月光
ー…夜を越える為に。
月が満ちていた。街灯の無い道に二つの車輪の回る音だけが響いている。「月光が夜道を照らす」とは、誰が言った言葉だろう。月は満ち、その完全な輪郭に怪しげな黄色い光を目一杯溜めて煌々としているが、それでも、私や私の行き先を照らしてくれる気配は一向に感じられない。むしろ、この夜の中に僅かに残された光の欠片を一つ残らず、あの月が飲み込んでしまったがために世界は今、漆黒となり得ているかの様な、そんな気さえした。この暗闇のために、私は背中から迫る影に気付くことが出来ない。今の私に出来ることは、ただ目一杯、自分の感覚だけを頼りにペダルを漕ぎ続けることの他に何もなかった。目はとっくに暗闇に慣れているはずなのに、全く遠近感を掴むことが出来ず、走り続けているはずなのに一向に進んでいる気はしなかった。
遠くの空に張り巡らされた電線の間を月が横切っていく。そのことだけが、私と月との関係が刻一刻と変化していることを知らせてくれた。しかし近づいているのか遠ざかっているのか、そこまではわからなかった。
不意にペダルが重くなる。息が詰まる様な恐怖を感じたが、声に出しては事態の深刻さが増すため、叫びたい衝動を押し殺し、そっと後輪に目をやる。車輪は問題なく回転し続けていたが、いつの間にか走っていた地面が平坦な道から歪な草っ原に変わっていた。「ペダルが重くなった理由はこれか」と安心した後、すぐにまた恐ろしくなった。スピードを落とす訳にはいかない。追いつかれてはいけない。-何に?
考えている暇はない。ペダルを漕ぐ脚に力を込める。硬く張り詰めた金属の線を、尚更に硬い金属がなぞっていく様な音が頭に響いていた。音量としては決して大きくはないが、身体の隅々まで響き渡る様で気味が悪くて仕様がない。さっきまで車輪の音しか聞こえなかったはずなのに、一体いつから鳴り始めたのか、何処で鳴っているのか、全くわからなかった。耳鳴りではないか?ばかな。暗くて何も見えない。
足には疲労が溜まっていた。スピードを落とす訳にはいかない。だが、こんなことを続けていたら私の方が壊れてしまう。奴からは今どれくらい離れているのか、最初よりは距離を離すことが出来たのだろうか。それとも、今にも飛びかからんと機会を窺っている程までに、もう直ぐそこに迫って来ているのだろうか。暗くて何もわからないんだ。
不安は私の背中を追い続ける者の、その実体よりも遥か凶悪な形で私を蝕んでいる様な気がした。なら一層の事、全てを終わらせたらいいのではないだろうか?そんな思いが過った直後に私の直ぐ隣、僅か数センチの所に突然、背の高い黒い影が横切った。
「木だ」と思うが早いか、その幹から生い茂った枝や葉が、私の身体を執拗に切り裂いた。あと数センチの所で幹を回避した私の身体は、大してスピードも落とさずに、枝や葉の鋭利の間を勢い良く駆け抜けていった。顔や手に滴り落ちる生温い体温を感じる。私は先ず、目が無事であったことに安堵した。ろくに周りも見えはしないのに。そしてまた恐怖する。あと数センチで終わっていた。転んでは助かりようがない。私は恐怖した。-終わらせたいんじゃなかったのか?
ペダルを漕ぎ続ける。疲労は溜まる一方で、何かが上向きに変化していく兆しは一向に感じられない。そもそも何処を目指しているんだろう。逃げ続けるにしても彼等が足を止めて諦めることなど、あり得るのか。私は壊れていく一方だが、彼等が壊れることなど、あり得るのか。万が一巻けたとしても、また別の何かが私を見付け追い始めるだけの話ではないのか。「明けない夜はない」か。それもそうだろうが、朝まで一体どうしろと言うのか。夜が明けるまでのその間に、一体何重もの致死量の不安を浴び続けろと言うのだろうか。ペダルを漕ぎ続ける意味はあるのか?ーいや、そうではない。もしも意味があったとして、その意味をいくら数え立ててみたところで何の助けにもならない。
私の横を幾つもの黒い木が横切っていく。相変わらず枝や葉は必要以上に鋭いばかりだった。そういえばさっきから妙だ。肉を切られる痛みに耐え兼ねて声を上げる、私のその叫びとは別の、もっと歪な叫び声が背中の方から聞こえてくる。やっぱりそこに居るのだな、と思った。だけど妙なのはそこじゃない。どうしてそんな声を出すんだ。どうしてそんなに怒っているのだよ。怒りたいのは私の方なのに。
「木だ」と思った。私の直線上に、今度は先の方にはっきりと見える。私はいつだって普通だよ。こんな命だって死ぬのは怖いんだ。怖いものからは当然、逃げたいんだ。死ぬのは怖い。だけど殺されるのは、もっと怖い。ずっと恐ろしい。死にたくて死ぬ奴があるか。
遠く向こうに僅かだが、舗装された道が見える。その入り口も、おぼろげながら目に入った。相変わらず月は雲やら電線やらを無表情に横切っていく。叫び声が聞こえる。背中から迫って来ているものは不安ではなく、紛れも無い実体そのものだった。
乱立する木々の群、その終わりが見えてきた。「木だ」通り道を塞ぐのは、ただ1本だけだった。「木だ」ぶつかるより気付く方が遥かに早かった。「木だ」死ぬのは怖い、恐ろしい。「木だ」選べるだけましだろう。「木だ」死にたくて死ぬ奴はいない。
ー…横になった車輪のカラカラと回る音が聞こえる。仰向けになった私は、閉じていた目を見開く。
月が満ちていた。目を閉じている恐怖に耐え切れず目を開けたが、何かを見る恐怖でまた、目を閉じてしまいたくなった。-早く終わらせてくれ。
不意に卑しい鼻息が聞こえてくる。投げ出された私の靴に一心不乱に鼻と思しき何かを擦り付け、喘いでいる。思わずぎょっとした。見るに耐え難い醜悪な姿は、視覚情報だけで吐き気を催す程の悪臭を私に感じさせた。それと同時に突然、“それ”の動きが止まった。私の靴から鼻を離し、頭をもたげる。よく目が見えていないのか、卑しい鼻息を立てながら、匂いを頼りに鼻と思しき何かを地面に擦り付けながら、ゆっくりと、しかし身体の動きだけは小刻みに振動させながら私の方へと近づいてくる。「木だ」本当の悪臭が私の鼻を突く。「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」「木だ」何故避けなかった。顔だ。しかし目なのか、耳なのか、鼻なのか、口なのか、全くわからない。それなのに何故か、笑っていることだけが不愉快に伝わってくる。-どいてくれないか、月を見失ってしまう!
一瞬、動きが止まった様に見えた。さっきまで笑っていたのに急に無表情になった様なその顔は、どう仕様もなく不愉快で気味が悪かった。それを見た時、しばらくの間忘れかけていた恐怖が、突然、洪水の様に心の中に湧き上がってきた。「死にたくない!」
動き出そうとした時には、もう遅かった。私に覆い被さり、貪る様な動きを見せる。死にたくないよ。貪られ続けているのに痛みがない。意識だけが錯乱していく。「木だ」何故避けなかった。
貪られ続けているのに痛みがない。目がよく見えていないのだろう。貪られているのは私ではなく、私の吐き出した汚物の方だった。
押し潰されそうな圧力の中で必死に正気を探した。震える足に力を込める。呼吸の度に相手の鼻息が体内に入り込んでくる。ー
死にたくない、だけど楽になりたい。死にたくない、選べるだけましだろう。死にたくない、早く終わらせてくれ。死にたくない、殺されるのは恐ろしい。「木だ」何故避けなかった。死にたくて死ぬ奴があるか!
ー…気が付くとハンドルを握っていた。震える足でも転ぶ訳にはいかない。後ろを振り向くと、既に私に気付いたのか、頭をもたげこちらを向いている。私はペダルを漕ぎ、走り出した。歪な草原を抜け、一気に舗装された道に出ようとする。加速し切るまでの時間が、まるで無限に続くかの様に感じられた。ー
舗装された道に出る。周囲の暗闇が消える。長く続く道には、おぼろげな光の街灯が等間隔で並んでいた。月は雲に隠れては又、直ぐにその無表情な顔を現した。
「綺麗だ」そう思わずにはいられなかった。道が遥か先まで続いていることだけがわかる。振り返ると、遠くの方で彼がやっと私を追うために走り出したのが目に映った。私もペダルを漕ぎ、長い道を走り出す。暗闇は消えていたが、朝はまだ遥か先にあるらしい。
「綺麗だ」そう思わずにはいられない月光が、夜道を照らしている気がしてならなかった。