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天使の捨て子  作者: 立春
3/14

最初の異変が何だったのか、詳しくは覚えていない。

頭の内に、親というものは病気をしないものだとでも思っていたのだろう。

だから、母が倒れたとき、私は転んだだけなのだと思っていた。

キサラが大声で泣き始めて、そこでようやく、母が意識を失っていることに気づいた。

私は母に対して無関心であり、他人に対しても関心の無い人間なのだと思い知らされた。


 

 私が高校三年になった春、突然母が倒れた。すぐに病院に運ばれ、即日入院となった。母から片時も離れなかったキサラは、馬鹿みたいに泣き叫び続け、疲れきると母がいないと喚いていた。病院に運ばれた母が意識を取り戻すと、父はキサラを連れて病院に再び戻り、キサラを私と母の病室に置くと、自分は医者に呼ばれたこともあり、すぐに姿をけした。最初の内はキサラを母の傍に置いていたが、いつまでも泣きやまずに大声で泣き叫び、母にも周囲にも迷惑をかけるので、私は仕方なく母に言伝し、父だけを病院に残してキサラを家に連れ帰った。父は面会時間まで、少しでも長く母の傍にいたいのだと、黒い眼に映る母の青灰色の眼が、そう言っているように思った。

 最近のキサラは、馬鹿みたいに部屋中を歩き回り、些細なこともすべて母に話しかけていたようなので、ほんの一時でも母が傍にいないことに耐えられないのだろう。私は夕食の支度やそのほかの家事が滞る以外、特別な感傷は未だ生じなかった。

 母も父もいない家の中、キサラはリビングのソファーの上で蹲っていた。泣き叫ぶことはないが、泣くのを我慢するような息遣いが耳に障り、落ち着かなかった。

 「キサラ、お腹空いたろう、」

 蹲った背中に声をかけると、キサラは何も言わずに肯いた。話しかければ、反応するのだと、そのとき改めて知った気がした。

 「・・・パスタならすぐに作れるが、食べるか、」

 また、キサラは何も言わずに肯いた。

 私はこういうときの慰めの言葉をかけることが、昔から苦手だった。それに、キサラの存在に苦手意識があり、私は母を介さない限り極力会話をしていなかった。キサラも同様に私と進んで会話しようとしなかったので、同じ家に居ても他人の子どもと暮らしているような感覚だったのだ。

 冷蔵庫と戸棚から食材を取り出し、調理の下ごしらえをしている間、キサラの様子を盗み見ていたが、同じ態勢のまま動かず、思い出したように咽喉を震わせていた。子供などという厄介なものを置き去りにした姉を内心で恨みながら、パスタを茹でその合間にフライパンでミートソースを作った。どこで覚えたというわけでもなかったが、私は姉の代わりか、母の家事を手伝っていたので、料理をすることは苦では無かった。

 「出来たぞ、」

 キサラを見ずに声をかけると、本当にお腹が空いていたらしく、ソファーからすぐに離れて、赤く腫れた目をこすりながらキサラは自分から食卓についた。そのキサラの前に出来立てのパスタを置き、専用のプラスチックフォークを渡すと、「いただきます」とフォークを持ったまま手を合わせ、不格好ながらもすぐに音を立てて食べ始めた。キサラが成長して良かったことは、離乳食をわざわざ作らなくて済んだ事、一人でご飯を食べれるようになったことだ。必要なものさえあれば満足するので、そのように自分で考え勝手に行動出来るようになると助かる。

 私が一口二口食べ始め、キサラの皿を見ると、早くも食べ終えるところだった。母でないので量の細かな配慮は出来なかったが、今までの眼分量と同程度の筈だったので、少し不思議に思った。

 「ほら、御代わりもあるからな、」

 「うん」

 キサラはようやく声を出したが、掠れてほとんど音になっていない。そこでようやく、喉が渇いているのではないかと思い、冷蔵庫から麦茶を出して、プラスチックのキサラ専用カップに注いで皿の側に置いた。すると、キサラはパスタを食べるよりも先にカップに口をつけ、一呼吸で飲み干してしまった。私は空になったカップをとり、また麦茶を注いで傍に置いた。

 「飲み過ぎないようにしろよ。お腹を壊すといけないから」

 「うん」

 キサラはまた少し麦茶を飲むと、今度はパスタに手をつけた。この分では、御代りを要求するだろう。多めに作っていた訳ではなく、父の分が残っているだけだった。だが、少し量が減ったとしても、父なら自分で作るか買うかをするだろうと考えていると、キサラが顔を上げて無邪気におかわりを要求した。

 そういえば、母が倒れたのは昼前のことだった。おそらく、朝からずっと飲まず食わずでいたのだろう。あれだけ泣き喚いていたのだから、喉も渇いていただろうし、ただでさえ食べ盛りだったので、当然腹も空いていたことだろう。どうしてそこまで頭が回らなかったのか、混乱していただけか、それとも、キサラに関心を向けていなかったからだろうか。

 テレビも何もついていない部屋は、虚しい程静かだった。前から会話が多い家ではなかったのだが、これほど重苦しい空気に包まれたことはない。

 「美味いか、」

 陰湿な雰囲気を誤魔化そうと話しかけると、キサラは灰色の目をこちらに向けて肯いた。何を考えているのか読めない、透明な丸い目だった。

 母が入院する間、しばらくは誰も家にいない状態になるので、キサラをどこかに預けなければならないだろう。そういった手続きは父がすることなので、私はそこで考えるのは止めて、母のことを思い返した。確かに以前よりも食事の量が減り、頬が痩せこけていたので、単なる過労だろう。なにしろ、突然赤ん坊の面倒を看ることになったのだ、それも、殆どたった一人でキサラの世話をしたのだ。けれど、過労なら、1、2週間ほど病院で休めば、元気を取り戻せるのではないか。

 母が退院したら、いつもの生活が戻る。そうしたら、今度はキサラに対して苦手意識を持たずに、もう少し関心を持つよう努力しよう。

 一心不乱にパスタを食べるキサラを眺めながら、私は身勝手に、楽天的になっていた。

 


私は何時だって、気づくことが遅かった。

自分では冷静だと思っていても、周囲を気に掛ける余裕も持ち合わせていない。

利己的な人間なのだ。

だから私は、今も失おうとしている。



 数日後、父と共に病院で聞かされた話は、専門的知識がなかったのでほとんど覚えていない。ただ、母が癌に侵され、もはや回復不可能であり、余命が三ヶ月足らずだということだけだった。その言葉を聴いて、一番取り乱したのは父だった。いつも冷静で、内情を一度も見せたことがなかった父が、肩を震わせその場で泣いていた。私はどうすればいいのか分からず、医者と目配せをし、父の背中をさすり、ハンカチを渡した。頭の中で、母が死ぬということを理解しているのだが、現実の母はまだ生きているので、その実感が湧かないのだ。

 医者の眼が、憐れむように私の顔を見た。その意味も私にはまだよく分からなかった。

 詳しい病状を医者が伝えはじめ、私はそこに居ても無駄なのだとわかり、父を残して部屋を出た。看護婦が「しっかりした息子さんですね」と言っているのが聞こえたが、私はただ無知なだけなので、別にしっかりしているわけではない。それに、まだ母は死んでいないのだ、だから、そんな同情の言葉も憐みの眼も私は求めていない。

 病室に戻り、ベッドを覗き込むと母が寝息を立てて眠っていた。

 母の寝顔を見ているととても余命三ヶ月の人間には思えなかった。

 違う。

 そう思いたかった。

 だが、母は数年前よりも明らかに血色が悪く、年齢よりも老け込んでいた。少しずつの変化だったので気づかなかったが、昔の写真を引っ張り出して一度でも見比べていたなら、その変貌ぶりを倒れる前に気づけたかもしれない。

 母の顔に何時から皺が出来始めたのか、思い返すと姉が突然、夏休みに二週間行方を眩ませたあの日からだということに思い当った。それはそうだ、父を除くと、母が一心に愛情を注ぎ育てていたのは姉なのだ。子供に恵まれなかった夫婦に、家族から勘当された二人の間に生まれた娘を、何よりも可愛がった所で、何の不思議もない。

 私が幼い頃、小学校に入学したばかりの姉と私を連れて、母が公園に連れて行ったことがあった。今思えば大して面白い遊具もない小さな公園だったが、私は砂場で遊ぶことが好きだったので、嬉しくてたまらなかった。姉はジャングルジムの頂上から私を見下ろし、砂場よりもこっちの方が楽しいと呼び寄せた。確かに面白そうに思い、姉が呼ぶままにジャングルジムを二段ほど上った。

 「下を見て」

 楽しそうに姉は声を弾ませた。意地悪でそれを言ったのか、それとも、本当に楽しいので、私にも楽しみを味合わせてあげようと考えたのかは分からない。姉の言葉通りに下を見て、大した高さでもないのに、それが子供の頃はビルの屋上ほどの高さに感じた。怖くなり、その場から動けずに私は大声で泣いた。ベンチに座っていた母が気づき、慌てて駆け寄り私を抱き上げた。ジャングルジムよりも母の抱き上げた時の方が高いのに、私は解放されたことに安堵して泣き止み、母の服に縋りついた。しかし、突然母の腕から地上に降ろされ、母が私から離れた。公園から、姉の姿が消えていたのだ。母は真っ青な顔をして、姉の名を呼び続けていた。そして、声の届く範囲にはもういないと気づき、私を砂場に残して公園から出て行った。公園には他の子供も居らず、一人残された私は、砂場に穴をあけようと思い、手で掘り進めた。

 「なにやってるの?」

 顔を上げると、姉が薄く唇を引き上げ笑っていた。今にして思えば、ずいぶん子供らしくない独特な笑い方である。私は母が姉と共に戻ってきたのだと思っていたが、そこに立っているのは姉だけだった。母が捜していることを伝えようとする前に、姉が私に「友だちの家に行くから」と伝言を頼んで、また公園から出て行った。引きとめる間も反論する間もない、風のように姿を消した。

 入れ替わるように戻った母は、私の伝言を聞くと安堵したような、しかしまだ不安を顔に残していた。私が帰ろうと言うと、母は上の空で手繋ぎ家に戻った。帰っても母は姉のことを気にかけているのか、家事をしながら時計の針を眺めては、何度もため息を吐いていた。夕方になって姉が戻ると、穏やかだった母が声を荒げて怒った。勝手に居なくなったことを責めていたが、最後には姉を抱きしめて終わった。姉は母の身体の間から私を見て、不愉快そうに眉をつり上げていた。

 何が不満なのか、しかし、姉は謝りもせずにそれからも、同じことを繰り返すようになった。母もその内に諦めたのか、強く姉に言わなくなった。



母は、確かに過保護だった。

甘やかすというよりも、依存、保護の対象として姉を見ていた。

一心に姉だけを見る母、その姉に対して、気づかないほど当たり前に嫉妬していた。

しかし姉にしてみれば、それは重すぎたのだろう。

そして、私は、それすらも無視していた。


 父が病室に戻ってきた。顔色は悪かったが、顔を洗ったのか涙の痕は見えない。

 項垂れた父は、母の傍から離れそうも無かった。私がここにいた所で、母の体調が良くなるわけも無く、言葉数の少ない私が父を慰められるとも思えない。二人から離れる口実を思い出し、父に「キサラと家に帰ります」と伝えた。父は母を見たまま頷き、私は他人ごとであるかのように視線を逸らし病室を出た。

 タクシーで父と病院に来たので、帰りは徒歩になった。家からそう離れた所にある病院では無いのだが、体力の衰えた父には少し酷な上り坂になっていたので、タクシーに乗って来ていた。帰りは下りになるので、予想よりも速く進んでしまう。

 しばらく、一人になりたかった。一人になれば、父のように悲しいと思うことが出来ると思ったのだが、やはり、何度医者の言葉を思い出しても悲しい気持にはならない。涙一つ、眼頭に集まらない。冷たい人間だと思うだろうか、それとも、気丈な息子と思うだろうか。

 少しでも涙が溢れやしないかと、母との楽しかった記憶を思い返そうとするが、どうにもあやふやで、何か楽しいことがあったのか、それ自体が分からない。思い返すとき、いつも現れるのは姉の姿ばかりで、あの、人を食ったような笑みが脳裏を掠める。いったい何処で、何をしているのか。姉がいれば、こんな事にならなかったのではないかと、恨みを込めて考えようとしたが、病気はそう言う類ではないと冷徹な現実が批判する。しかし一方で、母の心労の原因であるキサラを生み、置き去りにしたのは姉なので、やはり倒れたのは姉の所為だと思う感情が湧き起こる。結局の所、私は責任を他所に預け、矛盾と混乱の頭を抱えていただけなのである。

 気づくと、家の前に立っていた。家に入ろうとし、そこで、キサラを連れて帰らなければならないことを思い出し、重い息が漏れた。面倒だが、よそ様に迷惑をかけるわけも行かず、踵を返してチエの家に向かった。近所なので、すぐに玄関の前に立ち、ベルを鳴らす前に、心を落ち着かせる意味も込めて、大きく息を吸い込んだ。息を止めてチエの家の玄関のベルを鳴らすと、返事も無く、すぐに戸が開けられた。

 「こんにちは、」

 「あら、ヒカリくん。」チエの母が、少し驚いた顔で私を見ていた。「ずいぶん、顔色が悪いけど・・・お母さん、どうだったの、」

 「あ、いえ、」

 言おうか言うまいか悩んだが、どうせ最期には伝わることなので、「癌でした。」と事実だけを伝えた。直ぐにおばさんは、さも気の毒だと目を赤くして同情したが、大して慰められた気持ちにならない。私が未だに、悲しい気持ちになっていないからだろう。

 「キサラ、いますか、」

 「いまチエと遊んでいるところなの。」おばさんは少し後ろに下がり、高い声で「チエ、キサラくんを連れておいで。」と呼びかけた。呼ばれたチエは、「はーい、」と返事し、廊下の右側にある部屋からキサラの手を繋ぎ現れた。

 「キーちゃん、ほら、みっちゃんが来たよ。」

 キサラは大人しくチエの手に繋がれたまま、その灰色の大きな眼でこちらを見てきた。体の内部まで見通せるのではないかと思うほど澄んだ眼で見られると、どうにも落ち着かないので、その眼から逃れるように少し視線を外した。

 「チエ、おばさん、お世話をおかけました。」

 「いいえ、そんなこと無いわ。何時でもいらしてね。」

 おばさんは人を哀れむ目をし、やさしい声と笑顔で応えた。一方、チエは普段と変わらぬ顔で、キサラと手を繋いだまま、私の目の前に来た。

 「みっちゃん、キーちゃんはどうして、みっちゃんを『おじしゃん』って呼ぶの、」

 タクと同じようなことを言った。私は奥歯で何かをかみ砕いたような、苦味を覚えた。

 「私がキサラの叔父だから、」

 「でも、」

 これ以上何も聞かれたくない。反論される前に、キサラの頭に目を向けた。

 「そうだろう、キサラ。」

 私が呼びかけると、キサラはチエから手を離して私に近づき、コクリと頷いた。そうして、まだ舌足らずに「おじしゃん。」と呼んで自ら靴を履き、隣に並んだ。あまり手を繋ぎたく無かったが、近所とは言え道路に飛び出てはいけないと思い、渋々隣のキサラの手をゆるく握った。べたついた子供の汗と体温に、内心ぞっとした。嫌という訳ではない、ただ、落ち着か無かった。

 「ありがとうございました。」

 頭を下げると、キサラもそれを真似して頭を下げた。おばさんは「気にしなくていいのよ、」と笑い、チエは少し納得がいかないのか、「また遊びに来てね」とキサラに向かって手を振った。

 近所だったので、家まではすぐだった。中に入り、キサラはすぐに家の中に誰もいないことに気づくと、不安そうに眉を顰め、私の手を強く握り返した。振りほどきたいのを必死に抑え、キサラの顔に視線を落とした。

 「おばーしゃんは、」

 灰色の眼に、私の影が映っていた。

 「・・・まだ病院だよ。これからも、ずっと。大丈夫だ、おじいちゃんは帰ってくるから。」

「どおして、」

「病気だから。」この様な幼い子供に正確な情報を言った所で、理解出来る筈も無い。「さあ、外で話していないで中に入ろう。今から夕食を作ってあげるから、」

 キサラが少し私を握る手を緩めたので、この説明で一応納得したとわかった。だから、いつまでも手を繋いだままではいられないので、靴を脱ぐときにすっと繋いだ手を抜きとり、その足で台所に向かった。キサラは駄々をこねる子ではなかったので、その点放っておいても安心できた。

 キサラはリビングのソファーに座り、私はその様子を眺めながら、シチューを作った。私は乳臭いシチューが嫌いだったが、以前母が作ったときにキサラの好物だと話していたのでそれにした。予想道理に、キサラは好物に舌鼓し、機嫌を良くしてテレビのアニメ放送を食い入るように眺めていた。子供を残して部屋に戻るわけにもいかず、面白さのわからない擬人化された動物アニメに眼を向け退屈していた。

 面会時間はとうに過ぎ、夜になっても父は帰らず、かわりに病院に泊まるという電話が入った。キサラのことを気に掛けていたようだったが、今は少しでも長く母の傍に居たいのだという事が、言葉の裏から感じとれた。私がそれを否定する程の強い理由も無いので、風邪をひかぬようにとだけ伝え電話を切った。

 リビングに戻ったが、やはり居心地が悪かった。何しろ、今まで成る丈距離を置こうとしていた存在と、二人きりの状況なのだ。キサラの方は子供なので、別段私の感じる居心地の悪さは微塵も無いようである。テレビが終わると、時計が夜九時を指している。いつものキサラの就寝時間だった。既に父がいないことを告げていたので、「今日は、一人で寝ないといけないな。」とテレビを消しながら呟いた。その言葉にキサラは少し眉を寄せ、口を尖らせた。けれど、何か声に出して訴えることまではし無かった。

 おそらく、キサラは、本当は一人で寝るのは嫌なのだ。今まで、祖父母と共に寝ていたのに、突然一人で寝るというのは、幼い子供にとっては恐怖なのだろう。それに、キサラは私以上に、状況の把握が出来ないし、知識があまりにも無い。それはきっと、比べ物にならない程の不安となっているように思えた。

 だからと言って、一緒に両親の部屋で寝るのは個人的に嫌だった。また、私の部屋に他人を入れるのは好まない。何より、私の部屋のベッドは小さいので、二人で寝るには無理がある。

 自分の中の妥協案として、客室を使うことに決めた。あそこなら常に掃除が行き届いて居るので綺麗であり、畳の上に布団を引けば、寝相が悪くても落下して怪我をする心配もない。

 「・・・一緒に寝るか、」

 そう尋ねると、キサラは顔を輝かせた。こんなことでも喜ぶものなのかと、驚き不思議に思った。思い返すと、物以外、私の言葉でキサラが笑ったのは、これが初めてだったかもしれない。

 「畳の部屋だが、いいか、」

 「うん!」

 無邪気な笑顔を向けられ、そういう物になれていないので戸惑った。やり切れなさを軽く肩を竦めるだけに抑え、取りあえず客室の布団を敷きに向かった。キサラは一人でいるのが寂しいのか、邪魔にならないように雛のように後からついて来た。同じ家に暮らしているのだから、もう少し打ち解けても良いのだろうが、私は子供扱いというものに疎く、普通の大人や同級生と混同してしまい、それらと同様に接しようとしまう為、幼いというだけでは愛情を感じ、注ぐことがどうにも出来ない。こちらが愛情を持って接しられないのに、相手に対しそれを望むなど傲慢な話だ。そうなのだから、打ち解けないのは仕方がない。

 「ほら、次はお風呂の準備をするぞ。」

 「うん。」

 反抗期に入っている筈の年齢なのに、随分素直なものである。まだ一人でお風呂に入ることは出来ないだろうから、面倒だが一緒に入らなければならない。困ったことに、オシメを変えることは何度も手伝っていたが、お風呂に入れる仕事はした事が無かったので、どうすれば良いか分からない。だが、それは杞憂に終わった。お湯を少なめに溜めた浴槽に浸かっているキサラは、実に素直だった。髪を洗うのは嫌そうだったが、我侭も言わずに耐え、目を擦っていた。洗い終わった後でシャンプーハットの存在に気づき、今までこれを使っていたのかと自分の視野の狭さに少し呆れた。

 風呂から上がり、透き通るような金髪を櫛で撫で、ドライヤーで乾かしてはまた櫛で撫でる動作を繰り返していると、くすぐったいのかキサラは肩を小さく揺らしていた。母が居ないこの家を、どこかの宿に泊まりに来た感覚で捉えているのかもしれない。

 風呂に入った後はもうすることが無いので、キサラを連れて部屋に行き、共に布団の上に寝そべった。光を直ぐに消さないのは、母がキサラが寝てからようやく電気を消していたことを思い出したからだ。だが、何も出来ずにただ寝そべっているだけ、と言うのも退屈なもので、数分程経って身体を起こすと、キサラが何か言いたそうな顔をしていた。どうしたのかと促すと、ようやく申し訳なさそうに言った。

 「おじしゃん、ごほんよんで。」

 まだ舌足らずで聞き取りにくかったが、そう聞こえた。初めてのキサラ自身の頼みに内心驚きながら、私は身体を起こした。

 「部屋に絵本があるのか、」

 「うん、いっぱい、」

 両親の部屋に入るのは少々気が引けたが、そこに絵本があるらしく、キサラは危なっかしい歩みで先に行った。その後に続き、キサラが一番初めに指した絵本を取ると、すぐ客室に戻って寝そべった。キサラのリクエストした絵本は、擬人化されたありがちな動物の物語で、とくに感動も教訓もない、皆仲良しで終わる話だった。私も幼い頃に読んだことがあったが、特別面白味のない絵本という印象だった。

 「ブタさんがいいました。」

 自分でも情けないほどの棒読みで読み聞かせたのだが、それでもキサラは楽しそうだった。こっちが全くもって笑えないところでも、不思議とくすくす笑い、何の事は無い部分で悲しそうな顔をしたので、私からすれば、絵本よりキサラの方が数倍可笑しかった。

 三回程繰り返し読み聞かせた所で、キサラはようやくまどろみ始め、そのまま墜ちるように寝入った。布団の上に身体を投げ出していたので、キサラを抱き上げて布団に寝かせ、毛布と布団をかけてやり、電気を消した。もちろん、何時もより数時間早く寝るので、そう簡単に睡魔は襲ってこなかった。部屋にある目覚まし時計の秒針がやけに煩く、それとは逆に隣の不規則な寝息があまりに小さいので、本当に生きているのか、時折不安になった。

 この時間ではまだ眠れないので、時間潰しという訳でも無かったが、私はまた母のことを夜の闇中で考えていた。

 年であるにも関わらず、殆ど一人で、キサラの面倒を看なければならないことに、心身ともに疲れ果てただろう。何より、待望の娘が家出し、それも妊娠して戻ってきたと思えば、また出て行ったということに関しては、母で無くともショックが大きかった筈である。姉はそれほど優秀な頭では無かったが、大事な一人娘なのだから大学にも行かせたかっただろうし、心配で夜も眠れなかったのではないか。それよりも前に、外国で暮らしていたと言うのに、父と駆け落ちしてこの国に来て、きっと分からないことも多く、精神的負担が積み重なったのではないだろうか。どちらの親族とも縁をほぼ切られた状態なのだから、縋り頼る者も無く、どれほど寂しかったことか。しかし、私は母では無いので、その辺りの事情を察することは出来ないし、第一、そういう行動に走らないので、残念ながら共感し、理解することは出来ない。居て当たり前の存在であったから、敢えて考えて来なかったツケが一気にきたようだ。

 このまま母が死んでしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。

 言いようも無い不安だけが、暗闇の中、埋め尽くされていた。


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