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ディストピア系アイドルゲームの指揮官に転生したので、クズを演じながら推し活することにした  作者: 西嶽 冬司
3章【盟約、あるいは縄張り争い】

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第32話【暴走、あるいは死神の美学】


装甲車(トランポ)が荒れ果てた道路を疾走している。

車体が跳ねるたび、美咲の胃も浮き上がった。窓の外には灰色の廃墟ばかりが続く。


——まぁた、戦いかぁ——


手のひらに、じっとりと汗が滲んでくる。

何度経験しても、この緊張感には慣れそうもない。


『ベラドンナから報告です』


インカムの奥から、リリィの指がキーボードの上で踊る音が聞こえる。

同時に、装甲車内の画面へ複雑な波形データが次々と表示された。


『パーツを買い漁っていた男の拠点を襲撃。情報を吐かせました。

 依頼主の正体は不明ですが、目的は明白です。やはり——』


「——九区をディストルの餌場にする気か」


響の声にいつもの軽薄さはなく、モニターを睨む目が鷹のように鋭い。

遠隔操作により、リリィが地図データを呼び出した。


『信号の発信源を特定しました。 ここです』


第九地区の郊外——複数の農業施設に、赤いマーカーが不気味に点滅している。

旧『ターミナル』を取り囲む形。 明らかに何かの意図を感じさせる分布だ。

不幸中の幸いというか、基地そのものは取り囲まれてはいなかった。


「さすがの腕だな。 リリィ最高!」


『ありがとうございます、とリリィは言っておきます。変態パパ(コンダクター)


リリィは相変わらずツンとしていたが、声の端にどこか嬉しそうな色が滲んでいる。

相変わらず猫のように気まぐれで、なんだかんだご主人様にベッタリなロリだ。


響の指が、こめかみを軽く叩いた。


「俺の分隊がメインを叩く。 千紗と湊の分隊で残りの拠点を同時に潰す。

 リリィは引き続き、ひなた、静香と一緒にパーツの信号を監視し続けてくれ」


『了解しました』


「七区の方たちも、『貸しを返す』として協力してくれるそうです」


美咲がタブレットを確認しながら報告する。 声が上擦らないよう、意識して低く抑えた。 その影響で、少しだけ声が震える。


「奴らも自前の技術が悪用されて黙っちゃいられないんだろう。 助かるね」


響がシートに深く沈み、息を吐き出しながら言った。


沈黙。


エンジンの唸りだけが車内を支配する。

その空気に、美咲が先に根を上げてしまった。


「……もっとアイドル的な活動が見たいんですけど」


響が怪訝な顔で振り返った。 存分に、「何言ってんだコイツ」と言いたげな目だ。

普段は、自分がイカれたことしかしてないくせに。 常識人ぶりやがって。


「一昨日もライブやったじゃん」


「行間にすら描写がないんですけど!?」


美咲は思わず声を荒げた。

確かに一昨日はライブがあった——はずだ。 なのに、その記憶が奇妙に希薄。

昨日の夕飯の記憶より印象が薄いってどういうことよ。


「全カットってレベルじゃないですよ!

 この作品って、ちゃんとアイドルとして活動してるんですか!?」


「読者に見せる物語部分って、あくまで非日常の描写だからさ。 仕方ないよね」


肩を竦める響の口元に、いつもの軽薄な笑みが浮かんでいる。 メタいんだよ。


真凜の、ナイフのような冷たい視線が美咲に突き刺さった。


「今からディストルとやり合うかもというのに、暢気なことを。 馬鹿ですか?」


言いたいことはいっぱいあるけど、美咲は反論の言葉を飲み込んだ。

理由? もちろん怖いからだけど?




***




農園施設は、朽ち果てた骸のように佇んでいた。


錆びついた農機具の残骸。

歪んだビニールハウスの骨組み。

腰の高さまで伸びた雑草——人の手が入らなくなって久しいことを物語っている。


中央のコンクリート製建物だけが、不自然なほど整備されていた。




——静かすぎる。


装甲車を降りた美咲は、周囲の異様さに気づいた。

風の音も、虫の声も、何も聞こえない。

まるで世界から音というものが吸い取られてしまったかのような、不気味な無音。

美咲は思わず息を飲んだ。


「……嫌な予感しかしないんですけど」


「当たり前です。 違法パーツの摘発現場ですよ? 愚かですね」


真凜の呆れた声が、美咲の胸に突き刺さる。 うるっせぇ。


響が腰のホルスターに手を添えた。

『カーテンコール』——中折れ式拳銃の重い輝き。

冷たい光沢が陽の暖かみを反射し、これから起こることの重大さを無言で告げる。


「任務は超シンプル。 施設の管理者を確保し、改造アンプを破壊する——いくぞ」


一行は唯一残された建物の中へと入り込んだ。

中は伽藍堂で、床はところどころブルーシートが敷いてある。 恐らく床が抜けているんだろう。


「……下に、空間がありますね」


ブルーシートを捲り、深淵を覗き込む真凜。 美咲も後ろから盗み見たが、あまりの暗さに何も見えなかった。

なぜ見える? 普段から深淵を覗きすぎて、もはや彼女自身が深淵ってこと?


「地下への入り口あったよぉ。 ウェルカムトゥアンダーワールドって感じ」


薄寒さを感じながら、美咲は地下への階段を降りていく。 靴音が狭い空間に反響し、甲高い音を立てた。


懐中電灯の光が暗闇を切り裂いた先、湿気を帯びた壁面には苔が繁殖している。

カビと埃の入り混じった臭いが、鼻腔を刺激した。


美咲の心臓が早鐘を打つ。


——大丈夫。 響さんがいる。 真凜さんもいる——


自分に言い聞かせながら階段を降りる。

足元が見えにくい。 一段一段が、奈落へと続いているような錯覚を覚えた。


「こう緑色だと、なんか抹茶かずんだ餅に見えてきて、腹減らない?」


「そうですね。 帰ったら万里さんに頼んで作ってもらいましょうか」


タフだなぁ。 何も感じてねーのかコイツら。

響には毒を吐かない真凜の姿に呆れつつ、美咲は黙って階段を下った。




地下倉庫に辿り着いた時、美咲は息を呑んだ。


手探りでライトをつけた。 広大な空間に、異様な装置が所狭しと並んでいる。

配線が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、LEDランプが不規則に明滅していた。

低く唸るような機械音が、空気を震わせている。


そして、その中央。

そこに、ひときわ大きな装置が鎮座していた。


「これは……」


——改造アンプ。


第九から盗まれ、無数のパーツを接続された『音響兵装(ハーモニック・ギア)』の成れの果て。

土壌改良用バクテリアの『起床アラーム』を増幅させる音響装置。


——に偽装した、『誘蛾灯』だ。


「邪魔すんなァッ!」


金切り声が地下倉庫に響き渡った。


装置の陰から一人の男が飛び出してくる。 痩せこけた中年男だ。

土色の肌に血走った目。 口元は引き攣り、頬はこけ、髭は伸び放題。

手には小型のリモコンが握られていた。


「こん装置があれば、俺たちん農園はもっと豊かになるったい!

 邪魔すんな、邪魔すんなァ!!」


男の声は悲鳴に近かった。 喉の奥から絞り出されるような、切迫した叫び。

その声には憎悪と——それ以上に、深い絶望が滲んでいる。


「豊かも何も、それ正規技術じゃないですよ!?」


「大方、余剰分を闇市で売却すれば、小金が稼げるとでも唆されたのでしょう。

 我が王達の技術で生かされておきながら、実に浅はかなことですね」


美咲がつい、いつもの勢いでツッコミ、続いて真凜が無表情で毒を吐いた。

それでも、男はいっさい怯んだ様子を見せない。


「三区に守られとる連中にゃ、俺たちん苦しみなんか分からんどたい!」


男が唾を飛ばしながら吠えた。 その顔は涙と鼻水で汚れている。

怒りなのか悲しみなのか、もはや判別がつかない。


「俺は何も悪かこつしとらん! 農園ば豊かにしようとしただけばい!」


その言葉に、美咲は何も言い返せなかった。


男の目には狂気と——それ以上に深い絶望が宿っている。

追い詰められた者特有の、後がない目だ。

何かを守ろうとして、その何かさえも見失ってしまった者の目。


響が一歩前に出た。


「そのパーツの出所、分かってんのか?」


その声は静かだった。響の目が細まる。

いつもの軽薄さは消え、冷徹な光だけが瞳の奥で燃えていた。


「知るか! 安ぅ売ってくるるっち言うけん買うただけたい! 俺は悪ぅなか!」


男の親指が——ボタンを押した。


「たいぎゃ俺の畑ば豊かにしてやるけんね!」


装置が唸りを上げた。


『起床アラーム』が最大出力で作動する。 地面が小刻みに震えた。


それは音というよりも——世界そのものが軋む悲鳴だ。


鼓膜が破裂するほどの衝撃が、美咲を襲った。

頭蓋骨の内側を、無数の針で刺されているような激痛。

視界が歪み、平衡感覚が狂う。

耳の奥で何かが破れるような感覚。血の味が口の中に広がった。


空気が、空間が、現実そのものが歪み始めている。


最大出力の高負荷により、『起床アラーム』が変異し——周囲のノイズを呼び寄せる『誘蛾灯』へと姿を変えた。


スイッチを入れた男が、装置の側で崩れ落ちる。

白目を剥き、口からは血の泡が湧き出ていた。

耳や鼻、目、そして口——顔中の穴から赤黒い血が流れ出し、ビクビクと痙攣する身体が床の上で跳ね回っている。


美咲の足が縫い付けられた。


全身の血が凍りつく。 喉が締め付けられ、呼吸ができない。

心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打つ。

視界の端で、何かが蠢いた。


——逃げなきゃ——


頭では分かっている。なのに足が動かない。

恐怖という名の重力が、美咲の全身を地面に縫い止めていた。


「美咲ッ! 俺の後ろに下がれ!」


響の怒号と手を引かれた衝撃で、ようやく意識が身体に戻った。


響が『カーテンコール』を抜く。

単発拳銃の銃口が地下倉庫の出入り口——地下へと流れ込むディストルを捉えた。


十体、二十体、三十体——影が這い出してくる。

人型を保っているものもあれば、完全に形が崩れているものもある。


共通しているのは虚ろな目——黒い穴のような眼窩。 そして、喉の奥から漏れ出す不協和な唸り声。


乾いた銃声。


『コーダ弾』がディストルの頭部を撃ち抜いた。 余波に巻き込まれた数体の怪物が、まとめて霧散し崩れ落ちる。


だがその背後から——また一体。 また一体。


「くそっ、数が多い! どこに隠れてやがった!?」


響が弾倉を割る。中折れ式の機構が作動し、空薬莢が排出される。

新たな弾丸を装填。 銃身を戻す。


その一連の動作は流れるように速い。 だが——


一発撃つ。 倒れる。

装填する。

撃つ。 倒れる。

装填する。


その繰り返し。


単発式では限界がある。 ディストルの数は減らない。 むしろ増えていく。


地上を繋ぐ通路から、天井の穴から——無数の怪物が這い出してくる。

腐肉の臭いが充満し、慟哭が空気を震わせる。

黒い波が、確実に三人を呑み込もうとしていた。


「処理が間に合わねぇッ!」


響の額に汗が流れ落ちた。 普段の余裕はどこにもない。

血と硝煙の臭いの中、彼の息遣いが荒くなっていく。


真凜がリズムギターを構え、音の刃を放つ。 一体が切り裂かれて崩れ落ちる。

だが、レゾナントである湊に比べ、その殲滅力は高くない。

彼女の額にも汗が浮かび、呼吸が乱れ始めていた。


「コンダクター、左から三体!」


「分かってる!」


響が身を翻しながら発砲した。


空薬莢が床に転がる音。 一体が倒れる。


だが残り二体が距離を詰めてくる。

腐臭が鼻を突く。 伸ばされた腕が、響の身体に迫る。

黒く変色した爪が、かつて人間だったものの手が——




装填が間に合わない。


響の指が弾丸を掴む。

弾倉を割る。

薬莢を排出。

新たな弾丸を——




ディストルの爪が、あと数センチ——


「ちっ——!」


響が後ろに跳んだ。 響の頬に一筋の赤い線が走る。

だがそんなことを気にしている余裕はない。


「響さんッ!」


一般人である美咲にできることは何もない。

無力感を前に、思わずその唇を噛み締めた。

歯が皮膚を破り、血の味が広がっていく。


響が着地と同時に銃身を戻す。 発砲。


二体目が倒れる。


——包囲が、狭まっていく。


前方に五体。 右に四体。 左に六体。 背後に——


数えることさえ馬鹿らしくなるほどの、圧倒的な数。


「真凜、背後ッ!」


真凜が振り返り、音の刃を放つ。 二体が切り裂かれたが——


ディストルの一体が彼女の肩に爪を立てた。 服が裂け、血が飛び散る。


「真凜ッ!」


『コーダ弾』が、そのディストルの頭部を撃ち抜いた。


美咲は見た。




響の首に、ディストルの腕が伸びるのを——


「響さん、後ろォォッ!!」


カーテンコールは空だ。 響の目が、細められる。


——あぁ、そうか——


美咲は理解した。


この男は、今——



覚悟を決めた。


響がカーテンコールを逆手に持ち替える。 せめて一体でも道連れにするつもりだ。


三十体を超える怪物が、三人を完全に包囲していた。


響と真凜と美咲が、自然と背中合わせになる。


逃げ場はない。


「……まずいですね」


真凜の声が初めて揺れた。肩から血が流れ、服を赤く染めている。

いつもの無表情が僅かに歪み、恐怖の色が滲んでいた。


響が歯を食いしばった。


ディストルたちが、一斉に動いた。


三十の腕が、三人に向けて伸びる。


唸り声。

虚ろな目。

腐肉の臭い。

死の足音。


美咲は、目を閉じた。


走馬灯は、回らなかった。


ディストルの爪が、美咲の頬をかすめる。


冷たく。 鋭い。 死の感触。


——まだ、何もできてない——


悔しさが、美咲の胸を焼いた——




その時だった。




空気が、変わった。


地下倉庫の空間に——何か、圧倒的な『何か』が満ちた。


それは音。


荘厳で。

冷徹で。

美しく。

そして、恐ろしい——旋律。


漆黒の旋律が、地下倉庫に降り注いだ。


第九部隊の音楽とは全く異質——ヴァイオリンとチェロが織りなす、荘厳な二重奏。


高音域を担うヴァイオリンの旋律は、まるで天上から降り注ぐ月光。

氷の結晶が空気中を舞い踊るような、冷たく透き通った音色。

聴く者の魂を浄化するような——あるいは、凍りつかせるような。


低音域を支えるチェロの響きは、大地の底から湧き上がる深淵の闘。

重く、暗く、どこまでも深い。

死者が眠る墓所から聞こえてくるような、悲しみと安らぎが入り混じった音。


二つの音が絡み合い、螺旋を描き、一つの巨大な『意志』を形作る。


——鎮魂歌。


死者を悼む厳粛な調べ。


美咲は目を開けた。 開けずにはいられなかった。

この音の正体を、見ずにはいられなかった。


音色がディストルたちを包み込む。


まるで、母の腕に抱かれた子供のように——

まるで、長い旅路の果てに安息を得た老人のように——


ディストルたちの動きが、止まった。


虚ろだった目に、人間の光が宿り——一斉に、天を仰いだ。


その顔に浮かんでいたのは、苦悶ではなかった。

怒りでも、悲しみでも、狂気でもなかった。


——安堵だった。


ようやく許されたかのような。

ようやく休めるのだと知ったかのような。

穏やかな、安らぎの表情。


「————」


ヴァイオリンを下ろした玲の喉から、唄が紡ぎ出される。


千紗の声が天上の導きであるのなら、玲のそれは冥海への導きだ。

幻想的で幽玄で、昏く冷たく、そしてどこまでも美しい。


荘厳なる調を前に、ディストルの頭部が花が咲き誇るように砕け散る。


黒い飛沫が宙を舞い——光に溶けて消えていく。


地下に満ちるディストルが、糸が切れたように崩れ落ち、空気と同化していった。


死という安らぎを、彼らはようやく得られたのだ。


静寂。


土煙の中に、二つの影が浮かび上がる。

舞い散る埃がキラキラと乱反射する。

崩壊しかけた天井から差し込む光が、スポットライトのようにその蠢く影を浮かび上がらせた。


「——無様ね、コンダクター」


冷ややかな声が朧気な幕の向こうから響いた。


黒いドレスの女が瓦礫を踏み越えて歩いてくる。

喪服のようなゴシック調の衣装。蒼白い肌に深紅の唇。

黒い髪が風に靡き、その手には漆黒のヴァイオリンと弓。


如月 玲——ベラドンナの『糸切り鋏(アトロポス)』。


その異名に相応しい、冷酷な美貌。


その傍らに線の細い少年が立っていた。

姉と同じ黒い衣装に身を包み、チェロを抱えている。

穏やかな顔立ちだが、その目の奥には姉と同じ暗い炎が燃えていた。


如月 透——『忘却の河(レテ)』。


その水を飲めば、全ての苦しみを忘れられるという。


視界を埋め尽くすほどのディストルを瞬く間に処理した二人。

まるで地獄の使者。美しく、冷酷で、絶対的なその姿。


玲が冷ややかな目で響を見下ろした。

その視線には——どこか面白がっているような色が混じっているように見える。


「一発撃つたびに装填? 効率が悪すぎるでしょう。

 その間に何体のディストルが迫ってくると思っているの?」


「あれは——覚悟を決めるための猶予を——」


『カーテンコール』は、一発撃つごとに装填する時間がある。

それはシントニアが定めた——せめてもの慈悲のはずだ。

命を奪う前に、本当にそれでいいのかと自問する時間。


「覚悟? いちいち猶予が必要なの?」


玲の声が美咲の言葉を遮った。


「そんなもの、この道を進むと決めた時から——とっくに決めているわ」


美咲を射抜く玲の瞳には、悲しみも、怒りも、そして迷いも——何もない。

ただ透徹した意志だけが深い闇の底で燃えている。


「一発撃つたびに自問自答しているのかしら?

 その甘さがどれだけの苦痛を長引かせているか——理解できているの?」


迷いながら引き金を引く——それは、撃つ者の良心を守るための行為だ。

撃たれる者のためではない。


「——偽善者ね」


その言葉は、鋭い刃のように美咲の胸に突き刺さった。


「玲ちゃん、さすがだねぇ。やっぱ推せるわぁ」


響が笑った。血と泥と汗にまみれた顔で、軽薄に——しかしどこか嬉しそうに。

その声に、玲の言葉を否定する色はない。 むしろ、認めている様子だ。


玲の眉がピクリと動き、心底汚いものを見るような視線を彼へと向けた。


「仕事中よ。 あまり馴れ馴れしくしないで。耳が腐るわ」


「おいおい、名前呼ぶくらいで腐らないだろ」


「あなたの声は毒なの。 聞いているだけで頭痛がする」


「ひどいなぁ。 俺、マジで玲ちゃんのこと応援してんのにぃ」


「だから気持ち悪いって言ってるのよ」


吐き捨てるような玲の声へ、透が横から口を挟んだ。


「……すみません。姉さん照れてるだけなので、気にしないでください」


「透ッ!? 余計なこと言わないでッ!」


苦虫を100匹くらい噛み潰したような顔で、玲が弟を睨みつける。

その白い頬が、僅かに紅潮しているように見えたのは——気のせいだろうか。


——まぁためんどくせぇ感じに仕上がってるなぁ——


死神だの、救済だの、覚悟だの——大層なことを言っておきながら、結局はこれだ。

美咲は心の中で深い溜め息をついた。 カレシほしぃ。




***




地上に戻ると、奇妙な光景が広がっていた。


あちこちで黒衣の人影がディストルを討伐している。

彼らの動きは洗練され、まるで予め計画されていたかのように統率が取れている。

ベラドンナと似た雰囲気——間違いなく『ヘムロック』の構成員たちだ。


遠くでは七区の錬達たちも戦っている姿が見えた。

荒々しい掛け声と、なんかよくわかんない重機関のような音。 工事現場?

彼らの武骨な戦い方は、ベラドンナの優雅さとは対照的だった。


「ふぅん……全部君たちの仕込みってわけ?」


目を細める響の声には、かすかなトゲが覗く。


透が首を横に振った。 チェロを背負い直しながら、困ったように眉を下げる。

何でもう頬をパンパンに膨らませてるの? どっから出したの?

さっきまでの荘厳な雰囲気はどこへ行った。 リスか。


「今回の件、僕たちの本意ではありません……」


「私の可愛い弟を睨まないでくれる?」


玲が不機嫌そうに言い添え、響と透の間に割って入った。

まるで獲物を守る雌豹のように、両手を広げて弟を背後に庇う。


「……別に睨んでないんですけどぉ?」


「その目が嫌いなの。何を考えているか分からない目が」


「おいおい、俺が嘘なんて吐いてない事、ちゃんと伝わってるでしょ?」


「どうかしらね? 貴方って何でもありだし」


玲がふんと鼻を鳴らした。


「……でも、確かに『誰か』が糸を引いているわね。

 誰かは分からないけど——放置はできない」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに——


「玲ちゃんも、私の義兄さんに媚を売るのはやめてくれる?」


澄んだ声が背後から響いた。


鈴を転がすような美しい声音の奥には——氷のような冷たさが潜んでいる。


美咲はぞくりと、恐怖が背筋を這い回るのを感じた。

全身の毛が逆立つ。 ビンビンに警鐘が鳴っている。


振り返ると——千紗が立っていた。


いつの間に現れたのか。 足音も、気配も、何もなかった。

まるで空間に染み出すように——そこにいた。

影から生まれ落ちたかのような、不気味な登場。


——ブラコンとシスコンが喧嘩してらぁ……——


紫色の瞳が玲を真っ直ぐに見つめていた。

天使のような微笑みを浮かべながら——底知れない何かが、奥底で渦巻いている。

瞳孔がわずかに開き、その奥には狂気にも似た光が宿っていた。


「お、おぉ……千紗、そっちはもう終わった感じ?」


「はい♩」


引きつった笑みを浮かべた響へ、千紗が振り返った。

冷徹だった相貌が——花が咲くように明るくなる。 ハイライトさん、おかえり。


「義兄さんに会いたくて、頑張って片付けてきました」


「そ、そうなの……」


「あら、篠崎 千紗。いつからそこに?」


響の声がかすれ、玲の目が険しくなる。


「さっきからですよ?」


首を傾げる仕草は愛らしいが、千紗の目は笑っていない。

ハイライトさんの出入りが忙しなさすぎる。

ついさっきまでの光が、また消えている。


「義兄さんが傷ついていないか、確認しに来たんです……別動隊の仕事はとっくに終わりましたから」


「へぇ。 お義兄さんに会いたくて、手を抜いたのかしら?」


「まさか。 私は義兄さんに恥じない仕事をしますから」


一見穏やかそうな会話だが、二人の間にバチバチとした火花が散り、目に見えない刃が交錯していた。 先ほどよりも緊張感が強い。


——ディストル相手より命懸けじゃん——


戦場から帰ってきたと思ったら、別の戦場だった。

美咲はその光景を見ながら、深い溜息をついた。




***




シントニア本部。


漆黒の夜空の下に聳え立つ、ガラス張りの高層ビル。

夜の闇の中で青白く光るその姿は、まるで巨大な墓標のようだった。


その上層階——豪奢な会議室に、シントニアの幹部が集まっていた。

巨大な円卓を囲む影は六つ。


室内には重苦しい沈黙が漂っていた。

誰も口を開こうとしない。 ただ、互いの腹を探り合うような視線だけが交錯する。


「——決まりだ」


中央に座る男が静かに口を開いた。白髪の老人。

深い皺が刻まれた顔には一切の感情が浮かんでいない。

仮面のように無表情。 その奥に何を隠しているのか、誰にも読み取れなかった。


「第九の人員不足を補う名目で——『あの子』を送れ」


「よろしいのですか?」


隣に座る女が眉をひそめた。 声に、僅かな懸念が滲んでいる。


「問題ない」


老人が、温かさのかけらもない笑みを浮かべた。

唇の端が僅かに持ち上がっただけの、機械的な笑み。


「アレなら、篠崎 響の代わり……いや、それ以上になれるだろうさ」


テーブルの上に一枚の写真が置かれた。 六つの影が、その顔を覗き込む。


写真に映っているのは——




「派遣の準備を進めろ」


老人が写真を指で弾いた。


「第九には、新しい『英雄』が必要だ。——本物のな」


乾いた笑い声が支配する会議室。

陰謀と策略と、そして何かを踏み潰す時の——残酷な笑い。


窓の外では夜明けの光が——遠い地平線を赤く染め始めていた。

血のような赤。

あるいは——これから始まる何かの、不吉な予兆のような——

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