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天使の捨て子  作者: 立春
10/14

私は何もしなかった。

それが結果的に良かったのか、それとも、結局なにも出来無かっただけなのか。

人は人に会えば変わるものだ。

私も少しは、変わっただろうか。

 

 

 キサラが学校へ行かなくなってから、一年が経った。私はもともと学校をそれほど重要視していなかったので、キサラが学校へ行かないこと自体はそれほど気に病まなかった。だが、あるとき、カウンセラーの女性に、キサラが家にいないので困るという苦言を受けた。あまりお金を持っていない筈であるから、ゲームセンター等に行っている可能性は低い。警察に補導されたと言う事も無いので、街をふらふら歩いているわけでも無さそうだった。

 どこへ行っているのか、それ自体はやはり興味は無い。むしろ家の中に、一日中何もせず籠っている状態の方が薄気味悪い。どうあっても、相変わらず、何を考えているのか分からない事に変わりは無い。それでも一応、注意をしておくべきだとは思うが、「外に出るな。」とは言いたくない。

 仕方が無いので、「出掛ける時は、カウンセラーに、置手紙か何か残しなさい。それから、鍵だけは忘れないように。」それだけに留めた。私が「出掛けるな。」と言えば、キサラは二度と外に出ないだろう。そんなことが容易に想像できて、安直に否定することは出来ない。

 もう春だと言うのに肌寒く、空は例年に比べてより薄い色に思えた。街には華やかな草木が茂り、湿った匂いが鼻腔をかすめる。春は生物の始動の時だ。キサラも同様に、外へ出かけたくなるのだろう。今年から、チエも就職するのだと手紙が来ていた。今も連絡を取る旧友は、チエしかいない。どうやら、あの食堂のバイトで、そのまま正社員になったようである。私にとって、まだ小さなチエとの印象しかなかったのだが、時間の流れとは恐ろしいまでに早く、無機質だった。赤ん坊だったキサラは中学生で、もう、十三歳になって居た。髪の色も、薄い金髪から僅かに茶味を帯びて、灰色の瞳も少し色が濃くなったような気がする。写真を撮るような気の効かせもなかったので、母が元気だった頃に写真を撮っていた、二三歳の頃のアルバムを出して比べれば、その違いも一層明らかだろうが、わざわざ確認することまではしない。

 新学期が始まり、憂欝になりやすい六月、新卒で入った新入社員のうち、一人辞めていった。この季節は気候の所為も相まって、軽い鬱になってしまう人も確かいた。

 相変わらず、キサラの様子は大した変化が無いようだったが、家に帰ってもキサラがいないことが度々あった。夕食時には帰ってくるので、そこまで心配はしていなかったが、どうやら人と会っているようである。誰かに心開くということは、それ程悪いことではないので、この件に関してもやはり何も言わなかった。

 夕食の食材を買いに出かけて、ふと、目が一人の少年を捕らえた。白髪のような銀の髪だと気づいたのは、街灯が当たったとき、髪が透けたからだろう。薄暗い中ならば、あのように目立つ色をしていたとしても、誰かに指摘される事は無いだろう。背格好はキサラよりほんの少しばかり高く、キサラと同じ私立学校の制服を着ていたので、事務の人と話したときに聞いた、同級生になる少年だろうと分かった。

 自然と眼で追いかけていると、近所の公園に入って行った。あそこは木々が生い茂っているだけで、遊具は殆ど無く、唯一あるブランコは錆びついており、近隣の住人さえあまり近寄らないのだと不動産屋に言われていたことを思い出した。少年がこの公園に何の用があるのか気に掛かり、私にしては珍しいが何となく後を追った。公園の門から中を窺おうと顔を覗かせた所で、とっさに私は身を隠した。

 そこに、キサラがいた。公園の電灯に照らされても尚、髪が光を吸収し、そこだけぼやけたように反射していた。

 何故キサラがここに居るのか、どうして少年と会っているのか分からない。しかし、あの様子から察するに、友人になったのだろうと思った。軽快に会話をしながら、家では一度も見せた事の無い笑顔を浮かべていた。その顔は幼い頃に見ていたものとは異なり、姉が「誰も信じない。」と言ったときの嘲笑に似て、ぞくりと身体が震えた。血のつながりと言う物は、これほどまでに、近付かせるものなのだろうか。興醒めた事にして、私は公園を後にし、買い物の続きに向かった。

 友人が出来ると言うのは、悪いことでは無い。友人によっては悪の道に踏み込むことになるから、選ばなければならないと言われた事があったが、友人がいないよりもいる方が良いのでは無いだろうか。

 ただ、私は何も出来ないのだと、思い知らされた気がした。



私は、私に出来る事を精一杯すれば良かったのだ。

その出来る事すら、真剣に取り組まなかった。

興味が無いのだと逃げていた。



 警察からは、相変わらず姉について何の連絡も来ない。どこで何をしているのか、十年以上経ってもまだ、何の手がかりも無いと言うのは不可解だとは思ったが、あの姉のことなので対して心配する気も起きない。

 世の中の学生が夏休みに入り、キサラも友人と遊びに出かける様にもなり、良い方向へ進んでいると思った。そんなときに、会社に電話が入って、警察からだと言われたので、姉のことが分かったのかと息を飲んで電話に出たが、「キサラの素行」についての苦情だった。何か犯罪に手を染めたのかと真剣に話を聞いていたが、よくよく意味を聞きとれば、髪の色、つまり、容姿についての苦言だった。キサラは髪と目の色以外、アジア系の顔立ちだったので、不良少年を立ち直らせようと独自の正義感を持った警官に目をつけられてしまったようである。電話で事情を説明したが、頭の回転が悪いのか、私の説明が下手なのか巧く伝わらず、埒があかないので、仕方なく仕事をそうそう切り上げて、キサラがいるデパートに向った。休みの子どもを補導する程、警官は暇なのだろうか。いや、仕事熱心である意味感心する。

 案内された部屋に入ると、奥に座って居た壮年の私服の警官が私に気づき、近付きながら、ふんと鼻を鳴らした。

 「ずいぶん、若いですね。」

 開口一番がそれだ。年齢と見た目だけで、この類は物事を勝手に推測する。上司にもこのような人がいたので、隙を見せてはつけ入れられると分かって居た。

 「キサラの叔父です。」

 「ご両親の方は?」

 電話で説明したと言うのに、白々と聞くので、思わず嘲笑が口元に浮かんでしまい、気づかれないように頭を下げた。

 「それは、私どもの方が、警察の方に探して戴きたいです。」

 この男から目をそらして、パイプ椅子に座っているキサラと、こっちを窺うように見ている銀髪の少年を視界に収めた。あの二人の容姿では、勘違いされても仕方がないかもしれない。目立つなと言う方が無理だろう。

 二人から離れて、奥に移動し、電話で説明したことを再度繰り返した処で、ようやく警察は納得した。それでも自分の落ち度を認めたくなかったのだろう、彼は苦し紛れに言った。

 「あの髪では、何かと誤解されるでしょう。黒にでも染めた方が、」

 黒に、染めろと。この男は何を言っているのか、わかっているのだろうか。

 「金に染めることは悪で、黒に染めることは善なのですか?」

怒りに顔が歪む。キサラの前で取り乱さぬように、低く息を吸い込み、微笑を浮かべ、相手を高圧的に見下した。

 「奇異な事をおっしゃいますね。染めることに、どちらも変わりないでしょうに。」

 男はむずと口を結んだ。その顔を叩いてしまいたかったが、暴力に訴えても意味はないことを重々承知している。だから、ただ相手を見下し、嘲笑う。暴力よりも人を傷つける有効な方法は、精神への加虐だ。

 「同じような人間を作り上げて、いったい貴方は何をなさろうと思っているのですか?」

 どうして人と同じ人間でなければならない。育つ環境、両親、性別、その他の要素で、違う人格が出来上がる。きょうだいでさえ、理解し合うことはない。血の繋がりをもってしても不可能なのだから、躍起になって同じような人間を作ろうとしたって労力の無駄だ。それでもその無駄な労力を叩いて、大方、個人的に偏った意見を排除し、異端する。社会を保つために、確かにある程度の矯正は必要であろう。だが、度が過ぎるものはいかがなものか。私の時もそうだった、個性を伸ばせと言いつつ、学校で同じような人間を作り上げるために、反論するものは不良として忌み嫌う。その理由も今なら分かるが、それなら、個性を伸ばせなどと綺麗事を言わず、素直に社会のルールを守る従順な国民になろうとスローガンを掲げればなお清々しいだろう。最も、そういう発言でもすれば、異端扱いされて、結局自由に発言などできないままだろう。

 この男の押し付けの善意に腹が立った事が一番だったが、なにより、キサラの髪を染めたく無かった。綺麗な髪を、姉とは違う色を変えたくなかった。

 「さて、もう用はないでしょう。帰していただきます。」

 「ああ・・・。」

 歯切れの悪い男の言葉に、また笑みが漏れた。可笑しいというわけではない、ただ、怒りの代わりに口元に笑みが浮かんでしまう。大人なのだから、鬱憤があろうと簡単に発散しては為らない。まだやはり未熟だ、自制出来るように忍耐強く為らなければならない。

 キサラたちと共に部屋を出たが、ちらりと見たキサラが、申し訳なさそうに俯いた姿に、思わず目を背けた。

 「私はまだ仕事が残っているから、ここで。」

 キサラは答えず、代わりに銀髪の少年が「あ、はい。お気をつけて。」と返答した。物腰が柔らかで、なるほど、品行方正、育ちの良さが表れている。

 二人と別れたが、本当は仕事があるわけでは無い。早々に切り上げたのだから、この後はさしたる用も無かった。兎に角デパートを出て、私は時間を潰そうと、キサラの誕生日以来訪れていなかった、チエの働くあの食堂へ向った。

 時間が時間なので、食堂には客が一人も来ていなかった。私も暇つぶしにここを使うことなど無かったので、自分でもこの場にいることが奇妙に感じていた。席に着いてすぐにチエが私に気づき、話し掛けてきた。

 「めずらしいね、みっちゃんがここに来るなんて。」

 どちらも容姿が随分変わったと言うのに、いつまで経ってもあだ名は変わらないらしく、私は表情も変えずに彼女を見上げた。

 「コーヒーを一杯貰おうか、」

 「いつも通り、ブラックね。」

 チエはコーヒーを置くと、また小まめに掃除をし始めた。この時間帯に客など来ないのだから、そこまで丁寧にせずとも良いように思うが、チエの話では「何時も綺麗な方が、お客さんも私も気分がいいでしょう。」という具合だった。働き者と言うのは良い事だが、それだけでここまでこの店に尽くすものではない。本当に、チエはこの店が好きなのだろうと思った。

 「キーちゃん、最近どう?」

 「外に出るようになって、友人が出来たようだ。」

 「お友達が、」

 チエは自分のことのように眼を細め、笑みを浮かべた。こういう優しい人間に、私も成れれば少しは役に立てるだろう。

 「学校には、」

 「それはまだだ。本人が行きたいと言うまで、待つ方がいい。」

 その言葉に、チエは少し眉を顰めた。

 「もう、みっちゃんは受け身になり過ぎ。自分からつっついて行かなきゃ、変わらないよ。」

 「・・・」

 私は反論しようとして、躊躇した。そのことに目ざとく気づいたチエが、黒く丸い目でじっと私が話しだすのを待った。私はこのように見つめられることが苦手だった。口にせずとも見透かされるようで、落ち着かない。

 「・・・変わらなければ、ならないだろうか。」

 「みっちゃん、」

 「このまま、このまま現状維持は、駄目なのだろうか。これ以上、傷つけるようなことははしたくない。もう、何度も見捨てて来たのに、いまさら関わるなんて、」

 「でも、キーちゃんの叔父さんは、みっちゃんだけでしょう。一番近い家族は、みっちゃんでしょう。ずっと、それでいいの?」

 言葉に詰まった。今度は躊躇するから言葉に詰まったのではなく、何も言うことがないので、止まってしまった。チエはまた、私の言葉を待つので、仕方なく、ため息を吐いた。

 「このままの状態でも、あの子は自分で友人を見つけた。あれは、放っておいても勝手に生きていける。」

 そうだ。私が何もせずとも、キサラは自分で生きている。生きるように行動しているのだから、私は必要なものを用意するだけで良いのではないだろうか。こちらが変わらなくとも、向こうは変わって行く。あの幼い子どもはもういない、ここにいるのは、少し冷たい眼をした少年だけだ。傷ついて、殻に閉じこもって、氷の中にいるというのに、もがいて、自分から外へ向ってゆこうとする者だ。キサラは変わり、私自身が変わることのない方が、きっと、良い傾向になる。

 「・・・でも、みっちゃんだって、お父さんとお母さんに頼りたいこと、あるでしょう。キーちゃんにだって、あると思うの。」

 そのようなことを言われても、私にはキサラが好きなものすら曖昧模糊だ。誰かに縋りつくようなそぶりも無い、何かを察することでさえ、きっと、出来ない。

 黙って、少し冷めたコーヒーを飲み欲し、壁に掛かっている時計に目をやると、いつもの帰宅時間を指していた。夕食を作らなければ、その前に、スーパーで買い物をして帰らなければ。現実の問題が先行し、キサラのことを深く考えるのは止めた。これから先を考えるのではなく、今、目の前のことをなんとかすればいい。

 勘定を済ませ、食堂を出るとその足でスーパーに向った。


 

人の言葉を素直に聞き入れなくなったのは、いつからだろう。

チエの言葉だけじゃない。

姉の最後の言葉でさえ、私は本当のところを考えていなかった。

指摘してくれる人が居る有難さが、私には分かっていなかった。



 いつもの通り家に帰ると、真っ赤に焼けたキサラがソファーに座っていた。肌がかゆいのか、腕に爪を立てて皮膚をはがしていた。近付くと、彼の身体からは僅かな礒の香りがしていた。

 「海に、行ったのか?」

 責めるわけでも、説明を求めるわけでもなく、ただ、口にした。キサラは顔を濡れタオルで冷やしながら、一度大きく肯いた。

 「水着はどうしたんだ、」

 私の記憶では、小学校の水着は合ったが、今の彼には小さい筈である。中学に為ってから、まだ水着は買っていなかった。

 「海水浴場で、貸出をしていたから。」

 「そうか。」小さく肯いた。「友人と、行ったのか?」

 私の質問に、キサラは困ったように眼を細めた。

 「わからない。けど、人と一緒に行った。」

 きっと、普通の子ならすぐに「友達と行った。」と答えただろう。もしかしたら、キサラはまだ、相手に心を開いていないのか、人との距離が私の様に分からないのかもしれない。いや、そもそも、今までそういうものがいなかったのだから、何と呼べば良いのか知らないのかもしれない。

 「楽しかったか、」

 「うん。」

 僅かに、何時も張り詰めていた、キサラの目が柔らかくなった。今までそんな表情を見たことが無かったので、言葉をどう続ければいいのか、急に怖くなった。

 「日焼けは、火傷の様なものだ。よく冷やせばいい。」

 「うん。」

 ネクタイを外し、小さく息を漏らした。

「あの少年は、何と言うんだ?」

 一瞬、キサラは眼を丸くした。それが実に人間らしい表情で、私の方が戸惑ってしまった。

 「月亮のこと?」

 「一緒に居た、灰色の髪の少年だ。」

 キサラは口元に僅かな笑みを浮かべていた。

 「月亮って言うの。天野月亮。月と亮で、月亮」

 指で漢字を書き、キサラはタオルを顔に押し付けた。

 「変わった名だな。」

 それを言うのなら、キサラも随分変わった名前だ。だが、姉が付けたのだから、私は一切関与していない。

 キサラは私の言葉に、タオルから顔を話し、猫のように目を細めた。

 「中国語で、月って意味なんだって。」

 「月、か。」

 今日は曇り空なので、月を見ることは出来ないが、思わず窓の外に目が向かう。髪の色を元に名付けたのか、そう考えるとあの少年に合っている気がした。

 そう言えば、姉は何を思い「キサラ」と呼んだのだろう。結局、由来を聞く前に姿を眩ませたので分からずじまいだが、名前を付けた以上、そこに意味はあるだろう。もしかしたら、漢字も決めていて、何か意味のあるものを選び、名自体は後付けだったとも考えられる。出産時に姉の側にいた母はもういない、産婆も亡くなったと聞いた。私はあの時、姉が何を考えていたのか、真意は何だったのか、どんな意図を持っていたのか、何も、知らないのだ。

 考え続けると、そもそも本当にキサラは姉の息子なのだろうかと急に怖くなった。姉の身体から生まれ、そして何より怖いくらい似ているのだから、間違いない筈だ。けれど、共に生活する環境により、人の姿は次第に似てくることもある。似た者の夫婦というのもいた。いや、病院ではないのだから、赤ん坊の取り違えは絶対に無い。どのような疑問も、総て姉を見つけてからで構わない。キサラの名前の由来も、父親が誰かも、どうして、姿を消したのかも、見つけてから、聞けば良い。

 

 本社から直接帰り、普段よりも早く家に着いたので、夕食の支度をする前に珍しくテレビを点けた。地元のニュースが流れて、先日キサラを迎えに行ったデパートで小火騒動があったと言っていた。特に被害もなく、ニュースはすぐに別の全国区の情報に切り替わった。キサラはまた出かけているのだろうと思っていると、二階から下の部屋に降りてくる音が聞こえ、振り返り思わずぎょっとした。包帯を巻いているのだから、何があったのかと不安に思うのは当然だっただろう。どうしたのかと口を開く前に、キサラが、「叔父さんっ。」と震えた声で私を呼んだ。

 今までの生気の無い表情とは違い、真摯で真剣な顔で私を見定めていた。私はまた、キサラを壊してしまったのだろうかと背筋が凍り、次の言葉を待った。

 「ボク、学校、行きたい。」

 それは、久しぶりに聞いた、キサラ自身の意思だった。本当にこれは、キサラ自身の意思なのだろうか。いや、滅多に自分を表現しようとしないのだから、わざわざ偽ることはないだろう。

 「それは、本心か?」

 「・・・うん。ボク、学校へ行きたい。」

 尚も確証が欲しくなり、目を細め言葉を選びながら理由を尋ねた。

 「私に、負い目があるからか、」

 「いいえ。」

 「それなら、カウンセリングを受けるのが嫌になったのか、」

 キサラはカレンダーに目をやり、一つ深い息を吐いた。

 「うん。確かに飽きたけど、でも、行きたいのとはまた別だから。」

 「誰かに脅されてもいないか、」

 「違うよ。」

 「なら、友達が出来たからか?」

 その質問に、キサラは口を噤んだ。やはり、キサラにはまだ、友人というものが分からないのだと気づいた。言葉を言い変えようとする前に、キサラ自身が自分で話しだした。

 「友達、なんて図々しく思ってはいけない、かもしれない。けど、一緒に、一緒にいると楽しい人たちに、会えたよ。それに、」

 自分でも言葉がうまく見つからないのか、それでもキサラは言葉を何とか繋げようとしていた。私は、キサラがこれほどまでに変わっていたことに、内心すっと心が冷たくなってしまった。 

 「・・・それに、本当はずっと、行ってみたかった。」

 初めて自分の本心を話して、キサラは苦しそうにそっぽを向いた。私はすぐに言葉が出なかった。「行きたかった。」けれど、一度だってキサラは、口になどしなかったではないか。受け身でいることは悪いことなのか、いや、違う。私は受け身ではなく、見捨てていたのだ。ずっと、目を背けてきた。その姿は、愚かな道化のようだっただろう。

 自分の愚かさに、薄い笑みを浮かべて目にかかる前髪を握り潰した。視線を背けていたキサラは、私が動いたことに気づき顔を上げた。灰色の眼に私は映らず、電灯を吸い込んで小さく輝いていた。

 「・・・それなら、良かった。諸所の手続きを済ませて、二学期から何とか学校に通えるようしておこう。」

 感情のない私の答えに、紀沙羅は氷袋を落としてまじまじと私の顔を眺めた。今度は、私の顔がそこに映し出されているだろう。

 「好きにして良いんだ。もし、行きたくなくなったら、また行かなければいい。お前には学校に行く権利があるのだから。」

 その権利を主張することも出来ず、キサラは空に閉じこもっていた。私がもっと彼の声に耳を傾けていれば、この一年間の遅れは無かったのだろうか。初めから、キサラは過去ではなく、前を見ていた。後ろばかり見て、これ以上変えないようにしていたのは、私だけだったと言う事だ。

 「カウンセリングは、もう要らないだろう。」

 どっと疲れが襲ってきた。今まで緊張状態にあったことに、それでようやく気付いた。 カウンセラーのおかげなのか、それともキサラ自身の変化なのか、とにかく自らの意思を持てるようになったのだから、今まで居ても居なくとも良かったものだ、必要無いだろう。

 しばらく黙っていたキサラは、まだ言わなければならないことがあると、身を乗り出し、私に頭を下げた。突然の行動に目を見張ると、掠れるような声で 「ごめんなさい。」と誤った。

 「・・・何が、」

 キサラから謝罪されるようなことはない。私が謝罪すべき点は多々あるが、ただ生きていただけのキサラが、何を謝るのだろう。

 「色々、ごめんなさい。」

 一向に顔を上げようとせず、キサラは何度も「ごめんなさい。」と繰り返した。

 やめてくれ。

 謝られると、私はそれに縋ってしまう。自分は悪くないのだと、過去の罪を忘れてしまう。

 「・・・お前が、」少しだけ、声がいつもより低くなっていた。それをすぐに訂正し、勢いのままに続けた。「謝るようなことをした記憶はないがね。」

 朝のうちに分けていたチラシを見つけ、それを懐に入れた。これを元に、話題を変えることが出来る。

 「それより、頭は歩けないほど痛いのか?」

 「ううん、ちょっとコブが出来ただけで、」

 私は頷き、キサラに立つよう促した。

 「買い物に行くぞ。玉子の安売りは一人一個だから、それから、トイレットペーパーも、」

 拍子抜けしたキサラの顔がこちらを見ていた。彼にとっては重要な決断であったのだから、その様子は至極当然だ。けれど、私は敢えてそれを夕食の献立と同じ程度に引き下げた。そうした方が、気楽になる。深い繋がりではなく、その場限りで良い、生きていく上で必要なだけの繋がりが、丁度良い。

 「どうした、早く行かないと無くなるぞ。」

 促すと、キサラが苦笑した。私にそのような顔を向けるようになるなど、思いもしなかった。

 スーパーで買い物を済ませた後、キサラと共に帰ろうと車に乗ったのは良いが、食用油と鶏肉の買い忘れに気づき、そこまで要り用では無かったが、ついでだからとキサラを残してスーパーに戻った。夕方なので、人の数も多く、先ほどのようにまたレジに並ぶ事になると思うと、少し戻った事を後悔した。食品棚から広告の品を捜していると、ふと顔を上げた拍子に、銀の髪が目に入った。良く見ると、少年の隣には青年が居て、髪の色は違ったが、容姿が良く似ていたので兄弟なのだとわかった。話しかけようとも思ったが、キサラが車の中で待っているので、買い物を優先する事にした。油を見つけ、今度は鶏肉のコーナーへ向かって、値段と質を見比べていた。すると、隣に人の気配を感じ、相手に気づかれぬように、そっと目を動かした。顔は見えなかったが、銀髪が目に入ったので、彼が誰かはすぐに分かった。

 車の中で掻い摘み聞いたキサラの話では、彼は肩を脱臼したと言っていた。確かに、肩を押え、冷気の上に白い息を漏らしている。

 「・・・キサラと、一緒に居た子だね。」

 成るべく目を合わさないよう、顔を伏せて尋ねた。だが、すぐには応えず、黙って居た。

 「あの・・・」

 僅かに顔を上げて眺めてみると、口籠り、俯いていた。私が誰か迷っているのだろう、他人への警戒心も強いようで、先ほどから気配に一切の隙が無い。緊張がこちらまで伝わり、肩を落として息を吐いた。私の息も、冷気の中で白く、そしてすぐに消えた。

 「取って食いはしない。ただ、一度、君と話をして見たかった、それだけだよ。」

 「はい、」

 まだ警戒は解かれていないようで、当たり障りのない会話から試みた。

 「そういえば、その腕は大丈夫かい、」

 「あ、はい。軽いので、一二週間で治るようです。」

 眼だけは食材を捜していたので、購入するものを見つけ、かごに入れた。キサラを待たせているので、手短な会話に済まさなければならない。

 「君の名前を聞いていいかな、」

 知ってはいたけれど、同一人物だと言う確信が欲しかった。

 「はい、天野月亮といいます。」

 「月亮くんか。私は遠井光で、キサラの叔父だ。」

 「はい。」

 やはり、私のことを覚えているようだ。私としても、その前提で話し掛けていたが、それでここまで警戒される理由はわからない。それにしても、髪の色以外は別段変ったところが見られない少年だった。明るい、というわけではないが、陰険な様子もない。キサラとどうして知り合い、友人に成り得たのかわからない。

 「・・・月亮くん、」

 「はい。」

 「私は、あまり人と接することが上手くない。だから、あの子があのように為ってしまったのは、私の責任だ。」

 責任をもって引きうける保護者であるなら、もっと子どもを守り、常に気に掛け、様子の違いを気に掛けなければならなかった。

 「必要なものさえ用意すれば、大丈夫だろうと思っていた。けれど、それでは足りなかったのだろう。」

 そうして、あの子の心は止まってしまった。凍りついて、自分から恐れずに進むことを放棄させた。そんなことをまだ幼さ残る少年に打ち明けた所で、一体何になるのだろうか。

 「私は気づかぬ内に、あの子を傷つけてしまった。」

 「だけど、キサラは・・・、」

 慰めようとしてくれるのだろう、銀髪がさらりと流れて隠れていた眼が合った。黒の在り来たりな瞳で、キサラとはやはり違う。けれど、キサラはこの子には心を開いた。何か、同調するものがあったのかわからない、それでも彼を信用懐いている。それなら母の様に、もし、月亮が意図的ではないとしても、見限るような結果になれば、思うより繊細な心が完全に壊れて二度と元に戻らない気がして、怖かった。

 「あの子のことは、わからない。」

口元に笑みが広がった。自虐的で歪んだ笑みだが、きっと傍目には気づかれていないだろう。

 きっと、この少年には見せていないのだろう。彼には、キサラはただの子どもに見えている筈だ。誰かの言う事を素直に聞く、少しだけ変わった子どもだ。だから、知らないうちに傷ついて、それでも人に近づこうとして、また傷つき、少しずつ、他人と自分との距離を開けるようになる。違う、それはキサラじゃない。キサラじゃないが、そうなるように、私には思えた。あの時、赤ん坊のキサラを抱き上げれば、必ず泣いてしまうとの妙な確信と同じだ。

 「あの子は、時に冷たい。」

 自分でも無意識に言葉が漏れた。これは、月亮に対する警告なのか、それとも、自分に対する戒めであるのか、自分の事なのにいつも分からない。

 「・・・僕、行かないといけません。」

 「そうか。」今、彼の顔は見たくなかった。「変な話をしてすまない。キサラの表情が変わった、それは君のおかげだ。仲よくしてくれて、ありがとう。」

 礼を述べると、月亮は丁寧にお辞儀をして、私から離れて行った。先ほど一緒に来ていた青年が、レジに並んでいる姿が見え、彼の所に向かったのだろう。私も早く買い物を済ませなければならない。車の中で、キサラが待っているのだから。



もともと、この小説はキサラと月亮の話を先に作ってから書いていたものでした。

なので、そっちに合わせていたため、口調が変わったりして違和感があります。が、読み直すのが怖いので、放置ですね・・・

そのうち、全体を書き換えるかもしれません。

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