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天使の捨て子  作者: 立春
14/14

車を走らせていた。

窓から見える山を二つ三つ越えると、田園地帯が広がっていた。

だが、まだ田植えをしていない棚田は、茶色のくすんだ色をしているだけだ。

こんな田舎に何の用があるのだろうか。

その田舎に確証も無く向かっている私は、どれ程愚かなのだろう。

姉の様な失態を二度と繰り返すものか。

その一心で、結局紀沙羅の気持など考えていない。

それでも、私は、



はたと意識を戻し、目を動かすと、海岸線沿いに白いペンキの剥がれかけた食堂が目に入った。駐車場には車が無く、時間帯が昼と夕の間だったので人が居ないのは当然だろう。それに、夏でも無いのだから、冷たい潮風が吹きつける海辺の食堂に行く者は多くないだろう。

駐車場に車を止めて入口から中を覗きこんでみたが、やはり客は一人もいない。閉店にしている様でも無く、戸を開けるとベルが鳴って中から笑い皴の出来たおばさんが現れて、口を開けて戸惑う顔を見せた。

「どうか、なさいましたか?」

「え、いえ。知り合いに似ていたものですから、」

ここに、来ていたのだろうか。気持ちばかりが急いて、巧く言葉が出ない。

「紀沙羅ですか、」

おばさんは目を丸くし、「そう言えば、キサラさんにも似ていますね」と私の顔をまじまじと眺めた。

紀沙羅の事だけが頭にあった私は、その言葉が耳に引っかかり、言葉に詰まった。紀沙羅にも、それなら、他に誰に似ているというのだろうか。指先が痺れ、喉が詰まるような気がして、生唾を飲み込んだ。

「他に、誰に似ているんでしょうか?」

「あの・・・、キサラさんの親族の方でしょうか、」

座る様に促され、気持ちを静めるために大きく息を吐き、震える手を抑えつつ椅子に腰かけた。おばさんは水を用意し、私の前に置いたが、手をつける事が出来そうにない。

「私は、紀沙羅の叔父、です。」

「そうだったんですか。道理で、似ているわけですね。」

私が客として来た訳ではないと分かったのか、おばさんも同じように椅子に腰かけた。

「それで、あの、他に、誰に似ていますか?」

「・・・以前、ここに雇っていた子なんですけど、」

「名前は、」

息が、荒い。まるで何十キロも走った後のようで、心臓が頭まで鼓動を響かせる。

おばさんは首を傾げながら、「遠井、望って子ですけど、」と短く答えた。

突然現れた私が、こんなことを聞くのだから気にかかっているのだろうか。しかし、紀沙羅もここに来ている筈だ、一体何を話したのか、いや、それより姉の事を聞くべきか、頭が酷く混乱した。

「私、雑誌でキサラさんを見た時、あんまりにも望ちゃんに似ているものだから、手紙を書いたんです。望ちゃんのことを知らないかと思って、」

何も言えない私の代わりに、おばさんから話し始めた。

「それで、昨日、キサラさんが訪れたんですよ。まさかこんなお店にモデルさんが来るとは思わなかったんですけどね。それで、望ちゃんのことを聞かれたので、教えてあげたんです。」

紀沙羅が捜していたのは、姉の事を知っている人だったのか。自分の母親の事を知ろうとするのは、何も間違っている事ではない。どうして、私に何も話さなかったのか、それほど信頼されていないのだろうか。

「望ちゃんを知っているんですね、」

「・・・望は、私の姉です。けれど、家族なのに、恥かしい話ですか、あまり彼女の事を知らないんです。」

「そうですか。彼女、今どうしてますかね、」

「え、」

心臓が破裂してしまいそうだった。頭が重く、眉間に指を押し付けて荒い息を強く吐き出した。

紀沙羅は姉の事を伝えていないのか。紀沙羅が伝えていないものをどうして私が伝えられるだろうか、いや、知らないままのほうが、傷つかなくとも良い。知らないままで居させよう、その方が苦しい思いをしなくてよい。

「わか、りません。それより、姉はどうしてここに居たんでしょうか、」

言葉を濁し、話を逸らした。いや、逸らすことが目的ではなく、質問が本当に聞きたい事の一つだった。おばさんは少し察する所もあったのだろう、姉の所在についてそれきり尋ねなくなった。

「私も、ここに来た理由は知らないの。一人で、浜辺を歩いていたから、声を掛けて、それで、行く所が無いなら、って家に住み込みで働いてもらっていたのよ。」

「それは、ご迷惑をお掛けして居たようで、」

「いいえ。美人だし働き者で、とっても助かっていたの。でも、突然、出て行くっていってしまってから、」

ここでは別れの挨拶をしてから、出て行ったのか。家に帰って来た時は、何も言わずに姿を消したと言うのに、その差は恩義からかそれとも、我が家よりも帰るべき場所だと認識していたのか。

「大体、何年くらい前なんでしょうか?」

おばさんは私の顔をまじまじと眺めて、くすりと笑った。その笑いが読めず、眉を顰めて様子を窺っていると、笑みを誤魔化す様に手で口を覆った。

「同じ事をキサラさんに聞かれたんです。」

紀沙羅が知りたいことと私の知りたい事は同じなのかもしれない。それなら、おばさん質問の重複をさせることになるが、それでも私は姉の事を知りたい気持ちが勝っていた。

「重複させることになるかもしれませんが、紀沙羅に話した事、私にも教えていただけないでしょうか?」

「ええ、良いですよ。夕方まで人は来ないでしょうし、望ちゃんのことを話せる人はほとんどいないから、」

どうして姉は、この様な善良な人に好かれる事が出来るのだろう。また、同時にどうしてここまで思われていながら、風のようにふいと姿を消せるのだろうか。私には好かれていたとしたら、嫌われないように努力をしてしまうだろう。そう言う面で言えば、紀沙羅は姉よりも私に似てしまったのかもしれない。

おばさんの話は、要領を得ず、突然思い出して語るなど、脈絡が無い事が多かった。二十年前の出来事を思い出させるのだから、仕方が無かっただろう。

姉は突然、この食堂の近くの海岸に現れて、海を一人で眺め続けていたと言う。夜になってもそのまま座っていたので、入水するのではないかと思い、声を掛けたのだと言う。けれど、彼女と話していると、そんな様子は一切なく、しかし、どうにも要領を得なかった。そこで、この藤原さんは行く当てが無いならばと、姉を住み込みで雇う事にしたのだと言う。その時姉は遠井望と本名を名乗っていたのだが、藤原さんはてっきり偽名なのだと思っていたようである。

およそ一年半程この白浜堂で働いていたが、今まで雇った者たちよりも愛想も良く働き者で、出来ればずっと働いてもらいたかったのだと懐かしんでいた。記憶の補正もあるかもしれないが、ここまで誰かに惜しまれることが自分にはおそらくないことなので、僅かに嫉妬を感じた。

働いている間、彼女は身元以外不審な点は無かったようである。話を聞く限り、ここが気に入っていない訳でも無かったようで、どうしてここから出て行ってしまったのかわからなかった。出て行く二週間前から、中学生くらいの少年と仲よくしている様子を見かける事があったようだが、誰かと仲よくしていることは何度かあったので、それがきっかけでは無いだろうとおばさんは言っていた。

「その少年の居場所なんて、知りませんよね、」

「ええ、あの時以来、ここに来なかったから・・・」

どうやら、藤原さんからは姉がここで働いていたという情報しか得られないようである。いや、もう姉は亡くなっているのだから、新しい情報が無いのは当然のことだ。

「・・・紀沙羅、って名前か言葉に、聞き覚えはありますか?」

「それ、キサラさんにも聞かれたんです。どこかで聞いた事があると思うんだけど、どうしても思い出せなくって、教えてあげられなかったんです。」

聞き覚えがあるが、意味が分からない。もしかしたら、姉が何か言っていたのかもしれないが、藤原さんが覚えない程、どうだって良いことだったのかもしれない。

姉と親しくしていたと言う少年が見つかれば、彼女のことが少しは分かるかもしれない、分かった所でどうにかなるものでもないが、気持ちの持ちようである。

「あ、そうそう。」

藤原さんは突然立ち上がって、窓の外を指さした。住宅が密集している地域の奥、どうやら山の傍にある白い建物を示しているようだった。

「キサラさんにも教えたんですけど、一回ね、望ちゃんが居なくなってから、三年かそのくらい経って、一度尋ねて来た事があったの。ふらって中に入って、「ガブリエル」はいるのかって聞いて、」

思考と身体が硬直した。どうやって呼吸をしていたか、思考の方法など、そんな曖昧な感覚が全身を巡った。藤原さんは心配そうに、「あの、」と声を掛けて来た。だが、この女性に話した所で、理解してもらう事は出来ない。また、この反応からすると、紀沙羅は姉の話についてはやはり知らなかったのだと理解した。

「いえ、少し、疲れていただけです。気にしないでください。」

話の先を促すと、藤原さんは腑に落ちないようだったが、何も聞かずにいた。このように、受容する所が、姉に気に入られてしまった要因なのだろう。

「・・・ガブリエルさんと望ちゃんが知り合いだって知らなかったんですけど。望ちゃんが聞いて来た時、良く知らないんですけど、偶々町に居なかったの。それを教えてあげると、望ちゃん、ありがとうって言いながら、またいなくなって・・・それ以来、ここにも来ていないの。」

「ガブリエルさんって、その、どういう人でしょうか?」

藤原さんは窓の外を刺したまま、「あそこの病院に勤めているお医者さんよ。」と軽く応えた。

どういう経緯でそのガブリエルと望が知り合ったのかは分からなかったが、おそらく、その名前を知っていたとすれば、姉が興味を示す筈である。だが、食堂と違って、病院のそれも医者を気軽に尋ねる事など出来ない。

白浜堂で少し早い夕食を摂ってから、念入りに礼を述べて車に戻った。藤原さんに一応紀沙羅の行方を聞いてみたが、予想通りなのだが何処に向かったのかは分からなかった。ただ、おそらくガブリエルの所に向かったのだろうと思った。窓の外から海を眺めると、灰色の雲を映した暗い色の波が打ち寄せ、途中の岩に砕けて初めて白い波になって打ち寄せた。波と言うのは初めから白いものだと思っていたので、この年になってもまだ、新たに学ぶ事があるのだと思うと、少しだけ気持ちが和らいだ。

気を沈めてから、病院に向かい車を走らせた。何か策があるわけでは無い、こうなれば持久戦だと構えていた。駐車場の車を止めて、中に入り受けつけの看護師に「遠井望の関係者だが、ガブリエルさんに会って話したい事がある。」と伝えて、待合室に座っているのも迷惑がかかると思い、車の中で時間を潰した。

座席を下げ、紀沙羅の載っている雑誌を眺めてみたが、映しだされている青年は日ごろ知っている紀沙羅とどうしても同一人物に思えなかった。顔立ちも体型も全く同じなのだが、何かを小馬鹿にしたような表情が、見知った紀沙羅と結びつかなかった。

面白い内容の雑誌では無い。文字に目を落としていると、疲れが出たのか、倦怠感と睡魔が同時に襲った。会えるかも分からない人間を待つのに、気を張り続けていても仕方が無い。総てを投げ出すように、私は睡魔に逆らわずに眠った。

死人に口無しと言うが、いつも夢に現れる姉は饒舌だった。しかし、私に何を言う訳でも無い。尋ねようとも、決まり切った科白が返ってくるだけだ。仕方が無いのだ、もう過ぎてしまった事なのだから、夢が答えをくれる筈が無い。

私は何時も独りだった。誰かのお目こぼしで一緒に過ごし、独りであることを誤魔化しているだけだった。だから、どうしても理解できない。姉は愛されていた、それが、彼女にも分かっていた筈では無かったのか。それとも、彼女には伝わらなかったのか。ならばどうして、彼女には伝わらないのだろう。どれ程叫び続けようとも、夢の中の姉は薄く笑う。楽しくも無いのに笑い、何を隠しているのか悟らせる事も無い。

もし、話してくれていたなら、少しは姉の力になれたのだろうか。聞けば、教えてくれたのだろうか。どうして、何も言わなかった。言えなかったのか、私が、愚鈍な子どもだったから、何も、言えなかったのか。

名前を呼んでも、叫んでも、泣いても、誰も答えない。

私は独りだ。

紀沙羅がいなければ、チエがいなければ、とっくに死んでいたのではないか。

誰かと結婚する訳も無く、夢も目的も無く、生きるためにただ生きている。誰かの為でなければ、私は行動する事が出来ない。それほどまで、人に依存し甘える人生を送ってきた。

自分で思うより、弱い人間だ。

だから、誰かに側にいて欲しい。誰かがいなければ、私は、何も出来ない。

眠ると言うより、思考の海の中にいた。思考の海の中で、一生抜け出せなくなる様な錯覚に陥っていると、音が聞こえて、目を覚ました。

正面に白い街灯が見え、音のする方に視線を向けると皴の寄った手の甲が見えた。視線を上げると、白い服にそれから金より白に近い髪、青灰色の瞳、鼻筋の通った外国人が上から私を見下していた。役者のように整った眉に、薄い唇、目尻に寄った笑い皴からは幾許かの年齢を感じた。

それが誰であるのか分かり、慌てて身体を起こし、ドアを開けて外に出た。私は確かに背が高い方では無かったが、男性は私よりも頭半個分も高く、常に見下ろされているようだった。声を掛けようと思うが、英語で会話することなど出来ず、「Excuse me、」と震えた声で話しかけた。

すると、男性はクスクスと小さく笑い、「僕はあまり英語が話せませんよ、」と淀みの無い日本語が返ってきた。

偏見を持っていないつもりだったが、良く考えれば日本の病院で働いているのだから、日本語を話せる筈だ。いや、言語についてはどうだって構わない。

「ガブリエルさん、ですか?」

「ええ、ガブリエル・ピエール・ルソーです。」

手を差し出されたので、外国人の礼儀など分からないが、握らないのは失礼に当たると思い、握り返した。

私の緊張が伝わったのだろう、ガブリエルは手を離すと私の肩を二三度撫でる様に叩いた。

「そう気を張られても困るな。私はこんな形ですが、日本生まれの日本育ちで、両親の祖国のことは、あまり詳しくないんですよ。」

「は、はあ。」

和ませようと気を使われたが、どうにも言葉が出てこなかった。外国人だからという理由では無い、彼の目を見るたびに、言葉が先行してしまいそうになる。身体が震え、指が痺れる。

「今日は宿直なので、良ければ院内で話しましょうか。」

「あ、はい。」

車から出て、ガブリエルの後に続いた。喉が渇き、指先が小刻みに震え、鼓動が治まらない。脈を押さえ、深呼吸を繰り返していると、白い手が伸びて、落ち着かせるように背中を叩かれた。

「誰もとって食いはしないよ。」

「・・・はあ、」

気を使われているのは分かるが、どうしても緊張が解れなかった。案内されるがまま院内の一室に入り、テーブルで向かい合う様に腰掛け合った。本来なら、ガブリエルはおそらく眠らなければならない予定の筈なので、私が此処に居るだけで迷惑の筈だ。早く用事を済ませなければならないと思えば思うほど、言葉が出ない。出そうと思えば、人を傷つけるような汚いものが出そうになる。

「望の弟、かな?」

「・・・はい。」

ガブリエルは姉を知っている。親しいものを呼ぶように、姉の名を口にしたのだ。恐怖から、指先の震えが足にまで伝わった。今すぐに逃げ出したい、無かった事にしたい。だが、過ぎた事を失くすことは出来ない。

「望は、姉のことを知っていますよね?」

「ああ。もう、二十年も前の話だけどね。」

聞きたいのはその様な事では無い。いや、そもそも私は何を聞きたかったのだ。姉の事を今更蒸し返して何になる訳でも無い。それなのに、どうして私はこんな所にいるのだろう。違う、姉の事など本当ならどうだって構わないではないか。情が移ったのは、長い時を一緒に過ごしてきたのは、姉では無い。

「・・・紀沙羅をご存知ですか?」

ガブリエルは常に落ち着いた様子で、コーヒーを口にしながら常に微笑を浮かべていた。仕事柄、そうなる癖がついたのか、どうにも腹が読めない。

「知っているが、それは、モデルのキサラの方か、それとも従兄弟の方だろうか?」

喉が詰まる。

吐き気がして、口を抑え込み何とか抑えた。どうしてそこまで不安になっているのだろうか。

「吐きたいものは、吐いてしまった方が良いと思うよ。そうすれば、少しは楽になるだろう。」

「・・・いや、大丈夫です。それより、従兄弟って、」唾を飲み込み、震えを僅かに抑え込んだ。「キサラという、名前なんですか?」

何が不思議なのか、ガブリエルは首を傾げた。私は彼の言った事を訊き返しただけなのだが、何を疑問に思う事があるのだろう。

「いや、どうも誤解があるようで、望は何も話さなかったのか?」

「何の事です、」

彼は私にコーヒーを渡し、自身も一杯飲み干し、窓に目を向けた。自然と目を動かすと、闇の中で煌々と満月が海を照らしていた。あの月さえあれば、この闇の中でも迷わず辿り着くのだろうか。

「・・・キサラは、従兄弟の苗字だよ。」

「え、」

あまりにも予想外の事に、今度は私が言葉を失った。落ち着かせるように勧められたコーヒーを口にすると、頭の冴える苦い味が広がった。何時頃から、この苦みが平気になったのだろう。

「木在ノゾム、望と同じ漢字だったから、望はノゾムをキサラと呼んでいた。」

長い間、黙り込んでいた。用件を早々に済ませたかっただけなのだが、調子が如何にも戻らない。ガブリエルも思う所があるのだろう、思い詰めた顔をして自分の首に手を当てていた。その様子を眺めていると、手の間から首と鎖骨の中ほどに、ピンク生々しい傷跡が目についた。視線に気づいたのか、彼は苦笑し敢えてその傷跡を私に見せた。

「これは、随分前にクライアント、患者にやられたものでね。手術の為に、ここを離れ、初めて入院したよ。」言いながら、彼は怒りより悲哀の目を傷跡に向けていた。「そのときの患者は、錯乱したまま自殺してしまってね。それを忘れないように、痕は消さなかったんだよ。」

「それは、辛い、ですね・・・。」

どう声を掛ければ良いのか、その様な経験が無いのだから、同情することも出来ない。彼にとっては私の言葉などどうでも良いのだろう、手を離し、また暫く黙り込んでいた。

どうして、本当の事が聞けないのか。口にしてしまえば、嫌な事はすぐに終わる。だが、終わった後、それから先が恐い。

「望に会ったのは、二十年も前の事だ。まだ研修医だったか、その頃にはもうこの町で暮らしていてね、それで、事情があって、従兄弟のノゾムが私と一緒に暮らしていた。」

聞かずとも、ガブリエルは望との出会いを話始めた。彼には私の思っていること、恐怖も何も分かっていたのかもしれない。

ノゾミは、ガブリエルの従兄弟ノゾムをキサラと呼んで、時間がある時は一緒に過ごしていた。それは、藤原さんから聞いていたこととあまり変わらなかったように思う。ガブリエルは二人がどのように過ごしていたかは知らず、けれど、仲が悪かった訳でも無いようだった。

彼はしかし、深い所は隠しているようだった。話せないことならば、私にもある。彼が話せない理由は、彼だけの事では無く、他の誰かを傷つけてしまうからかもしれない。

「・・・ガブリエルさん、紀沙羅がここに来ましたか?」

暫く黙っていたが、重い息を吐いて私を眺めた。

「名前は名乗らなかったが、君と同じように、遠井望を知っているかと聞きに来ていた。だが、何も言わずにいなくなってしまったよ。」

言えなかったのだ。

彼の指の痕を見て、自分の人生を歩む彼を知って、何も聞けなくなったのだ。

人の気持ちを敢えて逆なでさせる様な姉とは違い、紀沙羅は人の事を思い遣って、何も言えなくなる優しい子だ。きっと、ここに来る事も悩んだのだろう。

私が言う事で、誰かを傷つけるかもしれない。敢えて紀沙羅が言わなかったことを伝えて、何になるのだろうか。

「ノゾムさんは、今、どうしていますか?」

「・・・あの子は、望が居なくなったころに行方不明になって、数年後遺体で発見された。」

「それは、言いにくい事を、」

「いや、もう昔の事だからね。望は、」

言いかけて、ガブリエルは首を振った。思った通り、敏い人だった。

「・・・キサラは、あの子は望の子だね。」

「はい。」

「そうか。」

話振りからして、ガブリエルは望と親しそうであったが、しかし恋人とは思えなかった。だが、きっと、彼に違いない。

「紀沙羅に、似ていますね」

「ああ、そうだな。」

確証は無い。調べようと思えば調べられるが、どうしてそんな無粋な真似が出来ようか。明確な答えなど、誰も必要としていない。

「君は、望の弟だったね、名前を教えてもらっても構わないかい、」

言われて、私は無礼にも自分の名乗りを上げていない事にようやく気がついた。

「すみません、私は遠井光と申します。紀沙羅は、遠井紀沙羅です。先日、紀沙羅は十九になりました」

ガブリエルは目を細め、私を見つめた。その眼は紀沙羅と同じ影を落とし、何もかも見透かされてしまいそうで、少し怖かった。

「君一人で育てたんだね、」

「・・・育てたと言うより、一緒に暮らしていただけ何です。私は元来人付き合いが苦手で、紀沙羅にも嫌な思いをさせていた筈です」

「そうだろうか、」

疑問の言葉に、すぐさま「そうです」と返答した。それが飾り気のない事実なのだから、致し方ない。きっと、他の誰かだったなら、もっと適切な環境を作る事が出来ただろう。

「ガブリエルさんは、本当に紀沙羅とよく似ています。その眼も、雰囲気も、」

私の言葉を遮る様に、ガブリエルはコーヒーを私のカップに注いだ。ポットに入っているおかげで、注がれたコーヒーからはまだ湯気が上がった。

「この髪と目をした奴なんて、捜せばいくらでも見つかる。私はね、キサラ君は君にそっくりだと思うよ。」

「それは、姉に、」

「望にも勿論似ているだろうさ。けれど、私の会ったキサラ君は、君と同じように遠井望を知っているかどうか尋ね、同じような表情を浮かべていた。確かに見た目は血に似るかもしれない、だが、言葉使いも物腰も、君とは似ているが、私や望とは違う。」

私は何も言えなかった。私とキサラがそこまで似ているとは、思わなかった。けれど、そうなのだろうか、紀沙羅は、私に似たのだろうか。

「君は、慎重で、だからこそ臆病だ。自分を含めた誰かを信頼し、信用していない。それが悪いわけじゃない、ただ、もう少し、自信を持っても良いんじゃないだろうか、」

ガブリエルは左手の薬指を撫でていた。痕があるだけで、そこに嵌められていただろう指は無い。仕事だから外しているのだろうか、尋ねる事は憚られた。

「私はね、残念ながら、君が思う様な人間では無いんだよ。キサラ君は、君と共に生きてきた、だから、もう少し、彼と自分を信じてみないかい、」

私はどう答えれば良いのだろう。姉も両親も皆、私を置いて行った。そして、紀沙羅もまた、私から離れて行った。独り残されるような人間なのだと、どうして伝えられるだろう。ガブリエルにはもう既に別の生活があるのに、それを今更ほじくり返すような行動をした私が一番愚鈍で無粋だ。

ここに居ては行けない。

けれど、だからと言って、私は何処に行けば良いのだろう。行き場はもう、何処にも無い。帰るしかないのだ、誰もいない家に、独り帰るしかない。

「遅くまで、申し訳ありません。」

「私は構わないよ。良ければ、泊るかい、」

静かに首を横に振った。

「・・・明日、仕事がありますから、もう帰ります。」

「そうか。また、何時でも来なさい。何か困ったことがあれば、出来る限りのことはしよう。」

引きとりたいと言われたら、どうすれば良いか不安だった。だが、彼には彼の生活がある中で、そのような発言はすぐに出る筈も無い。何より、去って行った紀沙羅の気持ちが答えなのだ。

連絡先と住所を書いた紙を渡して、病院を後にした。冷たい風が喉元を通りすぎ、月だけが煌々と空を照らした。街灯は何度も点滅を繰り返しながら、向かう足元を示していた。

車を走らせたが、田舎である所為か対向車は殆ど目につかない。先ほどの白浜堂の明かりが見え、逃げる様に速度を上げた。

このままいっそ、私もどこかへ消えてしまおうか。だが、そんな突拍子も無い事が出来るほど、子どもでは無い。

子どもの内は、大人になりさえすれば楽しいことが待っているのだと思っていた。だが、大人になったところで、私は格別楽しさを感じない。

無常、虚無。しかし、生きているのだから、生活しなければならない。

時間をただ浪費させて、今を生きている。何か目的があったから、ここまでやってきた。けれど、その目的も無くなってしまった。

姉もそうだったのだろうか、誰も何も無いから、独りで死んでしまったのだろうか。

彼女が最後にガブリエルを捜していたのは、生きる意味を見つけるためだったのか、聞きたくとも彼女はいない。私の周囲には、もう、誰も居ない。

大勢に囲まれて居る事が好きな訳ではない、だから、私には独りの方が向いている。けれど、自分で思うより、私は臆病で弱い人間だ。

まだ、家には辿り着かない。

誰もいない家に帰って、私はまた、無感情の生活を繰り返さなければならない。或は、姉とは違い、キサラを捜す旅にでも出てしまおうか。行動力も無いくせに、思うだけで結局私は時間の浪費しかしないだろう。

どうして皆、自分の思う通りに行動する事が出来るだろう。それとも、狭い行動範囲の中から、探し出して諦めているだけなのだろうか。

深夜十二時過ぎ、住宅街には街灯だけが照らしている。信号は赤と黄色に点滅し、車の往来は殆ど無い。見慣れた道を走り、いっそどこかに車をぶつけてしまおうとも考えたが、他人の迷惑を思うと踏み切れない。こういう所が、臆病なのだ。

ようやく、家が見えて来た。我が家とも呼べない、家だ。

誰もいない家は、死んだように静まり返っている。駐車場に車を停めたが、誰もいない家に帰る気にはなれない。それでも、帰らなければならない。

帰らぬ人を待つ為に、私は独り、待たねばならない。

灯りの無い中で、手さぐりで玄関のカギを開けて中に入ると、出て来た時と変わらない廊下と階段が薄暗い中で見て取れた。これからは、この家に独りで生活しなければならない。

「・・・、」

微かに声が聞こえ、傍の明かりを点けると、玄関に見知った黒いスニーカーが目に入った。


「・・・叔父さん、」


顔を上げると、階段の上から寝間着に着換えた紀沙羅が私を見下ろしていた。喉が詰まり、無理やり息をしようとした所で、気管唾が入ってしまい、苦しさから何度か咳き込んでしまった。

「え、大丈夫、叔父さん!」

階段から駆け降り、紀沙羅が心配そうに私の顔を覗きこんでいた。その表情は、姉からもガブリエルからも見た事が無い、紀沙羅の顔だった。

「何でも無い、噎せてしまっただけだ。」

「そう、」

紀沙羅は顔を上げて、玄関を見ながら肩を竦めた。

「叔父さん、出張だったの?」

「・・・まあな。」

正直に応える訳にもいかず、言葉を濁した。紀沙羅に顔を向けると、眉を顰め、口を尖らせていた。

「急ぎだったのかもしれないけど、鍵を掛けないで出るなんて、不用心だよ。家に帰ったら、誰もいないのに鍵が開いていて、驚いたんだから、」

鍵を掛け忘れるほどに、私は慌てていたのだろう。本当のことを言える筈も無く、「すまないな。あまり急だったから、うっかりしていた。」苦笑いで誤魔化すと、紀沙羅はすぐに機嫌を取り戻し、二階の自分の部屋に戻ろうとしていた。

「あ、紀沙羅、」

呼びかけると、すぐに「何、」と返した。

「コウという友人から伝言があって、月亮くんが留学するから、その別れの会を行うとか、」

「ああ、あれか。うん、ありがとうございます。」

笑って、紀沙羅はまた私に背を向けた。金色の髪は、薄明かりの中では、色の無い髪だった。

「・・・ただいま、」

小さく呟くと、紀沙羅は足を止め、不思議そうに首を傾げながら、「おかえりなさい。」と同じように小さく返した。

紀沙羅には分からないだろう。けれど、私にも本当の所、分からない。

考え過ぎるのも、それはそれで無粋なことなのだ。

私と紀沙羅は、どちらも似ている。似ているからこそ、この関係を壊さないように、腹を探り合う事無く、伝えるべきでないことには沈黙し合う。きっと、紀沙羅は何も言わないだろう、私に気づかれていると知ったとしても、彼はなにも言わない。だから私も、何も言わない。もう分別のある年なのだから、昔の様に壊れてしまうことはない筈だ。

大事なものは胸にしまって、いつでも会話をすれば良い。

「おやすみ、」

同じように小さく告げると、紀沙羅は薄い笑みを浮かべた。

「おやすみなさい。」




そのうち、言葉遣いとかを書き直すかもしれません。

が、やはり面倒なので、そのままかもしれない・・・。


もともと、ファンタジーが好きで、昔考えていた小説の登場人物を現代へ無理やりあてはめてやってみたのがこの前に書いた小説でした。この「天使の捨て子」は、その前に書いていた小説の外伝的な意味で書き始めて、そっちのほうが先に完結してしまった感じです。


ファンタジーは読むのは大好きなのですが、書くとなるとどうも筆が進みません。本当に、大好きなんですけど、不思議です。

現代ちっくなものなら、個人的にはそれほど好き内容じゃないせいか、好き勝手に書くためにさっさと書き上げることができます。そのため、読み返すのが面倒なので、変な文章になっていることが多いんだと思います。


あ、この小説の内容に関してですが、寂しがりな二人が不器用ながらも家族をやっていくというコンセプトで書いたものです。冷たい人間ではないのですが、まあ、不器用で無精なために、うまくいかないのが悲しいですね。


叔父さんの話はこれで終わりです。

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