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ディストピア系アイドルゲームの指揮官に転生したので、クズを演じながら推し活することにした  作者: 西嶽 冬司
3章【盟約、あるいは縄張り争い】

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第29話【サービス、あるいは猛獣の躾】


美咲が基地の敷地内をぶらついていると、天地を揺るがすほどの怒号が聞こえた。


「ぶっ殺すぞ、この腑抜けがァ!」


……聞き間違いじゃないよね? 控えめに言って怖いんですけど。

穏やかな午後の空気が、瞬く間に一変してしまった。


美咲は足を止め、思わず声の方へと視線を向けた。

誰かが殺されかけているのかと思ったが、どうやら訓練らしい。

とは言え、訓練で「ぶっ殺す」って出てくるあたりが第九って感じ。


訓練場の片隅。

カレンが、少し膨らみ始めたお腹を抱えつつ、椅子にどかりと腰を下ろしていた。

その手には愛用のベース。 そして、響が手作りしたストラップが巻かれている。

弦に指をかけ、いつでも弾ける態勢をキープし続けていた。

妊婦とは思えない威圧感が、周囲の空気を支配している。

彼女の足元には、水とタオルが用意されていたが——新人用だろう。

普段は雑破なくせに、こういうところは細やかなんだよな、この人。


彼女の背後には、響が控えていた。

腕を組み、目を眇めながら訓練を眺めている。書類仕事はどうしたよ。

高宮に押し付けたのか? あの男、また「ママぁ……」と泣いているに違いない。


カレンの眼前には新人たち——飛田や堀内が、地面に這いつくばっている。

全身汗まみれで息も絶え絶え、まるで戦場から這い出てきた敗残兵みたいだ。

他の新人たちも似たような有様で、訓練用の楽器があちこちに転がっていた。 握る力すら残っていないらしい。


ディストル相手に戦うための訓練——生半可な覚悟では無理だ。

それを、身体に叩き込まれているのだろう。


「教官……お願いです、少し休憩を……!」


飛田が、震える声で懇願する。 目には涙すら滲み、地面に額をつけるような姿勢からは、プライドも何もかも砕け散っているのが伝わってくる。

見ているこっちが辛くなるレベルだ。 まさに鬼教官という称号が相応しい。


「甘えんじゃないよ」


カレンの声は冷たいが、どこか慈愛を含んでいる気がする。 戦場で死なせないために、ここで徹底的に叩くってことなんだろう。 草の根も枯らす勢いだけど。


「痛くなきゃ覚えないし、怖くなきゃ生き残れないんだよ」


弦が爪弾かれる。 重低音が空気を震わせ、衝撃波が新人たちを襲った。

彼らの身体が木の葉のように宙を舞い、地面に叩きつけられる。 悲鳴と砂埃が同時に上がった。

カレンは手加減しているはずだが、それでも凄まじい有様だ。


本気を出したらどうなるか——考えたくもない。


「ほら、立ちな。 本番でハウりたくなきゃね」


カレンの殺意の高ぇ鼓舞を前に、新人たちがよろよろと立ち上がった。

飛田は膝が笑っているし、堀内は顔面蒼白。 他のメンバーも似たようなものだ。

だが、誰一人として「辞めたい」とは言わない。


厳しくも、生存率を上げるための指導。 傍から見ると、完全にシゴキだけど。

労基に訴えたら勝てるんじゃね? ……いや、九区に労基とかあるのかな。


「で、なんで響さんまでここに?」


美咲は、響の隣に並んだ。 同じように壁に背を預け、訓練を眺める。

この男がここにいるということは、何か目的があるはずだ。

心底ちゃらんぽらんで適当だが、無意味なことはしない。 こいつはそういう男だ。


「監視」


「は? 何の?」


「カレンへ近づく害虫の。見ろ、あの目を」


響が、新人たちを顎で示した。

カレンにどつかれてヘトヘトの新人たち。 立ち上がるのもやっとなのに、その目は、どこか崇拝者を前にしているかのように輝いている。

特に飛田なんか、地面に膝をつきながらもカレンを見上げる瞳に、明らかな敬愛——いや、熱狂に近い何かが滲んでいた。

堀内も同様だ。 目が完全にイッちゃってる。

それ以外の有象無象も等しく狂信を湛えていた。


「あれは尊敬か何かなのでは? 多分。 きっと」


「いいや、違う。 ラストライブを舞台袖で見たのが、よほど効いたんだ」


響の目が、鋭く細められた。 確かに、あのライブを間近で見た新人たちが心を撃ち抜かれたのは想像に難くないが、それにしてもあの目はやばい。



「飛田は勿論のこと、堀内でさえ油断できん。

 同性愛は否定しないが、俺の女を奪うことは許さん」


「吹っ切れたら吹っ切れたで、面倒くせぇなコイツ……」


美咲は呆れた。 この男、本心を自覚してから独占欲が爆発している。

「壁になりたい」とか言ってなかった? どの口が言ってたんだ。

やっぱこいつは、ただちゃらんぽらんで適当な男かも。


「やれやれ。 愛されてるってのも大変だわ」


カレンは杖を手に、苦笑しながら立ち上がった。 口ではそんな事を言っているが、その表情は満更でもなさそうだ。

膨らみ始めたお腹を庇いながら、新人へゆっくりと歩いていく。

「休憩」と短く告げられると、彼らは糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。

飛田が震える手で水を掴み、堀内がタオルで顔を拭う。

地獄のような訓練だが、誰も文句は言わない。 むしろ充足感に満ちた、恍惚とした表情をしている。 さすがに寒気がしてきた。

カレンの指導を受けられることが彼らにとっては誇りなのだろう。

崇拝も度を越すと怖いが、それはカレン本人と響の問題だ。 私は知らん。


「ま、細かい話は後。今日は温泉にでも行かね? たまには嫁さん孝行しないとさ」


響がカレンの肩に手を回す。 はい、コイツら早速イチャつき始めましたよ。

妊娠中の妻を労わる良き夫の姿に見えるが、この男が純粋に優しいわけがない。

きっと裏がある……いやどうかな……さっきの発言で怪しくなってきた。


「良いねぇ——美咲ちゃんもどうだい?」


「……えっ?」


なんで私? 夫婦水入らずで行けばいいじゃん。

美咲の困惑など気にせず、カレンはにやりと笑った。

その笑みは、美咲へ酒を勧める時のそれだ。 嫌な予感しかしない。




***




「はぁ〜……気持ち良ぃ〜。 やっぱ温泉って最高ぉ〜」


乳白色の湯に身を沈め、美咲は極楽の吐息を漏らした。

一帯には湯煙が立ち込めており。硫黄の香りが鼻腔をくすぐる。

じんわりと熱が内に溜まる変わりに、全身の疲れが溶けていくようだった。


第九地区の外れにある温泉。 まさにザ・秘湯といったロケーション。

露天風呂からは夕焼けに染まる山々が一望でき、稜線が紫色に輝いていた。 鳥の声が遠くから聞こえ、風が湯気を揺らす。


久しぶりの温泉、久しぶりの何も考えなくていい時間。 第九に来てから、こんな贅沢ができるとは思っていなかった。


肩まで湯に浸かり、美咲は目を閉じる。 全身の力が抜けていく。

こんな地獄のような辺境でも、こういう瞬間はあるんだなぁ。


「だよねぇ。日本の心ってやつ? 生命の洗濯って感じぃ」


「そんな感じですねぇ……」


美咲は、ゆっくりと隣を見た。




響がいた。


同じ湯船に。


タオルを頭に乗せ、極楽の表情を浮かべている。


「なぁんで同じ風呂に入ってんだテメェ!!」


美咲は叫び、湯船の端まで後退した。 両腕で胸を隠し、響を睨みつける。

心臓が早鐘を打っている。 顔の熱さは、温泉のせいだけじゃない。

せっかくの極楽気分が、一瞬で吹っ飛んだ。 私、こんな目ばかり遭ってない?


「美咲ちゃん、ここは混浴よ」


さよがのんびりと告げた。 彼女は響の隣で穏やかな笑みを浮かべている。

長い黒髪が湯に浮かび、その白い肌が湯気の中で艶めいていた。

やはり医療関係者って、全裸程度ではまったく動じないものなのかしら。


「お湯は貴重ですから。 でも、夫婦なので問題ないですよね〜」


弥生は、湯船の縁に腰かけていた。 その豊満な身体が夕陽に照らされ超眩しい。

のんびりとした口調。 だが、その目は抜け目なく周囲を観察している。

どいつもこういつも、見た目と本質の乖離が激しいんだよ。


「私は大ありですけど!?」


「ま、付き合ってくれよ。 ハメを外しすぎないためにさ」


湯船に沈む響の目は、どこか諦めたような色を帯びている。

これから起こることを予見しているかのだろうか。 巻き込むんじゃねぇよ。


「貧乏クジすぎるでしょーが!」


「お次はお留守番組(第九メンバー)と来るから、その時も付き合ってよ。

 ハメを外しすぎないためにも。 いやマジでホントお願い」


「私に何か恨みでもあるの!?」


そんな心当たりは……ある! 私スパイだった! 畜生め!!

美咲は歯噛みした。 前世でも今世でも徳が足りないってか。

その報いを受けているのだとしたら、文句は言えないが、納得はいかない。


「響ぃー! 私も二人目欲しぃー!」


湯を掻き分け、ノラが響に正面から抱きついた。

水飛沫が上がり、彼女の小柄な身体が響の胸に密着する。

無邪気な笑顔を浮かべているが、その目には確かな欲望が宿っていた。

この女も、四人の妻の一人。 ヤツを逃がす気などない。

子供のような見た目に騙されちゃいけない。 ここにいる奴らはケダモノばかりだ。


「……ひょっとして、さよから聞いた感じぃ?」


何かを察したらしく、響の顔が微妙に引きつる。

嫌な予感が背筋を駆け抜けているのだろう。 湯に浸かっているのに震えていた。


「そんな感じぃ」


身を捩る響の右側から忍び寄り、カレンが彼の肩に左腕を回した。

彼女の唇が響の首筋にゆっくりと吸い付き、ちゅ、と淫靡な音を奏る。

身重とは思えない俊敏な肉食獣の動きだ。


「二人の成人姿を見るためにも……協力してよね、旦那さま」


彼女の声はハチミツのように甘いが、有無を言わせない圧がある。

部隊活動時のように、カレンが獲物を一手ずつ追い詰めていく。


「今日はたっぷりと……夫婦の時間を楽しみましょうね」


響の背後から、さよがぴたりと寄り添った。

熱に浮かれたように蕩けた表情で、白い腕が響の首に絡みつく。

普段の清楚さもお湯に溶けてしまったのかしら。


響の顔が、見る間に青ざめていく。 ザマァ。

逃げ出そうにも、四方を妻に囲まれていては身動きも取れない。

クラーケンに絡め取られ、暗い海底へ引きずり込まれる貨物船みたいな様相だ。

自業自得ね。 四人も嫁がいるんだから、こうなることは分かっていたはずなのに。


「……そ、それじゃあ私はお先に失礼しますね……」


美咲は、スタコラサッサと湯船を後にした。 デリケートな部分を隠す余裕もない。

これ以上ここにいたら、精神に多大なダメージを受けてしまう。 コイツらは、独身者の心臓には刺激が強すぎる。 マジでいい加減にして。

後で入り直そうかな……。いや、硫黄以外の臭いがしそうなので止めとこ。

くそ、湯船の色まで怪しくなってきた。 タワシで擦り落としてぇ。




美咲が風呂場を出たのを確認し、弥生が響の右腕を抱えた。

彼の耳朶へ顔を寄せ、甘い吐息と共に囁く。

傍から見れば、ただイチャついているようにしか見えない。


だが、実態は——


「——実は、七区も一枚岩じゃないんです〜。

 ちょっとだけ、『ヤンチャなグループ』が動いているみたいですね〜」


先ほどまでの蕩けた調子とは打って変わった、冷静な声が響の鼓膜を震わせた。

弥生は独自のルート——かつての七区人脈で情報を集めていた。

錬達にも内緒の裏ルート。 多々良家の血縁は、七区の隅々にまで根を張っている。


「どこも同じだねぇ。 ほんと、正義の暴走が一番タチが悪ぃな」


響の声も、低く真剣なものに変わっている。

表ではイチャつき、裏では情報交換——そのために美咲も追い出した。


「辺境同士で手を組み、中央に反旗を翻す——そんな筋書きを描いてるみたいよ〜」


「敵じゃないが、味方でもない……ってわけか。

 ベラドンナくらい物分かりが良いと助かるんだけどなぁ」


穏健派と過激派の駆け引きによる、七区の内部対立。

そして、その狭間で利用されようとしている第九。 面倒な話だ。


「気をつけてね、響さん」


弥生の言葉に応じるように、響の指が彼女の頬を撫でた。

ひだまりで微睡む猫のように、弥生の目が蕩ける。


「……じゃあ、夫婦水入らずで楽しみましょうか〜」


「えっ、ちゃんミサキを追い出すための方便だったんじゃ……」


「そんなワケないですね〜……舐めてるんですか?」


のんびりした口調とは裏腹に、弥生の眼光は鋭い。

弥生の手が、ペチペチと優しく響の頬を叩いた。 痛みのない柔らかさなのに、重い衝撃がやたらと胸に落ちてくる。


「で、でもぉ、カレンさんがまだお控えされた方がよろしい時期なので……」


「おいおい、旦那さまが教えたんだろ? 妊娠中でも楽しめる方法をさ」


カレンが、響の耳朶を甘噛みした。 妊婦でも衰えない肉食獣の本能。

響は自分で蒔いた種を、今まさに刈り取らされようとしている。


「響ぃ、今日はいっぱいイチャイチャしようねぇ」


ノラが、響の胸に顔を埋めながら呟いた。 小柄な身体が響に絡みつく。

無邪気な声とは裏腹に、その目には確固たる意志が宿っている。


「医学的知見に基づくサンプル収集——という建前で、夫婦水入らずをたっぷり楽しみましょうね」


響の背中に、身体を押し付け続けるさよが告げる。 建前って言っちゃってますよ。

穏やかだが有無を言わせない声。 熱に浮かれた瞳が、底なしの深淵を溢れさせる。


四方を妻に囲まれた響。


逃げ場は——どこにもない。


「ぐ、ぐおぉおぉぉ……」


徹底的に追い詰められ、絶望に染まった男の末路——哀れと言えば哀れだが、羨ましいと言えば羨ましい。 複雑な気持ちになる。


「みんなは……湯船を汚すような公序良俗に反する行為は止めましょう……」


ぐずぐずに茹っているのに、カラッカラに乾く。 人体って不思議だね。

最後の抵抗も虚しく、響は乳白色の湯(意味深)の中へ、ぶくぶくとチン没した。


もう浮かび上がることはないだろう。




***




翌朝。


美咲は、宿の廊下を歩いていた。 目の下には、くっきりとしたクマ。

壁越しに聞こえてくる音で、昨夜はほとんど眠れなかった。 私の安眠を返せ。


「おはようございます、美咲さん。 朝食をご一緒にいかがですか?」


廊下の向こうから、晴れやかな顔のさよが歩いてきた。 肌は艶々と輝いている。

疲れなど微塵も感じさせない。 溌剌とした生命力に満ち満ちている。


「……おはようございます……いただきます」


美咲は、げっそりとした顔で挨拶を返し、彼女の後について食堂へ向かった。




食堂には、既にカレン、弥生、ノラが揃っていた。

全員、美容エステ帰りかよってくらい肌が艶々してる。 輝きが眩しい。

温泉効果なのか、別の何かなのか。 考えたくないし、興味もない。


「おはよう、美咲ちゃん。よく眠れた?」


「……おかげさまで」


にやりと笑うカレンへ、美咲は死んだ目で答えた。 絶対わかって訊いてるだろ。


「……おはよう、ちゃんミサキ。 良い朝だね」


カウンター越し。 調理場から、蚊の鳴き声のような響の挨拶が聞こえた。

彼の顔は、墓から這い出した幽鬼のようだ。 笑う顔に力はなく、目の焦点は定まらない。 どこが良い朝だよ。


「……おはようございます。 大丈夫ですか?」


「人はなぜ争うのだろうね……食卓を囲めば分かり合えるのに。

 美咲さんも、朝ごはん空海?」


罰当たりなギャグかましてんじゃねーよ。 この生臭な即身仏め。 賢者超えて大僧正タイムかってんだ。


美咲は響の姿を視界から消し去り、とっとと席に着くことにした。



響が虚な目で拵えた朝食——色とりどりの山菜料理だった。

山菜の天ぷら、きのこの味噌汁、焼き魚に漬物。

素朴だが、滋味深い味わい。 疲れた身体に染み渡る味だ。


「あぁ〜、優しい味わいだぁ……響さん、これめちゃく——いねぇ」


「響さんはお休みされましたよ。 少し疲れたみたいで」


「そうですか……」


そりゃそうだろうよ。 少しで済むか。 一対四で夜の運動会した上に朝食の準備とか、人間の所業じゃない。

美咲は、響に少しだけ同情した。 ほーんの少しだけ。


美咲は黙々と箸を進めながら、ふと思った。


——この人たち、本当に幸せそうだな——


カレン、弥生、さよ、ノラ。

全員が響の妻で、全員が響を愛している。

修羅場になりそうなものだが、彼女たちの間には、共犯者のような連帯感があった。


「美咲ちゃんも、いい人見つかるといいねぇ」


カレンの声には、からかいではなく、本心からの願いが込められている。


「……そうですね」


いい人。 この地獄のような九区で、そんなものが見つかるのだろうか。

少なくとも、響みたいな男は御免被る。 絶対に。 内臓がストレスで溶けちゃうよ。


一つ確かなのは——この場所で、自分は確実に変わりつつあるということだ。

三区にいた頃の自分なら、こんな連中と温泉旅行なんて、絶対に考えられなかった。

スパイとして潜入していた頃は、彼らを『監視対象』としか見ていなかった。


今は……どうだろう。


いや、また来たいかっていうと、一人以外では絶対に来たくないけど。

美咲は湯呑を傾け、窓の外をぼんやりと眺めた。

青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れていく。


——まぁ、悪くないかな——




***




三区・執務室。


窓から差し込む夕陽が、重厚な執務机を照らしている。

その机の向こうに、一人の老人が座っていた。

壁には高価そうな絵画が飾られ、書棚には革張りの本が整然と並んでいる。

権力と富の象徴のような部屋だが、そこに住む老人の存在感の方が遥かに濃い。


兵藤 一成——シントニアの総裁にして、ヘムロックの首領。

白髪を丁寧に撫でつけ、深い皺が刻まれた顔には、長年の権謀術数を生き抜いてきた者だけが持つ凄みが漂っている。


彼の手には、一通の報告書が握られていた。

差出人は、孫娘であり、この世界の次代を担うべき存在——兵藤 ナギ。

第九地区の動向が詳細に記されている。

七区との接触、ヘムロックとの奇妙な共存関係、闇市場での不審な部品の流通。


そして——


「——我が孫ながら、なかなか面白い事をする」


一成は報告書を机に置き、その唇にゆっくりと弧を描いた。


篠崎 響——表向きは『第九の種馬』『希代のクズ』と呼ばれる男。

その裏で何を企んでいるのか、一成にはまだ見えていない。


見えないからこそ——面白い。


「……この一手、狼はどう群れを率いてひっくり返すかな?」


不穏な笑みを浮かべたまま、老人は夕陽に染まる街並みを見下ろす。


三区に君臨する支配者。


その眼前で、九区という小さな駒がどう動き、どんな手を打ってくるのか——


老人にとって、それが楽しみでならない。

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