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旅団

一本道の丘の上に侍が一人立っている。ボロ雑巾の様な衣を羽織っているが、腰には新品の刀が差してある。

空には果てしない曇天が続いており、あまりにも広いそれは、見上げると少し緩やかな曲線を描いている様にさえ見えた。侍は思うー

「空は果てしないな。こんなにも果てしないものを、たった二つの瞳で見得るとは何事か。感じる、この心にしてもそうだが、人間とは途方もないものだ」


侍はふと、自身の腰に差してあった刀を意識する。今日この丘へ赴くにあたり、真新しいものを持ってきていた。

侍はその刀を鞘から出し、二三、空を斬る。侍は侍であるために人を斬らねばならない。そのために極限まで磨かれた刀身は、太陽のない道の上でさえも息を飲む程に鋭く輝いていた。侍は、まだ血も肉も知らないこの刀を、ひどく気の毒に思った。

「早く人を斬りたいものだ」

そんなことを思っていると近くの茂みが、がさがさとなる。中から突然、四肢を持つ何者かが現れた。

侍は胸が高鳴り、血が騒ぎ、頬に笑みが浮かぶ前には動き出していた。

既に鞘から出ていた刀は抜刀の手順を省き、踏み込んだ足の力で仰け反った上半身の動きに合わせ、振りかぶられた。足は踏み込んだ力で少し浮き、身体を目標へと向かわせる。間合いに入った途端、刀が振り下ろされた。これらの動きが無駄なく行使され、一つの動作が次の動作を加速させ、また次へと続いていく…そんな美しさが僅か一秒の間に展開された。

四肢を持つ何者かは、ただ成す術もなく斬り捨てられた。あとは返り血を浴びるだけだと事態の進展を待っていた侍は、直後、身を固くする。

結果から言えば侍は、その自らの予想通り勢い良く返り血を浴びたのだが、そこで彼を驚かせたものは色だった。なんと噴き出した血の色が真っ黒だった。侍は失望した。

「なんだ、人ではなかったのか…」

黒で汚れた服には色気がなく、刀身に滴る液体も、黒ではまるで、さまにならなかった。

「最初に斬ったものがこれとは…」

侍は落胆せずにはいられなかった。空が黒くなり、月が見え始めた。


侍はむしゃくしゃし始める。辺りは物が見えない程ではないが、さっきよりも明らかに暗くなり、それもまた侍を苛つかせた。侍は人が斬りたかった。


そうこうしていると近くの茂みが、また、がさがさとなる。侍の身体に再び力がみなぎる。

「今度こそ人か」

しかし、現れたのは犬だった。

茂みの間をのそのそと掻き分けてくる、見るからに汚い痩せた細長い犬は、その半開きの口の隙間から、ぶよぶよとした舌を横から斜めにだらりと垂らし、そこからヨダレを絶え間なく地面の上に滴らせながら、せわしなく小刻みに呼吸している。

侍は斬った。特に意味もなく、苛立つ感情をそのままに、雑な抜刀から叩き斬る様にして真っ二つにした。割れた頭から赤い血が噴き出る。

「これが赤くても仕様がないのだ!」

侍は皮肉を感じ、更に苛立ちを募らせる。人が斬りたい。

月だけが赤に変わった。


侍は歩き続ける。苛立つ感情さえもが少しづつ雑になり、血の付いた刀で辺りの茂みを無闇やたらに切り付け始める。

早く人を斬らないと、その代わりに自分の手首でも切り落としそうな程の勢いだった。

「早く、早く人を斬らせてくれ…」

侍はもう、この世にはまるっきり人間がいない様な気持ちになり、ひどく孤独だった。半べそをさえ、かいている始末だった。

侍は思うー

「何故この丘には人っ子ひとり居ないのであろう。こんなにも長い道なのだから、一人くらい人間が在たっていい様なものじゃないか。何なら、これから先に出会う人間が、そのたった一人だけであったって、私としては一向に構いやしないのに。そのたった一人さえここに在ってくれたのならば、例えばこの命と引き換えに、今この場所でそいつと刺し違えて、それを最期に斬られ死んでしまったとしたって、私としては一向に構いやしないのに。そのたった一人さえ、ここに在ってくれたのならば、そのたった一人さえ、この私を見付け出してくれたのならば、そのたった一人とさえ、心から真剣に斬り合う事が出来たのならば、私としては、それ以外には何一つとして、他に望む事なんかありはしないのに。己が命を華と散らすべき、そのたった一人さえここに在ってくれたのならば、私はその存在に対して全身全霊、己の全てを捧げ尽くすことが出来る…それなのに何故この丘には、誰一人として人間が居ないのであろうか…」


一本道の丘の上に侍が一人立っている。ボロ雑巾の様な衣を羽織りながら、腰には汚れっちまった刀が差してある。侍は、とてもとても寂しかった。そして、その寂しさや虚しさに対応するに相応しい言葉や表現を、侍は自身の身の内に何一つとして持ち合わせていなかった。或いはそれこそが、侍にとっての最大の悲運であったのかもしれない。彼はただ、そういった性質の表現方法を丸っきり持っていなかったが為に、この人生を生きて行くことに於いて、極めて行動的且つ、直情的であり続けるより他に、何一つとして自身の行動規範を有しなかった。それのみならず、彼はそれ等の表現方法を全く持ち合わせていないが故に、行為するということ、それ以外の一切の思弁的哲学や、それに準ずるであろう様々な理屈や理論を、心から軽蔑してもいた。侍に残された道は、やはり、人を斬る事より他に何一つとして残されてはいないらしかった。周囲の薄暗さの上に、侍の視界が更にぼんやりと霞む。しかし、泣いたらそこで負けである。もしも泣いてしまったとするならば、その時点で否応無く、侍はもう真の侍ではなくなってしまう。ーしかし半べそまでなら、それはそれでセーフなのか?ーところが今の侍に、そこまで自身を厳密に規定出来る程の分別など、到底ありはしなかった。侍の頭は、ただ自身が真の侍であろうとし続ける努力の他には、一切の思考力を失っていたのだった。

「とにかく、泣いたら負けだ」

侍は努めて自らにそう言い聞かせ、奥歯をただひたすらに強く強く食いしばった。口の中に広がる微かな鉄の味、また、二つの硬い金属を無理矢理にこすり合わせた時に生じる様な、ギリギリという鈍く不愉快な音を、無理矢理に喉の奥へと流し込む為に、侍は口内に溜まっていた血の滲んだ唾液を一息に飲み干した。それにしても、この途方も無い寂しさは一体、何なのであろうか…。やはり、それを表現するに相応しい言葉を、侍はまるで見付け出すことが出来なかった。しかし、涙に潤む瞳がその時、何かを捉えた。一本道の丘の奥の方で、何やら複数の黒い影が動いている。周囲の薄暗い景色の中で、それはぼんやりと、しかし、それでも確かにゆらゆらと動いていた。

「早く、早く人を斬らせてくれ…」

侍は祈る様な気持ちで、その影を見つめた。今や、侍の希望の全ては、その影にのみ集中している。ぐっと目を凝らす為に力んだ瞳から、ついに一粒の涙が、疎らな髭でざらついたカサカサの頬を伝って流れ落ちた。しかし侍は、最早そんな事にすら気が付かない程に、全身全霊でその影に集中していた。

少しづつ近づくにつれて、それらの影が人の形をしていることがわかった。数もかなり有る。

「好機。また黒い血かもしれないが、あれだけいれば一人くらいは人間があるだろう」

侍の眼に力が戻る。どうやら、どこかの旅団らしい。何かを載せた推し車や、背負い込んだ荷物などが、距離が近づくにしたがって徐々にはっきりと見え始める。それに少し遅れて、人型の影が急にざわつき始めた。侍に気付いたのだ。侍は既に構えていた。

「一人も逃すつもりはない」

この丘の道幅はそれほど広くもなく、それは不可能でもない様に思われた。侍の胸は高鳴り、血が騒ぎ、頬には笑みが浮かんだ。旅団は明らかに取り乱していたが、侍を見付けても一向に引き返す気配がない。酷く怯えながらも、元々進んでいた方向に尚もその歩みを進めてくる。侍との距離が縮まる。いよいよという所まで迫り、両者が緊迫する。旅団が進めて行く歩みももう、じりじりとミリの単位を刻みはじめる。不意に弱く吹き抜けていった風が、不敵な笑みを浮かべた侍のざらついた頬を、優しく清らかに撫でていった。これでもかという上に、尚更に両者の距離がじりじりと縮まっていく。そうこうしている間に、いよいよ一人が飛び出した!丘の一番端、道幅一杯を全力で駆け抜けようとする。侍は動かない。抜けたか、と思うや否や、侍が半歩動く。つま先の位置を変え、納めていた鞘から刀を引き抜く。空中に一瞬、何かが閃いたと見えるが早いか、目にも留まらぬ速さで刀が振り抜かれた。侍の動作が完了した一瞬あとに、勢い良く血が噴き出る。

「黒か」

侍は思ったが、そう思っている暇はない。一人が飛び出した後から、もう一人が逆の道幅一杯を全力で駆け抜けてくる。侍は振り抜いた刀の勢いそのままに、身体の向きを変え、目一杯に足を踏み込む。開いていた間合いは一気に詰められ、振り抜かれた刀の切っ先が相手の喉元を切り裂く。強烈な勢いで血が噴き出たが、やはり血の色は黒かった。

「黒か」

と思ったが、やはり暇がない。一人また一人と道幅一杯に次々と飛び出してくる。侍は思考を止めることにした。ほとんど感覚だけになった侍は一切の無駄もなく動き続け、つま先を変えては踏み込み、刀を振り抜いては確実に急所を捉えた。終いには眼をつぶりながらでも全てを斬り伏せることが出来る様になったが、やはり血の色は、斬れども斬れども期待外れの黒ばかりであった。侍は思うー

「何を必死に、向こう側を目指しているのか。言葉が通じるのなら教えてやりたい。向こう側には何も無い。何処まで行けども何も無い。私は、そちらから来たのだから、わかる」

しかし、侍は侍であるがために斬り続ける。言葉を告げるよりも先ず、先に斬る。そこに一切の疑念は無い。旅団は旅団で、それでも必死に丘の上を駆け抜けようとする。何かそうしなければならない不可避の理由でもあるかの様に。ただ無残に斬り捨てられるだけだとしても尚、引き返せない何か重要な理由でもあるかの様に。ー

その後も侍は斬り続けた。侍が妥協する事はなく、また旅団が命乞いをする事もなく、言葉はついに一切、交わされる事がなかった。全ての手応えを斬り終えたが、待ち望んだ肉の感触はついに、無かった。

そこでふと、侍はある事に気が付く。いつからか自分の立っている場所と空の黒色との境界線が無くなっていた。そればかりか自分の身体と景色との境界が全て消え、周囲の一切が漆黒と化していた。自分の形を認識することも出来ない暗闇の中で一瞬、刀だけが閃いた様に感じた。斬り過ぎたのだな、と悟った。あの赤かった月でさえ何処にも見当たらない。今はもう、手に持った刀を決して落とさぬように、ただ振り回すことだけしか出来なくなってしまった。しかし赤を斬ろうが青を斬ろうが、どんな色でも、この黒を覆す事が出来るとは到底、思えなかった。侍はふと、白に想いを馳せる。しかし、どうして白が黒を覆せるだろう。白への願いも長くは続かない。

侍は歩き始める。しかしながら、そこに積極的な意味はなく、ただそうするしかないから、そうしているに過ぎなかった。向こう側の景色を見れないかもしれない事、新しい刀で人を斬れなかった事を心残りとしながらも、侍は尚も刀を振り続ける。何故だかはわからないが、不思議と後悔だけはしていなかった。侍は考えることを止める。覚束ない足取りで、それでも歩き続けるが、刀の先にはやはり、何も当たらない。進むより他に道はないのだが、その気力も希望がなければ長くは持たないことを悟る。しかしながら侍の頭に黒を覆す色が浮かぶことはついに、最期まで無かった。

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