第24話【辺境、あるいは黄金郷】
眩しいほどの陽光が、第九基地の農業プラント横に広がる芝生エリアを金色に染め上げていた。
旧航空自衛隊基地の中心地。
無機質なコンクリートの壁に囲まれた敷地の中で、ここだけが別世界のように息づいている。
響が手塩にかけて育てたガーデニングエリア——色とりどりの花々が初夏の風に揺れ、甘い香りを漂わせていた。
濃紫色のベラドンナが、日よけの下でひっそりと咲いている。
毒草でありながら、響の『推し』として大切に育てられている花だ。
広がる真っ青な空の下。
中央には大きなレジャーシートがパッチワークのように何枚も敷かれていた。
その周囲には万里が用意した籐のバスケットが整然と並び、香ばしいパンの匂い、焼きたてのソーセージ、新鮮なトマトとレタスの瑞々しさ——それらが混ざり合った香りが、穏やかな風に乗って漂っている。
「……で、なんでピクニックなんですか」
第九の記録係——佐倉美咲は、具材がこれでもかとはみ出した万里特製サンドイッチを前にして、途方に暮れていた。
パンの間から覗くレタスは鮮やかな緑色、トマトの赤が目に眩しい。
ハムは分厚く、チーズはとろりと溶けかけている。
見た目だけなら、高級ホテルのルームサービスと遜色ない出来栄えだ。
マジで美味そう。腹が鳴りそうになるのを必死で堪える。
ただ問題は——状況である。
「まだディストルの処理も終わってないのに、こんなことしてる場合ですか?」
つい先日、第九地区を襲った数々の事件が、美咲の脳裏を過る。
監査官と総裁の孫の襲来。
インフラの全閉鎖と馬鹿騒ぎ。
大規模なディストル災害と変換炉の暴走。
そして、カレンの劇的なラストライブ——
その余韻もまだ冷めやらぬうちに、この男は何を考えているのか。
瓦礫の撤去、被災者への支援、損壊した設備の修復、各地への設置作業の続き、三区へ送る請求書の作成——やるべきことは山積みのはずだ。
なのに篠崎響は、呑気にサンドイッチを頬張っていた。
「たまには息抜きも必要だろ?」
響は咀嚼しながら、のんびりと答えた。
頬が膨らみ、その姿は『第九の種馬』『希代のクズ』というより、餌を頬張るロバだ。
「毎日気を張ってちゃ、肝心な時に折れちまう。弦だって張りっぱなしじゃ切れるだろ?」
「それはそうですけど……」
サンドイッチを飲み込み、水筒の麦茶で流し込んでから、響は続けた。美咲は生返事を返しながら、周囲を見回す。
木陰のレジャーシートでは、久遠 湊が本を広げている。
ただし、ページを繰る手は止まったままだ。
時折、その視線が響の方へ向けられ、すぐに逸らされる。 耳がわずかに赤い。
この小娘、またツンデレを拗らせてやがる。
その隣では、リリィがノートPCを膝に抱えていた。
画面には何やらデータが表示されているが、キーボードを叩く音はしない。
時折バスケットからクッキーを摘んでは、口に運んでいる。
珍しく、仕事モードではないらしい。 まるで日向ぼっこする猫だ。
少し離れた場所では、鏑木 万里が追加のサンドイッチを仕込んでいた。
その巨体からは想像もつかない繊細な手つきで、パンに具材を挟んでいく。
どこか満足げな表情を浮かべているのは、自分の料理が皆に喜ばれているからだろう。
やはり主婦力が高い。 私の家にも一人欲しい逸材だわ。
仁科 真凜は、芝生に敷いたブランケットの上で正座し、ゆっくりとお茶を飲んでいた。
規律にうるさい彼女らしい姿勢だが、その表情はいつもより柔らかい。
時折、空を見上げては、小さく息をついている。
そして——
「義兄さん、もう一つどうぞ」
篠崎千紗が、トレイに載せたサンドイッチを響に差し出した。
銀髪が陽光に輝き、その姿は相変わらず天使のようだ。
ただし、その瞳の奥に潜む狂気を知っている美咲には、天使にしか見えない。
義兄を守るためなら何でもやる守護天使。
代わりに着脱不可能。 返品も売却も不可。 呪いの装備か何かかしら?
「おっ、サンキュー」
響がそれを受け取る。 千紗の表情が花開くように綻んだ。
義兄のためにサンドイッチを運ぶ——ただそれだけのことが、この少女にとっては心からの幸せなのだ。 このタイミングだけは純粋に美しい。
この場には第九の主要メンバーだけでなく、ひなたや静香や轟、予備部隊員、レティエやオーグリーの面々もいる。
みんな思い思いに、穏やかな空気を楽しんでいた。
「……はぁ」
美咲は小さくため息をついた。
廃墟のような基地。
ポーカーに興じる野犬のようなメンバー。
壁に突き立てられたナイフ——三区のポスターだけ、更に数が増えていた。
「ママァ」と叫ぶ高宮が、万里に圧縮される音。
それらの光景も、確かに第九の一面だ。 今でもブルっちゃう。
だが、こうして陽光の下で笑い合う姿もまた、第九部隊の——第九という『家族』の、真実の一面なのだ。
「それにさ」
響がサンドイッチを齧りながら言った。
「前にピクニックの約束してただろ? 待ってたんだ」
「約束……?」
美咲は眉をひそめ、記憶を辿る。
響がピクニックの約束をしていた相手——それは確か——
「あれは私じゃなくて『ベラドンナ』相手でしたよね!?」
災害現場で遭遇した、ヘムロックの実働部隊ベラドンナ。
黒衣のテロリスト姉弟、如月玲と如月透。
あの時、響は透と技術談義で盛り上がり、「今度ピクニック行こうぜ〜」などと呑気なことを言っていた。
万里特製サンドイッチと、自家製たんぽぽコーヒーで釣った交渉。
まさかあの美少年が、あんなに濃いヲタクな上、食いしん坊キャラだったなんて。
みんな属性が盆暮正月くらい渋滞してるんですが?
「よく覚えてんじゃん。 だからちゃんと、玲ちゃんと透くんも呼んでるよ」
「は?」
響が芝生の向こう側を顎で示した。
美咲が振り返ると——木陰に、黒いゴシック調の衣装を纏った二つの人影があった。
喪服のような黒いドレスに身を包んだ女性と、チェロケースを背負った線の細い少年。
ベラドンナの二人が、レジャーシートの端に静かに座っていた。
玲は優雅にカップを傾け、透は万里のサンドイッチを頬をパンパンにして齧っている。
まるで昔からそこにいたかのような自然さで、ピクニックに溶け込んでいた。
「テロリストと非公式お茶会!?」
確かにフェスの時は一緒に食卓を囲んだ仲だが、まさかプライベートでもテロリストと関わるなんて。
ナチュラルに理科室を爆破しようとする狂人ですよ? くそ、この男も同じだった!
「お茶会にしては、ずいぶんと俗っぽい料理ね」
玲がカップを傾けたまま、ふっと笑った。 その視線が、一瞬だけ響を捉える。
冷ややかでありながら、どこか——面白がっているような色が滲んでいた。
「でも——悪くないわ」
「姉さん、このサンドイッチ美味しい……」
透が小さく呟く。
リスみたいに頬がパンパンのまま、もう次のサンドイッチに手を伸ばしている。
敵対しているはずの二つの組織。
片や生を掲げるアイドル、片や死を与えるテロリスト。
水と油のはずなのに——なんで毎回こんなに馴染めるのか。
「……ま、いっか」
美咲は小さくため息をついた。
考えても分からないものは、分からない。
この第九という場所は、常識が通用しない。今更だった。 いやマジで。
***
ピクニックが進むにつれ、美咲は異様な気配を感じ取った。
背筋を走る悪寒。
本能的な警戒。
ディストルに遭遇した時とは違う種類の——もっと原始的な、女としての危機感だった。
レジャーシートの一角が、異常なオーラに包まれている。
美咲はそちらを見て——めちゃくちゃ後悔した。
気がつけば、響の『嫁』たちが勢揃いしていた。
「旦那様」
東雲 カレンが、優雅に響の膝を叩いた。
妊娠中とは思えない貫禄。 正妻としての余裕が、その仕草の端々に滲み出ている。
柔らかく、しかし有無を言わせぬ別種の怖さがある。 美咲は震えた。 響も震えてた。
「ちょっと膝を借りるよ。まさか、身重の妻の頼みを断らないよね?」
響に有無を言わせず、カレンはその膝に素早く寝転がる。
まるで猫のような俊敏さ。 中身は獰猛な雌ライオンだが。
「響さん」
穏やかな声が、横から割って入った。
多々良 弥生——元マエストロにして、響の二番目の妻。
優雅な微笑みを浮かべながら、いつの間にか響の肩に手を添えている。
いつもながら、足音がなさすぎる。暗殺者か何かなのだろうか?
「最近、書類仕事が多かったでしょ? ママが、マッサージしてあげますね〜」
弥生の指が、響の肩を揉み解し始める。
菩薩のような微笑みの奥で、瞳が猛禽のように光っていた。
「響さん」
おっとりとした声が、背後から響いた。
振り返ると、響の三人目の妻——水無瀬さよが、にこやかに立っていた。
元パウーザの看護師長。 柔らかな物腰と、清楚な雰囲気。
ただし、もちろんその目は全く笑っていない。 みんなハイライトが帰省中なの?
「最近、寝不足では? お肌の調子が少し悪いように見えますわ」
「えっ、マジぃ?」
響が慌てて自分の顔に触れた。
「今日は私が添い寝して、睡眠の質を管理しますね」
さよの微笑みは聖母のようだが——美咲には、その奥に潜む執念が見えた。
水面からじっと獲物を見つめる、ワニのような得体の知れない恐怖が滲む。
「響ぃ。私も仕事終わったよー」
最後に、野性味あふれる声と共に——小柄な影が響に飛びついた。
ノラ——廃墟から保護された元野良ノイザー。響の四番目の嫁だ。
普段は食糧生産プラントを任されている彼女も、今日は参加していた。
彼女には、遠慮や駆け引きという概念がない。
ただ純粋に、好きな相手に寄り添うスタイルだ。
「っ——ちょ、待っ——四方から——」
カレンが膝枕を要求し、弥生がマッサージを続け、さよが添い寝を提案し、ノラが抱きついている。
文字通り、四方向から愛の圧(物理)を受けて——響は窒息寸前だった。
「遂に世界の終わりの襲来だわぁ。 こわぁ」
美咲は遠い目で呟いた。 四人の女性が、にこやかな笑顔で牽制し合っている。
それぞれの武器を駆使した、静かなる戦争——いや、これはもはや捕食だ。
ライオンに、ハゲタカに、ワニに、ハイエナ。 ここはサファリパークかな?
遠くで、玲が呆れたような、それでいてどこか面白そうな目で眺めている。
透は見て見ぬふりをしてサンドイッチを食べ続けていた。 心が強い。
「ちゃんミサキ……助けて……」
響が砂漠で水を求める遭難者のように、美咲の方へ手を伸ばす。
「自業自得でしょう」
その手を、美咲はバッサリと切り捨てた。
「四人も嫁がいて何言ってるんですか。自分で蒔いた種でしょうに」
「俺だって好きでこうなったわけじゃ——」
「嘘おっしゃい」
カレンが響の顔を見上げながら、その襟首を掴んだ。
「私たちを選んだのは、誰だい?」
「……俺です」
「じゃあ、責任取ってね?
それに妻に囲まれながら他の女に声かけるなんて、随分舐めてるわね」
ニッコリと——カレンが笑う。 響を取り囲む女性陣の顔も、一様に笑顔。
その表情を前に、美咲は思わず顔を逸らした。
どうしてこんな怖い笑顔ができるんだろうね。
この男は、自らの手で地雷原に飛び込んだのだ。
そして今、その地雷が一斉に爆発している。ザマァ。
でも私のいない場所でやってほしい。 巻き込まれたくないので。
とっととこの場を離れようと、美咲が心を決めた時。
ふと、カレンが負傷した右目を瞑っている姿が目に入った。
入ってしまった。
「……カレンさん。もしかして、右目がまだ痛むんですか?」
「ん? あぁ違うよ」
カレンの左手が、響の首元から離れる。
代わりに彼の手を掴むと、カレンはそれを自分の右頬まで持ってきて、そっと頬をすり寄せた。
響の指先が、カレンの閉じた瞼に触れる。
その仕草は、まるで壊れ物を扱うように優しかった。
「響との時間は、カノンとも共有したくないだけ。
ただでさえ分割されてるからね」
そう言って、カレンは微笑んだ。相棒と同じ色に染まった右目を閉ざしたまま。
その笑みには、先ほどまでの威圧感はなかった。
ただ、愛しい人の温もりを感じている——そんな、無防備な幸福が滲んでいる。
——藪蛇だったぁぁ。死にてぇぇ——
美咲は心の中で絶叫しながら、そっと視線を逸らした。
***
「せっかくだし、写真撮ろうぜ!」
響の声が、芝生に響いた。 陽の光に照らされながらも、どこか煤けている。
古びたインスタントカメラを手に、彼は嬉々としてメンバーを招集し始める。
おそらく万里がバスケットに忍ばせていたのだろう。
「全員集合ー!」
「え、私も? 二人っきりならまだしも?」
湊が露骨に嫌そうな顔をした。 心の声が漏れてますよ?
「当たり前だろ。 第九のメンバーなんだから」
「……別に、私はそういうの——苦手なのよ。 二人っきりならまだしも」
「後で見返したら絶対いい思い出になるって」
湊が鼻を鳴らし、渋々——本当に渋々という態度で、立ち上がった。
その耳がわずかに赤いことに、美咲は気づいた。 心の声ダダ漏れですよ?
真凜も「記録として残すべきですね」と言いながら、整然とした動作でフレームに収まった。
リリィは「変態パパの自己満足に付き合わされるのは不本意です」と毒を吐きながら、それでも素直にカメラの前に立った。
万里は黙って——だが、どこか嬉しそうに——巨体をフレームに収めた。
千紗は「義兄さんと一緒!」と目を輝かせ、響のすぐ隣を陣取った。
カレン、弥生、さよ、ノラも、それぞれの位置に収まる。
飛田と堀内は緊張した面持ちで端に立ち、子供たちは前列で賑やかに手を振っている。
そして——
「玲ちゃん、透くんも」
響が手招きした。
「……冗談でしょう」
玲が眉を上げる。
「テロリストが記念写真に収まるなんて——」
「いいじゃん。どうせ誰にも見せないし。九区の仲間だろ?」
玲は一瞬、言葉を失った。
仲間。 その言葉を、この男は——敵対者に向けて、躊躇なく使う。
「……一枚くらい、いいんじゃない?」
透の呟きに、玲がため息をつく。
だが、その足は——フレームの端へと向かっていた。
「それじゃ私は記録係なので……」
美咲はカメラを受け取ろうとした。だが、響が腕を引いた。
「撮る側じゃなくて、撮られる側だよ。美咲ちゃんも第九の一員なんだから」
その言葉に、美咲は言葉を失った。
記録係。
広報担当。
共犯者。
元スパイ。 肩書き多いな。
そんな肩書きではなく——『第九の一員』として。
美咲はポケットの中の、藍色の万年筆にそっと触れた。
『記録係には、良い道具が必要だろ』——あの時の言葉が、胸に蘇る。
「……わかりましたよ」
美咲は小さく頷いて、輪の中へ入った。
「いくよー!」
響がタイマーをセットし、走ってフレームに飛び込んだ。
カレンの隣にねじ込まれ、千紗に腕を掴まれ、湊に睨まれ——それでも、彼は笑っていた。
皆が笑っていた。
テロリストも、元スパイも、野良ノイザーも、退役者も——
この瞬間だけは、ただの『家族』として。
シャッター音が響く。 かけがえのない一瞬が、切り取られた。
***
陽が傾き始めた頃。
ピクニックの片付けが終わり、メンバーが三々五々と基地へ戻っていく中——美咲は通信室へ向かっていた。
定例報告の時間だ。
ピクニックで浮かれていても、仕事は仕事。第九地区の状況を、本部へ報告しなければならない。
一応、まだスパイってことになってるから。 狸どもが信じているのかは怪しいけど。
通信室のドアを開けると——すでに響がそこにいた。
薄暗い部屋のモニターの前で、リリィが無表情のまま報告している。
「——変態パパ、通信です。 第七地区から『技術協力の打診』が来ています」
「七区?」
響の目が、一瞬だけ鋭くなった。
それは『クズ上司』ではなく——策士としての顔だった。
「……やっぱり、あそことは縁が切れねぇか」
響が通信室の椅子に深く腰掛ける。
モニターに表示された通信記録を眺めながら、彼は顎に手を当てた。
その時——通信室のドアが開いた。
振り返ると、ひなたと、表情を強張らせた弥生が立っていた。
弥生の顔から、先ほどまでの穏やかさが消えている。
代わりにあるのは——何か、複雑な感情を押し殺したような、硬い表情だった。
「響さん」
「ああ、弥生さん。 聞こえちゃった?」
「……ええ」
弥生は小さく頷いた。 その視線が、一瞬だけ虚空を彷徨う。
七区——その言葉が、彼女の中で何かを揺さぶっているのは明らかだった。
響は立ち上がり、弥生の肩にそっと手を置いた。
「心配すんな。何があっても、弥生さんは第九の人間だ」
「……ありがとう、響さん」
弥生は小さく微笑んだ。 だが、その瞳の奥には——まだ、何かが渦巻いているように見えた。
通信室を後にする響の背中を見送りながら、美咲は思った。
——第九地区は、また嵐の中へ向かおうとしている——
だが、不思議と恐怖はなかった。
あのピクニックで見た、皆の笑顔があるから。
テロリストまで含めた、あの奇妙な家族写真があるから。
どんな困難が待っていても——この場所は、きっと大丈夫だと。
そう、思えるようになっていた。




