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大安売りな天使


 人の少ない時間のほうが好ましいと考えた私は始発電車に乗りました。地元までは二時間くらいでしょうか。定期券を買って電車で学校に通っていた高校時代をふと懐かしく思います。

 悪魔払い探偵事務所で私に取って最初の事件が解決して一週間が経ちましたが、あれ以来事務所には閑古鳥が鳴いていました。私が依頼というやつはどれくらいの周期でくるのか尋ねると所長は「二、三ヶ月くらいは何もなかった時もあったな」と軽く言います。「所長、ひまです!」一度、言ったことがあるのですがどうでもいい仕事を山のように押し付けられて以来私の中でそれは禁句となっています。ちなみの通常業務は所長が留守の時の電話番と部屋の掃除。所長のコーヒーの買出し、その他諸々、つまり雑用です。ビラ配りをやらされそうになった時は全力で拒否しました。知らない人に積極的に話し掛けて笑顔を見せるなんて芸当が私に出来るはずがありません。……自分で言うのもなんですが私はなぜクビになっていないのでしょうか?

 とりあえず事務所には大した仕事は残っておらず暇でした。夏休み中に一度くらいは親元へ顔を見せに行こうと考えていたのを所長に話した所、あっさりと三日の休暇を貰うことが出来ました。

「電車の中というのは相変わらず退屈ですね」

 あまりにも人がいないので独り言がこぼれます。ふぁーあ、なんだか眠くなってきました。朝は得意ではありません。どうせ終点とはいえ私はひどく間の抜けた性格ですので努力して起きておくことにします。うぅ…… ぐー…… 駅員さんに肩を揺すられて私は目を覚ましました。口元まで涎が垂れていました。は、恥ずかしい…… 乙女にあるまじき姿です。駅員さんをぶん殴って記憶を消去しようかと考えましたが流石に自粛します。

 それから二本の電車を乗り継いで私は故郷の土を踏みました。田畑の残る田舎の空気はあざやかです。懐かしい風が私の中に残る都会の残暑を吹き飛ばします。何もかもが澄んでいました。時間がゆっくり流れているようです。何もない田舎ですが私は故郷が好きらしいです。大学を出て、もしも働くことになったらこっちで働けたらいいなぁと思います。勿論、働かずにだらだらと睡眠を中心にした生活を送るのが私の理想ではありますし、そもそも卒業が危ないのが現状なのですが。

 駅から十五分程歩いて私は自宅に着きました。古い木造の一戸建てです。なんだか緊張します。第一声をなんて言おうか考えて私は立ち止まりました。

 ガラリ、と向こうから横滑りの扉が開きました。「じゃあ行っててくるね、ママ」「行ってらっしゃい」なんて言いながら熟年バカップルがキスをしています。

「……」

 私の視線に先に気づいたのは父の方でした。父はスーツ姿です。きっといまから仕事に向かうのでしょう。父はリストラされたのではなかったのでしょうか。

「……ママ、あとは頼んだ」

 穏やかな顔つきをしている父はいつになく頬を引き攣らせて私の横を通り過ぎて行きました。母が私に気づきます。

「あ、あら、ミーちゃんお帰り」

 私より少し背の高い母が笑顔で言いますが誤魔化される私ではありません。

「ドウイウコトカ説明シテクレマスヨネ?」

 自分で思ったよりも無機質な声が出ました。「ひっ……」と母は短い悲鳴を漏らしますが一体何をそんなに恐れているのでしょうか? 私には全然まったくわかりません。

「あのね、違うのよ、ミーちゃん。ママはあなたのことを思って……」

「ドウイウコトカセツメイシテイタダケマスヨネ?」

「わ、わかったから。その女の子がしちゃいけない表情はやめて!」

 母は洗いざらい話しました。

 怠惰な生活を送る私を大学の成績の通知から知ったこと。私が言って効くような性格だと思わなかったこと。叔父に協力を求めたこと。……ということは赤山慎吾もグルでしょうか。というかいま思えば家賃のかかる寮を解約して家に戻ってこいと言ってこない時点で気づくべきでした。私のアホめ。

 気がつくと母は「ごめんなさい…… ごめんなさい……」と部屋の隅で縮こまりながらうわ言のように呟いていました。なぜかとても爽快な気分でした。あまり長居する気はなかったのですが、父にも制裁を…… 間違えました。父にも積もる話がありますのでここに一泊することを決めます。

 翌朝になって母に続き、父までもが部屋の隅で膝を折って座り込み「ママ、僕たちはどこで教育を間違えたんだろう……?」なんて項垂れていますが、どうしてそんなことを言うのかわからずに私はとても悲しい気分になります。ほんとですが、自分の表情の筋肉が緩んだまま実に楽しそうな顔つきになっているのはなぜでしょうか? 人体は不思議です。直前まで父の見ていたテレビの向こうで国会議員のなんとか山さんが演説をしていました。その顔がどこか所長に似ていてムカついたので私はテレビのスイッチを切ります。

 ともかく、両親共に元気そうにやっていることに私は少し安心しました。と、キレイに締めておくことにします。

 ……はあ、いや、本当に心配していたのですよ? 父がリストラされたと聞いて。これまで何もしなかったのは単に自分のことでいっぱいいっぱいだっただけで。特に行動しなかった私にも問題はあるといえばありますが、気持ちが裏切られるというのは辛いことです。

 ぐだぐだに和解するのも癪でしたので早々に電車に乗って私は街に帰ります。始発と違い昼前の電車にはいろんな人が居ます。

 子供を連れたお母さん。

 音楽を聴く大学生。

 おしゃべりする二人組みの女の子。

 流れる景色を見ている老人。

 特別にはなれないまでもその景色の中に自然に居られたらなぁ、と私はなんとなく思います。

 駅まで帰ってきてまた厳しい都会の残暑が私の全身を叩きます。一ヶ月前の私ならこれに敗北して学生寮に閉じ籠っていたでしょう。しかしいまの私には使命があります。そうです、私に企みを内緒にしやがった所長をぶん殴らなければなりません。

 私は駅から悪魔払い探偵事務所を目指そうとして、人混みに行く手を阻まれました。なんでしょう? なんか先頭近くにテントが張ってあってそれに向かって並んでいるようですが……?

ここを抜けることが出来なければ遠回りとなってしまいますが、知らない人に話しかけて通して貰うことと遠回りすることでは私は遠回りを選びました。

 しかしわざわざ遠回りして辿り着いた悪魔払い探偵事務所に所長はいませんでした。無用心なことに鍵も掛かっていません。私は勝手に冷房を入れて所長を待ちます。コンビ二にでも行っているのでしょう。ほどなくして帰ってきた所長の手には紙パックのコーヒー牛乳がありました。

「明日まで休むんじゃなかったのか?」

 テーブルにコンビ二の袋を置きます。

「明日は出ます。いいですか?」

 所長は頷きます。私は訊かなければいけないことを訊ねました。

「所長はなぜ私を雇ったのですか?」

「達真の頼みだから」

 何を今更、というように所長は言います。ちなみに達真というのは叔父の名前です。

「仕送りを止めた件には所長は関与していないのですか?」

「なんだそりゃ?」

 所長には本当に心当たりはなさそうです。情調酌量の余地ありでしょうか。私は舌打ちを一つします。

「……なんで舌打ちなんだ?」

「所長をぶん殴る口実が出来なかったことに対する舌打ちです」

「お前、俺のことをサンドバッグかなんかと勘違いしてないか? 俺だって殴られたら痛いし、刺されたら死ぬんだぞ……」

「え、そうなんですか?」

 所長は溜め息を吐くと「もういい」と言い、定位置に座って文庫本を読み始めました。私も本棚を漁ります。恋愛か神話関連の話があるか探してみます。ジャンルは雑多で英国文学からライトノベルまでなんでもありでした。私は下段のほうにあったライトノベルを一冊抜いてソファーに座ります。……あれ? 所長は叔父のことを達真と呼びましたが、叔父を達真と呼ぶ人は少ないです。

「所長、所長は叔父とはどういう関係なのですか?」

「達真か? 元依頼人だ」

「元依頼人……」

 私にはあの優秀な叔父が他人に頼る所が思い浮かびませんでした。私が思う以上に所長は優秀なのかもしれません。

「まあ、俺も達真には世話になったからな。足手纏い一人雇ってやるくら、い」

 私は所長をぶん殴りました。

「……お前もう帰れよ」

 派手に椅子から転がり落ちて本棚の角に頭をぶつけた所長が言います。

「ええ、そうします」

 私はそれに背を向けました。……背を向けてはいけないことを私は知っています。ドアの前で立ち止まります。

「所長、やりすぎました。ごめんなさい」

 振り返って頭を下げました。なんだか気恥ずかしくてそのまま事務所を飛び出しました。

 走ります。学生寮までは歩いて十分程度の道のりですが四分掛からずについてしまいました。部屋に入ろうと鍵を開けて、「あれ? ヒッキーじゃん」隣室の春日井光さんに声を掛けられました。ちなみに「ひかり」と読みます。

「ヒッキー、つまり宇多田ヒ○ル、素敵な響きですね」

「あんた絶対変だって」

 光さんはギャハハと品なく笑います。光さんは男でもしないくらいに思いっきり笑う人で私の密かな憧れです。

「あんたさ、このところ部屋にいないけどどこ行ってんの? 男? いや、あんたに限ってないよね」

 微妙にひどいですが否定できません……

「アルバイトですよ」

「ほんとに? ヒッキー卒業じゃん。おめでと」

 うーん…… ヒッキーを卒業したくありません。私は宇多田が好きです。

「どこで働いてるの? コンビ二? スーパー? あ、本屋とか」

「えーっと、ちょっと変わったところなのですが引かないでくださいね」

「引かない引かない。AV女優とかったらちょっとお話くらいは聞かせて貰うけどね」

 またギャハハ、と品なく笑います。この人のように生きていけたらなと私は少なからず思います。

「実は探偵事務所なのですよ。悪魔払い探偵事務所。変な名前でしょう?」

「探偵事務所? ヒッキー……、じゃなかった。確かに川口に似合わないねぇ」

 あ、ヒッキーはやめてしまうのでしょうか…… 少し残念です。

「結構楽しいところですよ」

 主に所長をサンドバッグにするのが。

「探偵事務所…… そっか、探偵事務所か」

 光さんは少し俯いて表情に影を作りました。いつも明るく元気な光さんには珍しいことです。

「ねぇ、川口。明日あたしをそこに連れてってくれない? 相談したいことがあるんだ。十二時くらいにそっちに行くから」

 いつになく光さんが深刻そうな表情をしたので私はほとんど反射的に頷いてしまいました。

「ありがと。それじゃまた明日ね」

 光さんは改めて笑みを見せるとバッグを片手にどこかへ出かけて行きました。



 翌日の昼過ぎに私は隣室のインターホンを鳴らしました。光さんは「ふぁい?」なんて半開きの口で言いながらドアを開けます。約束の時間は三十分程前に過ぎていたのですが、光さん絶対に寝てましたね。

「あれぇ? ヒッキー……、が来るってことは、え、いま何時?」

「十二時半ですね」

「……ご、ごめんなさい! 直ぐに仕度するから」

 彼女は部屋に飛んで戻りました。かくいう私も約束の十分前に起きたばかりなのはここだけの秘密です。

「入ってお茶でも飲んでて。冷蔵庫開けていいから!」

 大抵のことは笑い飛ばしてしまう彼女の慌てた声がとても楽しくて私はつい笑顔になりました。……所長の性格の悪いところが移ったのかも知れません。表情を自然に引き締めます。

 ふむ、私の部屋と当然作りは同じですが内容はまったく違います。私の部屋は物が多いのですが光さんのどちらかと言うと何もなく殺風景です。夏だというのになぜかコタツが出たままでした。タンスの上に写真があるのに気がつきます。光さんと女の子が一人写っていました。せっかくなのでお茶をいただくことにします。冷蔵庫を開けると、雑多な食材が詰め込まれていました。なんというか光さんらしい光景です。部屋に物が少ないのは多いと散らかるからでしょうか。なぜ冷蔵庫が例外なのかはわかりませんが。私は麦茶を出してコップに注ぎ冷蔵庫を閉めました。ふぁーあ、あくびを一つします。麦茶を一口啜りコタツに足を入れてボケーとしていると光さんが出てきました。

「あ、一口頂戴」

 と言って私の麦茶を取るとぐいっと一気に飲み干してしまいました。光さん、一口が大きすぎます。

「よしっ、いこっか」

 それでいてまったく悪びれないところも光さんは素敵です。

 部屋を出て、私たちは他愛のない雑談をしながら歩きました。光さんは社交的な人ですから話題も多く私は聞き手に回ります。高校時代のバカ話などです。少し笑えないところもありましたがどちらかと言えば私がズレているのでしょう。笑顔を作っておきました。学生寮から徒歩で十分ほどのところにある雑居ビルとその看板を見て光さんは「うわ、悪魔払いってほんとに悪魔払いなんだ」と感心したような声を出します。

 私は一室のドアを開けました。いつもように所長はデスクの定位置で文庫本を広げています。

「おはようございます、所長」

「おう、さっそくで悪いが流しの掃……、客か?」

 視線を上げて所長はようやく光さんに気づきました。

「これはどうも失礼いたしました。お掛けください」

 なんて恭しく言いながら余裕のある笑みを見せて立ち上がります。

 光さんは少し緊張した面持ちでソファに座ります。私はお茶を淹れに隣の部屋に向かいました。熱いお茶は夏場には厳しいことに気づいたため冷蔵庫にボトルの緑茶を冷やしてあります。お茶菓子と一緒にテーブルに置いて所長の隣に座ります。

 所長は光さんに自己紹介を終えたところでした。光さんの目がいつもと違うことに私は気づきます。所長が比較的整った顔立ちをしているからでしょうか。光さん、騙されてはいけません。この赤山慎吾なる男は急に車を発進させて私を置き去りにしたり、私が見たいものを焦れているのが楽しいからという理由で隠したりする極悪非道なカス野郎なのです。私がその分だけしっかり所長をぶん殴っていることはさておき。

「用件を伺ってもよろしいですか」

 光さんはお茶を一息に飲み干して話始めます。私はメモを取ります。


「駅前でテントを広げている当りすぎる占い師というのを知ってますか? 黒い半袖の服を着た日焼けした男性です。火曜と水曜以外はだいたい駅前にいます。占いというよりは悩みの相談みたいなものなんですけど、あたしの友達がそれにすっかりはまっちゃったんです。最近では何をするにも彼の意見を仰ぐようになってきて、もうほとんど信者みたいで……

 あたしも彼に占って貰ったことがあるんですが、気味が悪くて一度でやめました。彼が占うのは人間関係のことばっかりで恋愛についてとか、喧嘩した友達との仲直りの方法とか相談したことに答えてくれるそうなんですが怖いくらいにそれがぴったり当てはまるんです。いまじゃ駅前に列を作ってるくらいに評判になって。

 あの子、バイト代をほとんど突っ込んで通ってて、最近やつれてきてるんですよ。ちゃんと食べてるのか心配で…… どうにかして止めさせたいんです。お願いします。協力してください」


 光さんは深く頭を下げました。所長は少し迷っているようです。所長は謎を解き明かすのは得意かもしれませんが、占いなんて信奉する人間も心理なんてまったくわからないのでしょう。解決する自信がないのかもしれません。しかし所長は基本的に悪い人間ではありません。極悪非道でこそありますが。

「……どこまで出来るかはわかりませんが、やってみましょう」

 所長は横目に私を見ました。それから直ぐに光さんに視線を戻します。川口の知り合いみたいだしな、とか考えたのかもしれません。なかなかかわいいやつです。よしよし、心の中で所長の頭を撫でます。

「ありがとうございます」

 光さんは薄っすらと涙を浮かべて微笑みました。よほど大事な友達なんだろうな、と私は思いました。私もそんな友達が欲しいものです。光さんは袖で涙を拭います。

 所長はその占い師のいる駅と光さんの友達の名前を尋ねました。駅はここからの最寄り駅で、私が田舎に帰る時に使った駅です。光さんの友達は里中恵理さんというそうです。

「帰り道、わかりますか?」

 私が尋ねると光さんは「うろ覚えかも」と言ったので私は所長を見ました。

「送ってきます」

「ああ、頼む」

 私たちは炎天下の中、再び外に出ました。


 事務所に戻り、私は緑茶をいっぱい飲み干します。ちなみにいっぱいとは一杯ではなくたくさんのいっぱいです。

「はぅ……、生き返る」

 こう炎天下の中で外に出るものではありませんね、ほんとに。

「なにやってんだ。駅まで歩くぞ。早く用意しろ」

 所長、あなたは鬼ですか?

「しかし所長、具体的にどうするんですか?」

 私は時間稼ぎに必死です。冷房の効いた所内に居た所長と違いこちらは往復二十分を歩いて戻ってきたばかりなのです。ちょっとくらい休ませてくれてもいいじゃありませんか!

「わかんねぇ。俺としては占い師のハナを明かしたいけど信者ってのがそれくらいで信仰を辞めるかどうかだな」

「所長はそういう人間の合理的でない部分については苦手そうですもんね」

 所長は「そうか?」みたいな顔をしていますが、そうです。

「しかし当りすぎる占い師ですか」

「御託はいいからさっさと行くぞ」

 あぅ…… 所長が部屋を出ます。私は渋々冷房を切って所長に続きました。鍵を掛けます。さらば冷房…… 涼しい部屋よ。

「とりあえず占い師とやらに会うか。手口がわからないことにはどうしようもないからな」

「はい!」

 そうでした。占いですよ、占い。私は占いという物がかなり好きなのです。俄然やる気が出てきました。もちろん数少ない話相手である光さんからの依頼だというのも少なからずありますが。

 私たちは駅に向けて歩きます。

「所長、所長は暑いのが平気なのですか?」

「ん、まあ寒いほうが嫌いだな」

 寒いより暑いほうが大丈夫だなんて所長は魔物か何かですか! 私はその原因に思い当たって、ふと泣きそうになりました。一般に体重の軽い人は暑さに強く寒さに弱いといいます。またその逆もしかりです。つまり所長は痩せ型でした。身長もあまり高くありませんがかなり細いです。私はというと…… いや、太ってはいませんよ? 多分。……多分ですが。

 駅に近づくと行列が見えて参りました。先頭には黄色いテントがあり、初回無料だとかいう張り紙がしてあります。

「みなさんクソ暑い中、ご苦労なことですね」

「まったくだな」

 所長の同意を得ますがいまから私たちはそのご苦労な集団に加わろうとしているのを思い出し、少し憂鬱になりました。どうみても列が空くまでには三十分は掛かりそうです。

 …………。

 十分が経ちました。

「川口、飲み物買ってきてくれ。コーヒー、そこの自販機にボトルのがあったからそれで頼む」

 所長が千円札を抜きました。

「私も何か買っていいですか?」

「ああ、好きなの買え」

 パシられるのは癪ですがそういうことならまあいいでしょう。私は千円札を受け取り列を出ました。自販機にお札を入れてボトルのお茶を買い、一気に飲み干します。ゴクゴク、ふう、美味です。次に所長のコーヒーに手を伸ばそうとして、手を止めます。お釣りは所長に返すべきでしょう。しかし所長は好きなのを買えと言いました。本数に制限はありません。私は千円ギリギリまでジュースを買います。既に自分の飲んだ分と所長のコーヒーで三百円、残り七百円を余りが最小になるように計算すると…… 百五十円のボトルのジュースが三本、百二十円の缶ジュースを二本買えば余りが十円のみと私は暗算で弾き出します。幸いバッグは持ってきています。せめてもの情けとして私は所長のコーヒーは最後に買ってやることにしました。少しでも冷えたものをという配慮です。私の優しさに所長は感涙するべきでしょう。

 所長の下に戻り、よく冷えたコーヒーを渡します。

「サンキュ、釣りはいいや。やるよ」

 私は愕然としてジュース五本の入った重いバッグを取り落としそうになりました。所長が疑問符を浮かべた間抜け面で私を見ているのがかなりムカつきますが、今回は所長に落ち度も悪意もありませんから固めた右拳は行き場を失います。私は溜め息を吐いて列に戻ろうとしました。

「お姉さん。順番抜かしちゃいけないと思うよ」

 所長の後ろに並んでいた小柄な女の子が言いました。真摯な目でした。

「あの、私は元々こいつと一緒に並んでいてですね、」

「お姉さん。順番抜かしちゃいけないと思うよ」

 私はたじろぎます。

「あの、えっと……」

「お姉さん。順番抜かしちゃいけないと思うよ」

「……すいませんでした」

 私は項垂れて列から出ました。

「って、おい。俺が占われるのか? めんどくせぇ。俺が抜けるからお前……」

「お兄さんも順番守らないの?」

「ああ、お兄さんは順番守らないんだよ。別にこいつに譲るだけだからいいだろ。お前の順番はかわらねーよ」

「じゃあお兄さんも一番後ろに行かないとダメだね」

「おいおい……」

 所長は後ろを見ました。私たちが並び始めたときよりも更に長蛇の列ができています。

「わかった。降参、大人しく並んどくよ……」

 子供は嫌いだ、と所長の目は口よりも遥かに雄弁に語っておりました。

「じゃあ私は後ろに並びますね」

 クソ暑いですがジュースも五本あることですし妥協しましょう。

「なに言ってんだ? 終わったら帰るに決まってんだろ、つーか俺が暇だからここにいろ」

 ……理不尽です。

 そして時間潰しの手段が「しりとり」というのがまた不毛です。まあ私も所長も雑談ではあまり長く会話が続かないのですが。ところで所長はなぜしりとりがそんなに強いのですか。十五分足らずで私の五連敗って…… とまあそんなこんなで所長に順番が回ってきました。テントの中へ入ります。ちなみに直前までだるさ百パーセントの空気を出していたのにテントに入る寸前で見事に表情を心底楽しみという風に一新させていました。どうやったらそこまであざやかに猫を被れるのでしょう? 中の話を聞きたいなぁと思いましたが所長の後ろに並んでいた例の女の子にジーっと見つめられて私はテントを離れざるを得ませんでした。ほんと私って小心者です……

 三分程度がとても長かったです。所長がテントから出てきました。表情が少し硬い気がして私は驚きます。所長なら占い師なんて理論武装で簡単にやっつけてしまいそうな気がしたからです。

「一旦事務所まで戻るか。流石に暑いな」

 私は頷きました。

 事務所のドアを開けて真っ先に冷房を入れます。

 所長はデスクの定位置で肘をついて顎に手を当てて何かを考えています。邪魔してはいけないかな? と少し思いましたが私は結局好奇心に負けました。

「所長、占いとはどんなものだったんですか?」

 所長は少し黙ってから「コールドリーディングって知ってるか?」と言いました。

「はい。あれですよね。誘導尋問というか、誰にでも当てはまるようなことから答えを引き出していくやつ」

 所長は頷きます。

「基本的にはあんな感じだ。けど国外の大学で心理学をばっちり学んでるっぽいんだよな…… 専門家でも手に負えんかも。ましてやそっち系に素人の俺じゃとてもじゃないけど無理だ」

 所長が完全な白旗を揚げるなんて私にとってはかなり意外なことでした。

「話を聞いただけで本人どころか周囲の人間の心理状態まで推測して組み立てるんだもんな…… いや、すげーわ。正面から崩すのは少なくとも俺には出来ない」

「じゃあ」

 諦めるのですか? と私は訊ねようとしました。

「正面から無理なら側面から行くしかないだろ。被害者……、って言い方が正しいのかわからんが、そっちを当たろう」

 諦めるはずがありませんでした。所長とは負けを認めた上でなお勝ちに行くタイプの人間です。負けず嫌いともいいます。

「しかしまあいきなり俺たちが行っても警戒されるだけだろう。依頼人の光って人、あの人に動いて貰うか」

 所長はいくつか尋ねて欲しいことのリストを挙げて事務所のパソコンから光さんにメールで渡しました。二時間ほどしてメールが返ってきましたが結果は芳しくありませんでした。

 恵理さんはほぼ聞く耳持たずで「彼は正しい」とだけ言って光さんを追い返したそうです。

「なんだか信仰宗教の信者みたいですね」

 所長は少し苦い顔をします。宗教に何か嫌な思い出でもあるのでしょうか?

「悪魔払い探偵事務所でそれを言うのもどうかと思うが、まあそうだな。つっても言ってる内容が正しい分だけ間違いを突きつけられないからそれよりよっぽど厄介だが。しかし思考の放棄ねぇ。他人の言いなりに生きて何が楽しいんだか」

「……所長、少し思ったんですが」

「なんだ?」

 光さんの友達はそんなに間違っているのでしょうか? 自分で考えずに他人に判断を委ねるのは本当に正しくないのですか? 所長がそれを間違いだと言うのは所長が強い人間だからではないでしょうか? 弱いことはそんなに悪いことですか?

「……いえ、なんでもありません」

 しかしそんなことを言えるはずもありません。自分の弱さを認め、露呈することができるほど私は強くないのです。

「……? まあいい。先ずは他の信者で実験してみるか。動くのは明日の朝からだな」



 ちょっとコンビ二まで出かけるところでばったり光さんと会いました。

「やあ、川口」

 光さんはいつも通り快活な笑みを見せます。友達に一方的に追い返されて辛いでしょうに、強い人だなぁと私は思います。

「どうも」

 私も笑みを作ります。

「コンビ二? 一緒にいこっか」

「はい、行きましょう」

 光さんは財布しか持っていない私の軽装を見てそう判断したようです。断じて三枚千円のTシャツを見て判断したのではないと主張します。

「そういえば恵理さんはどういう人なんですか?」

「んーとね、まあ性格はよくないかな」

 随分はっきりと…… いえ、光さんは元々そういう物言いをする人です。

「かわいいんだけどね、性格のせいで男でよく失敗してたんだ。いまの彼とはあの占い師さんのお陰で結構続いてるんだけど、あたしには苦しそうに見えるの。自分を抑えて占い師の言う事に合わせてるみたいで。恋愛ってもっと自由で楽しいものだと思わない? きっと自然体のあの子を受け入れてくれる人もいるんだよ。だからあんな歪な形で無理矢理続けるのは、あたしはよくないと思う」

 光さんの口調がどこか自分に言い聞かせているように聞こえて私は違和感を覚えました。きっと気のせいでしょう。

 コンビ二に入り私はATMでお金を引き降ろします。そうそう、仕送りが復活しました。しかし悪魔払い探偵事務所の仕事を私が続けているのは辞めると切り出すのが面倒だからでしょうか? 朝は寝て昼は寝て夜は寝る生活への誘惑は相変わらずですが、多少なりとも真人間への道を踏み出せたんじゃないかなぁと私は思います。

 少しばかりの甘いものを買って帰ります。光さんはお酒をかなり買っていました。「これからちょっと飲みにこない?」なんて誘われますが、申し訳ないことに私はお酒が飲めないので遠慮させていただきます。 ……よい子のみなさん、二十歳未満の人間はお酒を口にしてはいけませんよ? 悪い子のみなさんは止めようがありませんからせめて自己責任でお願いします。

 帰り道。ふと言葉に詰まります。私は切り出しました。

「光さん、その恵理さんという方に会いたいのですが」

「……わかった。あ、丁度いいや。明日テニスのサークルやるからあたしと一緒に来なよ」

 テ、テニス? この天性の運痴である私に今更スポーツですと!?

「それじゃねー」

 光さんは早々に部屋に戻ってしまいました。私は愕然として立ち尽くします。

 やがて気を取り直した私はとりあえず部屋に入り携帯電話で所長に連絡を入れました。明日、恵理さんと会う旨を伝えると「探偵事務所のことはまだ言うな」とだけ指示されます。実を言うと私は「まだ時期尚早だ。行くな」とか言ってくれることを期待していました。うう…… 自分の運痴ぶりをどうしても披露しなえればならないようです。


 大学に行く朝というのはいつも足取りが重いものですがその日はいつにもまして全身が倦怠感を訴えてきました。しかも昨日は起こしに行くまで起きなかった光さんが約束の五分も前に「かわぐちー、いこー」なんてドアを忙しなく叩いて私を急かしています。私はなるべく動きやすそうな服装を選びました。ドアを開けます。

「やっ」

 朝日と光さんの笑顔が眩しいです。

「んんっ? なんだか暗いよ、川口」

「大丈夫です」

 光さんは楽しそうです。テニス、というかこの人は体を動かすのが好きなんだろうと思います。大学まではほど近いです。学生寮なので当然といえば当然ですが。

 普段授業のある建物のほうを見ました。夏休みなので誰もいません。私はこのまま大学なんて無くなればいいのにと思ってしまいます。誰も知り合いがいない授業で、あの疎外感を受けることもないでしょう。光さんとは学科も学年も違いますから、授業が重なることはほぼありませんし、もし重なっても彼女は他の友達と一緒にいることでしょう。

「どうしたの?」

「いえ、なんでもありません」

 ……いけません。今日の私はなんだかナーバスです。頑張って切り替えようと思います。

 テニスコートにはパーン、パーンと小気味のいい音が響いていました。ボールが対角線を引いて相手側のコートを抜けて行きます。相手の打つ方向を予測してのダッシュ、体重移動、振り抜かれる腕、力の篭った視線。

なんというか、あざやかです。私は思わず目を奪われます。

「活動は週に一回、ゆるいサークルだね。特に実戦的なことをやってるわけでもなくて、大学で場所だけ借りてる感じ。初心者歓迎ダヨ」

 へぇ…… じゃあ、ありません。普通に見とれてどうするんですか、私。調査の一環としてここに来てるのに!

「恵理さんはどちらですか?」

「えっと、恵理は…… いたいた、あの子だよ」

 光さんが指を差したのはコートの隅の方で打っている人でした。あまり上手ではないらしく何回かに一度はボールが見当違いの方向へ飛んでいきます。すごいのは相手の人しょう。その見当違いの球をほとんどさばいて相手のコートに戻します。

「恵理の相手が恵里の彼氏で、近藤さん。このサークルで一番上手な人かな。ちなみに二番目はあたし」

 言ってることは結構傲慢なのにそう聞こえないのは光さんの才能でしょう。

「じゃ、ちょっとやってみよっか」

 光さんは「やっほー」なんて大声でいいながら入っていって「あの子は?」「知り合い。運痴だけどスポーツに興味あってテニスしてみたいんだって」と紹介しながらこちらにラケットを放ります。

「……やっぱりやるのですね」

 私は小声で呟きました。

「テニスは初めてかい?」

 大柄な男性が尋ねてきます。

「えっと、はい」

「興味あるんだってね。うちは初心者歓迎だから、楽しんでくれると嬉しいかな」

 男性はボールを渡してくれました。

「はい、ありがとうございます」

 コートに入って光さんと向かい合います。

「……えっと、」

 私は軽くボールを上に放りますが、打てる気がしなかったので一度キャッチして下から当てました。ボールは力なくネットに当たって転がります。

「……ごめんなさい」

「ギャハハッ! まあ川口のことだからそんなことじゃないかなあと思ってたけど」

 光さんは腹を抱えて笑い転げていました。いっそ清々しいくらいに。高校時代に運痴振りを笑われたことがあります。その場は気を使う振りをして授業が終わり、私が更衣室を出たあと私に聞こえないだろうと思われている場所で笑われていました。光さんが正しいとはまったく思いませんが、あのとき私は少し泣きました。今は泣く気にならないことを考えると私にはこのほうがいいのかもしれません。

「こら春日井、笑いすぎだ」

 さっきの大柄な男性が光さんを小突きます。「ちょ、待って、まだ苦しい……」なんて言いながらコートの隅まで運ばれます。光さん、たしかに笑いすぎです。大柄な男性がこちらに近づいてきます。表情は微妙に険しいです。

「ごめんな、あいつはあんなやつだから気にしないでくれ」

「……はい。でもあれが光さんの魅力ですから」

 ニッと私たちは笑みを浮かべました。男性は木谷さんと名乗ります。なんだかいい人そうです。

「基本から教えてもいいかい?」

「是非、お願いします」

 ラケットの握り方から教わります。意外としっかり握らなくともいいんだそうです。私はひたすらがっちり握り締めていました。手首を動かさないように固定して、ラケットは腰の辺りで地面と平行になるように。何度か素振りをします。

「じゃ一回打ってみようか」

 ボールを渡されます。パン、っと軽い音がしてボールはギリギリネットを越えました。

「おぉ、さっきよりは断然いい感じです」

「だろうね」

 苦笑されます。私も苦笑します。

「次はバックハンドだけど、これは両手でやったほうがいいかな」

 ふむふむ、やり方は普通に打つのとあまり変わらないのですがどうしても窮屈さがあります。それでも打ったボールはきちんと相手コートに届きました。

「軽くラリーしてみようか」と木谷さんはいい向こう側のコートに立ちました。私が打ちやすいように山なりのボールが飛んできます。ボールをよく見て私はそれを打ち返しました。大ホームランでした。

「……あはははは」

「気にしないで。続けるよ」

 木谷さんはもう一球山なりのボールを打ちます。さっきホームランしたのは、多分ラケットが地面と平行になっていなかったからでしょう。えっと、肘と手首を固定して、えいっ。相手側のコートにボールが落ちます。木谷さんは既にそちらに回りこんでいました。私の手元にボールが帰ってきます。私は平行を意識してまたボールを打ちます。ボールはコートに落ちました。木谷さんがそれを拾います。……なんだか楽しくなってきました。

 と、言っても私は本命があくまで調査であることを忘れていません。横目で時々恵理さんの方を確認します。光さんが相手の男性に声を掛けて、でも結局日陰に戻るのが見えました。なんて言ったのでしょう? あとで訊く事にします。「わっ」気を取られていたらミスしてしまいました。ボールは跳躍をやめ、こちら側のコートを転がります。

「すいません」

「いや、誰でも始めはそんなもんだよ」

 三十分ほどそんなことを続けただけで足も腕もまったく動かなくなってしまいました。高校の時の体育の授業というやつはあれでも意外と大事だったんだなぁ、と気づかされます。十二時頃になって「休憩しようぜー」と誰かが言いました。私も日陰にお邪魔します。人口密度が上げるとやはり緊張しますが仕事で来ているんだと言い聞かせて逃げ出したくなるのを堪えます。

「川口さんはこのサークル入るの?」

 木谷さんが話し掛けてきます。

「え、っと」ほんとは入る気なんてさらさらないのですが「まだ考え中です」と言っておきます。

「そっか。うち人数少ないからね。もう少しメンバーが増えたらいいんだけど」

 木谷さんの横目が恵理さんと近藤さんのほうに移りました。

「光が辞めちゃったら終わりだろうなぁ」

 呟くように言ったのを私は聞き逃しませんでした。

「光さんが辞める?」

「ん、ああ、元々彼女は向上心が強いとこがあるだろ? だから近藤とよく打ってたんだけど、あ、近藤はあっちでやってるうちで一番上手いやつ、近藤のほうが最近里中に付きっ切りだからな。彼女なりに不満に思うところはあると思うんだ」

 とするとさっきも自分と打つように言っていたのでしょうか。私は依頼の背景が少し窺えた気がしました。しかし冷静に考えてみると、光さんが恵理さんと近藤さんの仲を引き裂くために依頼なんてしたわけじゃないか、と自分の考えを恥じいります。私は他の人と話している光さんが私たちの会話が聞こえない位置にいることを確認してから小声で言いました。

「で、木谷さんは光さんが好きなんですか?」

 ぶっ、お茶を口に含んでいた木谷さんは吹きだします。

注目が集まりますがなんでもない、少し噎せただけと木谷さんは言い訳をしました。

「なぁ、俺そんなにわかりやすい?」

 木谷さんは小声で返してきます。半分、というか四分の三くらいはかまかけだったのですがここまで見事に掛かるとは思いませんでした。

「はい」

 ですがここは格好をつけて全てお見通しという風に言っておきましょう。

 それから休憩終わりに後半もテニスをやるかお昼を食べに行くか、という話になってみんなでお昼を食べに行きました。学校の近くにある定食屋さんです。私は急に運動をしたせいか胃が物を受け付けませんでした。みんなよく入るものです。スポーツをやっている人はすごいなぁと私は思います。食べ終わってしばらくはダベっていましたがそこで解散となりました。私は光さんと学生寮に戻ろうとしましたが、光さんは一人大学の方へと帰って行きます。

「?」

 私は不審に思ってあとをつけました。

 光さんは一人で大学の壁に向かってボールをぶつけていました。

「……」

 光さんはきっともう少し練習したいのでしょう。きっと週に一回では物足らないのだと思います。私は壁当ての様子をしばらくみていました。

「川口さん?」

 後ろから名前を呼ばれて私はびっくりして肩を震わせます。

「こんなとこで何して……」

 言い掛けたところで木谷さんも光さんを見つけました。私は良いことを思いつきます。思い切り木谷さんの背中を(物理的に)押しました。驚いて光さんが振り向きました。

「えっ、タニッチ? は、恥ずかしいとこ見られたな……」

「あ、いや、その……」

 木谷さん、そこは押すところです。なんて私は自分だと絶対できないことに他人行儀な声援を送ります。

「試合、やらないか?」

 木谷さんが言いました。

「……うん、やろう!」

 光さんらしい気持ちの良い返事でした。その辺りで私は学生寮に向けて歩き出しました。


「おはようございます」

 翌日にドアを開けると所長は行儀の悪いことにデスクの上に仰向けに寝転がって手足を投げ出していました。頭が端からはみ出していて逆さまの顔がこちらを見ています。

「しょ、所長?」

「おう、川口」

 何をしてたのでしょう? というかそれはともかくとして。

「所長、私だったからよかったものの今のを依頼人とかに見られたら確実に逃げられますよ」

「気をつけとく」

 所長は上体を起こしてこちらに向き直り後ろ髪をポリポリと掻きます。

「で、何をしてたんですか?」

「シナリオを考えてた」

 よくわからない返答です。

「正しくないものに正しい答えを突き付けるならともかく、正しいものに間違ってる答えを突き付けるのってスゲーむずいんだわ」

 ……?

「ま、実験してみるがちゃんと釣れるかねぇ」

 所長の携帯電話が鳴ります。着歌ではなく初期設定のままらしい野暮ったい音でした。メールのようです。

「出かけるぞ」

「その前に、テニスの件の報告をしてもいいですか?」

「歩きながらな」

 所長はそれを聞いても「ふーん」としか言いませんでした。光さんの周囲のことはさほど重要とは考えていないのでしょうか?

「所長、占い師のところに行くのですか?」

「なんか占い師って呼び方いやだな……」

 悪魔払い探偵事務所の所長が占い師を否定しますか。如何わしさからすれば断然悪魔払いのほうが上だと思うのですが。

 まあそんなことは比較的どうでもいいでしょう。

 所長が駅近くのファミレスに入ったので私もそれに続きます。大学と違って高校や中学の夏休みはもう終わっているのであまり賑やかではありません。所長はコーヒーを注文します。私は長居するのか尋ねて所長が頷いたのでドリンクバーを頼みました。「自腹な」「!?」「冗談だ」私はぶん殴ろうとした手をなんとか止めました。ここでぶん殴ればほんとに自腹を切らされかねません。所長がコーヒーを、私がオレンジジュースを啜っているとそのうち一人の大学生らしき男性が所長の前に座りました。

「で、今日も居たか」

「ばっちり、いま並んでるよ。あと三十分もすれば終わると思う」

 所長は私に内緒で恵理さんに接触していたのでしょうか。所長は彼に一万円札を握らせます。大学生風は席を立ちました。店から出ていきます。

「所長、いまのは?」

「バイト、必要だから雇った。古本屋で立ち読みしてた如何にも暇そうだったやつ」

 寝飽きて暇な日を古本屋で立ち読みして過ごすことが多々あった私には耳の痛い言葉です。

「あと二十分で出るぞ」

 所長が言い、私はそれに合わせて何回かおかわりしたドリンクを空にしました。会計を済ませて外に出ます。

 例の占い師の行列は前よりも幾らか減っていました。といっても少なくはありません。初めの一回は無料だからという理由で興味本位に来ていた客が減ったんだろうなと私は推測します。

「興味本位の客が減ったんだろうな」

 所長が呟きます。なんだか勝った気分になりました。あとは不気味に思ったか、という続きが私には聞こえませんでした。

「なににやついてんだ?」

「なんでもありません」

 気持ちわりーなー、なんて声が聞こえた気がしたので私は所長をぶん殴ります。なんだか久々な気がします。ああ、所長ときたらなんと殴り心地のいい生き物でのでしょうか。

「……お、あれだ」

 よろけながら所長が言います。前のほうに並ぶ女性を気づかれないように指差します。

「恵理さん、ではありませんよね?」

「ああ、別の『信者』だ。バイトに探させた。今日含めて三日連続でここに来てるらしい」

「三日って、光さんが依頼に来た日にもうバイトを雇っていたんですか?」

「なに言ってんだ? 俺らが並んでたときに五つ前にいただろ。バイト雇ったのは次の日だ」

 そんな人間いちいち覚えているはずがありません…… 所長は変態ですか。

 女性がテントに入ります。

「出てきたら声掛けるぞ。あとこれ。話、合わせろよ」

 所長は名刺を抜きました。悪魔払い探偵事務所…… ではなくどこかの大学の名前が印刷されています。

「しょ、所長!?」

「話を訊き易くするための方便だ」

 それでもこれは身分詐称というかいわゆる詐欺では……、あ、女性がテントから出てきました。所長が近づいて声を掛けます。名刺を見せると確かに幾分警戒心が薄れたのが見て取れました。

「あの方の力について興味があります。あれは本当にすばらしい」

 などと所長は言いました。

 私は少し所長の天職は詐欺師なのではないかと思います。

 人当たりのいい笑顔と同性である私を連れているのでナンパと思われなかったのでしょうか、女性はあっさりとファミリーレストランまで付いてきました。先ほどとは別の店です。適当に注文します。私はドリアを頼みました。

 所長と彼女は占い師について褒めちぎる言葉を交わしました。そのうち彼女のほうから自分がどういった相談をしたのか話始めます。主にいま付き合っている男性のことらしいです。占い師の言うとおりにすれば彼が喜んでくれるだとかそんなことを話していました。モグモグ。

その辺で唐突に所長は言います。

「ところであれはインチキですよ」

 相手の女性はポカンとしました。今まで全肯定していた相手が突然全否定に回ったのですから当然です。私は表情を変えそうになりますが我慢します。というか所長、私にも何をやるかくらい教えておいてください! 一瞬喉に米が詰まりかけました。

「実はあなたが占いに嵌っていることを快く思っていない友人方の依頼で、少しあなたとあの占い師のことを調べさせていただきました。申し訳ありません。あ、依頼人のことは訊かないでください。匿名で、とのことですので」

 彼女は呆気に取られたのか一言も発することができません。

「あの占い師が火曜と水曜にあの場所にいないことをご存知ですか? その二日間別の場所で占いをやっているんです。あなたの彼はそちらの常連なんです。あなたも、あなたの彼も占い師の言う事に従って行動していた。言うとおりになるのも当然です。これが当たりすぎる占いの正体ですよ。その証拠に一度目は無料で当たり障りのない部分だけ。本格的なことを言い出したのは二度目からでしょう? 彼にはあなたのことを知る時間があった。ホットリーディングと言いまして、相手のことを事前に調査してさも言い当てたように振舞う。占い師の常套手段です」

 女性は青ざめて携帯電話を取り出そうとしています。所長はここぞとばかりに追い討ちをかけます。私はドリアを食べます。

「彼や占い師を問い詰めても無駄だと思いますよ。彼は誰かの指示であなたと付き合っていたなんて知られたくはないでしょうし、占い師は対処に慣れているでしょうから何を言っても無駄です。しらばっくれて終わりでしょう」

「でも、彼のこと以外も占い師さんの言う通りにすれば上手くいきました」

 所長は首を横に振りました。

「どんなことを相談しました? 友人のこと? 仕事のこと? そんなものはホットリーディングと常識的な回答を弁えていればなんとでも言えます。うまくいったのはあなた自身の力です」

 そこで所長は優しい声を出しました。

「あの占い師はあなたを騙しています。しかしあなたの彼はそうではありません。彼はあなたと幸せに過ごしたいからこそ占い師を頼ったのでしょう。そのお互いを思い合う気持ちさえあればあなた方はもうあんな物に頼らずとも幸せになれると思いますよ」

 少し俯いていた彼女が顔を上げました。救われたような表情です。私は心臓の辺りに鈍い痛みを覚えます。私たちはいま彼女を騙しているのです。私はドリアを食べ終わりました。海老が美味でした。

「あなたの彼にも占い師のインチキを説明しようと思います。しかしあなたの名前は出しません。占い師のところへ通うように仕向けていたとだけ告げます。あなたはまだ占い師の元に通っていなかった。そして二度と行かない。いいですか?」

 彼女は頷きました。

「僕の話はこれで終わりです。お代は持ちますよ。それでは」

 所長は伝票を取ってレストランを出ました。歩きながら所長に尋ねます。

「所長、いまの話はどれくらい嘘なんですか」

「ほぼ全部、あいつはホットリーディングなんか使ってないし、あの人の彼氏とも接触してないだろうな。あ、火曜と水曜は駅前にいないとこはほんとか」

 あっさりと所長は答えました。私はドン引きします。

「しかし大筋しか通ってないな。行列になるほど大勢の人間を全部調べるにはバックにもっと大勢の人間がついてないと不可能だ。雰囲気で飲んだがあの人もその内気づくかもな」

 所長が長い髪を掻きます。鎖のついた二本のロザリオが揺れました。

「……所長、もうやめませんか?」

「は?」

「さっきの女の人はこれからどうなると思いますか? 所長が余計なことをして占い師の言葉をなくしたばっかりに彼と別れてしまうかもしれません。それはきっと彼女にとって幸せなことじゃないでしょう」

「まあな」

「ならもうやめましょう。人を不幸にして所長は楽しいですか?」

「おいおい、お前が持ってきた仕事だろうが」

 私は所長の顔をよく見ました。所長は目を逸らしません。

「だいたいフラれたならいまの状態がおかしかったんだろ? いつかバレて破綻するなら終わっといた方が傷が軽いんじゃないか。そもそも俺は他人の力に縋って生きようってところが、気に食わんがな」

 それでも。例え正しくなくても。

「……いえ、所長にはきっとわからないでしょうね」

 みんなあなたほど強くはないのですよ、所長。

「ああ、わかんねーな。お前もう帰って寝てろよ」

 まだ四時頃でしたが私は言うとおりにしました。所長がかなり苛立っているのがわかったからです。なかなか表情の読み取れない所長には珍しいことでした。


 私はどこか人任せでした。これといって自分で行動しようとしたことはありません。

 誰かがやってくれる。どうせ自分と関係ないところで決まる。いつもそう思っていたし、またそれはほとんど事実でした。実際に誰かがやってくれたし、私と関係のないところでいろんなことが決まっていたのです。

人任せな生き方というのがそんなに間違っていると私は思いません。私を含め多くの人たちはなんとなく流されて生きています。

「うー……」

 自分がアホなのだなと私は改めて思いました。難しいことを考えながらでは眠ることができません。コンビ二で甘いものでも買えばよかったのですが、今日はそれもしていませんでした。

 ……光さんは近藤さんのことが好きで、恵理さんと近藤さんが別れればいいと思って悪魔払い探偵事務所を訪ねたのでしょうか? 恵理さんは性格が悪いらしいですから、占い師の助力がなければ別れることは十分ありえそうです。私はどうするべきなのでしょう? もし光さんがそういう目的を持って悪魔払い探偵事務所を訪ねたのならば私は光さんを糾弾するべきだと思います。しかし単純に占い師の言いなりを止めさせたい光さんの善意で、という考えも否定する根拠はまったくありません。

 ……………。

 光さん、私はあなたをいい人だと信じています。


 ぐー、ぐー。


 ……知らないうちに眠っていました。私は翌朝を迎えます。まったく私というのは随分都合のいい人間です。いつものようにシャワーを浴びて歯を磨き、Tシャツを着てジーンズを履いて、簡単にご飯を食べてへたな化粧をします。

 十分の道のりを歩いて探偵事務所に行きました。

「おはようございます」

「おう」

 所長はいつものように文庫本を片手にしていました。気だるそうな動作です。

「所長、今日はどこにもいかないのですか?」

「ああ、終わったからな」

 どういう意味でしょう? まさか所長のクセに依頼を投げ出した?

「里中恵理はもう今日限り占い師のところにはいかないだろうよ」

「へ? 所長、どんな手を打ったんですか」

「言わない」

「ぶん殴りますよ」

「めちゃめちゃかっこ悪い手を使ったから言いたくないんだよ。少なくてもお前が反対してた例のでっち上げは使ってないから安心しろ」

 ……気になりますが、まあよしとしましょう。

「とにかく、依頼達成だ。よくやった」

 い、いきなりなんでしょう。所長が私によくやっただなんて。

「飯でも食いにいくか、そのあとは今日はもう上がっていいぞ」

「時給が減るじゃありませんか」

 我ながら現金な女です。

「ちゃんと出してやるっての」

 所長は比較的笑顔ですがどこかぎこちない気がしました。里中恵理が占い師のところに行かないように打った手というのは所長自身そうとう気に食わないものだったのでしょう。胸の内にもやもやしたものは残りますがぶん殴るのは我慢します。

 所長と二人でファミリーレストランに入ります。そういえば前回は仕事ということであまり意識していませんでしたが、男性とデート的なことをするのはほぼ初めてだと思います。注文を終えて私は向かいあった所長の顔を一度よくみました。やはり整った顔立ちです。目元まである前髪がそれを隠しているのが気に食いません。

「所長」

「あ?」

「結局のところ所長っていい人なんですか? 悪い人なんですか?」

 所長はテーブルに肘をついたまま黙りました。

 料理が運ばれてきます。前回で味を占めた海老が美味なドリアです。店員さんがテーブルを去ります。

「……いい人だよ」

 所長は言います。私は頷きました。

「何笑ってんだ気持ち悪い」

「乙女の笑顔を気持ち悪いとはなんですか。ぶん殴りますよ」

 結局いつもの調子になってしまいます。

 私は所長がどこか寂しい人間のような気がしていました。もしかしたら光さんにも同じ物を感じているのかもしれません。優秀なだけにどこか他人と打ち解けられない。本当の自分を明かせない。だからこちらから一歩踏み込もうとしたのですが、避けられてしまいました。しかしです。所長の性格上、自分は悪い人間だと言うと私は思っていました。ですが所長は自分をいい人間だと言いました。半歩分距離が縮まった気がします。少しずつ距離を縮めて、いつか不思議だなんて言わずに所長のことをちゃんとわかってあげられたらなと私は思います。

「お前…… よく食うな」

 私は所長をぶん殴りました。

 ほとんど喧嘩しながらファミレスを出て、所長は探偵事務所、私は学生寮に歩き出します。

 時刻は夕暮れ。夕焼けがキレイだけど少し眩しかったので私は振り返りました。決して所長の後ろ姿を追ったからではありません。所長は誰かとすれ違ったところでした。所長の伸びっぱなしの髪の毛が揺れました。

「……え?」

 グラリ、と、体ごと。

私は駆け寄ります。歩道に倒れそうになった所長の体を支えると驚くほど力が入っていなくて私にはとても重く感じられました。腕の下に液体の感触があります。

 所長!

 声を出そうと思いましたが声帯が掠れて音になりませんでした。液体の感触が胴まで到達します。三枚で千円の安いTシャツが真っ赤に濡れていました。所長の脇腹には深々とナイフが突き刺さっていました。


 そこからどうなったのか自分ではよく覚えていません。気づいたら私は病院の長椅子に腰掛けていました。隣に誰か座っていますが顔を上げる気力なんてありませんでした。

「どうかそのままお聞きください」

 隣の誰かは言いました。私は項垂れたまま頷きます。

「僕は遠藤と申します。職業は占い師です。わりとよく当たると評判なんですよ。ま、そのせいでこんなことになったんですがね。彼を刺したのは僕の信者でしょう」

「……」

「彼は助かりますよ。心配しないでください。必ず助かります。いいですか。僕の言うこれは気休めです。しかし彼は必ず助かります」

「……ほん、とうに?」

「根拠はまったくありません。たかが占いですから。しかし必ず助かります。先ずはそう信じてください。それがいまのあなたには必要です」

「……わかり、ました」

「いいことを教えます。彼が里中恵理に僕の占いをやめさせるようにと使った方法です。呆気に取られるほど簡単ですよ。彼は僕に頼んだんです。僕が占わないと彼女は占って貰えませんからね。里中さんは僕に依存していました。そのせいで大切な友人との仲が悪化するかもしれなかった。友人の方には里中さんを助けようとした以外の意図はありませんよ。里中さんにとってその友人はとても大事な位置にいる方です。それを僕が壊しかけた。僕は彼に感謝しなければなりませんね。あなたから伝えておいてください。僕はもうこの街から出ますので。よろしくお願いします。それでは」

 私は顔を上げました。そこには誰もいませんでした。どこまでも純白な羽が一枚だけ落ちていました。所長の治療室から灯りが消えました。ストレッチャーが引っ張り出されます。もう心配ありません。と医者が言いました。

「天使……?」

 白い羽はもうどこかに消えていました。




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