拾弐
惰性で流れていた日常、ダイレクトメール以外まともなものが殆ど届かない郵便受けに、珍しく手紙が入っていた。私宛で、差出人はチエからだった。伝えたいことがあるから、店が休みである月曜日の夕方に良ければ来てくれないか、書かれていた。手紙でも電話でも伝えることが出来るのではないかと疑問に思ったが、向こうからこういう風に会いに来てくれということは無かったので、同様に月曜日に行く返事を書いた。
外に出れば、もう夏が来ていた。昨年、姉の葬儀を行ってから、もうじき一年が経つ。まるで最初から姉が存在しなかったかのように、以前と変わらない日常が続いていた。けれど、どうにもキサラは忘れる事が出来ないようである。
友人が出来てからは、休みになればほぼ毎日出かけていたというのに、今年は私の見る限り、家に閉じこもったままだった。休日家で過ごすとき、キサラは何をするわけでも無く、ぼんやりソファーに座っているだけだった。話しかけることも出来ず、居心地の悪さから、私はしかなく仕事の続きを行うか、小説を読んで気を紛らわせていた。
夏の陽は長く、夕食の食材は揃っていたが、暗い空気から逃げ出すために外に出た。夕方になっても暑さは治まっておらず、車から出た途端に汗が僅かに噴き出した。早々に買い物を済ませ、荷物をトランクに片付けてほっと一息ついた所で、本屋から出てくる月亮の姿を見かけた。思わず、身体の動作を止めて眺めていると、向こうも私に気づき、やや小走りで近づいて「こんにちは、」と挨拶してきた。
「ああ、こんにちは。」
その様子から、キサラと喧嘩している訳では無さそうである。それなら、彼もキサラの様子を不思議に思っているのだろうか。それとも、事情を知っているので、少し距離を置いているのかもしれない。どうであろうと、巧く会話が出来そうにない。
「本を買っていたのかい、」
「ええ、おじさんは夕食を買いに来たんですか?」
「まあ、そんなところだ。」
特に会話をしたかった訳ではないので、「それじゃあ、」と別れようと思った。けれど、月亮は執拗に見るので、何か言いたい事があるのだろうと容易に察せられ、早く戻る必要も無かったので、「何か聞きたい事があるのかい?」とこちらから尋ねた。
「あの、キサラはどうしてますか?」
「・・・何も。私が見る限り、前の様に何もせずに空ばかり見ているよ。」
ふっと月亮は目を細め、呟いた。
「天使を探してる。」
脈絡のない言葉に、月亮は私に気を使って、「何でもないです。」と言葉を濁した。彼にっては意味の無い言葉であっても、私には忘れられない記憶にある。
「・・・今、何て、」
「あの、前にキサラが言ってたんです。空を見ているのは、天使が居ないか捜してるんだって。良く分からないんですけど、多分、本の影響じゃないかって、」
月亮の言葉が遠のく。けれど、気を失う感覚とは違う。
空が、見たい。
キサラは確かに口にした。欲の少ないキサラが、ようやっと口にした言葉だった。
ただ、空が見たいのではなかったのか。あの言葉は、空だけを指しているのではなかったのか。
空ではなく、その中にいるかもしれない何かを、捜していたのか。居もしない天使を捜して、空を見ていたのだろうか。
「どうしました?」
「いや・・・。あの子は、天使が何か、言っていたか、」
質問の意図は伝わらず、月亮は困ったように首を傾げていた。私も自分で何を言っているのか良く分かっていなかった。
「特に、何も・・・初めて会った時だけで、」
きっと、月亮の推測通り本の影響に違いない。天使の話は絵本の中にもあったような気がする。私はキサラに、あの話をしたことはない。あの話を知っているのは、私と姉の二人だけだ。母も父も知らないのだから、私の口以外で、キサラがあの話を知っている筈が無い。
多々ある天使の伝承か、絵本や小説等で知ったのだろう。夢現の堺も分からず、思った事をただ口にしただけに違いない。知るはずない。知るはずが無いのだから、キサラが探しているのは別の天使だ。
別の、天使。
「何か知ってるんですか?」
「・・・私は、天使のことは知らない。」
今度こそ会話を終了させ、車に乗って家路を急いだ。普段ならもう少し気を利かせて、日ごろの礼も兼ねて月亮を家まで送ったかもしれない。だが、今は無性に不安が頭を過る。これ以上、何が起きるだろうか、否、何も起こりようがないことは分かっている。記憶の奥にいつものように押し込んで、考えない。もう何もかも遅いのだから、考える労力を払うことはない。
キサラのことも同様に、私は自身の事すら分かっていなかった。
隠していた訳では無く、当然の事に気づかなかった。
いや、気づいていたとしても、どうにかなった訳ではあるまい。
いっそ最後まで愚鈍で有れば良かった。
仕事を終えるとその足でチエの働く食堂に向った。それにしても、食堂はチエが働いている場所と言うだけで、チエの家では無いのだから、変わった話である。『Close』の看板が出ている戸を開け、「すみません、」と挨拶すると、見えていたのだろうか、すぐに奥からチエと店主が出てきた。どうして店主まで出てくるのかは分からず困惑していると、チエがテーブルに着くように促したので素直にそれに従った。
「お腹空いてる?」
「いや、」
休店であるのに、食事の用意が出来るのだろうか。いや、話の繋ぎの為に声を掛けただけだろう。
「そっか。なら、お茶だけ出すね。」
普段以上に、チエはそわそわと落ち着きが無かった。さっと奥へ引っ込み、すぐに御盆を持って出てきた。私の前に水滴のついた冷たいお茶を差し出すと、前の席にチエが座り、その隣に店主が立って、まじまじと私を眺めて来た。あまり店主と親しく会話をした事が無かったので、不躾な視線を不審に思いながら、夕食を作りに帰らなければならないので、早く切り上げるため、面倒だったが自ら話を振った。
「今日は、何の用だったんだ?」
「あのね・・・、」
チエは自分の手を重ね合わせ、それで私は何を言おうとしているのか大方把握出来てしまった。左手の薬指に収まる、銀の指輪。視線を外すと、隣の店主も同じような指輪を嵌めていた。
「わざわざ、来てもらってごめんなさい。みっちゃんには、どうしても直接教えたかったの。」
何を言われるかはもう分かっている。だから、何も言わずに私を解放して欲しい。喉が渇き、お茶を口に含むとあまりの冷たさに頭が一度刺す様に痛んだ。
「私たち、入籍したの。」
ああ、真っ白だ。
自分が今、どんな顔をしているか、是非とも鏡で見てみたい。普段の無表情か、それとも鳩が豆鉄砲を食らったような顔だろうか。どちらにしても、不釣り合いで滑稽に映っていることだろう。
兎に角、気づいた時には口が条件反射で「おめでとう」と音を出してその場を取り繕っていた。何やら話しているようだったが、呆然自失、けれど身体は社会的な行動を真っ当に行っている。店主が気を使ったのか、向かいの席にはチエ一人が座り、嬉しそうに指輪を眺めていた。
どうやら私は、私が思うよりも相当の衝撃を受けているようだ。何しろ、あのチエが、幼かいチエが、結婚、する。時の流れに驚かされた訳ではない、こんな時になってようやく、私は自分の感情に気づくのか。
「みっちゃんにはね、すぐに知らせたかったの。」
いつもと変わらぬ笑顔。この笑顔に何度、救われていたのだろうか。幼い頃から、大人になった今でも、チエだけは変わらず、私に接し見放さなかった。
そうだった。
私はチエが好きだった。
気づかないくらい、自然に、チエが好きだった。
これが所謂恋愛感情か、親愛の情か。分かっているのは、昔からチエのことを気に入り、好きだった事実だ。恋愛感情を抱いていたのなら、幼女趣味の変態だったのだろうか。しかし、そんなものは持ち合わせていない。何より、チエも幼女ではなく、一人の大人の女性に成長していたのだ。幼女趣味も何も関係ない、店主は私よりも年上であるのに、幼かったチエと結婚するのだ。
どうして、自分の感情にも気付かないのだろう。木偶の坊だ。結局、全部事が起こってから、気付かされる事ばかりだ。
「みっちゃん、」
相も変らぬ呼び方とはつまり、チエにとって私は近所のお兄さんの立場から一切変わらないことを表す。私にとっても、チエは昔の幼馴染で、好意的な姉を知る幼い子どもと思っていただけだ。この関係は、もっと早くに気づいていたとしても、一生変われなかっただろう。それは、存外、幸福だったのかもしれない。
「どうしたの?」
私の心情など知らず、チエは無邪気に首を傾げる。どうすれば良いのか、情報処理が間に合わない。
「私は、何も分からない。」
「みっちゃん、」
私は確かに笑っている。嘲笑でもなく、ごく普通に微笑んでいる。
「・・・チエが、入籍するほど人を愛していたことにも気付かなかった。私は、何時も起こってから出なければ、分からない。キサラのこともそうだ。一番近い場所に居る私が、誰よりも分かっていない。」
支離滅裂とした思考の言葉に、チエは拒絶する訳でもなく、眼を細め薄くほほ笑んだ。そこには子どもの影は無く、笑みを浮かべる一人の女性だった。
「解らなくて、当然だよ。私だって、みっちゃんでもキサラくんでも無いんだから、本当の所なんて分からないもの。もし、口にし無くても伝わるなら、声も言葉も要らない筈でしょう。分からないなら、自分から口にしなきゃ、分からないことすら伝わらないと思うよ。だって、その人じゃ無いんだから、言葉にしなければ、伝わりっこない。」
皆、家族で合っても人の気持ちが分からないものなのか。私だけではなく、誰も人の心など分からない。そんなごく当り前な事、知らない筈は無かったのに、私は何を勘違いしていたのだろう。
「口にして、相手に伝わって、それでようやく会話になるでしょう。会話だけでも相手の気持ちを知るのは無理だけど、でも、その先端に触れることが出来るでしょう」
私はいつから、会話を放棄してしまったのだろう。頭の中の想いを口に出すこともせず、自分の事だけで無く他人にも会話無く理解を求めていた。家族なのだから、分からない方が変なのだと勘違いしていた。家族だろうと友人だろうと他人なのだから、何も伝わる筈がない。自分の事すら分かっていないと言うのに、努力も無しに理解しようとするなんて傲慢な話しだ。声に出して、話をして、そうしてようやくその一端を知ることが出来る。分かりあえる事は出来ないとしても、分かりあえないことを知ることが出来る。
ただ、己にとって都合のよい日常を壊さない為に、耳を塞ぎ、目を逸らし、口を閉ざして来たきのは、私だった。キサラから逃れ、他の総てから逃げ続けていたのも私だ。認めなければならない、私は最も臆病だ。嫌われることを恐れ、この日常が崩壊し、再び独りになることを恐れていた。
本当は、姉など見つからないままで良いと思っていた。両親も、友も、先に死んで、残されたキサラに、依存していた。姉が返ってくれば、私からキサラも奪ってゆくのだと怖かった。キサラが私で無く、母である姉を選ぶことは知っていた、だから、姉などずっと見つからないまま終われば良いと思っていた。見つからない間は、キサラは私の家族として庇護の対象として私の傍に居る。その間、私は独りになら無くても済むのだ。
そうして、あの子が巣立ち、社会生活に溶け込むことすら恐れていた。きっと、もっと良い対処法があっただろうに、手放すことが惜しくて、有耶無耶にしていた。年月が、キサラの存在が大きくなるほど、失うことを恐れ、情が移ることを避けていた。そんな事をしても無だったのに、私は逃げ続けていた。キサラを見捨て、壊したのは、私だったのか。。受容も出来ない癖に閉じ込め、私には無理だと蓋を閉めた。
「みっちゃん、顔色が悪いよ?」
チエの声に現実に戻ると、陽が山の裏に隠れていた。目の前のチエの顔すら、判別出来ない。
「・・・すまない。つい、考え事をして、」
「大丈夫なの、」
自然に人を思いやれる人間の傍にいることは、他人も自分も幸せなことだろう。
「ああ。そろそろ、御暇するよ、」
言いながら、席を立った。チエは慌てて私を呼びとめ、「夕飯、食べて行く?」と尋ねた。
「いや、家に、」喉の渇きは失せたのに、声が僅かに掠れた。「帰るよ」
戸を開けると、鈴の音がした。同時に夏の夕暮れ、首筋をかすめる空気が通り過ぎた。陽が完全に沈んでしまっていると思っていたが、西の山際、僅かに赤い残光を残していた。振り返ると、チエの顔がはっきり見えた。僅かに戸惑い、驚いた表情だった。
「チエ、結婚、おめでとう」
笑いながら祝福すると、チエも同じように笑顔で私を見送った。いつまでも変わらない、はにかんだ笑顔だった。
変な所ばかり、あの子と共通していた。
その事にもっと早くに気づいて居たらと、思う事もある。
もっと早ければ、こうならなかったのだろうか。
陽は沈み、夜が辺りを包みこんだ。玄関に立ち、ここが私の家であることに変わりは無いのだが、強くここが帰る場所だと思う実感が湧かなかった。電気がついて居ないので、キサラは相変わらず部屋に籠っているのだろうと思い、戸を開けた。すると、まるで走る身体だけが消えうせた様に、靴だけが氾濫していた。珍しく、キサラが外に出たのだろうと思いながら、その足でリビングに一歩足を踏み入れ、その場の重く冷たい空気に足を止めた。目を凝らすと、闇の中で身体を丸くし、ソファーの上に蹲っているキサラを見かけた。
怪訝に思いながら、「ただいま。」と声を掛けると、向こうも同じ調子で「おかえりなさい。」と答えたので、特に何かがあった訳ではないと思い、電気をつけて中に入った。
「・・・目が悪くなるから、電気は点けた方が良いよ。」
「うん。」
返事をしたものの、一向にキサラは動かない。ソファーに蹲るキサラは、ただ黙って何も無い空間を見つめていた。灯りがあっても灰色の目に光は無く、淀んだ色をしていた。
「どこか、具合が悪いのか?」
「・・・別に、」いつもの調子で返事をして、すぐキサラは身体を起こした。私はソファーの傍に立ったまま、呆然としているキサラを見下ろした。ソファーに腰掛けようとも思ったが、空気の所為かどうにも身体が動かない。
私の様子を察したのだろう、キサラは能面のような顔を向けてきた。
「ねぇ、叔父さん。」
「何だ、」
「叔父さんは、」無機質な声が、その口から言葉を出した。「幸せ?」
唐突で脈絡のない質問であり、また、その内容に返答出来無かった。幸せの基準とは何か、それは主観的な問題である。キサラの求める応えが何か、私には分からない。
「それとも、不幸?」
「・・・さあ、私には分からないな。」
何を基準に定義すべきか、どの様な事であっても、幸せと思えば幸せであり、不幸と思えば不幸になる。分からないものは分からないと正味な話を伝えると、キサラは姉の様に歪んだ笑みを浮かべた。しかし、キサラからは今まで見たことのない表情であり、不審に思って彼の動向を見守った。
「ボクは、幸せなんです。」
作った様な声に、耳の奥がざわめいた。
「学校に行けて、友人がいて、食べ物はいつでも食べられて、」
目が、下に沈んで行く。ソファーの皴が一層深くなって、まるでキサラを飲み込もうとしているように見えた。
「幸せ、なんです。幸せの筈なんです。」
幸せだと言いながら、狂人のように笑い出した。ソファーを揺らし、己の身体を抱きしめるように腕を組み、声を立てて笑い声を上げた。
正直な話、怖いと思った。ついに、狂人になってしまったのかと、それが怖くて仕方が無かった。私に衝撃があったと同様に、キサラにも同様なことがあったのかもしれない。一体何がそうさせたのか、飛び降りた時の様に、結局私にはその心境がわからない。
一通り笑い終えると、キサラは少し咳き込みながら、また笑みを浮かべた。
「幸せなのに、幸せなんだ。」
支離滅裂。声は言葉を作るが、私と会話にならない。一方通行で、理解し合うことが如何にも出来ない。分からないが、本人が幸せだと言う割に、本当の所はどうなのかということに戸惑っているようだった。
訳も無く笑い続けるキサラを初めて見た。歪で不快な笑いだ。おどける様に身体を揺らし、嬉々の感じられない声を笑いにする。どういう応えが相応しいのだろうか、見当もつかない。
「・・・本当に?」
私が尋ねると、キサラが顔を向けた。その顔は歪んで、唇の端が異様に吊り上っている。泣きたいのに、泣けない、能面のようだった。
「叔父さんは、」
声が震えていた。それなのにまだ、笑い続ける。もしかしたら、こういう時、どういう感情を表せば良いのか、知らないのかもしれない。
ここで、何事も無かったように、見捨てることも出来る。そうすれば、いつもの日常が戻ってくる。何があったのかは知らない、しかし、こんなものは一時の気の迷いで、時間が経てば、無かった事にしてしまえる。
けれど、また、それで良いのだろうか。
このまま、「日常」を過ごすだけで良いのか。日常は幸でも不幸でもない、時間が経過して行くだけ、それで私は満足だ。だが、キサラは本当に、それで満足なのだろうか。自ら日常を壊して、そうやって訴えているキサラが、それでもまだ日常に戻りたいのだろうか。
過ぎた事は、けして消えない。
消えないからこそ、忘れる努力をしなければならない。
無かった事には出来ない。
鬱積された感情は、どこかで吐き出さなければ、耐えられなくなる。
いつから、耐え続けたのだろう。
視線を下げると、キサラの服の隙間から背中が見えた。肩甲骨の下、左右に、肌よりも白い跡が残っていた。小学生の時、校舎から落ちて残った傷跡だ。薄桃色の肌に、白く左右に広がるその傷跡は、まるで。
天使が翼を失くしたようだった。
このまま、痕も残さず消えそうで、思わずキサラの身体を抱きしめた。身体から震えが伝わり、どうして今までこの子を無視しつけられたのか、その残酷さを思い知った。同時に、成長しても、まだ、止まったままの弱いものがある。私にも消えない、恐怖だろうか。空にも地にも、天国にも地獄にも、まだ、連れて行かないでくれ。まだ、受け止められるだけの成熟さを見につけられていないのだ。
「・・・幸せも不幸も、誰かと比べられるものじゃない。心の持ちようだ、だから、お前が今、どう思うか、それが、答えだ。」
腕の中で、キサラは小声で、「わからないよ。」と呟き、身体を左右に揺らしてまた笑い出した。きっと、自分の感情すら、知らないのだ。誰がここまで追い詰めた、追い詰めたのは、私、だろう。悲しむことを拒絶させて、私と同じ日常を送る事を強要させた。耐えられなかったから、発散させるしか無かったんだろうに、それすらも拒絶し、無かった事にさせた。話そうとしていたのかもしれない、私が聞く耳を持たなかった。
怖かったのだ。キサラが、怖かった。
あの、灰色の目が怖いのではない。灰色の目に、何も映さなくなる事が怖かった。
あの目が、涙を流し、泣き続けることが怖かった。
そうなったときの慰め方が分からない。きっと、また傷つけてしまう。そうやって、いつも、言い訳ばかり作っていた。
「・・・私は、逃げていた」
笑い続けるキサラが、ようやく私に顔を向けた。耳に、荒い息使いが届いた。この腕の中のキサラは、まだ生きている。死んではいない、まだ、温もりがある。
「大切な人を失って、」
平生の為に、忘れようと努めた彼らの顔が、纏わりついて離れない。こちらから心を開かずとも、理解しようとしてくれた彼らはいない。もうその姿を見る事がないのだと思い知るたびに、孤独な自分に気づいてしまう。
「友も、家族も、」
喉が、熱い。
私は泣こうとしているのか。母が死んだときにも流れなかった涙が、こんな事で、自分の為に、流れようとしているというのか。あまりに利己的で、情けない。
「私は、失わないと気づかない。」
私が涙を見せてはならない。だから、顔を背けて、深く息を吐きだした。
キサラは幼い子供では無い、けれど、まだ大人でもない。依存し、自立し、そうして生きようとしている。けれど私は、翼を折り、引き抜き、見ないふりをし続けた。
「皆、先に死んでゆく。大切に思っていた人が、私を置いて行く。」
そうではない。毎日、誰かが死んでいる。知らない人も、気づかれない所でも、誰かが、何かが、必ず死んで、そうして生まれる。その中のほんの一部、偶々、私の知り合いだったというだけだ。特別なものだと思い込んでいただけで、何のことはない、寿命が来れば放っておいても次々に死んでゆくだけだ。それを認められるか、認められないか、違いはきっとそこだけだ。
「死んでゆくから、お前まで、そうなるのだと思っていた。」
愚かな話だ。何の根拠も無い自信に恐れ、感情に蓋をしていたのは私ではないか。大切ではないと言い聞かせ、この子が死なないことを願っていた。私にとって特別だっただけで、他人にとっては報道される事件や事故と何ら変わりない。
弱い自分を認めて、区切りをつけるべきだった。教えてやらねばならないことがあったのに、何もかも放棄した。自分を憐れみ、キサラを捨てた。
腕の中のキサラは、震えを止めて、死んだように動かなくなった。或は、本当に死んでしまったのだろうか、腕の力を緩めると、キサラは私をその丸い眼で食い入るように見つめていた。
「叔父さんは、」
喉が渇いているのか、何度も唾を飲み込んでいた。
「キサラが、好きですか?」
背筋が凍った。
分かっていたのだ、この子には伝わっていた。私の浅ましい考えが伝わり、愛されていないと悟っていたのだ。子どもにこんなことを思わせてはならない。愛情を受けずに育って、愛情を受ける価値のないのだと思い込ませてはならない。それなのに、私はキサラにそのように思わせて来た。
どうしようもない。過ぎた時間は戻らないのだから、嘆いても仕方がないのに、それしか出来ない。
キサラの目に焦点を合わすと、大きな目が電灯の光を吸い込み、涙で歪んでいた。これ以上傷つけることがあるのだろうか、突き放して、逃げ出したい。
「叔父さんは、キサラが好き?」
目を何度も瞬かせ、しゃくりを上げた。
「叔父さんは、キサラが生まれても良かった?」
キサラが、涙を零した。
私の前で、はっきりとした意識のまま、泣いた。それを拭う指も私には無い。
灰色の瞳がより一層澄んで、この眼から見る世界は酷く穢れて見えるのだろう。
「紀沙羅、」
姉が付けた名前、母と父が、漢字を当てた名だ。
少なくとも、あの時、紀沙羅は、生まれることを望まれていた。姉にも両親にも、それから、多分、私もだ。母が紀沙羅を抱き上げあやす時、どんなに疲れていてもいつも穏やかな眼をしていただろう。父が紀沙羅の頭を撫でる時、誇らしい顔をしていただろう。覚えていないのか、大切にされていたことを忘れてしまったのか。
望まれていなかった筈は無い。
あの表情が偽りであるわけが無い。
「お前は、大事な甥だ。」
視界が歪んで、よく見えない。果たして、伝わっているのだろうか。想いを口に出して、会話を試みる事は無かった。
「もう、たった一人の、」口に出すことが、ずっと、怖かった。「家族だ。」
思うより、言葉は簡単に前に出た。呪いの言葉でも何でもない、ただ、音になって発せられただけだ。一体何を今まで恐れていたのだろうか。
すっとして、肩の力が抜けた。思うより、ずっと簡単なことだった。支えの無くなった体をソファーに放り投げ出し、息を吐きだすとまた、身体の力が一層抜けた。
隣の紀沙羅は涙を流したまま、拍子抜けした顔を浮かべていた。その顔が、不謹慎だが少し面白かった。
「ボクは、生まれても良かったの?」
どうして、こんな単純な疑問にすら応えてやれ無かったのだろう。聞かれなければ何も言わない、消極的で、楽な事ばかり求めていた。聞かれ無くとも、教えてあげる事は出来た筈だ。その機会はいくらでもあったのだから。
紀沙羅の表情が分からなくとも、それで良いではないか。言葉が通じるのだから、分からない時は私から、聞けば良い。会話して、それでやっと一つ知ることが出来るだけだ。チエの言う通り、もっと早く、自分で気づければ良かった。
「当り前だ、」
手を伸ばし、キサラの頭をくしゃりと撫でた。茶に近い金髪が、私の指の間から零れて、秋の稲穂のように思えた。
「お前は、望まれて生まれたんだ。」
視界がクリアになると同時に、涙が頬を濡らした。この年になって、泣くとは思わなかった。
思えば、生まれた経緯を話した事があっただろうか。父や母がそう言うことを教えていたかもしれないが、物心ついたばかりの記憶など、曖昧なものだろう。その二人も、この子を置いていった。
そう言えば、あの時、母は死に際で一度も「紀沙羅」を呼ばなかったではないか。母親のように慕っていた、私の母を、けれど、母は私と姉、最後には父の名を呼ぶだけだった。そのことに、紀沙羅も気づいていたから、あの時、一人で離れたのか。寂しさも哀しさも一人で抱え込んで、ずっと耐えて来たのだろう。一体、父と二人で暮らしている時に、何を思い過ごしていたのか、大人に裏切られ、あの冷たい部屋の中で、何を考えていたのだろう。何も言わず、違う、何も言えず。
「もっと、我が儘になっても良い。悪い事なら、私も叱り、注意をするから、」紀沙羅の肩は震え、幼い子供の様な顔を浮かべていた。まだ、子どもなのだろうか、頭を抱きよせると、服に湿りを感じた。「話してくれ。何があったか、何が悲しいか、何が嫌いで、何が嬉しく、何が好きか、何だって良いから、教えてくれ。」
言葉が空回りし、舌が回らない。寡黙な私が、心に思う事を饒舌に話せるなど無理な話だ。巧い事など言える筈が無い。だから、一番、大切な事だけを伝えて、後はとっておこう。すぐに明日が消える筈が無いのだから、ゆっくり、話して行ければ良い。
「生まれてくれて、ありがとう。」
私を独りにしないでくれて、ありがとう。きっと、一人だったなら、淋しさで、生きていられない。自分で思うより、弱い、人間だから。
腕の中の紀沙羅の身体が、一層震え、背中が上下を繰り返し、嗚咽が、そして、赤ん坊の様な泣き声が響いた。どれだけ長い間、泣くのを堪え続けたのだろうか。今までの涙を一片に流しているようだった。
「ごめ、ん・・・なさい・・・。」
微かに聞こえる紀沙羅の言葉に、私は謝罪するように眼閉じ頭を垂れた。