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あなたのいない、はるがくる

こんにちは、2作目になります。

こちらもPixiv様と同時に掲載しています。


もしかしたら長編にしようかなって思っていますが、まだ納得のいく形になっていないのでしばらくかかりそうです。

 まどろみの中は春のように心地よい空気が流れていて、私はゆっくりと寝返りを打った。冷たいのにどこか温かい古い木の床の上、そこに敷いた着物からは昨日焚き締めておいた微かに甘い、高貴な香りが立ち上った。懐かしさにその香りをゆっくり吸いこんで、ゆっくりと吐いた。

 その時、砂利を踏んで来る控えめな靴音が庭先から響いて、私は瞼を開けようとした。しかし、いまだに眠気が支配する全身はだるくて、泥のように重くて、唇から呻くような小さな吐息が出るばかりだった。

 起きようと必死な私とは正反対に、靴音は私のすぐ近くまで来て歩を止めた。そして、微かな笑い声と共に、私のすぐ傍に腰を下ろすような衣擦れの音と、床の軋み、風や香の香り。私の視覚以外の感覚が光景を私に伝えてくる。

「こんな所で寝ていると、風邪をひきますよ。」

 そんなことを言ったって、今日はとても温かいのだもの。それに・・・

「あぁ、桜が満開ですよ。美しいですね。」

 慣れ親しんだ口調、歩調、体温や気配すら克明に記憶されている。

 このまどろみから覚められたらと思っていたのに。

──頭を撫でられた気がして目が覚めた。でも、そこには人の影すらない。

 私が横たわる廊下にはいくつも桜の花びらが散っているだけ。床の上に敷かれた萌黄色の単衣には私の眉間同様、皺が寄っている。ひどく不細工だった。

 嫌な夢だ。

 幸せで、幸せだからこそ、嫌な夢。

 起きた時の喪失感を思えば、忘れられたらどんなにいいかと強く願った。でも、本当はそんなこと望んでいなくて、忘れてしまいたいと思う自分の根底にどんな願いがあるかなんて、もうとっくの昔に分かっていた。

 たまらなく、会いたいよ。

 夢でもいいと、思うほどに。

 自分が苦しくなるだけだと、分かっていたけれど。

「・・・今年も咲いたよ、桜が。」

 屋敷には中庭に向かって伸びた回廊がある。大きな柱で支えられ、壁や屋根で囲まれた

コの字型の回廊、その中庭に面した縁側部分からは散り始めた桜の花びらが春風に乗って吹き込んでくる。

 春風は、温かな陽光や色鮮やかな光景とは違って、手が裂けそうな冷たさだった。

 あの日もそうだった。寒かった。けれど陽光だけは明るい、そんな冬だった。

 突然、貴方は逝ってしまった。本当に、何の前触れもなく、貴方は私を置いて逝ってしまった。

『また明日。』

 嘘つき。嘘ばっかり。明日なんてなかった。来なかった。

 部屋に他の皆が駆けこんできた時、貴方だけがいなかった。きっと先陣を切っているんだろうと思って、私は戦場を目指した。そこにも、貴方はいなかった。

 いない貴方に不安を覚えながら、でもそんな不安を感じる暇もないくらい怒涛のように押し寄せる軍勢を、斬って、斬って、斬って・・・。

 全てが終わった時、私は貴方の亡き骸を前にしていた。

 周りの皆が泣いていた。私の肩を抱きしめて泣く者も、顔を逸らして泣く者も、貴方の棺に縋りついて泣く者も、泣かない者もいた。

 私は、感情が追いついてこなかった。涙さえ、貴方を悼む涙さえ流すことなく、貴方は荼毘に付した。

 呆気ないのね、人の死って。

 どんなに想っていても、それって結局思い出なのね。時間は平等に降り注いで、記憶を薄れさせていく。たまに記憶の中の貴方の顔に霞みがかかるもの。

 本当に、貴方がいたことも、貴方がいないことも分からなくなる。短い季節の目まぐるしい動きの後、私は今ここにいる。生き残ったの、あの動乱を。

 もう、ここに戦いなんてない。穏やかな、私が貴方と初めて会った時のような穏やかさが戻ってきた。

 約束なんて、一度もしたことない。いつも偶然の積み重ねで、季節を紡いでいた。

 だからなのだろうか、ふらふらとした足取りで私は彷徨った。屋敷を、庭を、町を、森を・・・偶然があったなら、貴方を思い出せるんだろうかと、凍りついたように動かない私の心が、その虚無が私を突き動かす。

 泥だらけになったって、傷だらけになったって、もう、叱ってくれる貴方はいない。

 分かってる。分かってる。分かってる。分かって・・・いるの、泣けない理由も、思い出せない理由も。

 さよならなんて、してないわ。最期の言葉だって聞けなかった。触れたのはまた明日と、再会を誓ったあの夜が最後なの。もうずっと、遠い昔のようで。

 認めたくないからじゃない。どうしていいか、分からないの。先に進めないの。傷付きたくないの。だから、思い出さえも殺したの。

 ひどい私を、誰も叱らない。貴方なら、きっととても怒るんでしょうね。

「春が来たよ。貴方のいない・・・春が。」

 焚き染めた香、萌黄色の単衣を、涙の出ない瞳を揺らして掻き抱く。涙が出ないのに、貴方の死は不思議なほどはっきりと心が受け止めているの。

 衣に移った、眉間の皺。厳しい表情をしているだろうか。涙と共に思い出せない記憶が流れてしまうのが怖い。

 夢は、夢のまま。死者は、生き返ったりしない。

 私が逝くまで、貴方には会えない。貴方はきっと、追いかけた私と会ってはくれないでしょう?

 ひどいね、置いていったくせに。姿は見せないくせに、思い出さえも私を傷付けるくせに、残酷に会いに来て、触れては去っていくんだね。

 重い瞼を降ろして、薄闇に身を投じる。抱き締めた単衣からは、香の他に鉄錆の臭いがした。瞼を閉じれば、開いた時の喪失感が重いのに・・・ほら、足音が聞こえるの。


──あなたのいない、はるがくる。


 おやすみなさい、いつまでも。


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