「肉体に引きずられて」精神が未熟で子どものような振る舞いをするなどということがいかに現実離れしているかわかろうものです。
もしこのように精神的成長が遅いとすると、成功からも失敗からも何も学ばない種族を考えているのでしょうか? あるいは正確に言えば、寿命に比例して「学ぶのが五倍遅い」愚鈍な種族なのでしょうか。しかしそうだとすると長命のメリットは完全に失われてしまい、たとえばエルフは賢いなどといったイメージはすべてひっくり返ることになります。
(ゲーム型異世界で「ステータス」が存在し、レベルやスキルというものの成長に関して長寿種族のほうが所要経験値が多いという設定は能力格差を解消する妙手ですが、こうした成長のための鍛錬の時間というものを考えればやはり精神性においては長寿種族が遥か上を行くことになります。
よくあるように「ステータスに反映されない経験や工夫」などという余地を認めるならばなおさら時間のあるほうが有利です。この場合、表示上は同じレベルでもエルフなどのほうが人間より遥かに強いということになります。もっともそれではステータスの数字はほとんど意義を失ってしまいますが。)
3.隠棲する賢者の精神年齢
チートスタートの理由づけのために、人間の賢者の前世や、あるいは長寿種族や不老となった人物で、俗世を避けて弟子も取らずいわゆる「魔の森」などの魔境・秘境に隠棲し、何十年何百年と孤独に過ごしたという設定がしばしば語られます。
そしてこうした設定の主人公の精神的な若さを正当化するために、人と会わずに引きこもって過ごしたので精神の成長が止まったままなのだ、という意見が(作者からも擁護派の読者からも)主張される場合があります。
しかし隠遁して孤独のうちに生きたからといって精神が成熟しないというのは偏見です。こんな意見を持つ人は、エジプトの砂漠やヨーロッパの山奥で祈りと瞑想のうちに過ごしたキリスト教の修道士たち(キリスト教修道の起こりはイスラム以前の三〜四世紀のエジプトです)、あるいは中国や日本やインドの仙人やら修行僧やらの精神が未熟だとでも言うのでしょうか。
それは静寂の中で孤独に自然の恵みを得て暮らすという行いを実際甘く見たものですし、そもそも特別な荒行などせずともただ歳を重ねるだけで考えの深まりというのはあるものです。人と関わらず孤独に暮らすというのは時が止まるのとは違うのです。たとえ主人公が私たちのような凡俗の者でも、自然の暮らしを一ヶ月もやってみればきっと色々と思うところがあるでしょう。
そこをあらすじや設定上であっさり「三百年」などと飛ばしてしまうからごまかしが生じ、作者自身その「時の長さ」を真実味を持って想像できなくなってしまいます。そんな薄っぺらな背景をつけるくらいなら、神様がぽんと与えてくれたチートのほうがよほど整合的です。
もちろん人と会わない以上、コミュニケーション能力が衰えたり人心の機微や策謀などに疎くなるということはありうる話です。ただそれを精神の「若さ」と名づけるのは短絡ですし、ましてや落ち着きもなくあらゆる行動が普通の若者並みというのは論外です。賢者とは前述の修道士たちのような崇高な存在なのだということをもっと真剣に受け取るべきでしょう。
4.おわりに
生きた年数(実年齢)がそのまま「精神年齢」になるわけではないのは当然のことですが、一方で現状の「精神年齢」論は時間と経験の重みというものを軽視しがちなように思われます。
百年を生きるというのが実際どういうことなのか、前世も知らずファンタジーな種族でもない私たちには決して計り知れないことではありますが、今の暮らしを百年続けると想像するだけでも気の遠くなる途方もないことだと気がつきます。
私たちはこうした登場人物たちの誰もが持つはずの「生の歴史」を真摯に考慮し、彼らの内面をより深く斟酌して整合的な人格として描写しようと心がけるべきでしょう。
(同日追記)5.乳児の身体
話がエルフや賢者など高齢方面に流れたので、以上のようにきれいに締めくくってしまいましたが、実は「肉体に精神が引っ張られる」と言われる時のもう一つの有名パターンを扱いそびれてしまったことを白状します。
それは(前世の年齢にかかわらず)〇歳の乳児に転生する場合に「肉体に精神が引っ張られて、赤ちゃんらしく泣き出すなど感情のコントロールができない」という類のものです。これを無視したのでは議論が片手落ちとの誹りを免れないでしょう。
転生後の肉体が一定以上の年齢であるかぎりは、前世の年齢のほうが精神年齢の主な決定要因になるだろうということは本文の議論(たとえば死生観の議論)で示せたつもりですが、補論として最後にこのパターンを論じておくことにします。
このパターンは正直に言って私にもどちらともわかりません。はっきり記憶と意識がある以上はやはりそれなりの振る舞いをするのではないかという気もするし(累計上位だと『無職転生』や『八男』の主人公は最初から冷静で泣きません)、あるいは逆に案外こういうこともあってよいのではないかという気もします。
つまり乳児という人間的自我が未発達で理性による抑制が利かないという、いわば「動物的」条件においては、本文のような理性的議論は成り立たず、もっぱら生理学的身体に振る舞いが規定されてしまうという可能性です。
もとより転生そのものがオカルトなのでこの件を科学的に検証するのは不可能で、あると言い張られればそれも否定はできないよねと言わざるをえません。
しかし一つ言えることは、このような意味で肉体に「感情」が規定され、精神のほうが主導権を握れず肉体をちゃんと操れないという状況は、「精神が肉体に引っ張られる」のとはちょっと違うのではないかということです。
精神が肉体の制御を持たないというのは取りも直さず、その精神が意識や自我としてまだちゃんと肉体に定着していないということです。何しろ精神が意図したこととは違う挙動を肉体がしてしまうのですから、この精神はこの肉体を自分のものにできていないことになります。
この「精神が意図したこととは違う」という点がポイントで、身体が本能に従って泣き出してしまうとき、精神のほうはちゃんと「いい年をして泣いてはみっともない」などと大人の理性で認識しているのですから(この手の小説でしばしばそういう内心描写があり、この段階の主人公はまだ自分が転生したと状況を把握していないこともありがちです)、そうすると精神は精神として独立しているのです。
となるとこれは単純に精神と肉体が合一しておらず別々の存在に留まってしまっているという話で、肉体が勝手に泣いてしまうときに逆のことを考えている精神はまったく引っ張られてなどいません。
「泣く」などの「感情」を思わせる語彙があるため、「感情=精神」と直結して考えてしまうところに混同があったのであり、肉体が意に反して声を上げ涙を流しているとき「泣いてはまずい」と認識しているならば精神はまた別のところにあるのでしょう。
言い換えれば、主人公の肉体と精神というものを不可分の同一存在と無批判に認めているところに実は(作者も無意識の)過誤があったということで、ここでは「肉体に精神が引っ張られる」とは全然違うことが起きているというわけです。
あまり求められている答えではないような気もしますが、この乳児転生というのは非常に重要なパターンの一つですから、一応私としての見解をこのように示しておきます。