ある女の悩み
「愛してるよ。」
はあ、またか。それが私の本音で、それ以上もそれ以下も無い。更に言うなら、その言葉にそれ以外の思いを持ちはしない。愛してるという言葉は、安っぽくて、馬鹿みたいな言葉、嫌い。
「ありがとね。」
微笑を浮かべて礼を言えば、大抵の男は満足そうに笑んで私を抱きしめる。ああ、嫌だ。身体が男を拒絶しようと――突き放そうと、動きそうになるのを理性で押さえる。
「愛子……。」
男が、気持ちの悪い吐息混じりに、私の名前を呼ぶ。喉元まで出かかった“気持ち悪い”の言葉をひっこめる。
愛する子と書いてアイコ。私の両親は私のことを愛さなかった。名前を呼ばれる度、それがよぎっては私を苛んだ幼少期。愛子なんて、嘘。
「呼び捨てしていいって誰が言ったのよ。」
ついに突き放す言葉を言ってしまった。しまった、と思ったが男は「ごめんごめん。」と軽く受け流した。無性に腹が立った。
「でも愛子、お前は俺に愛されてる。それに仲間もたくさん居るだろ?」
私を守れないその細腕で、よくもまあそんなことが言える。
仲間と言ったって、私が本当に心を許しているのは片手で収まる程度しか居ない。その仲間も気が付けば其々の道へ歩んでいて、私の元から、消えていくのだろう。永遠など何処にもない。
「愛子。」
「だから呼び捨てするなと言ってるでしょう?」
女には無い弱点を掴んで引き千切ってやろうか。そんな思いを込めながら睨み付ければ、何を勘違いしたのか、唇を寄せてきた。
「止めて。」
その汚い唇を、仕方なく、手で触って遠退ける。
男はそれで満足出来なかったようで、不満げに「愛子」とまた私を呼び捨てで呼んだ。
「いい加減にして。」
身近な物を――というよりも元から信頼していなかったのもあって荷物を然程運んで来ていなかったが――纏め始めると、流石に男も慌て始めて「ごめんって、愛子ちゃん。」止めにかかる。
「離しなさいよ。」
細腕が伸びてきて、私を絡め取ろうとしたので避けた。一応男と女、力の差がある故に捕まったら最後だとは解っている。
男は諦めた様に、肩を竦め、私の動きを見守る方へ行動を移した。それをいい事に、私は荷物を纏め終え、「さよなら。」捨て台詞を吐いて男の家を後にした。
ライトが眩しい夜の街は、私を冷たくも暖かく迎え入れてくれた。
「お姉さん、どうしたんです?」
「私、わたし……。」
泣き真似をすると、その男は慌てた。慌て方が何処か先程の男に似ていて苛立った。
「良かったら、俺の家で話聞きましょうか。いや、そうするべきだよな。」
私の肩を抱いて、歩き始める男。嗚呼、コイツも拾った私のことを、何も知らないのくせして、馬鹿みたいに“愛してる”なんて言うのだろうか。
新たな男に拾われて、半年後。男は私に恋に落ちた。
「好きです、名前も知らない貴女のことが。好きになってしまいました。でも、この半年で貴女のことを沢山知りました。
好きなものはパンとベーコンと卵焼き、嫌いなものはピーマン、動物は基本嫌いで、一人でいる時は普段苦手だと言っている歌を口ずさむ時もある……。
そして、貴女は、一人でいる時が誰よりも、何よりも美しくなるってことを、僕は知りました。
でも同時に貴女は、一人で居るのが怖いんですよね。だから、俺が、一緒に居ます。二人になりましょう。
美しい貴女も好きですが、何よりも貴女のことが好きだから、貴女の心身を優先させたい。安心してもらいたいんです。」
ほう、と感心した。
大抵の男は、愛してるの言葉だけで済ませようとするが、彼は違うようだ。
「愛してるなんて安っぽい言葉じゃ足りないくらい、貴女のことが好きです。好き以外に言いようが無いんです、愛してるでは、足りないんです。」
私の手をとって熱心に話す彼に、何か惹かれた。
「良いわ、付き合ってあげる。」
微笑むと、彼はとびきり嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
しかし彼は、呆気なく私の隣から消えた。交通事故で。私の携帯にすぐに電話はかかって来たが、その時には既に彼はこの世から身体だけを残して消え去っていた。
「海斗……。」
唄うように、彼の名を呼んだ。男の、いや、他人の名前を、久々に口にする。
「貴方には、私の名前を呼ばせても良かったかもしれない」
呼ばれるのが嫌で、一度も教えなかった名前。少し、いや、かなり後悔している自分が居る。
土手で、返却された彼の持ち物を確認していると、携帯が出てきた。一番上にある電話履歴を見ると、
「え……?」
『愛子さん』という名で登録されているその番号は、確かに私のものだった。
その瞬間、海斗の携帯が鳴る。
「もしもし……?」
胸がざわつくのを押さえながら、電話に出る。
『あれ、海斗じゃねえな。』
男性の声だった。
「はい、ええと、貴方は?」
海斗以外の男性と話すことが久々だという事実に、少なからず驚いている自分がいる。普段なら、何人も男を引っ掛けている自分が、海斗一筋になっていた。
『もしかして愛子さん?』
私の問いかけを無視して、男性は言う。
「は、はい。」
愛子は確かに自分の名前だ。故に違うとは言えない。
『あ~、もしかして、海斗に何かあった……?
つか、本当に愛子って名前なの?』
ひとまず、海斗の友人ならば、話さねばなるまいと、海斗が亡くなったことを話す。
『そうか……。』
暫しの沈黙、そして、何かを決意するように息を呑んだ男性は、話し始めた。
『自分に何かあったら言ってくれって言われたことだけ話す。
【愛子さんって勝手に呼んでごめんなさい、でも、貴女は僕が愛する人で、女性らしく子をつけて呼ばせてもらっていました。もし、自分に何かあったら、自分のことは忘れてください。自由に生きてください。でも最後に1つだけ、愛しています、愛子さん。】』
鼓膜を叩く声は、確かに違う人のもののはずなのに、どうしてか、海斗の声にしか聞こえなかった。
その時、ぽつ、と頬に水滴が掛かる。雨が降り始めた様だ。今すぐに、雨宿りしなければいけないのに、近くには何も無かった。そう、何も、ない。
『何かあったら俺に電話しな。海斗には色々世話になってたんだ、そいつの愛する女なら、俺に助ける義理はあるだろう』
そう言ってくれたのを聞いたところで、私は勝手に電話を切って電源を落とした。
「さよなら」
捨て台詞を吐いて、彼のものを川に流すと、そこから立ち去った。
雨が酷い。雨宿り出来る場所も、何組かのカップルに占拠されていた。
ずぶ濡れになって、もう雨宿りする必要などないかと思い始めていた頃、自然と足が動いてしまっていたのだろう、彼の家に戻ってきてしまった。
ああ、貴方なら。貴方ならこんな時、私に傘を差し出してくれるのでしょうね。
生暖かい液体が、雨と共に私の頬を濡らしていく。
「愛子さん」
ふと、海斗に名前を呼ばれた気がした。振り向けば、先ほど通って来たアスファルトに雨が跳ねているだけで。
「海斗」
もっと名前を呼び合えば良かった。
もっと、そう、安っぽい言葉でいい。本当に好きだと伝えれば良かった。
「海斗……あい、してる」
人生で初めて、その安易な音を、雨音の中、響かせた。
一度だけでは足りなくて、二度、三度、何度も繰り返す。
「愛してる! 海斗のこと、愛してるの!」
気付けば叫んでいて。
叫べば届いてくれるような気がした。それは幻、私の儚い願いだと解っているのに。
こんな安っぽい、何処にでも居そうな、馬鹿な女にした責任を取って貰いたいのに、もうその相手はこの世にいない。雨から逃してくれる人も、歌をこっそり聞いてくれる人も、毎食用意してくれる人も、いない。
「愛してる、海斗」
雨は、勢いを増しながら、私を嘲った。
気まぐれに書き散らかしました。後で片付けるかもしれませんし、そのまま放っておくかもしれません。