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ニートな私の初仕事

 私が悪魔払い探偵事務所なる怪しげな看板の掛かった雑居ビルの一室を訪れたのは、事態がのっぴきならない状況に陥ってからのことでした。といっても私は依頼人としてそこを訪れた訳ではありません。私がもし依頼人だったなら人間性の壊滅しているあの赤山慎吾に依頼などしないでしょう。

 私が悪魔払い探偵事務所を知ったのは大学一回生の夏休みのことでした。夏休み、といっても私は大学生と名のついたニートでありましたので休みもそうでない日にも大差はありません。あえていうならば大学に行かなければならないという心理的圧迫感がないくらいでしょうか。ええ、私はニートでした。私のニートっぷりときたらそれはもう完全無欠なまでにニートでした。

 少し私の話をさせていただきますと、私は大学に入学して以来、女子寮に一人暮らしをしていて親元を離れています。そのためにわざわざ偏差値のほどほどに高い都会の学校に入学したと言っても過言ではありません。全ては自堕落のためです。私は口うるさい親元を離れ、朝は寝て昼は寝て夜は寝る生活を確保するためだけに都会の大学を受けたのです。そのときの私の執念たるやそれはもう凄まじいものでした。私は至って普通の学力の一高校生に過ぎませんでしたから、それは容易なことではありませんでした。しかし大学に受かりさえすればもうこちらのものです。私は気が向いた時にだけ大学に向かい適当にご飯を作り食べお風呂に入りあとの時間はほとんど眠りました。勿論、学期末に行われるテストの大半はボロボロでしたがそんなことは私にとってさほど重要ではありません。私にとって重要なことは何よりこの怠惰な楽園を維持することです。

 しかし夏休みが始まって少し経ち、私の楽園は崩壊を余儀なくされました。

 私がそれに気づいたのはコンビニエンスストアに出向いた時です。学生寮からほど近い場所にあるそこは冷房が効いていてそこそこの賑わいを見せています。私は人の視線から隠れるようにして歩き、ATMの前に立ちました。八月分の仕送りを受け取ろうとしたのです。いくつかのボタンを操作し、カードを通すとそこに表示された金額は五千百二十円でした。

 ……what? 私はもう一度残高を確認します。一、十、百、千…… やはり液晶画面に表示される金額は五千百二十円です。私は一度コンビニを出て日影に入りました。ポケットから携帯電話を取り出して登録件数の少ないアドレス帳を開きます。母の携帯電話に掛けましたが、その電話番号はすでに使われていませんでした。登録していない実家の番号をゆっくり思い出します。うろ覚えの番号を打ち込んで掛けてみると「もしもし」電話に出たのは母でした。番号を間違えて知らない人が出たらどうしようと少なからず思っていた私は安堵の息を吐きながら仕送りのことを訊ねました。私が思っていたよりも悪い状況であることがわかりました。私はただ母がうっかり口座のお金を振り込むのを忘れているんだろう、程度に考えていたのです。

 母の話によると、父が会社をクビになったそうです。こんな時期に? と少し思いました。母は私にもアルバイトをしてお金を稼いで欲しいと言います。私は浦島太郎に出てくる亀の気分になりました。急に陸に打ち上げられて、果たしてどうすればいいのでしょう。私は生まれてこの方、労働に勤しんだことがありません。気儘な一人暮らしの分際で私は最小限の消費だけで生活し、仕送りだけで月を過ごしてきたのです。当たり前に私は困惑します。とりあえず五千百二十円を引き出した私は日陰を出て学生寮に戻り、思案します。問題が問題なので父母に頼れません。頼れるとすれば…… 母方の叔父でしょうか。

 叔父はいわゆる独身貴族というやつで私よりも更に偏差値の高い雲の上の大学を出ています。有名な企業の役員をしていて経済的な余裕があり、外見からも内面からもよい年の取り方をしています。面倒見のいい人物で幼い頃はよく一緒に遊んで貰ったものでした。

 そんな素敵でお金持ちな叔父様ですから、私が彼を頼ったのは経済的な援助をしてくれないかなあ、とか都合のいいことを期待してのことでした。……世の中というモノがそんなに都合のいいモノであるはずがありません。

「そうか。よし、わかった。丁度知り合いが働き手を捜していてな。紹介するよ。夕方あたりにそっちに行くから」

 ……違うのです、叔父様。私は働きたくなどないのです。この退屈な引きこもりライフをどこまでも維持し続けたいだけなのです。

 しかしそんな人間失格な宣言をなぜ叔父のような立派な人間に向かって謳い上げることが出来るでしょうか。私は今日の夕方は用事があって…… と急場凌ぎの嘘をつきましたが、「大丈夫、そんなものはない」となぜか叔父は断言します。意味不明です…… そのまま電話は切れてしまいました。こうなると叔父は必ず来ます。私は焦ります。時刻は三時二十一分、夕方というからには六時から七時頃に叔父はやってくるとみてまず間違いありません。大事なことなので二回言います。

 叔父は必ず来ます。

 叔父は自分に厳格な人ですから一度引き受けたことを理由もなく投げ出すようなことは絶対にしません。私はため息を吐き、出かける準備をしておくことにしました。冷蔵庫を開けて冷やした水道水をコップに入れて飲み干します。お昼ご飯を食べていなかったので冷凍していた炊いてあるお米をレンジに入れて野菜庫から玉葱と人参、それにキャベツの残りを出して適当に炒め醤油その他で味を調えました。皿に盛った辺りでレンジが音を鳴らしたので茶碗に移してラップを掛けなおしもう一度温めます。冷凍してあるものは一度では中まで温まらないのです。野菜炒めを摘み食いしていると今度こそ温め終わったのでラップを外し、中央にくぼみを作って卵を落としました。醤油を入れて混ぜます。正しい三分クッキングでした。もぐもぐ、ごくん。……最近これしか食べていないような気がします。

 これからすべきことを考えると、……部屋の整理でしょうか。服や下着がわりと散乱しています。いかに叔父とはいえ男性に見せられるものではありません。洗濯機に捻じ込みます。

 それから、あれをして、これをして。

 とやっているうちに三時間などあっという間に経過してしまいました。私がへたくそな化粧を終えたあたりでベルがなります。「開いています」と私が言うと控えめにドアが開きました。

「やあ、久しぶりだな」

 清々しい笑みです。私には眩しいくらいに。

「叔父さんはお変わりないようですね」

「なに、そろそろ四十だからね。あちこちガタがきはじめているよ」

 とてもじゃありませんがそんな風には見えません。

「行こうか、用意は出来てるかな?」

「はい」

 私は反射的に答えてしまいました。叔父の言葉にはどこか有無を言わせない響きがあります。学生寮を出て叔父の乗ってきた車に乗り込みます。私には車種のわからない古い車からは煙草の匂いがしました。

「歩いていける距離なんだが、これから少し用事があってね。済まない」

「お気になさらず」

 叔父は私に小さい地図を渡して車を出しました。私の学生寮から目的地までの道はそう複雑ではないのに、私に読みやすいように丁寧に言葉で道筋が解説されています。男女では地図の読み方が違うというのを考慮してでしょうか。叔父は本当に有能な人間です。

 叔父の車は一軒の雑居ビルの前で止まりました。「悪魔払い探偵事務所」と怪しげな看板が掛かっていて私は首を傾げます。

「ここですか?」

 叔父はコクリと頷きます。私たちは車を降りました。

「僕はこれから用事があるんだけど、一人で帰れるかい? 無理そうなら、仕事を早めに切り上げて迎えにくるけど」

「いただいたこれがあればなんとかなりそうです」

 叔父は優しく微笑み、「がんばれ」と一言だけ言い残すと再び車に乗り込み去って行きました。

 ……さて、超逃げたいです。

 しかしここで私が帰ってしまっては叔父の面目は丸潰れでしょう。叔父はあの通り優しい方ですから、表立って私を糾弾することはありえませんが、叔父の機嫌を損ねるような要因を作りたくはありません。なんだかんだいって私は叔父のことが好きなのです。ビルを見上げます。一階は車庫で二階が事務所のようです。三階から上は空き部屋なのでしょうか? 私は勇気を出して雑居ビルの階段を登りました。ドアの前で深呼吸をします。すうー、はあー、よし。ドアを二度、ノックします。「どーぞ」と平坦な声が返ってしました。ドアを開くとその先にあったのは、……私が想像していた「悪魔払い」とは無縁の実用的な光景でした。

 そう狭くない空間の手前側にソファーが向かい合わせに二つ並んでいて小さなテーブルを囲んでいます。それらは見かけにそこそこ高価そうなことがわかるのですが薄く埃が積もっていました。窓は一つだけ。壁は白。左手側にはトイレが。右手側にはもう一室あるようです。そして奥には本棚と、パソコンを置いたデスクが一つあり男性が一人、行儀悪く座っていました。

 男性は目元に少し掛かっている長い髪を払いながら文庫本を読んでいたのですが、私を一瞥すると舌打ちを一つしてそれをデスクに置きました。なんというか、多大に失礼な人です。もし私が叔父の紹介などでなくここに来たのだとしたら間違いなく傍にあったテーブルを彼にぶん投げていたでしょう。男は私にソファーに座るように促しますが私は立ったままでいいと答えました。言うまでもなくソファーに埃が積もっていたからです。男は無表情で「あんたが川口さん?」とだるそうに言いました。「はい」と私は緊張した声で答えます。

「ふーん……」

 男は書類らしき物に目を落としたあとに私に視線を移しました。あまりにもじっと見つめてくるものですから私は思わず目を逸らしてしまいます。男が立ち上がります。長い髪が揺れて少しだけ見えた顔立ちは悪くないものでした。むしろ整っていると言っていい部類です。腕には鎖のついた三本のロザリオが提げられていて私はここが悪魔払い探偵事務所であることを思い出します。どうでもいいことですが男の背丈はあまり高くありません。

男は自分がこの悪魔払い探偵事務所の所長であることと、他に従業員が存在しないこと。名前が赤山慎吾であることを明かしました。赤山……? その名前がどこかで引っかかりましたが私には思い出すことが出来ませんでした。まあどうせいつかのテレビニュースで同じ名前を見た程度でしょう。私の部屋にはテレビがないので実家にいたころということになりますが。

 促すような目で見られて私は緊張しながら自己紹介をしました。私は自分が何を喋ったのか覚えていません。なにせ社会不適合者に片足を突っ込んだような生き方をしてきたものですから何を話していいのかわからずにしどろもどろになってしまいました。赤山慎吾はなんだか興味なさ気な顔をしています。沈黙が辛いです。私はなんだか真っ白になりながら訊ねました。

「あの、悪魔って本当にいるのですか?」

 それはある程度好奇心から出た発言だったのでしょう。

 私は星占いが好きでしたし、神話関連の読み物なども好きでした。無論、その実在を信じられるほど私は無垢でも純粋でもありません。しかし一方で天使や悪魔とは「いたらいいのにな」と一条の希望を射す存在でもあったのです。ですので私はこの胡散臭い探偵事務所の看板を見たときもわずかながら心を躍らせていたのです。

「は? 悪魔なんかいるわけねーだろ」

 赤山慎吾のそれは失笑でした。なにいってんだこいつバッカじゃねーの臭を隠そうともしない物言いでした。堪忍袋の緒が切れました。コツコツと足音を鳴らして私は赤山慎吾に近づきます。

「……なんだ?」

 私は赤山慎吾をぶん殴りました。

 床で呆けている赤山慎吾に背を向けて私は事務所を飛び出します。階段を駆け下りて、日差しのきつい雑居ビルの前で座り込みました。

「やってしまった……」

 膝を抱えて一分ほど座り込み、私は叔父から貰った地図を頼りに学生寮に戻りました。

 叔父になんて言い訳すればいいでしょう? 私は生来短気な性格なのですが叔父はそれを知りません。否、叔父のような立派な人にそれを知られたくはありません。滅多にならない私の携帯電話が鳴ったのは、うあー、と一人唸っていた時でしたので私は床から三センチほど飛び上がりました。液晶画面に映るのは知らない番号です。私は恐る恐る電話に出ました。

「お前さ、初対面の人を殴り飛ばしてはいけませんとか親に教わらなかったわけ?」

「っ……」

 その声は赤山慎吾のものでした。叔父から番号を聞いていたのでしょう。

「まあいいや、用件だけ伝えておく。働く気があるなら明日の午後一時から事務所にきてくれ。以上」

 ぷつん、と通話が切れました。……どうしましょう。いえ、考えるまでもない気がします。他に面接を受けるのも面倒ですし、そもそも社会不適合者に片足を突っ込んだ私のようなものを雇ってくれるとも思いません。

 ともかくその日、私は眠れない夜を過ごしました。



 私は鏡という物が非常に嫌いです。ああ、あの銀の皮膜に映る自分の顔を何度呪ったことでしょう。鏡よ鏡よ鏡さん、なぜ私は世界で一番美しくないのでしょうか。もしも私が美しければ私はこんなに自信をなくしてびくびくと引きこもることもなく、堂々と町へ出て男を引っ掛け、思う存分逆ヒモ生活を楽しむことが出来たでしょうに。悪魔払い探偵事務所などという如何わしい職場で働かずとも朝は寝て昼は寝て夜は寝る生活を延々と繰り返すことが出来たでしょうに。

 無論そんなモノが単なる妄想の産物であることなど私は承知しています。美人には美人なりの悩みがあるのでしょう。不美人の権化たる私に言わせれば贅沢な悩みが。

「はあ」

 時刻は十二時三十三分、私は口元に出来た大きなニキビと格闘し、ついに勝利することを諦めました。外に出ると夕方と違って日差しが強く辟易します。半ば無意識に口元に手をやります。昨日は焦っていたのかあまり気にならなかったのですが、赤いそれを撫でて私はもう一度ため息を吐きます。アスファルトが照り返す熱気に私は挫けそうになります。ええ、元々根性なしの引きこもりですから。それでもどうにか例の雑居ビルに到達することが出来ました。

「よう」

 赤山慎吾(以下所長と呼ぶことにします。)は文庫本から視線を上げて片手を挙げました。私はこんにちはと言おうかおはようございますと言おうか悩んでいる間に所長の視線は文庫本に戻ってしまいました。私という生き物はなぜこうもグズなのでしょう。

「あ、仕事の説明しないとな」

 思い出したように所長が顔を上げます。

「所長」

「ん?」

「こんにちは」

 所長は少し不思議そうな顔をした後に「おう、こんにちは」と笑みを見せてくれました。……意外にいい人なのかもしれません。

「仕事の説明だけど、依頼があったときはまた別で指示だがとりあえずは掃除頼むわ、用具は左の……、そっち視点だと右の部屋にあるから」

 ……言ったきり自分は文庫本に戻ってしまいました。私は右の部屋を開けました。狭いですが流し台とコンロがあります。あまり使われていないらしくお湯の満ちたポットと傍らのインスタントのコーヒー豆以外には何もありませんでした。よくみるとあちこちが薄く黴ています。掃除用具はどこでしょう?

「ああ」

 私より少し高い位置に棚がありました。ここでしょう。手を伸ばします。なかなか開きません。「んんっ」少し力をこめると「ひゃあ!?」開いたことは開いたのですが同時に雑巾やタオルなどの山が頭の上に降り注ぎました。

「どーしたー?」

 間延びした声が隣室から聞こえます。なんとなく悔しかったので私は「なんでもありません!」と怒鳴り返しました。

 私は掃除します。手始めにソファーとテーブルをピカピカに磨き上げました。私はキレイ好きな人間でしたので掃除そのものは特に苦ではありませんでした。Gも出ませんでした。しかしです。私はあまり心の広い人間ではありません。所長は「あ、終わった? なら次は床なー」などと手伝いもせずに私の淹れたコーヒーを不思議そうな顔をして啜っています。文庫本を片手に偉そうなことを吐かされるのはどうも気に食いません。彼は雇い主ですのでそれくらいは我慢すべきでしょう。私が悪魔払い探偵事務所に勤めだして三日経ち、室内は概ねピカピカと呼べるようになりました。そんなときに彼は言いました。

「ついでだから台所もやっといてー」

 ……台所は二日目に終えています。目線すら上げずに言った言葉でした。私はいままでの自分の働きが全て無意味だったような感覚に囚われました。

「所長、台所は既に終えています」

「んー、なんか言ったか?」

 私は所長をぶん殴りました。

 ついに掴み合いの喧嘩にまで発展してします。といっても所長は腕っ節の方はさほど強くないらしく私が一方的にボコボコにするのみです。事務所のドアが開いたのはそんなときでした。

「「……あ」」

 私たちは二人揃ってそんな間の抜けた声を出し、「……」依頼人はゆっくりと音を立てないようにドアを閉めました。

「川口、捕まえろ!」

「え? えっと?」

「ああ、もう!」

 所長は私の襟首を離す(所長に襟首を掴まれたまま私がボコっていた)とドアから飛び出していって女の子を半ば強引に捕獲してソファーに座らせました。自分はその向かいに座ります。所長の目線を受けて私はマニュアルを思い出し、お茶を汲みに行きます。安物のパックのお茶の葉を陶器製のコップに出してお湯をいれます。いい色になったので抜いて盆に載せ、買い置きのお菓子を添えました。ちなみにお茶菓子もお茶の葉も私が買ってきた物です。私がいなければ客人にお茶をお出しすることもできなかったでしょう。まったく恐ろしいことです。

 応接間のテーブルに戻りお茶とお菓子を彼女の前に置いて所長の隣に座りました。私は彼女を見ます。彼女は同姓の私からしてもかわいらしい外見をしていました。肩のはだけたシャツを着ていますが、上には薄いベストを羽織り、下はジーンズで下品でない色香に留まっています。セミロングの黒髪は少しも痛んだところがなく彼女の穏やかそうな顔立ちにとてもよく似合っていました。

 彼女はお茶を一口啜り、一息つくとここを訊ねてきた理由をゆっくりと話し始めました。


「私は桜美坂高校の三年の宮部優子といいます。バレーボール部に所属していてレギュラー。だけど他の部員とは仲がいいほうだと思います。……両親は共働きですが家族仲はよくて晩御飯は揃って食べます」

 そこで少し言い淀んだのが気になりました。

「私がここを訪れる切っ掛けとなった出来事が起こったのは一昨日のことです。何かが私の部屋に入ったようなのです。何か盗られた訳ではありません。ですが私の日記が見られた形跡があったのです。最初は母かと思い、母を問い詰めたのですが、母は知らないといいます。母は嘘をつくのが苦手な人間ですから言い逃れをするのも変だなと思って、ふと気づいたんです。私の部屋には鍵が掛かるようになっているんです。そして私は帰宅して鍵を開けました。勘違いではありません。私は日記を親に見られたくないため習慣として鍵を閉めるんです。そして私は部活を終えて帰宅し確かに部屋の鍵を開けたんです。鍵は私が持っているだけで合鍵はありません。わかりますか? 誰かは扉をすり抜けて部屋に入ったとしか思えないんです。

 これが私がこの悪魔払い探偵事務所を訪ねた理由です」


 というようなことを彼女は言いました。私はなるべく要点を纏めて彼女の発言を記録します。小・中学校では生徒会で書記を務めていたのでこの手の作業は苦手ではありません。

 しかし日記を見られた形跡というのはどういうものでしょう? ページの捲れ? 汚れ? 折れ目? どれも微妙な物です。彼女の勘違いではないか、というのが第一印象でした。

「とにかく、一度部屋を見せていただいてもよろしいですか?」

 彼女は頷きました。

 一階の車庫が開きました。所長は車の運転が出来るようです。現れたのは叔父のそれよりも更に古そうな物です。彼女は自転車でしたので後部座席に無理矢理積み込みます。かなり強引に見えましたが、やってやれないことはないんだなぁと私は感心しました。彼女を助手席に乗せます。

「いってらっしゃいませ」

「は? なに言ってんだ? あんたも行くに決まってるだろ」

「は、え? きゃあああ」

 私は自転車の積まれた後部座席に放り込まれました。……せ、狭いです。そのまま車は走り出します。揺れと同時に頬に車輪が当たります。私は依頼人と別れたら先ず所長をぶん殴ってやろうと決意しました。ところで私は叔父の車がそうだったように古い車というのは煙草の匂いがするものだと思っていたのですが、所長の車が例外なのか私の考えが偏見なのか、煙草の匂いはしませんでした。

 彼女の家は車で三十分程行ったところにありました。自転車で来るのは大変だったでしょう。途中に花屋があってそこに明るい髪の女性が水をやっています。道中で私は今の桜美坂について彼女に訊ねます。何を隠そう私も桜美坂の出なのです。彼女の受け答えは微妙にぎこちなかった気がしました。到着し、私は自転車を引っ張り出します。依頼人はともかく所長すら手伝ってくれません。絶対ぶん殴ってやります。

「……ふう」

 彼女の家は一戸建てでセンスのいい外観をしております。きっとお金持ちなんだろうなと思わせる迫力があります。彼女が先に入り、事情を説明し、所長がそれに続きました。私は家の前で待つことに「ぐえ」所長に服を引っ掴まれて引き摺り込まれました。

 家に入ると彼女の母親らしき人物に「お世話を掛けます」と頭を下げられました。母親もきれいな黒髪をしています。遺伝なのでしょう。まったく羨ましい限りです。

「こっちです」

 二階にある彼女の部屋に案内されました。年頃の女の子らしくベッドにぬいぐるみなどが飾ってあります。勉強机には教科書が開いたままになっていました。数学でしょうか。私も高二から高三に掛けての数学には苦戦したものです。

「その日記というのは?」

 彼女は勉強机の左側の引き出しを幾つかの手順を踏んで開けました。複雑な手順で私などでは一度見ただけでは再現することはできないでしょう。ちなみに彼女はこれをデ○ノートを読んで思いついたそうです。

「手順を踏まずに開けるとどうなるのですか?」

「警報が鳴ります」

 簡潔で明瞭な答えでした。しかしそれでは誰も家にいない時間にはほぼ無防備ということです。

「ふーん……」

 所長は突然床に座り込んで唸ります。私は所長の右手が彼女から死角となっている机の陰で何かを握りこんだのを見逃しませんでした。手がポケットに一瞬だけ消えました。

 立ち上がって、所長は言います。

「これからあなたに幾つか質問をします。出来るだけ正直に答えていただけると助かります。答えたくないものは答えたくないで構いません」

 彼女は頷きました。所長の質問と彼女の回答は以下のようなものでした。

「現在お付き合いしている方はいますか?」

「いいえ」

「誰かに恨まれるような記憶はありますか?」

「いいえ。しかし断言は出来ません。意識せずに恨みを買ったことはないとは言い切れません」

「金縛りにあったことはありますか?」

「いいえ」

「この部屋の鍵を失くしたことはありますか?」

「いいえ」

「鍵を見せていただけますか?」

「はい。どうぞ」

「どうも。お返しします。この鍵を二、三日使わなかったことはありますか?」

「はい。お盆休みの間は使いませんでした」

「最近古いアクセサリーなどを買ったりしませんでしたか?」

「いいえ」

「もしよければ日記を見せていただけますか?」

「ごめんなさい。あれは誰にも見せる訳にはいかないんです」

「そうですか。いえ、失礼しました。それからこれはあまり関係ないのですが、警察には連絡していないのですか?」

「はい。警察と関わったことが受験に影響したりするといけないからと、父が」

「質問は以上です。お手数かけさせて申し訳ないです」

 彼女は迷うような表情を見せました。

「私はいま混乱しています。鍵をすり抜けるなんてことが人に出来るとは思いませんが、冷静に考えてみれば人以外が私の日記なんてものに興味を持つでしょうか。それに私は元々幽霊や悪魔の存在には懐疑的です。

 人の仕業なのか、それともそれ以外の仕業なのか、半ば勢いであなた方『悪魔払い探偵事務所』に依頼しましたが人以外の仕業というのも考え辛いです。きちんと教えていただけますか? これは人がやったことなのでしょうか、それとも人以外がやったことなのでしょうか?」

 アホ所長は困った顔をしてポリポリと頭を掻きました。

「実の所、僕にもよくわからないのですよ」

 一拍置いて所長は続けます。

「もしかしたら人外かもしれません。そうだとしたら使い魔というやつです。これは力が弱くて気配が薄い。少なくともあなたが室内にいる内は人外が入ってくるようなことはないでしょう。ですからとりあえずいまはご自宅を留守にしないほうがいいと思います。なに。二、三日の辛抱です。週が変わるまでには僕が終わらせてさしあげますよ」

 所長は私には一度も見せなかった感じのいい笑顔を作ります。私たちが部屋を出るのを追おうとした彼女に「ここで結構です、いまはなるべく部屋を留守にしないことを心掛けてください」と言い、部屋を出ました。一階に降りて彼女の母親に少し質問をします。所長が訊いたのは「誰がどの時間に家にいるか」です。八時に父親が仕事に、十時に母親がパートに、一時に彼女が部活に出て家が空になり、午後の四時に母親、六時に彼女、八時から九時に父親が帰宅するそうです。何に使うのかは知りませんが一家揃った写真を借りられるか? と訊ね、彼女の母親は快く庭で撮ったらしき三人で映っている写真を貸してくれました。礼を言って家を出ます。所長は私を乗せずに車を出しました。「しょ、所長!?」私の悲鳴などものともせずにバンパーが遠ざかります。なんの冗談でしょう……? 私は小動物の如く首を振って自体の把握に努めます。……理解不能でした。

 私が途方に暮れ始めた辺りで所長が徒歩で戻って参りました。とりあえず一発殴ることにします。あ、行きの件でもう一発追加しなければならないことを忘れていました。「もう、お前、解雇……」切れ切れに何か言いましたが私には全然まったく聞こえません。

 所長は彼女の家の隣のベルを鳴らしました。

「?」

 意図が読めません。ともかく出てきたのは人の良さそうなお婆さんでした。所長も人の良さそうな笑みを浮かべてお婆さんと話していますが…… って、よくよく考えればなぜその笑みは私に一度も向かないのですか! あんな嘘くさい笑みなど向けられたい訳ではありませんが。

 所長が戻ってきます。

「何を話していたのですか?」

「世間話、と一昨日騒音が無かったか」

 ……彼女の部屋のベルことですか。

「あったってさ」

 言いながら歩きます。少し遠い位置に車が路上駐車していました。

「えーっと?」

「家の前にいつまでも停めてたら目立つだろ」

 ……理に叶ってはいますが私を置き去りにする意味はあったのでしょうか。

 今度はきちんと助手席に乗り込みました。フロントガラスに町並みが映ります。きちんと舗装された美しい道路です。自転車に詰め込まれてよく見えていませんでしたがこの辺りは高級住宅街のようです。

「……共働きなんだよな」

 何気なく所長が呟きました。

「彼女の両親のことですか?」

「ああ、見たところ経済的な余裕はありそうだろ? なんで奥さんも働いてるんだろうな」

 言われてみればなるほどそうかも知れません。私は視線を上げました。考え事をする時の癖です。しかし結局「働きたいからじゃないですかね」という平凡な答えしか思いつきませんでした。

「働きたいから?」

「はい。うちも共働きなのですが、家でじっとしているのが性に合わないんだ、って母が言ってました」

 所長は下唇と顎に手を当てて黙ります。なんというか格好をつけた仕草ですが所長がやると堂に入って見えるのが、ムカつきました。

「そういうもんか」

 所長は顎から手を離しました。

「先ず高校のバレー部から当たってみたいんだが、お前、卒業生だよな?」

「そうですが…… ちなみになぜバレー部からなんですか?」

「依頼人が疑ってたから。気づかなかったか? 彼女、バレー部と親のことは話したが自分のクラスのことは話さなかったぜ」

「あ……」

「人間が何か始めるには切っ掛けが必要なことが多い。切っ掛けがなきゃ心の中でゴーサインが切れないんだ。友達と一緒に道を歩いてて向かいからきた自転車が通り過ぎると同時に話しかけたりとか、あるだろ?」

「つまり」

「バレー部か親の関連で何かあったんじゃないか、ってこと」

 どうやら所長は性格のほうはともかく頭の切れる人ではあるようです。

「じゃ、お前行ってこい」

「へ?」

「桜美坂のバレー部でいろいろ訊いてこい。後輩とか顧問とか、ツテを辿れば親しいやつくらいいるだろ。なるべく被害者の依頼だってバレないようにな。あと、」

「無理です……」

「大丈夫、出来る!」

 叔父と同じ事を言わないでください……

「あの、やらないんじゃなくて、出来ないんです」

「あ? なんでだ?」

「高校時代の私には友達と呼べるような相手はほとんどいなかったんです…… 先生からも見捨てられて、こっちの大学入った時はめちゃめちゃ驚かれました」

 車内を気まずい沈黙が冷やします。

「……その、なんというか、すまん」

「せめて謝らないでください! めちゃくちゃ惨めです」

 私は所長をぶん殴りましたが放った拳には力が入っていませんでした。


 事務所に戻ると所長は分厚いタウンページを引っ張り出しました。私は右にある狭い台所に入りコーヒーを淹れます。ミルクも砂糖も入れています。カップを手に応接間に戻り所長の隣に置きます。所長は半分だけ目線を上げて「サンキュ」といいました。捲る手は止まっていませんがもう片方がコーヒーに伸びます。「ん」不思議そうな顔をするのがかなりムカつきました。

「……うん」

 幾つかの住所を書き出して所長はタウンページを閉じました。

「行くぞ」

「はい」

 人使いが荒いのはいまに始まったことではないので黙って従う事にします。私と所長は車に乗り込みます。

「あ」

 ふと思い出したことを訊いてみようと思いました。

「所長、彼女の部屋で所長が何かを拾ったと思うんですがあれは何をしたんですか」

「へえ、よく見てたな」

 所長はポケットをひっくり返しました。

「これは……、髪の毛ですか?」

 それは女性のものらしい長い茶色の髪の毛でした。こんな小さなものをよく見つけたものです。彼女は黒髪ですので彼女のものではありえず、また母親のものでもありません。つまりはこの髪の持ち主が犯人なのでしょうか? それは少々短慮かとも思いますが。

「十中八九、これの持ち主が犯人だろう」

 あれ?

「しかし所長、彼女は高校生です。茶髪の友人の一人や二人は居ても当然ではないでしょうか」

「いいや」

 所長があくびをします。

「彼女は日記のことについてはひどく神経質だった。部屋に鍵かけてその上にまだロックしてるんだぜ? 友達を部屋に呼んで、もしトイレに行きたくなったら? 何か用事で一階から親に呼ばれたら? 実際本人の留守中にそんなことをする人間はまあいない。だが疑心暗鬼は増大するんだ。万に一つの可能性は本人にとっては百パーセント起こることなのさ」

 その言葉にはなんだか説得力がありました。けれど説得力なんてものは適当な理屈と自信に満ちた口調を組み合わせただけで生産できることを私は知っているのです。年頃の少女が友達を家に誘うのはそんなに理屈をつけて否定するようなことでしょうか?

 所長は住所と地図を照らし合わせながらゆっくり進んでいきます。

私はこの人はきっと切れすぎるんだろうなぁと思います。しかし人間のクズです。この世の全ては確かに理屈で作られています。ですがその理屈の大半は私たちに理解できないものであることを彼は知りません。

「……」

 私は益々この所長が嫌いになりました。

「どうした?」

「いえ、何も」

 そのうち所長は車を止めました。そこには一軒の古い鍵屋がありました。所長は古いドアを開けて初老くらいの店主に訊ねます。

「こちらは盆に店を開けていましたか?」

 いいや、店主は答えました。そうですか、失礼しました。あっさりと所長は頭を下げて引き下がります。

 それから数件同じことを繰り返したので省略します。盆に店を開けていたと答えた者には何かを見せました。所長は私がそれを覗き込む前に仕舞ってしまうので私はそれをきちんと見ることが出来ません。

「どうして私には見せてくれないのですか?」

「お前が焦れてるのがおもしろいから」

 私は所長をぶん殴りました。

 次の鍵屋で所長は手掛かりを掴みました。突然所長が泣き落としに掛かったので私は何かと思います。所長は恋人の形見が盗まれたとか人情を刺激するようなことを適当に吹いて店主から所長が当たりをつけたらしい人物がその鍵屋を訪れたらしいことを聞き出してしまいました。

「所長、所長は探偵なのに格好よくないですね」

「あとは茶髪の女のことか。学校ってのは調べ難いんだよなぁ」

 所長はあっさりと私の皮肉を無視します。

「どっかの誰かに高校時代の後輩だか友達だかがいれば手っ取り早かったんだが」

 ……無視ではありませんでした。ただそれ以上に有効な皮肉を吐いてきました。口喧嘩では分が悪いとみた私は所長をぶん殴りました。

「っ…… お前なぁ」

「所長は、なぜあきらかに儲からない探偵事務所などやっているのですか?」

 所長は溜め息を吐きました。所長はそこそこに律儀な性格ですから自分の言いたいことよりも相手の問いに対する回答を優先することを私は予想していました。ふっふっふ。

「俺は金持ちなんだよ」

「なんですと?」

 貧乏人のサガでしょうか。金持ちを見ると無条件でムカついてしまいます。

「別に働く必要がないから、なんか特殊なことやろうと思ったわけ。それが探偵」

 なんだか私は強烈な違和感を抱きました。特殊、という言葉に過剰反応したのかもしれません。私は凡人です。いや、下の方には飛び抜けているかもしれません。上を見ることにどこかで諦めてしまった人間です。

「……」

「いまあるカードだけで、勝負してみるか」

 所長が公園の脇に車を止めた頃には夕刻を過ぎていました。陽射しも柔らかくなり、冷房の効いた車内からでたばかりの私たちを心地いい熱気が温めます。

 待ち伏せするために、私達は公園のベンチで落ちかけた太陽の真っ赤な輝きを見つめていました。相手が所長でなければ吊り橋効果に近い心情で恋に落ちてしまいそうな光景です。何故か故意に落とす、という漢字が浮かんできて昼ドラにありそうな崖から人間を突き落とす場面が連想されました。そのほうが所長に似合っていたからです。顔を隠して少し笑います。

「……ひまだな」

「……ひまですね」

 五分が経ちました。

「来ませんね、所長」

「ああ、来ないな」

 十分が経ちました。

「えいっ」

「わっ、お前、何を、やめ、」

「よいではないか、よいではないか」

「いいわけ、ある、か、あっ……」

「……所長、いまの『あっ』、すごく気持ち悪いです」

「……すまん。いま深刻に自己嫌悪してたところだ」

 三十分経過。

「ゲームでもしましょうか」

「思い立つのが随分遅かったな」

 お互いに一から順に数字を数えていき三十を言ったほうが負け。一度に言える数字は三つまで、というゲームをしました。

 私からだったので「一」と言いました。実はこれで勝ちなんですよね、このゲーム。というのも相手に三十を言わせるためには二十九を取る必要があり二十九を取るためには二十五を取る必要があります。二十五を取るためには……、とこれを繰り返していくと五を取るために一を取ったほうが勝つのです。

「二十九」

 と私は言います。

「三十、俺の負けだな」

 まだまだ勝負はこれから、という顔です。

 ちなみにこれから私が十三回勝って所長はようやくこのカラクリに気づきました。というのも所長は法則を理解していませんから適当な数字を言うため、私が数字をズラしても最終的に私が勝つように調整できるのです。所長がようやく法則を理解した時、私は腹を抱えてゲラゲラと下品に所長を笑いました。逆だったら私は所長をぶん殴っていたでしょう。しかし私は私などに謀られて悔しげな所長の顔を見るのが楽しくて仕方がありません。

 一時間が経ち、待ち人がやって参りました。所長が悔しそうな表情を押し殺して彼の前に立ちます。私も笑みを噛み殺しました。思い出し笑いしそうになるのを必死に堪えます。最低でも所長から見えないように一歩半ほど斜め後ろに立ちました。

「初めまして、宮部一雄さん。僕たちは娘さんに雇われた探偵事務所の者です。少しお時間を頂けますか?」

「ああ、あなた方が…… 構いませんが十分以内にして頂きたい」

 所長が目をつけたのは彼女の父親でした。私はふと時計を見ます。八時丁度でした。

「はっきり言って、一雄さん。娘さんの日記を見たのはあなただと僕は考えています」

「私が?」

「はい。僕が引っ掛かったのはあなたが娘さんに『警察に関わったことが受験に影響したりするといけない』と言ったことです。別に娘さんが何か悪いことをした訳ではないのですから幾分穿ちすぎではないか、と考えました。そして娘さんの部屋に入るにはどう考えても合鍵が必要になります。彼女が鍵を手放した可能性があるのは部活動がなかった盆休みだけです。厳密に言えば部活動の最中などは彼女の目の届かない場所にあるでしょうが、合鍵を作るまでに彼女が手元にないことに気づかないはずがないのでこちらは除外します」

「こんなことは言いたくありませんが、私とほぼ同じ条件の家内はどうなのですか」

「娘さんは『母は嘘が得意ではない』と言いました。僕はその言葉を信じます」

「……わかりました。私は娘の部屋になど入っていませんがお話をお聞きします」

「そうです。あなたは確かに娘さんの部屋には入っていない」

「……」

 ほんのわずかな時間です。一拍置いた所長の顔つきがなぜか私の目には悪魔のように映りました。私がまばたきをしたら消えていたのできっとそれは気のせいだっただったのでしょう。所長が言葉を続けます。

「あなたにとって誤算だったのは鍵の複製に時間が掛かったことでしょう。僕が見たところあの鍵は少し特殊でした。インターネットで調べた程度の知識しかないあなたには鍵の複製は直ぐに終わるものだと思っていた。ですが実際は複製には丸一日ほどかかった。盆の休みは明けてしまい、あなたは娘さんの部屋に入り損ねた。盆以外は? あなたは朝早くから出勤し夜は八時から九時になって帰宅するどちらの時間にも娘さんかあなたの奥さんが家にいることになります。

 ともかくあなたは合鍵を作りました。理由はやはり日記を見たったからでしょうか。それともあなた自身が誰かに依頼されたからかもしれませんが僕はその可能性は高くないと考えています。

 いずれにしろ僕には詳しい事情はわかりません。

 同僚の娘と比べて大人し過ぎる娘さんが親に隠れて何かやっているのではないかと不安に思ったのかも知れませんし、あなたがたまの休みに援助交際している茶髪の女と歩いている所を目撃されたのかも知れない。勿論まったく違う理由からかも知れません。

 これはあくまでも推測です。気を悪くしないでください」

「……」

「あなたは合鍵と家の鍵を茶髪の女に預けて日記の中身を報せるように幾らかのお金を渡しました。茶髪の女はおそらく携帯電話かデジタルカメラに日記の内容を写してプリントしたのでしょう。あなたはそれを受け取った。これだとあなた自身が部屋に入らずとも日記の中身を知ることができる」

「……確かにあなたの推測にはある程度の筋が通っているように聞こえます。しかし、」

「証拠ですか? この写真、とある鍵屋に見せたら確かに盆休みの内にここに来たと証言してくれましたが」

 一雄さんは目を瞑りました。鍵屋を利用したのはどこか別の場所の鍵を複製するためであると言おうとしているのかも知れませんが、もしもそれを主張するにはこの間は不自然です。一分程沈黙します。やがて一雄さんは言いました。

「はい。合鍵を作ったのは私です」

「好奇心から訊ねますが、その理由はなんですか?」

「あなたに答えることはできません」

「そうですか。失礼しました」

「娘に謝ろうと思います」

「いえ、その必要はありません。あなたは即刻合鍵を処分してください。それ以外のことは何もしないでくださいそれが最善の解決策です」

「どうしてですか?」

「数日の内にわかると思います。それが内の事務所のやり方なのです。ただしあなたがもし合鍵を処分しなかった場合、僕たちはあらゆる手段を用いてあなたを破滅させます。必ず破滅させます。いいですか。必ずです。肝に銘じて置いてください」

「わかりました」

 所長は「それでは僕たちはこれで失礼します」と言って彼に背を向けました。

「一つだけよろしいですか?」

 一雄さんが言います。

「あなたのお名前は?」

 所長が振り返ります。

「赤山慎吾といいます」

「赤山さん、あの子は母親に似ました。疑り深い癖に嘘が苦手なのです」

「知っています」

 所長はなぜか笑みを見せました。今度こそ歩き出し、私たちは車に戻ります。私はふと腕時計を見ました。八時十分丁度を指していました。



「……所長」

 私は事務所に戻る車の中で言いました。

「なぜ宮部一雄を優子さんに謝罪させなかったのですか? 私には理解できません」

「嫌なんだよ」と所長は言います。

「見合う以上の報復を人は望むだろ。俺にはそれが嫌なんだ」

 やはり私には何がなんだかよくわかりません。ともかく私たちは事務所に戻りました。所長は私が淹れたコーヒーを一口啜って不思議そうな顔をしたあとに「帰っていいぞ。今日の分は残業代だしとく」と言いました。私は頷いて、暗い路地を歩きます。なんだかモヤモヤした感情が渦を巻いていました。帰り道にあるコンビ二によって甘いものを買いました。甘いものを食べながらイライラするのは難しいと言います。外に出て何気なく夜空を見上げると、欠け具合からか半分はキレイなのに半分は不気味な色をした月が私を見下ろしていました。半身は天使で半身は悪魔の得体の知れない何かが微笑んでいるように見えました。私は学生寮に戻ると買ってきた甘いものを食べ、お風呂に入って歯を磨くと直ぐに眠りました。夢は見ませんでした。私は睡眠時間が長い方ですがアルバイトに時間を割いているせいでこのところ少し疲れていたのかもしれません。深く、心地いい眠りでした。

 翌朝、十時頃に目を覚ましました。寝汗を少しかいていたのでシャワーを浴びて一緒に歯を磨きます。体を拭いて下着をつけました。朝とはいえ夏は暑いものです。出勤はもう少し先なので無料ゲームでもしようかと思い、携帯電話を開くとメールが来ています。どうせ広告か何かだろうなと思いつつも中身のわからないものというのは気になってしまいます。メールボックスを開くと差出人にはアホ所長とありました。内容は「起きたらなるべく早く事務所にこい」でした。絵文字のない簡潔なメールです。しぶしぶ私はいつも着ている三枚千円で投売りされていた服を着て簡単に化粧をし、学生寮を出ました。舗装されたアスファルトが照り返す陽射しには少なからずうんざりします。私は免許を取る気のない人間ですから道路とか土でいいのにとか思ってしまします。たった十分の道のりが遠いです。

 探偵事務所についた頃には薄く汗が滲んでおりました。軽くふき取りながらドアを開けます。所長はデスクに突っ伏してグースカと眠っておりました。顔は見えません。私は所長をぶん殴りました。炎天下の中に人を呼び出しておいて勝手な男です。上体を起こして所長は私を睨みます。

「もうちょいさ、起こし方とか他にないのか……?」

「ありません」

 所長は呆れたのか諦めたのか、ため息を吐いたあとに「宮部優子に会うぞ」と言いました。車に乗って片道三十分の道を行きます。所長の車はクーラーが効き始めるのが遅いです。

 この時間は彼女の両親が働きに出ていて彼女しか居ません。私たちは三十分の間、ほぼ無言でした。ただ所長は彼女の家の前まできた時に「余計なことは言うなよ」とだけ釘をさしてきました。私は頷きます。ベルを鳴らすと彼女が出ました。事前に連絡をいれていたのか驚いた様子はありません。

「こんにちは」

「どうも、こんにちは」

 彼女に迎えられて私たちは二階にある彼女の部屋に向かいます。

 所長はそこで「あなたの部屋に入ったのは悪魔の類だったようです。ご安心ください。もうここに現れることはありません」と言いました。は? と私は思いますが表情には出さないように努めます。優子さんは怪訝そうな顔をします。

「あなたが最初に仰ったように悪魔がやったなど疑わしいとあなたは考えるでしょう。なのでお代は結構です」

「ちょっと待ってください」

 優子さんが大きな声を出しました。

「私の部屋に入ったのは父ではないのですか?」

「はい。僕たちは人間に対しては出来うる限りの調査をしましたが、その可能性はありません」

 所長のポーカーフェイスは見事なものでした。私は脇に立っているだけなのでなんとか誤魔化せますが、面と向かって問われたら隠し切る自信がありません。

 所長は「鍵をすり抜けることは人間にはできませんよ」などを自信に満ちた口調で言い、説得力を生産します。彼女はまだ疑っているようでしたが、所長の説得は強く少しづつ表情を和らげていきます。

「万に一つにも同じ被害に遭わないためにこのロザリオをお持ちください。きっとあなたを守ってくれます」

 所長は鎖のついたロザリオを一つ外し、彼女に握らせました。

「……」

 彼女は手の中のそれをじっと見つめて首を一度、縦に振りました。

「っと、忘れるところでした。これをお母様に返しておいていただけますか?」

 所長は写真をバックから取り出し彼女に渡します。裏面に結婚記念日とあり、裏面に書かれたその日付は今日から一週間後でした。

 帰りの車の中で私はふと考えます。

 所長がもし彼女に父親がやったことを打ち明ければ彼女は憎しみのままに父親の浮気が書かれているかもしれない日記の中身を暴露するかもしれません。穏やかそうに見えた彼女の家庭は崩壊するかもしれません。全ては悪魔の仕業だった。所長がそれを払った。それで丸く収まったのでしょうか? 彼女の父親は罰を受ける必要はなかったのでしょうか?

 不意に車が止まりました。

「所長?」

「別に俺としては来る気はなかったんだが、お前がすっきりしなさそうだからな」

 道路の端に車を停めて所長は降りました。私もそれに釣られます。花屋?

「こんにちは、キレイな花ですね」

 店先で水をやっていた女の人に声を掛けます。

「ありがとうございます。みんないい子達ですよ」

 その女性は明るい茶髪でした。

 この人が? 私は反射的に思います。

「あれ、そういえばあなた…… この間、宮部さんと歩いてませんでしたか?」

 率直な切り出しでした。

「ええ、花言葉のことを訊かれまして」

「……花言葉?」

「はい。店先で幾つかお話したのですが、もっと詳しいことを訊きたいと仰られたのでそこの喫茶店で。なんでも奥様にプレゼントする品らしいですよ」

「しかし、いくら内密にことを進めたいからって、娘さんが気づいていないか確かめるためだけに部屋に無断侵入するのはやりすぎだと思いますよ。既婚者を相手に下心を出すのもよくないですねー」

「え……?」

 私は唖然とします。女性も唖然とします。

「ガーベラはありますか?」

「あ、はい」

 茶髪の女性は手際よく準備をして鉢植えを所長に渡します。

「ありがとうぞざいます」

「こちらこそ」

 所長はお金を払って車に戻りました。

「やるよ」

 ガーベラを私に渡します。

「……花言葉はなんですか?」

「お、鋭いな」

所長は少し笑みを見せます。 

「希望、常に前進、だったかな?」

 ……耳の痛い言葉です。また皮肉屋の所長らしい言葉だな、とも思いました

「戻るか」

「はい」



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