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Shall we dance?

 夏休みが終わり、私は大学に行くようになりました。まだまだ遅刻は多いですし、授業内容もわからないところだらけであまり楽しいとは言えませんがこれから楽しくして行こうと思える辺り進歩した方でしょう。アルバイトの方はというと、当面お休みです。暇があれば事務所に出向いて所長の本棚を漁って時間を潰しているのですが、少なくとも私の居る間に事務所の電話が鳴る事はありませんでした。ちなみに一番下の引き出しには分厚い六法全書がありました。なぜ?

 学校が午前で終わるときなど急に暇な時間がぽつんとできてしまいます。私はよく本を読む方ではないので本棚を漁るにも限界があります。そんな時間があれば昔は決まって寝ていたのですが生活のペースが変わったせいかうまく寝付くことが出来ませんでした。所長のお見舞いにもたまに行きますがあまり会話が弾みません。余談ですが所長は警察に問い詰められても犯人の証言をほとんどしませんでした。正面から刺されていたのに犯人の顔を見ていないなんてありえるのか? という刑事さんに対して「覚えていないものは覚えてないんですからしょうがないでしょう」と余裕綽々に返す所長は少し格好よかったです。やや声を荒げる刑事さんに至って平静に自分を拘束することは法的にどうたらこうたらと語って追い返してしまいました。

話を戻します。

「むう…… 無趣味とは意外に厄介なものだったんですね」

 なんとなく所長のパソコンをつけてみました。しかしパスワードの壁に阻まれて私にはどうすることもできません。知り合いに詳しい人もいませんから諦めることにします。……所長のパソコンの中身、ちょっと見てみたかったです。やはりエロサイトとか入っているんでしょうか? いや、流石に事務所のパソコンのそれはありませんか。そういえば私は所長の自宅って知りませんね。所長は私の住所を履歴書で知ってるのに、不公平です。……暇です。試しに適当な数字だとかを打ち込んでみましょうか。こういう時の常套手段としてまずは生年月日を……、あれ? 所長の誕生日っていつでしたっけ? じゃあ何か関係のある言葉とか。……何も思いつきません。

 よくよく考えれば私って所長のことをほとんど知らないんですよね。明日お見舞いに行くときに根堀葉堀訊き出すことにしましょう。私はメモ用紙を取りました。

「なにから訊こうかな、っと」

 誕生日、血液型、家族構成、年齢、昔の話とかも聞きたいですね。それからそれから…… まあその場で思いついたことでいいでしょうか。

 ちなみに私の予想では生まれたのは冷たい所長のことですから十一月あたりの冬。血液型はAB、もしくはA型。絶対長男です。弟か妹がいると思います。年齢は二十三くらいでしょうか。なんだか暗い青春を送ってそうです。あの性格の悪さは過去に何か不幸な出来事があったとしか考えられません。

 明日訊いてどれだけあっているか確かめてみましょう。


 という訳で明日になって私は所長の病室を訪ねました。二週間くらいで歩けるくらいにはよくなっていて大部屋に移動しています。あと一週間もすれば退院できるそうです。

「所長、訊きたいことがあります!」

「病院ででかい声出すな」

「あっ、すいません……」

 私としては意気揚々と馳せ参じたものですから冷静に出鼻を挫かれて妙に気恥ずかしくなってしまいました。所長のお隣のおじいさんが「元気があってええなあ」と微笑んでるので余計に。

「訊きたいことって?」

「所長の誕生日はいつですか?」

「七月十二日」真夏でした。

「血液型は?」

「O型」A型は関係ありませんでした。

「か、家族構成は?」

「父母に姉が一人」長男でもないようです。

「ね、ね、年齢は?」

「二十六、ってなんだ? どうでもいいことばっかり訊きやがって、……? なんで落ち込んでるんだ?」予想より三つも年上ですか。

 いえ。そこまで外れてるとは思わなくて…… 私って人を見る目がないのかもしれません。

「なんでもありません」

 とだけ私は答えました。所長は疑問符を浮かべます。

「ところで所長、ご家族の方って何をしてらっしゃる人なのですか?」

「なんだよ、藪から棒に」

「別に深い意味は無いのですが」

 所長が刺されたっていうのに一度もお見舞いにきた形跡がないのが少し気になったのです。

「さあ、あいつらがいまどこでなにをしてるかなんか知らんよ」

「そうですか」

 優秀な所長のことですから調べるのは簡単でしょう。興味がない、ということでしょうか。それとも私には話す気はないのでしょうか。どちらか私には判断がつきかねました。あるいはどちらもかもしれません。

「そういうお前の家族はどうなんだ?」

 どちらにせよ所長はこの話題をあまり好ましく思っていないようなので私は自分の話に移ることにします。

「そうだ、聞いてくださいよ所長」

 私は夏の初めに私が悪魔払い探偵事務所に面接に来た理由について話しました。父親がリストラされたと嘘をつかれたことです。途中から所長が声を殺しながら爆笑し始めたのでぶん殴って止めます。流石に今はお腹はダメですね。笑いを堪えて少し震えていた所長がようやく笑いを押し殺したらしく「いや、悪い。お前らしいなと思ってよ」と悪意のある表情を見せました。その顔が妙にムカついたので私は所長をもう一度ぶん殴りました。後ろでおじいさんが「若いもんはええなあ」と微笑んでいます。

 所長はベッドから体を起こし、一瞬だけ辛そうな表情を見せました。

「大丈夫ですか?」

「気にするなら殴るなよ…… ちょっと捻っただけだ」

 そうでした。所長ときたらいつもまるで平気そうな顔をしているからあまり意識していませんでしたが、所長って刺されたんですよね……

「所長、あまり無理はしないでくださいね」

「たったいま無理させたのはどこのどいつだ?」

 う…… せっかく気を使ってやってるというのに、いけ好かない所長です。

「はあ」

 私は深く溜め息を吐きました。決めました。もうお見舞いにも来てやりません。……だから今日訊いておくことにしましょう。

「所長、ずっと疑問に思っていたのですがどうして悪魔払い探偵事務所なんですか? 所長は無神論者ですよね? 所長は認めたくないですが結構優秀だから、依頼があんまりこないのはあの事務所の名前のせいだと私は思うんですが」

「悪魔のせいに出来るから、ってのは最初の事件の時にやったからわかってるよな」

 私は頷きましたが、あんなのは一部の人しか納得しないはずです。所長のような合理主義者があんな手を使って罰を避けるのも私には理解しかねました。所長は自分が刺されるのを、罰を受けるのを避けようとしかったからです。ふと私は思いつきを口にします。

「所長はまさか自分をいつ死んでもいい人間だなんて思ってませんよね?」

「結構思ってるが?」

 このクソ野郎。

「所長は非常に残念なことに私にとって微妙に必要な人間だから死んじゃダメです」

 所長は呆気に取られた顔をしました。

「なんですか」

「いや、単純にびっくりした」

 それからニッと笑みを見せました。

「わかったよ。今度から気をつける」

 後ろでおじいさんが「若いもんはええなあ」と言いました。


 それから一週間程が経過した雨の日の土曜日に、所長が退院しました。私は大学に行く以外は基本的にやるべきことがなかったので所長の快気祝いを準備しておくことが出来ました。といってもそう大掛かりなものではなく簡単な料理と飾りつけだけなんですが。

 所長は「暇だったなら他のバイトを探してもよかったんだぞ」なんて言いますが表情に照れが混じっていることが私の頬を綻ばせます。私は「所長と一緒がいいですよ」と都合のいいことを言っておきます。実はバイトの面接を五件受けて全滅していることなんて口が裂けても言えません。

「ん、うまいな……」

 所長がパスタを口に運びながら言います。

「一人暮らしを始める前に料理だけは練習しましたからね。レパートリーはそんなに広くないですが」

 私は少し得意になります。所長より優れているところがあるのはいいものです。……こんな私ってせこいでしょうか?

 私の作った料理を褒めながら口に運ぶ所長がなんだかわいく見えてきました。「誰にでも一つくらいは取柄があるもんだなぁ」……やっぱりかわいくないです。

 あらかた食べ終えて後片付けをしている時に不意に事務所のドアがノックされました私は後片付けを少しも手伝おうとしない所長をぶん殴ろうとしていた右手を下げざるを得ませんでした。

「どうぞ」

 所長が言います。私は多少強引に流し台に置いてお茶を淹れに動きます。

「川口、タオル!」

 隣室から聞こえてきたので上の棚を開けてタオルを一枚出しました。使っていなくても定期的に洗濯しているので汚れてはいません。私は窓の外がかなり暗いことに気づきました。時間はまだ遅くはないですから、雨はかなり手酷く降っているのでしょう。お茶は熱いのにしたほうがよさそうですね。とりあえずタオルを渡すのが先でしょう。私は白いタオルを持って応接間に戻り、依頼人の顔を見て持っていたのが熱いお茶でなくてよかったなと思いました。お茶であれば私は容器を取り落として軽い火傷を負っていたでしょう。濡れ鼠の状態でドアの前に突っ立っている依頼人が私が宇多田ヒ○ルの次に好きなミュージシャンの青石浩介だったからです。

「川口?」

 所長の声で私は我に返りました。

「……あ、タオルどうぞ」

「ありがとう」

 あの青石浩介が私のタオルを受け取ってそれで顔を拭いています…… 私はあとでどうにかしてあのタオルを持ち帰らせてくれないか所長の掛け合ってみようと決意します。

 あ、お茶を忘れていました。隣室に戻り陶器製の容器を出してパックのお茶の葉を入れてお湯を注ぎます。お湯がキレイな薄緑に染まります。

「どうぞ」

 私はお菓子を添えてお茶を出して所長の隣に座りました。

「おい、メモ」

「あ、すいません」

 なんだか緊張しています。私の初恋と言っても過言ではない相手が目の前にいるのですから当たり前でしょうか。紙とペンを取りました。

「ご用件を伺いましょうか。今日はどうしてこちらに?」

 青石浩介はしばらくお茶の入った容器を握り締めて手のひらを温め、一口啜ると話しはじめました。


「一昨日の晩のことだ。俺は散歩してたんだ。特に目的もなくただブラブラするために歩いていた。だいたいの方角だけで適当に道を選んだから、どの辺りを通った時か正確にはわからない。暗かったしな。そしたらどこからか詩が聞こえてきたんだ。窓が開いてたんだろう。少なくともその時点じゃあ誰かに聞かせるためのものじゃなかった。何度か失敗してやり直したり、詰まったりしてた。女の声だった。俺はその詩の出所を探したんだけど、見つける前に終わったんだ。あ、ウタってのは歌のほうじゃなくて詩のほうな」

 私がペンを渡すと彼は歌と書いてバツをして詩と書きました。

「頼む。俺はどうしてもあの詩をもう一度聴きたいんだ。別に旋律があざやかだった訳でもないのに、声が特別だった訳でもないのに、俺はあれに惹かれた。俺はあれが欲しい。手にいれたい」

 所長はなんだか困っているようでした。もしや所長は事件を解決するのは得意でも人探しなどは苦手なのでしょうか?

「もし僕たちがその女に会えたとしても、彼女が拒否した場合は僕たちは一切の情報をあなたに渡しません。それで構わないならお受けいたします」

「構わない。とにかく探してくれ」

 所長は頷いたあとに唇だけで「ほんとにわかってるのやら」と言いました。

 雨足が弱くなるまで待ってから青石浩介は事務所を出て行きました。私は彼が事務所の階段を降り切ったのを足音で確認してから所長に尋ねます。

「所長、なんだか歯切れが悪かったですがどうしたんですか?」

「お前こそなんであいつが帰った途端にタオルなんか抱きしめてるんだ……?」

「私のことは気にしないでください。あとこれ貰って帰っていいですか? 所長はもしかして人探しとか苦手なんですか?」

「いや、気になるしダメだ。つーか逆でさ、俺は多分あいつの言ってた詩の女を知ってるんだよ」

「所長のケチ。タオル一枚くらい構わないじゃないですか! え、じゃあ教えてあげたらよかったんじゃあ?」

「別のタオルならやるよ。けどいまのお前を見てたらそれを渡すのはすごくあの青石ってやつに悪い気がする…… 俺としてはそっとしといてやりたいんだが、まあ見ればわかるよ」

「……、?」

「一度会いに行くか」

 私はタオルを抱いたまま所長の車に乗りました。煙草の匂いのしない車はあまり早くないスピードで進んでいきます。

 とはいえ目的地はそう遠くなく二十分くらいで着きました。って、ここは……。

「所長が入院していた病院、ですよね」

「ああ」

 そう広くない駐車場に車を止めます。所長はナースステーションで知り合いらしい看護士さんと少し話してから二階にある女性の病室を訪ねました。ネームプレートには三島 真由美とあります。所長がドアを二度ノックすると「はい」と十代特有の高い声が返ってきました。横滑りのドアを開きます。私は思わず息を呑みました。そこにいたのはパジャマ姿で化粧ッ気がなく少し気の弱そうな目をした高校生くらいの女の子ですが、彼女には右手は手首から先に違和感がありました、左手は肘から先に。

 義手だ。と私は思います。

「えっと、どなたですか?」

 戸惑った声でした。所長が名刺を抜いて彼女の目の前まで持っていきました。

「探偵事務所の者です」

 簡潔に説明を付け加えて名刺を隣の台の上に置きました。

「探偵さん……?」

 どうして自分のところに? という顔ですが同時に好奇心による光もありました。

「少しお聞きしたいことがあるのですが、一昨日の晩は窓を開けていましたか?」

 彼女は少し考えて「開けてたと思います。風が好きだから」と言います。私は所長が内心で溜め息を吐いたのがわかりました。所長はきっと詩の女が彼女でないことを期待していたのでしょう。彼女の両腕を見ればそれは私にだって想像がつきます。

「僕たちはあなたの詩をどうしても聴きたいという方の依頼を受けてあなたを探しにきたんです。一度お会いいただけませんか?」

 彼女はほとんど間を置かずに答えました。

「お断りします」

「そうですか。いえ、失礼しました」

「あ、あのっ」

 私は口を挟まずにはいられませんでした。

「なんですか?」

「LAST RESORTっていう音楽グループを知りませんか?」

「……SPECIALの? いまでも少しなら聴きますけど」

 所長が私の袖を引きました。

「また来ます」

 所長に引っ張られて私は病室の外に引きずり出されました。

「なんだそのLAST RESORTって」

「え、所長、知らないんですか? もしかして音楽聴かない人? 青石浩介がボーカルをやっていたバンドですよ。二年くらい前にSPECIALって曲で大ヒットしたけど、二曲目以降の人気が出なくてテレビに出なくなっちゃったんです」

 誰でも一冊は小説は書けると言いますが青石浩介のそれが一曲の歌だった、とは当時よく聞いた話です。それほど彼の一曲目はすばらしく、また二曲目は平凡そのものでした。

「……へえ、なんか気に食わん顔してるなあと思ってたんだが、ミュージシャンだったのか」

 大多数の人間にとっておそらく所長の顔の方が気に食わないと思います。所長は唇のあたりに手を当てて言います。

「なるほどあの通りだから絶対会わないだろうなと思ってたんだが、いけるかもしれないな」



「コーヒー淹れてくれよ」

 事務所に戻った所長の第一声がこれでした。

「たまには自分で淹れたらどうですか」

 言いながら私はポットのある隣室に向かいます。所長はなぜか言葉に詰まったようでした。私はカップにインスタントの豆をいれますお湯の温度を少しだけ上げてから注ぎ、緑茶用の温度に直しました。所長は一口啜ると相変わらず不思議そうな顔をしやがります。

「お前さ、あの女の詩、聴きたいか?」

「え、あ……、じゃあ、はい」

「明日って日曜だよな。大学ないだろ? 十時頃に事務所に来い。遅れるなよ」

「わかりました」

「うし、じゃあ今日は解散。お疲れ」

 所長はコーヒーを啜りながら読みかけの文庫本を取りました。私は所長の目を盗んでタオルを持ち帰ろうとしますが、事務所を出る直前に呼び止められます。

「悪いがタオルが一枚足りないような気がするんだが見てきてくれないか」

 意地の悪い笑みで言います。そのタオルは私の荷物の中です。私は渋々洗濯物を入れる籠の中にタオルを放り込みました。近日中にあれは近くのコインロッカーに持っていかれるでしょう。その時までにすり替えを実行することを私は画策します。

 学生寮まで戻ると隣の部屋から物音がしていました。多分ですが光さんが誰かとお酒を飲んでいるのでしょう。夏休みの終わり頃に木谷さんを連れてきたのですが、木谷さんはボロボロになってうちに逃げ込んできました。「逃げるな! この根性なし」なんて叫び声がドアの向こうから聞こえていて私はどうしても木谷さんを追い出すことができませんでした。私は初めてお酒を飲めなくてよかったと思いました。夏に一度光さんに誘われたことがあったからです。木谷さんは光さんの声が静まった頃にそれが罠だとも知らずに私に一言お礼を言って出て行って光さんに捕縛されていました。その後のことを私は知りません。大学で光さんを見かけた木谷さんがビクンと大きく肩を震わせたことぐらいしか。

 ちなみに騒音などで光さんが文句を言われることは多分ないでしょう。ここの寮の人はだいたいみなさん光さんとお友達なので「またやってるよ光は」で済ませてしまいます。時間は割りと弁えるというか潰れて寝てしまうみたいですから。

 今夜の獲物は誰なんでしょう。興味はありますが巻き込まれるにはごめんなので私は早々に自分の部屋に引き上げました。

「た、助けて! やだ、やだああああ」

 私には何も聞こえませんでした。壁越しですから、当然ですね。明日に備えて今日は早めに眠ることにしましょう。

「やめて、ひっ、いやあああああああ」

 うん。それがいいです。おやすみなさい。


 夢を見ました。

 どこかで聞いたことのある外国の音楽がバックミュージックとしてかかっています。辺りは暗く、視界が狭いためわかり辛いですが私はそこがどこかの公園であることを知っていました。私はベンチに座っています。とても不安な気分です。冷たい木枯らしが吹いていて私はコートの裾を握り締めます。あの人は来るだろうか? 私はそればかりを考えては気持ちが段々を落ち込んでいきました。

 やがて誰かが通りかかりました。私は彼かと思って顔を上げます。しかし全然別の人でした。私は自分がいままで俯いていたことに気づきます。来ない、と自分でも感じていたのです。私はより深くベンチに体を預けました。帰ろう。立ち上がりかけたそのときに後ろから何かが触れました。私は振り向こうとしますがそれは私の体を両腕で捕らえていて逃がしません。見なくてもわかります。彼です。私は包まれている感触が心地よくて目を閉じました。私の冷たい頬に彼の温もりが伝わってきます。そして私は……


 そこで目を覚ましました。なんだかすごく嫌な夢を見た気がします。私は二度伸びをしてシャワーを浴びて奇妙な気分を吹き飛ばそうとします。どんな夢だったのかよく思い出せません。所長が出てきた気がするのですが。うーん。タイルを打つ水の音がわずかに残った記憶の残滓を削っていきます。まあいいでしょう。悪夢なんてわざわざ思い出すほどの価値もありませんし。深く考えないようにしましょう。

 時計を見ると朝の八時半です。私は冷蔵庫にあるもので簡単な朝ご飯を作って食べ、へたくそな化粧をして家を出ました。光さんの部屋から出てきたばかりの恵理さんを見つけて「おは、もが」口を塞がれました。恵理さんは自分の口元に人差し指をやります。……? 下を指差して音を立てないように歩き出しました。とりあえずついて行くことにします。

「光から逃げてきたの。頼むからこのまま見逃して」

 私は頷いておくことにします。逃げるのはよくないですよ、とは木谷さんの前例があるので私にはとても言う事ができませんでした。いったい光さんはお酒を飲むとどうなるのでしょう……? 気になりますが、訊くのが恐い気もしました。

「サークルに見学に来てた人よね?」

 私は頷きます。

事務所に着いたのは九時半を少し回ったあたりです。

「おはようございます」

 私は言いますが返事はありません。所長はデスクに突っ伏していました。もっといえば寝ていました。高校生あたりがよくする腕を組んでその上に頭を置く寝方です。

「……なんかかわいいのがムカつきます」

 十時集合と所長は言いましたから時間的に余裕がある訳ではないのでしょう。私は起こそうかと思いましたが躊躇います。

 ええ、かわいいのです。所長は整った顔立ちをしているのですが普段は性格のせいか目つきが歪んでいたりどこか皮肉めいた表情をしているのですが、こうして眠っていればそれも関係ありません。私は携帯電話を家に忘れたことを後悔します。撮っておきたかったです。仕方ないので十時の五分前まで所長を観察して、起こしました。

「所長、おはようございます」

 肩を揺すって呼びかけます。

「ん、ああ…… おはよう、×××」

 寝ぼけ眼を擦りながら所長は私でない誰かを呼びました。

「時間は?」

 所長は体を起こして私を見ます。

「九時五十六分です」

「ギリギリか…… 悪いな、寝てて」

「いいえ」

 いろいろおもしろいものが見れましたから。

「所長、所長は誰の名前を呼んでたんですか」

「……もしかして寝ぼけてなんか言ったか?」

「はい」

「忘れろ」

「はい?」

 所長はそれきり何も言わずに車を出して来ました。所長は寝てたらかわいいのに一度機嫌を損ねるとすぐにだんまりになって恐い顔をします。車が走り出します。私はそれ以上何も訊く事ができませんでした。ですがこれだけは言っておくことにします。

「所長って、寝顔がかわいいですね」

 所長の車は大きく左右にぶれて事故を起こしそうになりました。車の少ない道で大いに助かりました。私は少なくとも運転中にこのことを言うのはやめておこうと思います。

 それ以降は安全運転でした。というより所長の車は基本的にあまりスピードを出す事がありません。

「所長っていつもこんなに安全運転なんですか?」

「いや、急いでたら捕まらない範囲で飛ばすぞ」

「へえ、じゃあなんでいまはこんなにゆるゆる走ってるんですか?」

「お前を乗せてるからに決まってるだろ」

 ……所長からすれば何気なく言った一言なのでしょうがキュンときてしまった自分がいることに私はどうすればいいでしょうか。

「ほれ、着いたぞ。さっさと降りろ」

「あ、う、……はい」

 いかに顔立ちが整っているからと言って所長のようなクソ野郎の言葉に動揺している自分が悲しくなります。私は所長から顔を背けるようにして歩きます。必然床か壁が視界の中心になりました。真っ白い院内の廊下はどこか不自然に明るく映ります。光から連想するものは大抵希望や暖かさなど心地よいものでしょう。しかし明るすぎると暗闇と同じで何も見えません。病院の中というやつはそんな光の闇にあるような気がしてなりませんでした。

 所長はエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押しました。最上階に彼女がいるのでしょうか? 前に訪ねた彼女の病室はもっと浅い階だったと記憶していますが……?

「屋上だよ」

 私の思考を見透かしたように所長は言います。

「あの子は屋上に小さい子を集めて自作の、青石いわく詩を披露してるんだ。身寄りがなくてな、院長が善意で給料まで出してるらしい」

「へえ」

 院長さん、すごくいい人ですね。

「まあ、あくまで噂だ。詳しいことまでは俺は知らない」

 エレベーターが最上階に到達し、私と所長は階段を登ります。開け放された屋上のドアの向こうに彼女は居ました。青空が広がります。昨日の雨が嘘のような晴天でした。彼女は不快そうな目で私と所長を見ましたが直ぐに視線を逸らしました。所長は壁に背をつけて彼女のほうをジッと見つめていました。……いまチクッとしたのはなぜでしょう? 屋上は広くて子供たちが元気に走り回っています。私たちのことなんて特に気にしてはいないようです。私も所長も子供は得意ではないので助かりました。

「そろそろ始めるよ」

 彼女は私たちが聞いた事のない優しい声を出します。思い思いに走り回っていた子供たちは直ぐに彼女の元に集まってきました。小学校のチャイムでもこんなに効果はないでしょう。

 それから彼女が深く息を吸い込んで、台本も何もまったくなくそれは始まりました。

 詩だ、と言った青石浩介の表現は間違っていました。彼女が語り始めたのは物語でした。詩のように深い情緒と比喩的な文で構成されていません。それは澄んだ言葉と伏線、台詞と地の文で構成された小説でした。童話調の言葉を選んいて聞き取り易いように一つ一つの言葉を正確に発音していました。出版されているような物語に比べると圧倒的に短いのでしょう。それでも一時間近く、私と子供たちは彼女の語る物語を聞き入っていました、

 彼女が語ったのは美しさの代償として笑顔を差し出した氷姫のお話です。


 姫はある目的から魔法使いに懇願し笑顔を差し出して、その代わり誰もが振り向くような絶世の美しさを手にします。人々は彼女の美しさを称え、女は羨み、男はそれを手にしようと誘惑しますが彼女と親しくなるに連れて段々と心が離れていきます。笑顔を見せない姫の心が人々にはわからないのです。やがて彼女は心の凍った冷たい姫としてみんなに遠ざけられてしまいました。そんなときまだ美しくなかった姫の友人だった一人の男性が魔法使いの元を訪れます。魔法使いは男性が何を求めて自分を訪ねてきたのか、と問います。男性はどうか姫に笑顔を返してくれるように嘆願しました。その代償にはお前の命が必要だ。魔法使いは冷たく言いますが、彼はただ笑いました。魔法使いが何がおかしいのか訊ねると彼は言いました。

「姫に笑顔が戻るならばこの命など喜んで差し出そう」

 魔法使いは感心し彼に必ず姫に笑顔を返すことを約束し、彼を殺します。魔法使いは彼の心臓を使って姫の笑顔を奪っていた魔法を解きました。

しかし姫に笑顔が戻ることはありませんでした。魔法使いが約束を破ったからではありません。姫が笑顔を差し出してでも欲しかったのは彼の愛だったからです。


 スッ…… と心が冷たくなる感じが私の中を駆け抜けていきました。それは世界中でよくあるバッドエンドで終わる童話の一つでしょう。しかし彼女の口から語られた時、それは色を変えます。何がすごいのか私にはよくわかりませんでした。だけどただすごいと思います。何がおもしろいのかもまったくわからないのにおもしろいと私は感じました。きっと世の中には時々そういうものがあるのです。

 病室に子供たちが帰っていきます。バイバイと陽気な声を上げたり、名残惜しそうにしながら友達に呼ばれたり様々でした。彼女はそれを最後の一人まで見送ってから私たちの方を見ます。私は小さい拍手を送りました。

「なんですか」

「すごいな、って」

「……くだらない」

 彼女は冷たく突っぱねますが私はあれを単なる照れ隠しだと知っています。

「何かの本に載っているお話ですか?」

 所長が尋ねます。彼女は「オリジナルですけど」と俯きながら少し恥ずかしそうに言いました。けど直ぐに顔を上げて所長を睨みつけます。

「何か用ですか? あたし、もう部屋に戻りたいんですが」

「いえ、一度あなたのお話を拝聴したいなと思っただけです。気に障ったなら申し訳ありません」

 慇懃無礼にも見える態度で所長が言います。

「……そうですか。ではこれで」

 彼女が歩き出します。

「もったいないです……」

気づいた時には私は胸の中のイガイガした感情を吐き出していました。

「おい」

 所長が私を止めますが、もう自分でも止まりませんでした。私だってそんな才能があればしたいことはいっぱいあります。でもできないんです。私では何をやってもへたくそでうまくいかないんです。

「なんでそんな話が作れるのに病院の屋上で満足してるんですか? もっと大きい場所で……」

「川口!」

 所長の怒鳴り声で私は我に返りました。自然に視線が彼女の腕まで下りていました。ゴムとシリコンで出来た外装のそれが怒りに任せて私を睨みつけています。

「っ……」

 唐突な理解と後悔が私を埋めます。

 彼女には物語を書く両手がない。

 いかに義手が進歩しても自由に文字を書くことが難しいでしょう。キーボードを普通の速さで打つ事もきっとできません。

「あなたにあたしの気持ちはわかりません」

 彼女は痛みを堪えながら言いました。笑顔を失くした氷姫のように。

「形を変えることはできませんか?」

 所長の声色は暖かでした。しかし一方で同じくらい静かで暗くもありました。

「あなたの話は小説の形を取っていますよね? あなたに会いたいと言ってきているのは青石浩介というミュージシャンです。『LAST RESORT』といえば聞き覚えがあるのかと思います。

 あなたの小説は小説にするには短い。曲に乗せて歌詞をつければ丁度いいと思いませんか」

「中途半端に…… あたしに夢を見せないでください。あたしは諦めたんだ! 続きが書けなくなって、誰かに手伝って貰わないとできないことが増えて、泣きましたよ。だけどやっと振り切ったんです。あたしはこのままでいいんだ。これ以上あたしを苦しめるな」

 気が付いたら私は泣いていました。彼女が息を呑んだのがぼやけて映ります。所長のあまり大きくない手が私を撫でました。

「もう僕たちはここへ来ません。名刺をお渡ししましたよね? 気が変わったらそちらへ連絡してください。申し訳ありませんでした」

 所長に手を引かれて私は屋上を出ました。

「階段、気をつけろよ」

「ありがとうございます……」

 言いながら私は躓きそうになりました。所長が抱きとめてくれたお陰で怪我せずに済みましたが。

「お前、ほんとバカだな」

 なんて言いながら所長はポケットからハンカチを出して目鼻を乱雑に拭います。

「あ、あの、所長。化粧が……」

 手を止めてくれません。

「とりあえず車まで戻るぞ、何するにもそれからだ」

 最上階からエレベーターに乗ると誰かが乗り込んできました。化粧の落ちた顔を見られたくないのを察したらしい所長がその人との間に立ってくれます。変なところで気が利くのが所長のムカつくところの一つだと私は思いました。一階を足早に抜けて私たちは車に乗り込みます。

 低いエンジン音を上げて車は走り出しました。

「所長、彼女は電話してきますかね」

 私は鼻を啜ります。

「お前、それ洗ってから返せよ……」

 所長はジト目で私を見て溜め息を吐きます。ハンカチは涙と鼻水でぐしゃぐしゃです。

「四割ってとこかな」

「四割ですか」

「心情的には電話したいんだと思う。あの子は小説家か何か本気で目指してたんだろう。だからどんな形でも自分の書いた話を子供じゃなくてちゃんとした大勢に認めて貰いたい気持ちはある。だけど自分がいま以上の負担を抱え込めるかわからない。受け入れられなかったら? 傷つくのが恐い。ビビってる。それで四割減。

 ようやく押さえつけた夢を目前に出されて失敗したらまたあんな気持ちを味わうのか。両手を失くした時の絶望を思い出す。嫌になる。二割減。大雑把な読みでこんな感じかな」

「所長の分析って冷静すぎて気持ち悪いです」

「そりゃどうも。いまどき五体不満足のリアル話でそこまでボロ泣きするやつのほうが珍しいと思うがな」

「めんもくないです」

「いいんじゃないか。正直俺だけなら二割を割ってたと思う。四割まで持ち込んだのはお前の力だよ」

「……所長」

 それはもしかしたら私の一番欲しかった言葉かもしれません。

「まあ普段のお前がぐだぐだな役立たずだから二世紀に一回くらいはお前が役に立つような珍事があっても不思ぐっ…… 運転中に顔を殴るな、危ねえ」

「なんで所長はいい場面をことごとくぶち壊しにするんですか!」

 乙女心がわからなすぎます。別に所長にそんなことは期待してませんけど!


 所長は泣くんだろうか、私はふと思いました。所長が泣くのはどんなときでしょう。痛いとき? 苦しいとき? 悲しいとき? それとも嬉しいとき?


 それから一日経ち、二日経ち、一週間が経っても彼女から電話はありませんでした。

 十日ほど経って私が居るときに電話が鳴りました。所長が舌打ちを一つして口元まで運びかけた卵を纏ったカツを丼に戻し、受話器を取ります。

「はい、悪魔払い探偵事務所、ええ、そちらの依頼をお受けしました」

 私はその隙を見逃さずに所長のカツを一切れ掠め取りました。人間の限界と言える早業でした。私はカツを口元に運びます。美味です。

「はい、ですがまだご報告できる段階にありません。申し訳ございません」

 しかし私は鬼ではありません。むしろ人並み以上の慈悲を持った情け深い人間であることを自負しています。

「青石さんに期待せずにお待ちくださいとお伝えください。では」

 よって私は私の焼き魚定食から漬物を一切れ所長の丼に添えてあげました。等価交換です。

 所長の横目が何やら不穏そうにこちらを見ていますが心美しい所長のことです。私の気のせいでしょう。

「いまのは?」

 所長は溜め息を吐いて私を見ました。

「青石浩介のマネージャーらしい。売れないミュージシャンでもやる気を失くされると困るみたいだな、とっとと見つけてくれって念を押された」

「見つけたことは見つけたんですけどね……」

「まあこればっかりはな、俺たちがどうこうするべき問題でもない」

「そうですね」

 それきり会話がぷつんと途切れました。私も所長も雑談が得意なタイプではないのです。

「……」

「……」

 カツ丼を食べ終わった所長はデスクの定位置で文庫本を捲り、私は退屈を持て余します。所長が腕にぶら下げているロザリオが揺れているのをしばらくは見つめていました。浅く窓から入る太陽光を跳ね返してキラキラと光っています。

 私は静かにドアが開いたことに気づきませんでした。どうやら所長も気づきませんでした。

「あの、」

 緊張した声で初めて私たちはそちらを見ました。

「電話、使いづらくて……」

 照れたように俯いて三島真由美さんがぺコリと頭を下げました。私は内心でガッツポーズをします。所長が挨拶もほどほどに早速青石を呼び出します。

 青石はレコーディングの途中だとかなんとか言ってたのですが彼女にOKが取れたことを伝えると直ぐに来ると言って電話を切ったそうです。

「よく決断できましたね」

「やれ、って子供たちに言われて。ねーちゃんのお話をもっとたくさんの人たちに聞かせてあげて、って」

 それしか彼女は言いませんでした。だけど彼女がその言葉にどれだけ励まされたか、どれだけ悩んだかは伝わってきました。

 青石浩介が事務所にやって来るまで三十分も掛かりませんでした。果たして事務所の前に停められたバイクはどれだけ酷使されたのでしょう……? お疲れ様、と私だけでも労っておくことにします。

「彼女が?」

 所長が頷きます。彼女の少し強張るのがわかりました。

「はじめまして」

 彼女が頭を下げます。

「詩ってくれ」

 青石浩介が興奮した様子で言いました。

 彼女は先ず私を、それから所長を伺って、頷きました。

 そして物語が始まります。

 氷姫のような童話調のお話ではなく、情熱的な恋とその顛末を描いたラブストーリーでした。

 きっと童話なんて作るのは苦手なのでしょう。

 彼女の語る言葉はある場面では泣きそうなくらい悲しくて切なくて、別の場面では親切で暖かで、

 だけど物語は途中で終わってしまいました。

「ここまでしか、出来てないの」

 続きが書けなくて、彼女があの時溢した言葉を私は思い出します。

「わかったでしょ? これがあたしの限界なの。歌なんて作れっこない」

 彼女は視線を逸らします。

「なあ」

 青石は一見淡々としていました。急に彼女の手を取って言いました。

「とりあえず俺と一緒の事務所きてくれねえか? くそ…… なんで俺、ギター持ってこなかったんだ」

 いや、バイクだからだけどさ。と自分でつっこみを入れていました。

「えっと、え? あの……」

 彼女は不安そうに視線をさまよわせます。所長はただ微笑していました。彼女の視線が私で止まります。

わかりませんか? これがあなたの才能です。私には与えられなかったものです。

 私はその時どんな顔をしていたでしょう? 青石浩介に手を取られて彼女が私から目を逸らします。私はそっと隣室に逃げました。私はまともな恋をしたことがありません。テレビの中の青石浩介がほとんど初恋と言って過言ではないのです。

 ようするに私にとってついさっきまで目前にあった光景は失恋といって差支えがありませんでした。私は泣いてたのです。なんだか今回は泣きっぱなしですね。

 ドアが開いて、閉じる音がしました。彼女と青石浩介が出て行ったのでしょう。しかるべき場所で続きを行うのでしょう。

 コンコンと二度ノックされます。

「なんか知らんが、大丈夫か?」

 急にドアを開けないその微妙な気遣いが心地いいです。が、それ以上に所長に気を使われていることに腹が立ちます。

「三分……、いえ、五分ください。それでなんとか泣き止みますから」

「……なんていえばいいかよくわからんが」

 所長はぎこちなく言いました。

「おつかれさま」

 決して気の利いた言葉ではありませんでしたが、それが所長の精一杯なんだろうなと私は思いました。


「あれ? 珍しいね。こんな時間に出かけるの? 雨降ってるのに」

 テニスサークルの帰りらしい光さんに尋ねられました。こんな時間、といってもまだ夕方ですが私がこの時間に出かけることは確かに珍しいかもしれません。

「ええ、ちょっと所長のところに」

「え、もしかして川口ってばあのイケメン所長さん捕まえたの? いいなあ」

 光さん、寝言は部屋でどうぞ。

「私は男性は見た目より中身で選ぶつもりなので所長はダメですね」

 なにせ性格がいろいろ終わっていますから。

「またまた、狙ってないわけじゃないんでしょ? あ、仕事上ぎくしゃくするのが嫌でなにも言い出せないとか」

 私はジト目で光さんを見ますが光さんはそんなことを気にも留めずに妄想全開で話し続けます。しまいには川口のことが好きだけど所長さんには心に留めた別の女性がいるから付き合えないんだ、とか意味不明な話に飛び火したので私は光さんを置いて事務所への道を歩き出しました。

 別に仕事ではないのになぜ雨の日の夕方に事務所に向かうかと言うと私の部屋にはテレビがないからです。


「遅い。もう始まるぞ」

「でも所長、彼が出るのはきっと番組の最後のほうですよ」

「……そうなのか?」

「テレビに疎いんですね、所長は。引っ張るだけ引っ張って視聴率を稼ごうとする音楽番組の常套手段ですよ」

「へえ、まあ他に見るものもないしとりあえずつけとくか」

 その音楽番組は音楽よりもむしろ司会者が喋るのが中心で所長も私も幾分つまらなさそうにそれを見ていました。あるアーティストの言葉にふと司会者が「やっぱり才能のある人はいうことが違いますね」と言います。

「才能がないなんてのは努力が足りない人間の逃げだと俺は思うんだ」

 所長がポツリと言います。

「それイヤミですか?」

「ああ、そうだ。俺は天才だからな」

 私は所長をぶん殴りました。

「所長は天才ってなんだと思いますか?」

「自分を天才だと本気で思えるやつ」

 なるほど。少し的を射ている気がします。自分の平凡さを思い知らされるばかりの世の中で自分を天才だと思い続けられる人間は確かにある種の天才かもしれません。疑わないことはなによりも難しいのです。

「お前はどう思うんだ?」

「努力できる才能のある人、ですかね」

 だって、本気であることを笑われて、嘲られて、そんな世の中で努力し続けられる人はすごいじゃないですか。

 そして青石浩介が歌い始めます。

 聴いていてなんだか「ああ、そういえば私にも夢があったな」と思い出しました。私は昔、先生になりたかった気がします。私はそのための努力すら放棄して諦めてしまいました。お前みたいなやつが誰かになにかを教えられるものかと誰かに笑われている気がして。いま思えばあのとき私を笑っていた誰かは私だったのです。そして私はことに気づきませんでした。

 所長は新しく買ってきた薄型のテレビのスイッチを切りました。青石浩介の出番が終わったからです。

「いい歌だったな」

「はい」


 何もできない。

 だから何かがしたい。


 そうしめられていた青石浩介の新曲である「春の詩」はきっと少しずつでも売り上げを伸ばして行くでしょう。

「世界ってすごく狭いんですね」

 どこの町でも焼き増したように同じように人が暮らしていて同じように何かと戦っています。同じようにもがいて同じように逃げ出して同じように勝利します。

 特別なんてありふれています。手の届かないものではないはずです。私はそこまでがんばれるのでしょうか? 答えはわかりません。ただがんばってみたい気がします。

 電話が鳴りました。所長が受話器を取ります。事務的な口調が少し揺らいで「お前に代わってくれってさ」こちらに受話器を差し出します。

「私に?」

 誰だろう? 思いながら取ります。

「もしもし」

 という私の声は緊張で少し高くなっていました。

「あの、……女の人?」

 私は不覚にも少し吹き出してしまいました。そういえば名前を教える機会がありませんでしたね。

「川口湊と言います」

 名乗ると「みなとさん」と呟くように言います。

「あの、ありがとうございました」

 ポカンとなってしまいました。私にありがとうなんて言われる資格はありません。もし自分が彼女のようなお話を作れたら、彼女の背負うものや努力も考えずにただ不満をぶつけるなんて最低のことをしてしまいました。なのに…… 少々迷った末に私は「どういたしまして」と言っておくことにしました。

 結果としてそれが彼女の背中を押す事になって、彼女がいま幸せならばそれは私のお陰なのです。世の中ではいつも結果よりも過程が重視されます。

 それから少しだけお話して、彼女は誰かに呼ばれたらしく「えっと、それじゃあ、また」と言って通話を切りました。

「なんて言ってた?」

 所長が尋ねてきます。

「ありがとう、って」

「そっか」

 珍しく所長はとても穏やかな顔をしていました。その顔があんまりにも優しくて、なぜか切なくて私はどきりとしました。




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