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ディストピア系アイドルゲームの指揮官に転生したので、クズを演じながら推し活することにした  作者: 西嶽 冬司
2章【楽園、あるいは独裁国家】

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第22話【継承、あるいは歓喜の歌】


黒い波が、押し寄せてくる。


港湾施設『ターミナル』から溢れ出したディストルの群れは、濁流のように第九基地へと迫っていた。

数十、いや数百。

人の形を辛うじて保ちながらも、腕は異様に肥大化し、全身から黒い靄が立ち昇っていた。


「さすが静香ちゃん。 予想ぴったりのご到着だ」


薄闇の中、基地へと迫り来る破壊の予兆を双眼鏡で眺めながら、響は静香へ賞賛を送った。

表情こそいつも通りの軽薄さを装っているものの、その瞳には隠しきれない焦燥が滲んでいる。

深紫色の寒気の中、彼の頬から一筋の汗が滑り落ちた。


「轟、『パウーザ』での作業の進捗は?」


『8割方作業は終わった。あとはデカイ機材だけだ』


インカムの先から聞こえる轟の応答。 その後ろからは、重い作業音や怒号が響く。


「……了解。もう時間切れだ。撤収してくれ。

 帰りはちゃんと裏口から入れよ」


ほぞを噛みながら、響は通信のチャンネルを切った。


『ターミナル』襲撃の一報を受け、第九は上へ下への大騒ぎとなった。

響は即座に展開中の部隊へ帰還を命令したが、最低でも一日ほどの時間を要する。

合わせて轟にはパウーザ内の退避支援を要請し、響自身は近隣住民の避難誘導に当たった。


「……ハァ。見事にフラグ立てちまったなぁ」


『カナリア』の接敵予想に合わせて仮眠をとった響と美咲が目を覚ますと、あろうことか予備部隊員の大半が離反していた。


「補充要員はまだ時期尚早だったか……」


とっくに熱を失ったたんぽぽコーヒーの味。 いつもより苦く感じる。

そんな彼の元へ、美咲が駆け寄った。


「……美咲ちゃん。被害状況はどうだった?」


「……部屋の備品だけでなく、食料品や医療品——音響兵装ハーモニック・ギアまで盗まれてます」


「残された物資と人員で、あの団体様を相手に時間稼ぎか。

 毎度のことながら、第九で起こるイベントは最高にロックだねぇ」


苦味と酸味を存分に味わう顔で、響が天を見上げた。

月はなく、雲は厚い。明かりのない暗闘が、まるで未来を象徴しているようで——


「——随分とシケた顔してるじゃないか。 いつものニヤケ顔はどうしたのさ」


まとわりつく恐怖を打ち払うように、甘く退廃的な声が、美咲の耳朶を震わせた。




***




「む、無理です……!」


予備部隊員の男——飛田の声が裏返った。

楽器を構える手がガタガタと震え、顔面は蒼白で瞳孔が開ききっている。

純粋な恐怖が、彼の全身を支配していた。


「あんなの、近づいたら一瞬で……!」


「音が……合わない! 手が震えて……!」


別の予備部隊員——堀内がギターの弦を弾こうとするが、指が滑って空振りする。

チューニングは合っているはずなのに、出てくる音は不協和音だった。

精神の乱れが、そのまま音に出てしまっている。


一人が怯えれば、隣の者も怯える。 そのまた隣も。

ドミノ倒しのように、恐怖は伝染していく。


今、彼らの肌を撫でているのは——純粋な死の予感。

視界を埋め尽くすほどの、うごめきひしめく影。

湧水のように際限なく溢れ、自分たちへと愚直に突き進んでくる。


砕き、壊し、噛み砕き——同じものへと堕とすために。


生物としての本能が、全力で逃げろと叫んでいる。


足が竦む。

息が詰まる。

視界が狭まる。


防衛ラインが決壊しかけた、その瞬間——




腹の底に響く、重厚なベース音が戦場に割り込んだ。


その一音は、恐怖で凍りついた空気を物理的に揺さぶった。

新人たちの心臓が、強制的にリズムを刻まされる。

震えていた膝が、一瞬だけ止まった。


「おいおい、散歩に来てみればなんだいなんだい」


気だるげな声。 振り返ると、そこにはベースを吊り下げた長身の女が立っていた。


東雲 カレン。


タバコの代わりにガムを噛みながら、ゆったりとした足取りで新人たちの前に歩み出る。

新しい生命が宿ったお腹を庇うでもなく、堂々と。


その姿は、『アーティスト』というより『アナーキスト』——

あるいは、戦場に降り立った女神のようでもあった。


「シケた音出してんじゃないよ」


カレンの視線が射抜く。

その目は怯える新人たちを見ていない。

迫りくるディストルの群れを、ただ真っ直ぐに見据えている。


「胎教に悪いだろ?」


「え……東雲、さん……?」


新人たちが目を丸くする。

妊娠中で安静のはずの彼女が、なぜここに?


カレンはニヤリと笑って背中で語った。

その背中には、擦り切れたストラップが揺れていた。

ボロボロの革。 もう何度も修理を重ねた、限界を超えた代物。


「よく聞いておきな」


弦に指をかける。


ディストル達が咆哮を上げた。

空気が震え、大地が軋む。

肥大化した剛腕を振りかぶり、カレン達を薙ぎ払わんと躍りかかる。


「ひっ——!」


新人たちが悲鳴を上げる。 目を瞑り、死を覚悟する者もいた。


だがカレンは、一歩も退かなかった。


「これが第九の『リズム』だ」


低く、重く、腹の底を揺さぶる音が鳴り響き、目に見えるほどの『音圧』が展開された。

空気が凝縮し、実体化したかのような壁がディストル達の剛腕を押し留める。

ギチギチと音と力がせめぎ合い、黒い腕が震え、カレンの足元の地面がひび割れていく。

コンクリートに亀裂が走り、砂埃が舞い上がる。


彼女は微動だにしなかった。

それほどに圧力を前にしても、毛ほども驚異に感じていない顔。


かつての『死にたがり』。

でも今そこにあるのは、子を守る母獣のような——圧倒的な存在感。


新人たちは呆然とその背中を見つめていた。

同じ音響楽器を使っているはずなのに、出てくる音の次元が違う。


これが第九部隊の『プレイヤー』。


これが、東雲 カレン。


「……重くなったもんだ。 ベースも、守るもんも」


胎の中で、小さな命が脈打っている。

響の子供。 愛おしい、まだ見ぬ我が子。

背後には怯える新人たち。

守るべきものが、こんなに増えた。


昔の自分なら重荷だと感じただろう。

逃げ出したくなっただろう。


でも、今は——


「……こういうのも、悪くないね」


カレンが笑った。

その笑みは、かつてないほど穏やかで——そして、強かった。







だが状況は、甘くはなかった。


カレンの防壁に阻まれたディストルたちが、徐々に動きを変え始める。一体、また一体と天を仰ぎ、口を開いていく。


ディストルの群れが、共鳴を開始していた。


最初は、か細いうめき声。 人間の声帯では出せないはずの、低く歪んだ音。

それが一体から二体へ、二体から十体へと広がっていく。

数十体の喉から漏れる不協和音が共振し、増幅し️——


やがて一つの『音』へと収束していく。


音が視覚化されたかのように、黒い波紋が広がっていく。

新人たちの肌が粟立ち、本能的な恐怖が蘇る。


『ヴォイドハウリング』


数百体の絶望が束ねられた、指向性を持った破壊の奔流。


Aランクが引き起こす『W4』に比肩、あるいは——




それが、カレン達に向けられていた。


「——させないよ……!」


カレンがベースの弦を連続で弾き、音圧の壁を幾重にも重ねる。

一重、二重、三重——音と共に、重力の檻が圧力を増していく。


一体、二体、五体、十体、二十体……ディストルが次々と潰れ、粒子となる。


圧倒される新人たち。 その姿を、カレンが肩越しに見つめる。

視線は気怠げだが、我が子を見守る母のような暖かい輝きがあった。


「……ビビって膝が笑うなら、アタシの音に合わせて揺らしときゃいい」


ニヤリと旦那に似た笑みを浮かべ、カレンが大袈裟にリズムを取る。

膝を揺らし、肩を揺らし、身体を揺らしてビートを刻む。

むせ返るほど濃密な死の気配を前にして、カレンは笑う。


「竦むなら手足を動かせ。怖気るなら声を出せ。

 縮こまってるだけじゃ、何も手に入らないだろ」


音が重なり始める。 一つ、一つと音色が集まりだす。

カレンの音に導かれるように、新人達は震える指を必死に動かした。


ぎこちなく、拙いメロディー。

そんな『音』が、ディストル達の津波を打ち消していく。


「良いね。 良いセッションだ」


必死で食いついてくる新人達へと、カレンは満足げな視線を送る。

確かにまだまだ技術は拙い。 音も飛んでるし、リズムもズレている。


でもその心は——確かに『第九』の旋律を奏でていた。


——これなら、後を任せられるかもね——


カレンが、これからの第九に思いをはせる。

引退することへの一抹の寂しさと、新しいその姿への期待。

そんな寂寞が、カレンの胸に去来する。


「——東雲さん、アレ!」


飛田の声に、カレンが弾かれたように前を向くと——


赤黒く肥大したディストルが、咆哮を上げていた。


金属を引き裂くような不快な音が、黎明の空を破る。

不協和音が、カレン達の『音』をかき消していく。


「くっ……!」


バンシーの叫びがその身に届く寸前、カレンはありったけの音圧を放った。

足が地面にめり込んでいく。

腕が震え、額から汗が滴り落ちる。

歯を食いしばり、必死に堪える。


「くそっ、重い……!」


カレンの表情が険しくなった。額に、じわりと汗が滲む。


随分と前から気づいていた、己の違和感——いつも通りの『音』が乗らない。

長年の部隊経験の影響か、それ以外の問題なのか。


ノイズとしての能力に陰りが見え始めていた。


引退を決意した要因の一つ。 それが、ここに来て——


後ろには新人たちがいる。 逃げろと言っても、足が竦んで動けないだろう。

仮に動けたとしても、この速度のヴォイドハウリングからは逃げられない。


だから、回避行動は取れない。


ここで退いたら、あの子たちが死ぬ。


カレンの音の壁は、ガラスのように粉々に打ち砕かれた。

咄嗟に我が子とベースを守るため、その半身を捻る。


「東雲さん!」


『カレン!!』


新人とインカム越しの響の叫びが、カレンの意識をかろうじて繋ぎ止める。

防護服のお陰で致命傷はなんとか避けられた。


それでもダメージは甚大だった。


脚は言うことを聞かず、腕が上がらない。

右の視界は完全に潰れてしまった。


「クソったれ。 アイドルの顔に傷をつけやがって。 この借りは高くつくぞ」


砕けた歯と一緒にガムを吐き捨てる。

右半分を血で真っ赤に染めながら、カレンの眼差しはより強く輝く。

普段の気怠げで退廃的な色とは違う。

ディストルの喉を食い破るような、獰猛で鮮やかな、生を掴むための光。


『カレン、もういい! 下がれ!!』


響の悲痛な叫びが、インカムを震わせた。

後ろからドタバタとした物音や美咲の声が漏れてくる。

恐らく司令室を飛び出しそうな響を、みんなで押さえつけているんだろう。


——毎度毎度、コンダクターが前線で出てくるんじゃないよ——


呆れながらも、カレンは愛しい男の顔を思い浮かべた。

いつもいつも適当なことばかりな上に、なぜか妄想の男とくっつけようとする変人。

出会った時の印象は最悪だったのに、まさか夫婦になるなんて。


次いで脳裏に浮かぶのは、騒がしい『第九』のメンバー達。

結成当初は、決して仲が良かったわけじゃなかった。むしろ関わらないようにしていた。


なのに、今ではかけがえのない『日常』の一部になっている。


それは、クソッタレで理不尽な世界で見つけた、何ものにも代えがたい光輝くもの。


「おいおい旦那様、冷めること言うなよ」


もしここで引けば、確かに今は生き延びられるかもしれない。

だがそうすれば、ディストルは『家族』の居場所を破壊する。


湊のギター。

リリィのオタグッズとPC。

真凜のゴルフセット。

万里の厨房器具。

千紗の義兄コレクション。

そして、響のガーデニングスペース。


その全てが、瓦礫に変わってしまう。


カレンは動かない足で踏ん張り、上がらない腕を必死で持ち上げた。


「——アンタは黙って、『特等席(アリーナ)』で見てなよ」


震える指を必死に動かし、カレンが音を紡ぐ。

顔面を濡らす流血は止めどなく、顔中に玉のような汗が浮かぶ。

ベースを掻く指捌きには、普段の精彩さの影もない。

ぽつりぽつりと音がズレ、テンポやリズムが乱れる。


それでも、その音は魂を震わせた。


「——!」


庇われ軽傷だった新人たちが、音を合わせる。

歪で、見苦しい。 必死でもがきながら、生を掴もうとする姿——


「私の——私たちの『生き様(ロック)』を!」


赤黒いディストルが、再度咆哮を放つ。

何十ものディストルの声が束になった音爆。

その凶暴な唸りにカレン達の音が正面からぶつかっていく。


ギチギチと音が食い合いながら、カレン達とディストルの群れの中央で拮抗する。


だがそれも一瞬のこと。

徐々に天秤がディストルへと傾いていく。

音の壁が迫ってくる中、カレンは必死でベースを掻き鳴らした。

爪が剥がれ、右の眼窩から血が溢れる。


それでも、カレンに絶望の影はない。


彼女の脳裏に浮かんだのは、先ほど司令室で交わした会話。

あの男、相変わらず無茶だ。正気じゃない。


でも——


『——プランBで行く』


噛み殺すような響の声が、インカムから漏れた。


『1番から6番ダンパーの変換炉を露出させる!』


『——了解』


制御室からの弥生の通信。

普段は冷静なひなたの、悲鳴に近い応答がカレンの耳に届く。


『危険! 起動したら炉心が溶けて、施設全体が吹き飛びかねない!』


「……響」


カレンの唇から、呆れと愛しさが混じった声が溢れる。


『カレンが死ぬよりマシだ! 推しを死地に送って、のうのうと生き残れるわけないだろ!』


響の声が通信に割り込む。 その声には、一切の迷いがなかった。

相変わらず、『推し』のために無茶をする男だ。

たくさんの命を背負っている指揮官としての自覚がなさすぎる。


——でも、だからこそなのかもね——


『私は生き残りたいんですけど!?』


『ウルセェ! この基地のルールは俺だ! 弥生、やれ!!』


『はいは〜い。『ママ』にお任せくださ〜い。

 ——1番から6番のダンパーの外壁を開放。 エレベーションシステム始動』


美咲の悲痛な叫びを封殺し、響は下知を下した。


地核ノイズを受信させるために地下に埋没していたダンパーの外壁が開放。

鈍く響く駆動音と共に、六本の鉄柱が地表へと迫り上がる。


『——どうなっても知らないから。メンテナスハッチ開放。炉心を暴露させる』


塔のように聳える鉄柱——ダンパーの側面の一部がスライド。

その中から、八本の円柱が外気へと露出された。


『静香、あの赤黒いディストル(ボケカス)に変換炉を同調させろ!』


『……共振作用によって波長が不安定。 同調率は精々が60%。 本当にできるの?』


『できらぁ! セーフティー解除! 変換ダンパー、オーバードライブ!』


変換炉が起動した。


ダンパーから突き出した炉心が震えながら光を放つ。

カレン達を押し込んでいた『ヴォイドハウリング』が変換炉へと流れ、その圧力を急激に下げていく。


だが、設計通りの起動ではない。

おまけに同期率60%——不完全な状態での強制起動。


この状態で起動すれば、変換しきれないエネルギーが暴走する。


炉心からバリバリと火花が漏れ、二つのダンパーの炉心が次々と弾け始める。


『3番ダンパー、4番ダンパーの炉心が爆散! 稼働率25%!』


ひなたの悲痛な叫びがインカムから響いた。


『変換した電力の過剰分が暴走。このままだとバッテリーごと基地が吹き飛ぶわね〜』


『弥生。 九区内の各施設の変換炉へ、電力をバイパスしろ!

 ついでに基地中のクーラーでも起動するか』


施設全体がきしみ始めた。

壁が震え、天井から埃が落ちてくる。警報が鳴り響き、赤い非常灯が点滅する。


それは純粋な振動エネルギー——制御を失った、荒々しい『音』そのもの。

電力に変換されるはずだったエネルギーが、生のまま放出されている。


高周波ノイズが、戦場に響き渡る。


機械の断末魔。

金属が軋み、空気が裂ける、耳をつんざくような轟音。

普通の人間なら、鼓膜が破れてもおかしくない。




——カレンは、その音の中に、別の音を聴いた。


激しく歪んだ、ディストーション・サウンド。

高音域で切り裂くような、攻撃的なギターの音色。

荒々しくて、乱暴で、でもどこか優しい——




聴き間違えるはずがなかった。




「……はは」


乾いた笑いが、血に濡れた唇から漏れた。


「なんだい、あんた」


変換炉から漏れ出した光の粒子が、カレンの周囲に集まり始める。

淡い金色の輝きが蛍のように舞い踊り、徐々に密度を増して人の形を取り始めた。


そして——背中に、ふわりと重みが乗った。


懐かしい重み。 何度も背中を預け合った、あの感覚。


「随分と派手な『お帰り』じゃないか」


振り返らなくても分かる。


未だ目に焼き付いている。 幻影のギターを構え、悪戯っぽく微笑むその姿。


金の髪が、存在しない風に揺れている。

口元には煙草——いや、光の粒子で形作られた煙草の幻影。

不敵な笑み。挑発的な目つき。


かつて『最強のコンビ』と呼ばれた、もう一人の半身。


「……遅いよ、バカ!」


カレンの目から、涙が溢れた。


『先行投資さ。その革が擦り切れるまで、あんたは生きな。——私の隣でね』


擦り切れたストラップが風に揺れていた。

約束の革は、もう限界を迎えようとしている。


カノンの幻影が、ギターを構えた。


あの頃と同じフォーム。

左足を前に出し、やや前傾姿勢で、ネックを斜め上に向ける攻撃的なスタイル。

何百回、何千回と見てきた姿。夢にまで出てきた姿。


「……行くよ、カノン」


カレンがベースを構え直す。 涙を拭う暇もない。 拭う必要もない。




「最後のセッションだ」


カノンが弦を弾いた。


その一音で、世界が変わった。


高音域で空気を切り裂く、攻撃的なギターサウンド。

かつて『二人で一つ』と呼ばれた、魂の片割れの音。


『——遅いよカレン! 私の背中、見失うんじゃないよ!』


廃墟を駆け抜けながら、カノンが振り返って笑った日々。


喧嘩しながら、それでも誰よりも音を重ねていた日々。


灰色だったカレンの世界に、初めて色が差した日々。


声はない。幻影には声がない。 でも、その目が語っていた。


『歌えよ、カレン』

『あんたの声で、歌え』

『私が伴奏してやるから——思いっきり、歌え』


カレンの喉が震えた。


最後に歌ったのは、いつだっただろう。

カノンが死んでから、歌うことをやめていた。

歌えば、あの日を思い出すから。

二人で歌った日々を思い出すから。


でも——




今なら、歌える。


今なら——カノンと一緒に、歌える。


「————」


最初は、掠れた声だった。


血と涙で濡れた喉から絞り出された、か細い音。

それでも確かに、旋律を紡いでいた。


カノンのギターが呼応する。

カレンの声を支えるように、音量を落として寄り添う。


『そうだ。 そうだよ、カレン』

『あんたの声、最高だって言っただろ』


カレンの声が、徐々に力を取り戻していく。


ビターだけど甘い、ハスキーな声。

酒と煙草で焼けた喉が紡ぐ、唯一無二の音色。

それは叫びであり、祈りであり、宣言だった。


カノンのギターが跳ね上がる。

カレンの声に合わせて、リフを刻み始める。


「————」


カレンがベースを叩きつけるように弾く。歌いながら、弾く。

かつて二人でやっていたように。


カノンの高音とカレンの低音が絡み合い、一つの旋律が生まれる。


それは——かつて二人で作った、魂の旋律。


新人たちが顔を上げる。

恐怖に震えていた彼らの目に、光が戻っていく。


その背中を見ている。

その音を聴いている。


心臓がカレンのリズムに同期し始めている。


「聞こえるかい!?」


カレンが叫ぶ。


新人たちに。

戦場に。

この世界に。


そして——まだ見ぬ我が子に。


「私たちが泥水を啜って掴んだこの一瞬は——誰にも奪えない最高の一日だ!」


カノンのギターが天を貫くように嘶く。

黄金色の光が柱となって立ち昇り、闇を切り裂く道標となる。


「そんな最高を積み重ねていくのが——」


カレンがベースを振り上げた。

黄金色のエネルギーが楽器を中心に渦を巻き、カノンのギターと螺旋を描いて交じり合う。

二人の呼吸は、コンマ一秒の狂いもなく重なっていた。


5年前と同じように。 いや——5年分の愛と痛みを込めて。


「——それが、生きるってことなんだよ——」


新人たちの音が、雪崩れ込む。


拙くて、ぎこちなくて、まるで揃っていないノイズの塊。

だがそれは、間違いなく『生』への渇望だった。


カレンとカノン、そして新人たち。




「——それが、私たちの『明日(ライブ)』だ!」




全ての音が一つの『歓喜の歌』へと収束した瞬間——


極大の衝撃波が、放たれた。


光の奔流がヴォイドハウリングを真っ向から突き破る。

黒と金がぶつかり合い、せめぎ合い——




金色が、勝った。


光の津波がディストルの群れを飲み込んでいく。

彼らの絶望を——『歓喜』で上書きして。

一体、また一体と、黒い影が光に溶けて消えていく。


悲鳴はなかった。

断末魔もなかった。

まるで、ようやく眠りにつけた安堵のような——静かな消滅だった。




やがて、戦場に静寂が戻った。




***




埃と光の残滓が漂う中、カレンは荒い息をついていた。


全身から力が抜けていく。 膝が笑い、立っているのがやっとだ。

それでも心は、不思議と穏やかだった。


隣には、カノンの幻影がまだそこにいた。

金色の粒子で編まれた姿は、今にも消えそうに揺らめいている。

儚くて、美しくて、眩しい。


カノンがカレンのお腹を見た。 そこに宿る新しい命を。

じっと見つめて——


カノンの手が、そっとカレンの右頬に触れた。

みんなを守って傷ついた、ボロボロだけど誰よりも気高く美しい傷跡。

愛おしむように、カノンの唇がカレンの右目へと触れる。


そして、満足そうに頷いた。


『よかったね』

『幸せになりな』

『あんたの子供、きっと可愛いよ』


そんな声が、聞こえた気がした。

それは、ノイズの能力なせる知覚だったのか。

それとも、幻聴だったのか。


カノンが手を振った。5年前のあの夕暮れと同じように。


『じゃあね。最高のセッションだったよ』——そう言った時と、同じ笑顔で。


そして——光の粒子となって、空へ溶けていった。


夕陽の中に、金色の光が吸い込まれていく。


蛍のように、星のように、散っていく。


カレンはその光を見送った。


「……ありがとね」


呟いた声は、震えていなかった。


その直後——乾いた音がした。


限界を迎えたストラップが、ついに切れた。


落ちていくベース。

カレンはそれを、まるで我が子を抱くように優しく抱きとめた。

手の中で、切れたストラップがぶら下がっている。

ボロボロに擦り切れ、もう原型をとどめていない革。

イニシャルは、完全に消えてしまっていた。


『その革が擦り切れるまで、あんたは生きな』


約束は、果たされた。 革は擦り切れた。


でも——カレンは、まだ生きている。


「またね、親友。 次のセッションは、だいぶ先だと思う」


そう静かに呟き、ベースを足元に置き、顔を上げる。


そこには——泥だらけで勝利を喜ぶ新人たちの姿があった。

さっきまで恐怖に震えていた彼らが互いに抱き合い、涙を流している。

生き残った喜びを噛みしめている。


遠くから駆け寄ってくる足音が聞こえる。

地平線からはトランポの上げる砂埃が見えた。


朝日が、汚れた戦場を美しく照らしていた。

血と砂煙と瓦礫の上に、黄金色の光が降り注いでいる。

まるで新しい一日の始まりを告げるように。


——苦くて、辛くて、しょっぱくて——


傷ついて、裏切られて、泣きながら生きてきた。

もうモノクロのように朧げで、擦り切れている記憶。


——そして煩くて、どうしようもないくらいキラキラと輝いてる——


代わりに胸に残っているのは、響や『家族』達との思い出。

出会った時から今まで、全部がただ煌めいた記憶として焼きついている。


お腹の中で、小さな命が動いた気がした。

まだ胎動には早い時期だ。 きっと気のせいだろう。


でも——そう感じた。


「——それが、アンタが産まれてくる『舞台せかい』だよ」


呟きながら、カレンは新しい生命へ触れた。




***




「——みなさんお疲れ様でした。

 物資と音響兵装の一部は、バラして市場へ流しなさい。後はご自由に」


ナギの声が、静かに響く。

通信端末の光だけが闇を照らしていた。

その表情は見えない。 声だけが、冷たく淡々と指示を紡いでいる。


『承知いたしました。それでは我々は再び影へ潜ります。

 ベラドンナのお二方へもよろしくお伝えください』

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