八
その日の朝、キサラの様子が変だった。まどろんだ表情のまま、朝食もいつもの半分しか食べることが出来ないようだった。
「風邪か?」
額に手を当てようとして、止めた。しばらく使っていなかった温度計を取り出し、キサラに温度を測らせると、「37.8度」の微熱があった。
「今日は学校を休んで、部屋で寝ていなさい。」
「はい。」
普段から声に覇気は無かったが、一層弱々しいもので、母の事を思い少し不安になった。まず学校に連絡を入れ、次に、昨夜の鍋の残りに米を入れて炊き、蓋をした。
「昼は雑炊を食べなさい。夕方から、病院に行こう。」
一人で行かないとは思うが、キサラにも分かる様に保険証とお金を机の上に置いた。時計に目をやると、普段の時間よりも遅くなっている。少し急がなければならず、気にはなったが、鞄を持って入口に立った。
「具合が本当に酷くなったら、いつでも電話をしなさい。電話番号は覚えているね。」
「はい。」
「それから、誰が来ても今日は開けなくても良いから、寝ていなさい。私は、仕事にいってくる。」
ドアを開けて、キサラが目を擦りながら部屋へ向かうのを確認してから、ようやく戸を閉めた。
あの程度の微熱なら、少し眠れば何とでもなる。しかし、市販の薬を家に置いておかなかったのは失敗だった。病院から渡される薬の方が間違いないとは思いつつ、直ぐに対処出来ないのは問題である。病院にも行くが、帰りに置き薬も買って帰ることしよう。今日のキサラの昼は、さっきの雑炊で問題は無いだろうし、また、非常食として冷蔵庫や戸棚にも食材を用意している。私は滅多と風邪を引かず、引いたとしてもすぐに治ってしまうので、自分なら何が必要であるのかを基準に考える事が出来ない。
職場に着いたが、気が気でない。病気というのは馬鹿みたいに不安を煽るもので、いくら無愛想な子供であっても、家の中で一人というのは心細いのではないだろうか。私が子どもの頃は、姉も、特に母がいつも家に居たので、そうした心細さをあまり感じていなかったように思う。呼べば誰かが応える家の中、思えば随分贅沢な話だった。
書類の整理と諸連絡を済ませると、残った仕事は職場で無ければ出来ないものでもなかった。また、幸い暫くは大きな仕事も無く、有給をまだ使っていなかったので、二三日休んでも問題はない筈である。もし必要であるなら、家で自分の仕事を済ませ、必要な場合は電話連絡すれば良い。
上司にその旨を伝えると、「そうか。よく働いてくれているから、今日はこの書類の整理を済ませたら帰りなさい。何かあったら、こちらから連絡をするから、」と快く承諾した。
渡された書類の整理など、ものの数十分で済ませられるものだった。職場でしなければならない自分の仕事を済ませると、同僚に会釈をしながら社を後にした。車を走らせ帰る途中、スーパーで夕食の材料を買い、少し離れた所にある薬局で市販の風邪薬も購入した。
眠って居るかと思い、無言でドアを開けて中へ入った。キサラの部屋の襖を開けると、ベッドにうつ伏せになってキサラが眠っていた。
「・・・キサラ、」
起きているかもしれないと小声で呼びかけてみたが、返事も反応もない。如何やら、深く寝入って居るのだろう。
キサラが起きてから、病院に行けばいいと思い、買い物は机の上に置いて部屋に入った。寝ているキサラの温度を測ろうと手を伸ばしたが、結局触れるのを止めて、戸を閉めた。
子どもが人間に近付く度に、私はさらに怖くなった。
子供の沈黙と、大人の沈黙は違う。
何も考えていない子供だったとしても、大人ならば不満や怒りを隠すこともある。
つまり私は、それが、怖かった。
キサラが目を覚ましてから、病院に連れて行った。待合室には思ったより人が多く、キサラと同じが小さいくらいの子どもが、咳をしながら親と順番を待っていた。一時間ほど待っただろうか、ようやく順番が来て医者に診てもらうと、ものの数分で、「インフルエンザですね。」と診断された。医者の話では、今流行しているようで、しかし、今年のインフルエンザは例年に比べて酷くはならないと話したので、内心安堵した。私は個人的に予防接種を受けていたので、おそらく罹らなかったのだろう。今度からは、キサラにも打った方が良いかと医者に聞くと、違う型のインフルエンザが流行する事もあり、打っておけば大丈夫だという訳では無いと説明された。
昼食後に薬を飲ませ、またしばらく眠らせた。起きがけに熱を測ると、病院の時よりも高く、四十度に近い温度だったので、医師に言われた通り、頭を冷やすだけではなく、関節にも氷を置いて熱を抑えた。すぐには下がりはしなかったが、ある程度落ち着き、ふと時計に目をやると八時になっていることに気がついた。
「夕食、食べられるか、」
尋ねたが、キサラは首を振った。先ほど、吐いたばかりなので、すぐに食べられるとは思っていなかったので、「そうか」と返事をして台所に入った。以前、私も一度だけ、子どもの頃に酷い風邪を引いたことがあった。その時も、今のキサラと同様にほとんどものが食べられず、唯一口に出来たのは林檎くらいだった。キサラが私と同じかどうかは分からないが、林檎を摩り下ろし、試しに一口押し込むと、拒まずすんなりそれを飲み込んだ。
「これなら、食べられるか、」
「・・・うん。」
キサラは体を起こし、私が渡した摩り下ろした林檎をスプーンで食べ始めた。何も食べないより、少しでも食べられた方が薬を飲む分でも良いだろうと思った。
姉の息子だというのに、時折、不思議に思うほど、私に似た子供であった。容姿はそれ程似ている訳でも無いが、一緒に暮らしているのだから、似たところもある様に思う。いや、それより、一度も共に暮らした事の無い姉に、横顔も仕草も背筋が凍るほど似ていることの方が多い。血の繋がりに感動すべきか、気味悪く思うべきか、少なくとも今現在の姉と比べようが無いので、子供とはそういう物だと考えるのは止めた。
リンゴを食べ終え、もう一度薬を飲むと、それから吐き気はもう来ないのか、キサラはそのまま眠りに向かった。熱もおさまったので、もう心配無いだろうと思い、キサラから離れ、リビングに戻った。今度は自分の夕食を済ませ、コーヒーを入れて一息ついた所で、テレビを点け、一日の出来ごとを振り替えった。誰それが殺人を犯しただ、汚職が発覚しただのありきたりで直接自分に関係しないものばかりだったので、天気予報が終わるとすぐにテレビを消した。
読みかけの本に手を伸ばし、文字に神経を集中させていると、隣の部屋から声が聞こえたので耳をすませた。
「う、うう。」
戸を開けて覗いてみたが、如何やら何か夢にうなされているようだった。起こした方がいいだろうかと一瞬悩んだその時、突然キサラは喉を掻き毟り、息が出来ないのか口から唾液を吐きだして身をよじり始めた。
慌てて部屋に入ると、「ああああっ!!」と言葉にならない叫びを上げ出した。夜に叫ぶなど近所迷惑であり、また、その行動は当然尋常だった。
「キサラ、起きろ。起きろ!」
身体を揺すり、何度も呼んだが正気に戻らず、一先ず掻きむしる手を押さえた。喚く行為も止めず、一層酷くなるので、口を塞いで同じように押さえつけてみると、生え揃ったばかりの歯で、指を思い切り噛まれた。あまりの痛さに手を離した拍子に、指から滲んだ血がキサラの頬と唇に零れ落ちた。喉を掻きむしる行為は治まったが、今度は全身で何かを追い払うように暴れ回り、意味の無い言葉を叫び続け、舌を噛むと思い再び指を口に入れると、また思いっきり噛み付かれたが、焦っていたので痛みは感じなかった。指で舌を押さえ込んでいるので、喚き声は音にならず、生臭い空気となって口から吐き出された。暴れた身体を抑え込んでいると、今度は自分の体を傷つけるのでは無く、私の腕や身体を叩き暴れ続けた。数分か、数十分か、指の痛みを堪えて格闘していると、突然、ふっと糸が切れたように、キサラは瞳孔を一度開き、叫びもせずに、一気に力が抜け、そのまま気を失った。これ以上暴れる様子はなく、ただの眠りに入ったことを確認して、私はキサラから離れた。
指には血が滲み、急に痛みが蘇った。奥歯を噛み占め、水で傷を洗い流しタオルで拭うと、救急箱から軟膏を塗って、ガーゼを押し付け、包帯で血を止めた。
ただのインフルエンザで、こういう症状が出るなど医師にも聞かされていないし、聞いた事も無い。知らないだけなのかもしれないが、それにしても、奇妙だった。
翌朝、いつもより遅く起きたキサラに、「夢を見たか?」と尋ねてみたが、「見ていない。」と返された。また、どうやら昨夜の事は何一つ覚えていないようで、私の指を見て首を傾げていた。それから二日、寝ている様子を窺って見たが、それ以後、あのようにうなされる事は無く、以後順調に回復していった。
「もう調子は良いだろうが、来週まで休みなさい。」
四日目になると、私はキサラを置いて仕事に出た。もう調子はすっかり良くなっており、インフルエンザに罹る以前よりも血色が良いようだった。
欠席の連絡をしている時、自然とカレンダーに視線が向いた。来週の水曜日は、キサラの十歳の誕生日だった。
つまり、あの日から十年だ。子どものころは、十年など永遠程の長さに感じていたが、もう、その十年が経つ。相変わらず、姉の消息は分からない。警察からは何の連絡も無く、こちらからも連絡をしていない。
母が死んでから七年、父が死んでからは五年。知識も無く、親類とは一切の連絡を取らなくなっていたので、三回忌や七回忌などは特に行っていない。両親に申し訳ない気もしたが、そう言う形式などどうでも良いと思う不精のほうが勝ってしまうので、罪悪感が生じてもすぐに忘れてしまう。
人が死んでも、それは死んだだけだ。
肉体が残り、それも、放っておけば朽ちて無くなる。
死者に何が出来るわけでもない。
結局、生きている者の主観で捉えるだけなのだ。
誕生日の夜、キサラと共に車で少し離れた所にある食堂に向かった。大学時代から贔屓にしていた食堂で、夏季にはチエが短気でアルバイトに来ている。彼女は料理の専門学校に通っており、将来はここで働かせてもらうのだと言っていた。
昔から馴染みの食堂ではあったが、再々訪れるわけでは無いので、店主が気さくに話しかけることなどない。いや、単に私が無愛想であったから、話しかける気が失せていたのかもしれない。
「これと、キサラは、」
「この定食。」
食べたいものを選び終え、メニューを机の端に置いた。
「以上でよろしいですか。」
普段の様にそれで良いと言いそうになったが、何のためにここに来たのか思い出して、「いや、あとケーキを、」と慌てて付け加えた。
「お一つですか?」
「ああ、食後に持ってきてくれ」
キサラはその間、いつも黙って私を見る。その灰色の目に、私がどう映っているのか、何度も考えたがやはり理解不能だ。あまり、自分の感情についてキサラは言おうとしないので、こちらから尋ねることも出来ず、同じ家に暮らしているのに、まだ彼の事が分からない。何が好きで、何が嫌いか、何所へ行きたいのか、何所が好きなのか。私自身出不精なので、キサラと暮らし始めてから一度もまともな旅行に出かけていない。キサラもどこそこへ行きたいとの素振りを見せないので、面倒に思うとそのまま有耶無耶にしてしまう。
「・・・。」
ケーキを無言で食するキサラを見て、私は一言、「おいしいか、」とだけ尋ねた。キサラは小首を傾げ、灰色の目で私を映すが、何も語らずにケーキの視線を戻した。気に入って居ないのか、しかし、嫌そうな顔はしない。
例年通り、随分あっさりした誕生日だった。プレゼントを買うような気の利くことは思い浮かばず、キサラがケーキを食べ終わると何処に寄る事も無く、すぐに家へ帰った。
キサラは唐突な質問以外、語り合うことをしない。車中は当然静かだったが、家の中でもテレビの音以外のものが無い。バラエティー番組でも見れば、姉の様に笑いでも起きるのかもしれないが、私があまりそう言う類を見ないので、テレビに映るのはニュースやドキュメンタリー等、子供には面白みが殆ど無いものだった。それならと子供向けの番組を試しに映してみたが、ニュースと同様、笑う所でも笑わずに沈黙しそれを眺めているだけなのである。
結局その日も退屈だったので、ソファーに腰掛け小説を読んでいた。だが、字を目が追うだけで、内容がまるで頭に入ってこない。話が退屈だからだろうか、本を片手に、別の事を考えようとしても頭が働かない。かと言って、過去の邂逅でも浮かぶかと思えば、思い出す記憶は霞がかっているように、はっきり現れない。
「叔父さん。」
「何だ、」
いつもの様なキサラの突然の問いかけに、内心驚きつつ、本に目を落としたまま、キサラの声に耳を傾けた。
「叔父さんは、結婚しないの?」
また、唐突で脈絡のない質問だった。どういう答えを期待しているのか、それとも今日の天気を尋ねるように意味の無い会話なのだろうか。
「・・・相手がいない。」
「叔父さんには、恋人がいないの?」
「昔は居たが、今はいない。」
「相手が居たら、結婚するの?」
やはり、何か意図でもあるのだろうか。いや、所詮子どもなのだから、有ったとしても短絡的、単純なものだろう。
「さてね。相手が居れば、結婚すると言うものではないよ。」
「・・・でも、みんな、結婚をするものだと言ってた。」
他人を気にするなんて、珍しい事だ。姉の様に、キサラはいつも他人のことなど意に反さない。不思議に思ったが、私には関係の無い事だったので、気に掛けることは止めた。
「誰が言ったのか知らないが、それは個人の価値観に因るだろう。確かに、自分の子孫を確実に残すには、結婚し、子どもを生み育てる環境を制度が保証してくれるのだから、より確実なことだろう。その点から考えると、結婚というものは、必要とされるだろうが、」
キサラは解からないのか、眉を顰めてじっと私を見た。その眼に私が映っているだろうが、それを確認するつもりはない。
「・・・まあ、私は今のところ結婚する気はない。それだけだ。」
私の答えに納得したのか、キサラは頷いて、テレビを見始めた。子どもの関心を引くとは思えない、海外の紛争についてのニュースだったが、他に娯楽を見いだせないのだろう、キサラはそれを眺めていた。
これ以上、キサラは質問もすることが無いようなので、私はまた文字に視線を落とした。この本は、当たり障りの無い最近の文学作品で、何かの賞を取る程の感動も無いものだった。何故この本を買ったのか思い出せないが、読んでいない本はこれだけなので、取り敢えず目を通している。しかし、相変わらず、頭に入らない。
結婚について、考えていなかった訳ではない。いつか所帯を持って、子孫繁栄を目指すべきことは重々承知している。しかし、最近はそれが妙に生臭く感じ、実感は湧かない。女を抱いた時には、その様な事を感じていなかったのだが、暫らくそれらの行為から一切離れてしまうと、他人事なのだとその気が失せてしまう。今が、キサラといるだけで精一杯だからだと言い訳出来るが、それを隠れ蓑にしているだけで、本心から頭に「結婚」が浮かばなかった。
女性に興味が無いか、と問われれば、当然ある。内面的なものに関心があるのかは分からないが、身体は前から良いと知っている。だが、身体は良くとも、女の内面を好きになったことは無かったように思う。出逢う相手が悪かったのかもしれないが、何とか私を変え、束縛しようとする様が煩わしかった。
顔を上げると、キサラがまた、こちらを見ていた。光のない灰色の目を向け、背筋が凍るほど姉と同じ顔で、何かを見透かすようにこちらを見ていた。
「・・・キサラ」呼びかけて、すぐに時計に目を向けた。もう九時は過ぎている。「また、風邪をひいてはいけないから、遅くまで起きないように。」
「はい。」
機械で作ったような声。声だけでなく、顔にも生気がない。
彼に付いて、関心を向けるべきだった。
或は、反発されるほど無関心であるべきだった。
結局私は、面倒に思っていただけなのだ。
半端にキサラを庇護した。
親のように愛情を注ぐことも、他人としての冷たさを告げることもしない。
ぬるま湯の様な時間の流れが、ずっと続けば良いと思っていた。
キサラがテレビを消し、立ち上がった。その時になって、まだ、彼に「おめでとう。」と一度も言っていないことに気づいた。今更言うのも変なので、口を開きかけて、結局止めた。
そもそも、私は本心から、キサラの誕生を「めでたい。」と思っているのだろうか。本音だけは、自分でもよく分かっていない。
窓の外では、はらはらと白雪が降り始めていた。




