第8話【静寂、あるいは天獄の門】
——まったく。なんでこんなに時間かかるのよ——
美咲は内心で毒づきながら、デスクの上の雑多な資料を整理していた。
本日、響は朝から出かけている。 カレン以外との子供に会いに行ってるのだ。
なぜ前回まとめて会わなかったのか? 当然美咲もその質問を響に問うた。
『母親同士が出会うと、途端にマウンティングゴリラに変貌するんだよね。
そりゃもう、ドラミングがすんごいの……』
つまり正妻戦争が勃発するらしい。 要するに自業自得だ。 ザマァ。
雲の彼方を眺めるような響の遠い目を思い出し、美咲は微笑んだ。
だがすぐに顔を引き締めると、美咲はその視線をディスク周りに走らせる。
響に頼まれ引き受けた書類整理。
だが本命は——第三地区からのスパイ任務。
『篠崎 響の弱みを掴め』
その命令が、美咲の胸に鈍い痛みを生んでいた。
ここ数日で見てきた響の姿。
メンバーへの異常な献身。
そして、歪だが確かな絆。
——本当に、この人等を裏切っていいの?——
美咲は唇を噛みながら、響のデスクの引き出しを開けた。
雑多に詰め込まれた書類の山。
ガーデニング用品のカタログ。
子供服のパンフレット。
そして——
「どうせエロ本とか、お酒のストックくらいしか出てこないでしょ……」
自嘲気味に呟く。
だがその期待は、最悪の形で裏切られた。
雑然とした資料の奥。
他の書類とは明らかに異質な、厳重に封をされた黒いファイルが眠っていた。
表紙は擦り切れ、角が折れている。 何度も手に取られた痕跡。
『退役者追跡調査報告書(閲覧不可)』
日付は約4年前。 響が第九地区に着任した当初だ。
「……なに、これ」
資料の放つ異質な気配に、美咲の指先が冷たくなる。
職業的本能が警告を発している。 開けてはいけない、と。
特級呪物か何かだろうか?
だが、好奇心がその警告を上回った。
封を開ける。 ページをめくる。
「あ……」
声にならない悲鳴が喉から漏れた。
ファイルに収められていたのは、虚ろな目をした人々の写真。
若い男女。 中年の男性。 年老いた女性。
全員が、どこか人形じみた表情。
レンズを通り抜けるような視線をカメラに向けている。
いや、向けていない。 何も見ていない。
そして、各写真には赤いスタンプ。
『処理済』
めくる手が止まらない。 止められない。
ページをめくるたび、増えていく『処理済』の文字。
まるで在庫管理の帳簿だ。 人間を、番号で管理するような——
その筆頭には、クリッピングされた笑顔の青年の写真。
誰かは知らない。 だが、その目には確かな生気があった。 過去形で。
なぜならその写真の下には、ファイルに並んだ他の誰かと同じ——
「ただいまー。 いやぁ子供の成長は早いねぇ」
「っ……!」
その声に、美咲の肩が跳ねる。 心臓が口から飛び出しそうだ。
衝撃に耐えきれず、ファイルが手から滑り落ちた。
床に散らばる写真。 虚ろな目が、美咲を見上げる。
「うん? 俺の秘蔵のエロ画像フォルダでも見つかっ……」
扉を開けた響の軽口が、途中で止まる。
「……あー、見ちまったか」
美咲が何を見ているか理解した響の顔から、いつもの軽薄さが抜け落ちる。
静かな声。 その目は以前見た時のような、諦観と怒りが混じった色をしていた。
そして窓へ歩み寄り、静かに窓を閉めた。
部屋から——音が消える。
外で響いていたメンバーたちの声も、基地の雑音も、全てが遮断される。
完全な静寂が部屋を満たした。
「篠崎さん……これ……」
美咲の声が震える。
『言葉通りの意味だよ。 使い終わった電池を、誰が後生大事に保管するんだ』
あの時、彼が放った冷酷な言葉。
美咲は震える手でファイルを見下ろした。
「これが……あなたが言っていた、『電池の末路』なんですか……?」
美咲は青ざめた顔で響を見上げた。
響はコーヒーメーカーのスイッチを入れる。
コポコポという抽出音だけが、やけに大きく部屋に響いている。
「……4年前。 俺はまだ『運営』を甘く見ていた」
響が語り始めたのは、彼がまだ希望に燃えていた頃。
残酷な挫折の記憶。
「訓練校時代、同期に木島ってやつがいた。
優秀で正義感が強く、成績もトップ。 まさに誰もが認める『エリート』」
響は2つのカップにコーヒーを注ぐ。
その声が、どこか遠い。
「俺はすぐに分かった。 ああ、こいつが主人公だ、ってな」
コーヒーの苦い香りが部屋に広がっていく中、美咲は黙って耳を傾けた。
「思った通り木島は三区。 俺は九区。 『お約束』通りだった」
響は自嘲気味に笑うと、カップを持ち上げ一口飲んだ。
響の手が、わずかに揺れた。
「それから数ヶ月後……木島が『退役』したって連絡が入った」
「そんな……早すぎる……」
美咲の呟きに響は頷いた。
「ああ。 でも俺は楽観してたんだ。 ユニット売却のフレーバーを信じてな」
「ユニット売却? フレーバー?」
「テキストにあったんだよ。 『退役後は穏やかな余生』って」
響の声が皮肉に満ちていく。
相変わらずの独特な言い回し。
美咲はそれを、必死に噛み砕いて咀嚼し続けた。
「だから思った。 主人公の待遇を、千紗のルートの参考にしよう、ってな」
そして——
「そんな軽い気持ち、下見気分で——俺は三区の『ホスピス』に行っちまった」
響は再びコーヒーに口を付けた。
話の区切りをつけるように。
苦い記憶を飲み下すように。
「……美咲ちゃん、今回はマジのどシリアスだからさ。
回想には介入するなよ?」
「私が好きでやってるわけじゃないんですけど!?」
いつもの掛け合いが、妙に空虚に響く。
響はただ静かに、4年前の記憶の糸を手繰り寄せた——
***
第三地区『ホスピス』。
退役者を含めたノイズの隔離施設は驚くほど清潔だった。
真っ白な廊下。 一切の汚れがない床。
壁は全て特殊な吸音材で覆われ、足音すら吸い込まれる。
まるで音の墓場だ。
「ようこそ。 静かでしょう?
患者様の安らぎのため、全館が静音設計となっております」
案内してくれた職員は、終始笑顔。
でも、その完璧すぎる笑顔が妙に不気味だった。 生気がない。
まるでマネキンが喋っているようだ。
「こちらが『タセット』の間です」
案内されたのは、完全防音の個室群。
患者の名前が刻まれたプレートが並んでいる。
廊下の両脇には、整然と並ぶ扉。 それぞれに小さな窓。
俺は歩きながら、その窓を覗き込んだ。
中には人。 座っている。あるいは横たわっていた。
誰も動かない。 誰も喋らない。
そしてその中に——
木島の名前を見つけ、足が止まった。
心臓が嫌な音を立てる。
自分の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「彼は英雄です。国のために戦い、傷つき、そして今——
最高の安らぎを提供されています」
職員が扉を開ける。
まるでショーウィンドウのようなガラス越し。
拘束衣で固定され、ベッドに縛り付けられた男。
焦点の合わない目でヨダレを垂らしている。
それが——変わり果てた木島の姿だった。
「き……じま……?」
声がかすれる。
声をかけても、反応はない。
ただ虚空を見つめるだけ。 瞬きすらまばらだ。
呼吸をしているのかすら分からない。
生きているのか、死んでいるのか——その境界が曖昧だ。
「Cランクになったノイズにとって、音は毒。
常に振動に晒され続けた彼らの脳は、極度に疲弊しています」
職員の解説が、まるで博物館のガイドのように機械的に続く。
「ですからここでは、全てを遮断します。光も、音も、刺激も。
緩やかに、優しく、自我を『沈殿』させていくのです」
「沈殿……?」
「ええ。やがて彼らの意識は、二度と浮かび上がらない海底へと沈む。
……ああ、この方はもうすぐ『処理』の段階ですね」
処理。
その言葉の意味を理解した瞬間、堪らず喉が鳴った。
——静かな余生。 確かに静かだろうよ。——
心が死んだ、物言わぬ肉塊。 そうなれば、誰だって静かになれる。
喉の奥が、苦い液体で満たされる。
これは治療じゃない。
生きながら腐らせて、廃棄するための保管庫だ。
安楽死という名の、緩慢な殺人。
俺は震える手を、ガラスにつけた。
冷たい感触。 氷のように冷たい。
その反射で——木島の顔が、別の誰かに重なった。
『お義兄ちゃん……』
拘束衣を着た千紗。
心を壊され、虚空を見つめる千紗。
ボロボロになった千紗。
「嫌だ……止めろ……」
その幻影に恐怖し、後退り、視線を逸らしたその先——
無人の個室の壁が崩れ、幻影が広がり、そして悪夢が連鎖した。
右隣の部屋には、拘束されたカレンがいた。
いつも紫煙を纏っていた気だるげな美女はもういない。
あの自堕落な笑顔も、皮肉な毒舌も、何もかもが消え去った空っぽの女。
泥のように濁った瞳は、皮肉なほど澄み渡り——虚空だけを映す。
生きているのに、死んでいた。
左隣には湊。
あんなに大切にしていたギターはなく、指先は柔らかく白くなっていた。
怒りもせず、無表情で涙だけを流している。
孤高も、プライドも、寂しさもない。
全部剥げ落ちた抜け殻。
リリィ。
モニターの光がない彼女の瞳が、これほどまでに暗いなんて。
毒舌も吐かず、膝を抱えて動かない、静かな少女。
威嚇するような鋭さが消え、誰も噛みつかない。
牙を抜かれた獣。
真凜。
何も言わず、規律も語らず。
ただ規則正しく座り続ける、無機質な真凜。
刺すような視線も、今は静かに閉じられている。
何も考えない完璧に従順な、お利口で壊れた機械。
万里。
料理もせず、誰の世話も焼かず。
誰より大きな背中が、今はひどく小さく丸まっている。
何かを作る音も、何かを壊す音も、もう二度と聞こえない。
あの不器用な優しさも、無言の献身も、全部消えた動かない塊。
扱いづらく、面倒で、可愛げのなかった問題児たちが——
人形のように並べられ、ただ虚空を見つめている。
生気も、感情も、声も失った静かな姿。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
誰も怒らない。
——これが、俺が求めていた「平穏」だってのか?——
『義兄さん……助けて……』
千紗の悲痛な幻聴が鼓膜を突き破る。
俺は溢れそうな悲鳴を噛み殺し——その場から逃げ出した。
***
施設の裏口。
俺は胃の中身をすべてぶちまけた。 酸っぱい臭いが鼻をつく。
胃の中身が全部出ても、まだ吐き気が止まらなかった。
嗚咽が止まらない。
涙が止まらない。
膝が震えて立っていられない。
「ど畜生め……エアプのボケ運営どもが……!」
八つ当たりするように、壁に拳を叩きつけた。
皮が剥け、血が滲む。 でも痛みすら感じない。
「これがハッピーエンド? ざけんなよクソ野郎!!」
そして——気づいてしまった。
「千紗だけじゃない……なんで、あいつらの顔まで浮かんだ……?」
第九のメンバーは原作にいないサブキャラ。
いわば自分と同じモブだ。
千紗のキャラテキストだけで語られる、フレーバーだけの存在。
脳裏に、扱いづらい部下たちの姿が再び蘇る。
酒とタバコに溺れ、「どうせ死ぬなら派手に」と自暴自棄に笑うカレン。
指示を聞かず、勝手に動き、いつも二日酔いで任務に遅刻してくる問題児。
誰とも関わろうとせず、孤高を貫き、軽蔑の目で見てくる一匹狼の湊。
「無能についていく気はない」と面と向かって言ってくる、クソ生意気な新人。
拾ってきた野良猫のように周囲を威嚇し、誰にも心を開かない引きこもりのリリィ。
部屋から出ず、通信でしか会話せず、会えば「死ねロリコン」と罵倒ばかり。
常に響の粗を探し、規律と効率ばかりを口うるさく説く委員長な真凜。
ちょっと役務経験が長いからと、やることなすこと全てに難癖をつけてくる。
黙って何を考えているかまるで分からない、不気味な巨体の万里。
無表情で、感情が読めず、ただ黙々と破壊活動ばかりしやがる。
どいつもこいつも、扱いにくい。 面倒くさい。 可愛げがない。
確かに思っていた。
「うるせぇな。黙って言うこと聞けよ」と。
「なんでこんな問題児ばっかり押し付けられるんだ」と。
だがあのホスピスの静寂に比べれば。
あの幻視の中のお利口な人形に比べれば。
文句を言われて、嫌われて、罵倒されて、ギャーギャー騒がれる方が——
——何億倍もマシだ!——
カレンの酔っ払った絡み酒。
湊の不機嫌な顔。
リリィの容赦ない罵倒。
真凜の口うるさい小言。
万里の建物を揺らす破壊音。
全部、全部——
「生命の音だったんだ……!」
声が、か細く震える。
ゲロと涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。 とても誰かに見せれるもんじゃない。
それでも、ガラスに映り込む瞳には、強い輝きが宿っていた。
「そう……俺は第九ごと……推しになっちまってたのか……」
千紗のためという建前。 それは嘘じゃない。
でも、それだけじゃなかった。
彼女たちにも、幸せになってほしい。 笑っていてほしい。 生きていてほしい。
その日、俺の中で『推し』の定義が拡張された。
「退役という逃げ道はない……退役は死だ」
だったら——
「システムそのものを、書き換えるしかねぇ」
『死ぬまで現役でいられる場所』を整える。
それが——
***
「——っていう感じ。
それで次善策だった『妊娠エンド』を、最良のエンディングにする制度作りを始めたってわけですよ」
響がカップを置き、窓を再び開ける。
耳をつんざく轟音が響き、衝撃でカーテンが揺れる。
また、万里が何かを壊した音だ。
「あーっ! 万里さんがまた壁を!」
「学習能力ゼロですね。 オムツからやり直すべきです」
「不可抗力。 私に対して脆すぎるだけ」
湊の絶叫。 真凜の罵倒。 万里の言い訳。
続いて、カレンとリリィのギャーギャー騒ぐ声。
「カレンさん! それ私のチョコ!」
「いいじゃんいいじゃん、減るもんじゃなし」
「減るんですけど!?」
響は、その喧騒を満足げに眺めた。
「見ろよ。 うるせぇだろ?」
美咲は窓の外を見る。
騒がしく、うるさく、メチャクチャで——
でも、確かに生きているメンバーたち。
「……あの静寂より、ずっとマシだ」
響の声が、優しく響く。
「だから俺は、ここを世界一うるさい場所にする。
あいつらが喉を枯らして死ぬ、その最期の瞬間までな」
美咲は、響の横顔を見つめた。
——やっぱり、この男は狂っている——
推しなどという理由で、ここまでするのは普通じゃない。
でも、その狂気は誰よりも優しく甘い。
「ああ、そういえば——」
何気ない口調で、響がデスクから古いファイルの束を取り出した。
「この資料、ちょうど保存期間の義務が切れたんだ。悪いけど処理しといて」
美咲は職業柄、内容を確認した。
響が作成した『退役出産支援制度・導入提案書(初期案)』。
そのバックデータだった。
膨大な統計データ。
精緻なグラフ。
詳細なリスク試算。
——おそらく全て事実だ。 数字にも嘘はない——
でもグラフの軸の取り方。
サンプルの抽出範囲。
リスク試算のパラメータ設定。
全てが、制度導入がシントニアにとって莫大な利益になるように見える。
極めて巧妙に、意図的なバイアスを施すための指示が書き込まれていた。
これこそが、三区が喉から手が出るほど欲しがっている——
——篠崎 響の首を取れる決定的証拠——
響は背を向け、コーヒーカップを洗っている。
美咲の手元を見ていない。 わざと、見ていない。
美咲は、冷たくなった指先でファイルを手に取り——
迷わずシュレッダーへ向かった。
無機質な裁断音が鼓膜を震わせる。
決定的な証拠が、ただの紙屑へと変わっていく。
音が止んだ。
「……それ、欲しかったんじゃないの?」
響が振り返る。 きょとんとした顔で。
「いいえ。 計算式が古くてもう使えない、ただのゴミです」
美咲はニッコリと、悪戯っぽく笑った。
「もっと正確で、素敵な『騒音』を記録しないといけませんから」
響はしばしあっけに取られた後、釣られるようにニカっと笑った。
「違いない。 頼りにしてるぜ——共犯者さん」
外ではまだメンバーたちが騒いでいる。
うるさく、賑やかで、生命力に満ち溢れた、最高のノイズ。
美咲は小さく息を吐いた。
——もう、後戻りはできないな——
でも不思議と——後悔はなかった。




