閑さや岩にしみ入る蝉の声
蒸し暑い四畳半の部屋で蝉の声と鉛筆が紙を引っ掻く音が混ざり合い、男の神経を逆撫でする。男は鉛筆を放り出した。ふらふらと椅子から立ち上がり、倒れ込む様にして畳の上に身を投げる。汗ばむ身体に畳が張り付く感覚が何とも言えない。非常に、不快だ。仰向けになって天井を見上げてみたところで何も浮かびやしない。いや、ぼんやりとしたイメージは浮かぶのだが、それを言葉に表す術を男は知らないのである。頭の中にある物事を、風景を、生き物を、文字に変換することが出来ないもどかしさに男は項垂れ、諦めるように目を閉じた。
男の右脳の中では少年が無邪気に駆け回っている。場所は公園だろう。少年の格好は半袖短パン麦藁帽子にしようか。網を持って、蝶に似た、しかし蝶ではない何かを捕まえんと少年は走るーー待った。そこで男は考えた。蝶ではない何かとは何だ?蛾か?それとも別の虫か?はたまた化物か?分からない。しかし、今男の右脳の中を飛び回っているのが蝶ではないことは確かであった。要は思い浮かばないのである。男は語彙力は愚か、想像力さえも乏しいのかと自分を卑下した。
卑屈になっている男を余所に右脳の中の少年は網を振り回し走り続けている。では、何時迄も走り続ける少年に未来を与えるとしよう。そうだな、ここで少年の母親が登場する。得体の知れない何かを追いかけ回した少年を責め立てるのだ。生き物を執拗に追いかけるべきではないと。そしてきっと少年は俯き謝るのだろう。ごめんね、ママ。
男は目を開け、そして失望した。ユーモア溢れる不思議な世界も糞もない。ただただ平凡な物語を繰り返す自分にはほとほと呆れる。これで何度目だ?
「うるせぇ畜生。」
蝉は鳴き止まない。