雪原
あたり一面、真っ白だった。この土地に雪が降ることは珍しく、また、降り積もることは尚更に珍しかった。一歩進む毎に靴が雪の中にめり込んでいく。柔らかな雪に足が触れると、段差を踏み外した様な感覚の後、すぐに固くなった。私の歩いてきた通りに続いている足跡は、何故か自分のものとは思えない程に大きなものの様に見えた。見渡す限り雪ではあるが、辺りに風は無く、降りしきっていた雪もすでに止んでいる。あるゆる抽象表現を思わせる様なこの景色を、私はしばらく眺めていた。
寒くはない、暗くもない、生き物たちはこの白さの中に全て飲み込まれてしまったかの様に、どこにも見当たらない。猫だけが何故か、どこかに隠れて息を潜めながら、こちらの様子を窺っているかの様な、そんな予感がしてならなかった。空は曇天と呼ぶに相応しい灰色であるのに、何故だか妙に白が強い様に見え、黒に向かって行きたかった空は、この圧倒的な白さに押し上げられ、意図した方向とは逆に段々と白くなっている様に思われた。その流れに沿って、世界はやがて白に制圧されるとしか思えなかった。こうしている間にも雲の隙間からは白い月が顔を出し、辺りを照らそうとこちらに迫っていた。
雪はどうしてこうも人を感傷的な気持ちにさせるのだろう。私の住む街に雪が降ることが珍しいためだろうか。或いは歩き慣れた道が、いつもとは全く異なる面持ちをしている為であろうか。兎にも角にも、今、私の目の前に広がる、この風景は美しい。白、ことにこのくすみのない純白とは、こうも美しいものだろうか。雪の国に生まれた人には、今この場所に広がる景色はどんな風に映るのだろう。その気持ちは例えるなら、私がいつもの歩き慣れた道を眺めて感じるそれと、甚だ似た様なものであろうか。はたまた、ただ単純に、日常生活の不便を憂慮して暗澹としてしまうような、そんな実直な感情、それだけであろうか。‘‘慣れ”というものはいったい、どのような性質のものなのだろう。例えばそれが、儚くも全てを無意味に近づけてしまうとすれば或いは…
私は急に”動き出さなければならない”と思い立ち、足を進める事にした。幸いまだ、雪に囲まれていた私の靴は黒いままだった。
私は改めて周囲の風景を見回してみた。やはり辺りに人の気配は無かった。見上げた曇天の空に浮かんでいる、いくつもの薄い雲たちは、地上に風が無いにも関わらず、あの白い月の前を勢い良く通り過ぎていく。その度に月の光は、その薄い雲に遮ぎられながら、緩慢に明滅するストロボの様に、その輝きを隠したり、現したりしていた。私はその矛盾にも思われる様な空の運動を、ただ地上よりも天空に吹く風の方が遥かに強いのであろう、という確証のない、ただそんな一事のみで容易に納得した。私は引き続き、私の周りにある様々なものへと、順々に目を通していった。辺りの風景は、地面は元より、見慣れたいつもの建物も、いつもとは異なった表情を見せていた。その建物の内の背の低いものの屋根は、雪国のそれとは異なる傾斜の緩やかな屋根の為に、一面を雪に覆われていた。集合住宅の白い建物群に付随した広い駐車場の、本当は黒いはずのコンクリートも、その色を真っ白に変えていた。その駐車場には何故か一台も車が停まっておらず、タイヤの轍すら、その跡を残してはいなかった。
冬であるのにまだ葉を付けていた木々達は、その引き際の悪さをまるで咎められているかの様に、容赦無く白に覆われていた。濡れた木の幹だけが、いつもより色を濃く変えており、白さから逃れようと必死の抵抗を見せている。しかしその抵抗も虚しく、白さはただ圧倒的な物量でその色を取り囲んでいた。ただ無慈悲な圧倒的な力で命を取り囲んでいた。彼等もまた、周囲にある他のあらゆるもの達と同様に、じき白に呑み込まれることであろう。私は特に深い意味もなく、その木々達に近づいていった。注意して見ると、その木々達の葉が、覆い被さった雪の間から僅かに顔を出していることが見受けられた。しかし、これもまた時間の問題であろう。白さはただ圧倒的な物量でその色を取り囲んでいた。ただ無慈悲な圧倒的な力で命を取り囲んでいた。一歩毎に雪の中に足を突き刺しては、それを引き抜きながら、やがて私は、その木々達の目の前に辿り着いた。
ふと見上げるが早いか、私の肩に木の上から溢れ落ちた雪の塊がぶつかった。その雪はぶつかると同時に砕け、私の黒いコートのあちこちに白い色を付けた。何かの意図を感じ、私はそれを急いで手で払ったが、雪は尚更に砕け、細かくなるばかりで私のコートから剥がれ落ちなかった。それは、その砕けた雪粒の一つ一つが個別の意志を持って、私に執拗に絡み付こうとしているとしか思えない程に不自然な、又、不気味な現象だった。その最中で視界の端に捉えた月は、やはり白く、その輪郭も又、先程よりも一回り大きなものとなっていた。月はこちらへと迫り、その距離を着実に縮めているようであった。焦って取り乱したがその時、急に視界に映ったものに、私は意識を持っていかれた。
遠くの建物の影に老婆の姿が見える。老婆は黒いコートを羽織り、その丸まった腰の上に、こんもりと雪を積もらせ身動きが取れなくなっていた。私は急いで駆け寄ろうとして走り出したが、雪に足を取られて上手く走る事が出来ない。視界の先に見える建物に向かって、白い大地を踏みしめながら必死に進んでいくが、踏み込んだ足が雪にめり込み、段差を踏み外した感覚のあと、すぐに固くなる。一歩踏み込む度に雪の中から足を引っこ抜きながら、不恰好にしか進んで行くことが出来ない。照らしている月の影響なのか、雪はその白さを尚更に強くしていく様に思われた。まるで、際限も無く貪欲に何処までも突き進んで行くかのように。最早自分が取り返しのつかない場所にいる様な気がしてならなかった。白がいよいよ本当に黒を飲み干そうとしていた。
尚も私は走り続けたが、雪に埋もれていた木の根に足を引っ掛け、ついに躓いて転んだ。手を突こうとしたが、触れた雪は柔らかく、めり込んだ手は身体を支えることが出来なかった。頬に雪が触れ、今までになく強烈な冷気が身体に伝わってくる。私は覚悟を決めたが、不思議と恐怖心はなかった。何故か、すぐには立ち上がる気持ちになれず、しばらくそのままの体制でいた。
間近で見る雪は白かった。目の高さに雪があるのではなく、雪の高さに目があるのは不思議だ、とどうでもいい事を考えていたが、尚更に違和感を感じたのは、あんなにも白かった雪は、間近で見るととても純白と呼べる代物ではなかった事だった。雪はその大部分を白としながらも、おそらくは覆い被さった下にあるであろう茶色の土や緑の草を所々に含み、色は薄汚れていた。
私はそこで何かに気が付いた。
急いで起き上がり、走ってきた足跡を確認する。やはり思った通り、純白だと思い込んでいた雪は、私の靴裏の土によって汚されていた。コートにへばり付いた雪も、すぐに消えて行く事はなかったが、ゆっくりと、しかし確実に溶けて無くなっていく様だった。身の回りにへばり付いた雪のいくつかは、薄汚れた灰色をしている。
私の思っていた白の脅威は、最早恐れるに足らない事が明らかだった。
ふいに鳥の鳴き声が聞こえたが、聴き慣れないものであったために種類までは特定する事が出来ない。
白は途端に勢力を弱めた様に思われた。私の靴も当然、黒いままだった。
私は再び老婆に駆け寄ろうとし、途中で立ち止まった。近づいて見てみると老婆だと思われたそれは、黒い雪よけのカバーがかけられたオートバイだった。盛り上がったカバーの上に、こんもりと雪が積もっている。
見間違いであったと私は安心した。いや、おそらくは安心した振りをした。
こんな事は初めからわかっていたのではないか。
コートに付いた雪は徐々に溶けて、すでに透明へと変わりつつあった。無論、靴は黒いままだった。
しばらくそのまま道なりに歩いて行くと、隠れる気もない黒猫が一匹、雪の上に立ち、私を睨み付けていた。気を取られる事もなく、尚更に進むと、まるで期待外れの様なコンクリートの黒が、道の所々に点々と剥き出しになっている。
それに落胆する暇も無く、ヘッドライトを付けた黒い車が私のすぐ横を、クラクションを鳴らしながら通り過ぎていく。じゃりじゃりと不愉快な音を立てる、その黒い車はタイヤにチェーンすら巻いていなかった。
曇天であった空は予定通り、時が経つにつれて黒くなっていく。
何もかも期待外れの様な気持ちを紛らわすために私は、まだ誰も通っていない雪の上を選んで歩いて行く。
夜が深くなるにつれて、月だけが白く、その輝きを強くしていく様だった。