第22話【継承、あるいは歓喜の歌】
黒い波が、押し寄せてくる。
港湾施設『ターミナル』から溢れ出したディストルの群れは、濁流のように第九基地へと迫っていた。
数十、いや数百。
人の形を辛うじて保ちながらも、腕は異様に肥大化し、全身から黒い靄が立ち昇っていた。
「さすが静香ちゃん。 予想ぴったりのご到着だ」
薄闇の中、基地へと迫り来る破壊の予兆を双眼鏡で眺めながら、響は静香へ賞賛を送った。
表情こそいつも通りの軽薄さを装っているものの、その瞳には隠しきれない焦燥が滲んでいる。
深紫色の寒気の中、彼の頬から一筋の汗が滑り落ちた。
「轟、『パウーザ』での作業の進捗は?」
『8割方作業は終わった。あとはデカイ機材だけだ』
インカムの先から聞こえる轟の応答。 その後ろからは、重い作業音や怒号が響く。
「……了解。もう時間切れだ。撤収してくれ。
帰りはちゃんと裏口から入れよ」
ほぞを噛みながら、響は通信のチャンネルを切った。
『ターミナル』襲撃の一報を受け、第九は上へ下への大騒ぎとなった。
響は即座に展開中の部隊へ帰還を命令したが、最低でも一日ほどの時間を要する。
合わせて轟にはパウーザ内の退避支援を要請し、響自身は近隣住民の避難誘導に当たった。
「……ハァ。見事にフラグ立てちまったなぁ」
『カナリア』の接敵予想に合わせて仮眠をとった響と美咲が目を覚ますと、あろうことか予備部隊員の大半が離反していた。
「補充要員はまだ時期尚早だったか……」
とっくに熱を失ったたんぽぽコーヒーの味。 いつもより苦く感じる。
そんな彼の元へ、美咲が駆け寄った。
「……美咲ちゃん。被害状況はどうだった?」
「……部屋の備品だけでなく、食料品や医療品——音響兵装まで盗まれてます」
「残された物資と人員で、あの団体様を相手に時間稼ぎか。
毎度のことながら、第九で起こるイベントは最高にロックだねぇ」
苦味と酸味を存分に味わう顔で、響が天を見上げた。
月はなく、雲は厚い。明かりのない暗闘が、まるで未来を象徴しているようで——
「——随分とシケた顔してるじゃないか。 いつものニヤケ顔はどうしたのさ」
まとわりつく恐怖を打ち払うように、甘く退廃的な声が、美咲の耳朶を震わせた。
***
「む、無理です……!」
予備部隊員の男——飛田の声が裏返った。
楽器を構える手がガタガタと震え、顔面は蒼白で瞳孔が開ききっている。
純粋な恐怖が、彼の全身を支配していた。
「あんなの、近づいたら一瞬で……!」
「音が……合わない! 手が震えて……!」
別の予備部隊員——堀内がギターの弦を弾こうとするが、指が滑って空振りする。
チューニングは合っているはずなのに、出てくる音は不協和音だった。
精神の乱れが、そのまま音に出てしまっている。
一人が怯えれば、隣の者も怯える。 そのまた隣も。
ドミノ倒しのように、恐怖は伝染していく。
今、彼らの肌を撫でているのは——純粋な死の予感。
視界を埋め尽くすほどの、うごめきひしめく影。
湧水のように際限なく溢れ、自分たちへと愚直に突き進んでくる。
砕き、壊し、噛み砕き——同じものへと堕とすために。
生物としての本能が、全力で逃げろと叫んでいる。
足が竦む。
息が詰まる。
視界が狭まる。
防衛ラインが決壊しかけた、その瞬間——
腹の底に響く、重厚なベース音が戦場に割り込んだ。
その一音は、恐怖で凍りついた空気を物理的に揺さぶった。
新人たちの心臓が、強制的にリズムを刻まされる。
震えていた膝が、一瞬だけ止まった。
「おいおい、散歩に来てみればなんだいなんだい」
気だるげな声。 振り返ると、そこにはベースを吊り下げた長身の女が立っていた。
東雲 カレン。
タバコの代わりにガムを噛みながら、ゆったりとした足取りで新人たちの前に歩み出る。
新しい生命が宿ったお腹を庇うでもなく、堂々と。
その姿は、『アーティスト』というより『アナーキスト』——
あるいは、戦場に降り立った女神のようでもあった。
「シケた音出してんじゃないよ」
カレンの視線が射抜く。
その目は怯える新人たちを見ていない。
迫りくるディストルの群れを、ただ真っ直ぐに見据えている。
「胎教に悪いだろ?」
「え……東雲、さん……?」
新人たちが目を丸くする。
妊娠中で安静のはずの彼女が、なぜここに?
カレンはニヤリと笑って背中で語った。
その背中には、擦り切れたストラップが揺れていた。
ボロボロの革。 もう何度も修理を重ねた、限界を超えた代物。
「よく聞いておきな」
弦に指をかける。
ディストル達が咆哮を上げた。
空気が震え、大地が軋む。
肥大化した剛腕を振りかぶり、カレン達を薙ぎ払わんと躍りかかる。
「ひっ——!」
新人たちが悲鳴を上げる。 目を瞑り、死を覚悟する者もいた。
だがカレンは、一歩も退かなかった。
「これが第九の『リズム』だ」
低く、重く、腹の底を揺さぶる音が鳴り響き、目に見えるほどの『音圧』が展開された。
空気が凝縮し、実体化したかのような壁がディストル達の剛腕を押し留める。
ギチギチと音と力がせめぎ合い、黒い腕が震え、カレンの足元の地面がひび割れていく。
コンクリートに亀裂が走り、砂埃が舞い上がる。
彼女は微動だにしなかった。
それほどに圧力を前にしても、毛ほども驚異に感じていない顔。
かつての『死にたがり』。
でも今そこにあるのは、子を守る母獣のような——圧倒的な存在感。
新人たちは呆然とその背中を見つめていた。
同じ音響楽器を使っているはずなのに、出てくる音の次元が違う。
これが第九部隊の『プレイヤー』。
これが、東雲 カレン。
「……重くなったもんだ。 ベースも、守るもんも」
胎の中で、小さな命が脈打っている。
響の子供。 愛おしい、まだ見ぬ我が子。
背後には怯える新人たち。
守るべきものが、こんなに増えた。
昔の自分なら重荷だと感じただろう。
逃げ出したくなっただろう。
でも、今は——
「……こういうのも、悪くないね」
カレンが笑った。
その笑みは、かつてないほど穏やかで——そして、強かった。
だが状況は、甘くはなかった。
カレンの防壁に阻まれたディストルたちが、徐々に動きを変え始める。一体、また一体と天を仰ぎ、口を開いていく。
ディストルの群れが、共鳴を開始していた。
最初は、か細いうめき声。 人間の声帯では出せないはずの、低く歪んだ音。
それが一体から二体へ、二体から十体へと広がっていく。
数十体の喉から漏れる不協和音が共振し、増幅し️——
やがて一つの『音』へと収束していく。
音が視覚化されたかのように、黒い波紋が広がっていく。
新人たちの肌が粟立ち、本能的な恐怖が蘇る。
『ヴォイドハウリング』
数百体の絶望が束ねられた、指向性を持った破壊の奔流。
Aランクが引き起こす『W4』に比肩、あるいは——
それが、カレン達に向けられていた。
「——させないよ……!」
カレンがベースの弦を連続で弾き、音圧の壁を幾重にも重ねる。
一重、二重、三重——音と共に、重力の檻が圧力を増していく。
一体、二体、五体、十体、二十体……ディストルが次々と潰れ、粒子となる。
圧倒される新人たち。 その姿を、カレンが肩越しに見つめる。
視線は気怠げだが、我が子を見守る母のような暖かい輝きがあった。
「……ビビって膝が笑うなら、アタシの音に合わせて揺らしときゃいい」
ニヤリと旦那に似た笑みを浮かべ、カレンが大袈裟にリズムを取る。
膝を揺らし、肩を揺らし、身体を揺らしてビートを刻む。
むせ返るほど濃密な死の気配を前にして、カレンは笑う。
「竦むなら手足を動かせ。怖気るなら声を出せ。
縮こまってるだけじゃ、何も手に入らないだろ」
音が重なり始める。 一つ、一つと音色が集まりだす。
カレンの音に導かれるように、新人達は震える指を必死に動かした。
ぎこちなく、拙いメロディー。
そんな『音』が、ディストル達の津波を打ち消していく。
「良いね。 良いセッションだ」
必死で食いついてくる新人達へと、カレンは満足げな視線を送る。
確かにまだまだ技術は拙い。 音も飛んでるし、リズムもズレている。
でもその心は——確かに『第九』の旋律を奏でていた。
——これなら、後を任せられるかもね——
カレンが、これからの第九に思いをはせる。
引退することへの一抹の寂しさと、新しいその姿への期待。
そんな寂寞が、カレンの胸に去来する。
「——東雲さん、アレ!」
飛田の声に、カレンが弾かれたように前を向くと——
赤黒く肥大したディストルが、咆哮を上げていた。
金属を引き裂くような不快な音が、黎明の空を破る。
不協和音が、カレン達の『音』をかき消していく。
「くっ……!」
バンシーの叫びがその身に届く寸前、カレンはありったけの音圧を放った。
足が地面にめり込んでいく。
腕が震え、額から汗が滴り落ちる。
歯を食いしばり、必死に堪える。
「くそっ、重い……!」
カレンの表情が険しくなった。額に、じわりと汗が滲む。
随分と前から気づいていた、己の違和感——いつも通りの『音』が乗らない。
長年の部隊経験の影響か、それ以外の問題なのか。
ノイズとしての能力に陰りが見え始めていた。
引退を決意した要因の一つ。 それが、ここに来て——
後ろには新人たちがいる。 逃げろと言っても、足が竦んで動けないだろう。
仮に動けたとしても、この速度のヴォイドハウリングからは逃げられない。
だから、回避行動は取れない。
ここで退いたら、あの子たちが死ぬ。
カレンの音の壁は、ガラスのように粉々に打ち砕かれた。
咄嗟に我が子とベースを守るため、その半身を捻る。
「東雲さん!」
『カレン!!』
新人とインカム越しの響の叫びが、カレンの意識をかろうじて繋ぎ止める。
防護服のお陰で致命傷はなんとか避けられた。
それでもダメージは甚大だった。
脚は言うことを聞かず、腕が上がらない。
右の視界は完全に潰れてしまった。
「クソったれ。 アイドルの顔に傷をつけやがって。 この借りは高くつくぞ」
砕けた歯と一緒にガムを吐き捨てる。
右半分を血で真っ赤に染めながら、カレンの眼差しはより強く輝く。
普段の気怠げで退廃的な色とは違う。
ディストルの喉を食い破るような、獰猛で鮮やかな、生を掴むための光。
『カレン、もういい! 下がれ!!』
響の悲痛な叫びが、インカムを震わせた。
後ろからドタバタとした物音や美咲の声が漏れてくる。
恐らく司令室を飛び出しそうな響を、みんなで押さえつけているんだろう。
——毎度毎度、コンダクターが前線で出てくるんじゃないよ——
呆れながらも、カレンは愛しい男の顔を思い浮かべた。
いつもいつも適当なことばかりな上に、なぜか妄想の男とくっつけようとする変人。
出会った時の印象は最悪だったのに、まさか夫婦になるなんて。
次いで脳裏に浮かぶのは、騒がしい『第九』のメンバー達。
結成当初は、決して仲が良かったわけじゃなかった。むしろ関わらないようにしていた。
なのに、今ではかけがえのない『日常』の一部になっている。
それは、クソッタレで理不尽な世界で見つけた、何ものにも代えがたい光輝くもの。
「おいおい旦那様、冷めること言うなよ」
もしここで引けば、確かに今は生き延びられるかもしれない。
だがそうすれば、ディストルは『家族』の居場所を破壊する。
湊のギター。
リリィのオタグッズとPC。
真凜のゴルフセット。
万里の厨房器具。
千紗の義兄コレクション。
そして、響のガーデニングスペース。
その全てが、瓦礫に変わってしまう。
カレンは動かない足で踏ん張り、上がらない腕を必死で持ち上げた。
「——アンタは黙って、『特等席』で見てなよ」
震える指を必死に動かし、カレンが音を紡ぐ。
顔面を濡らす流血は止めどなく、顔中に玉のような汗が浮かぶ。
ベースを掻く指捌きには、普段の精彩さの影もない。
ぽつりぽつりと音がズレ、テンポやリズムが乱れる。
それでも、その音は魂を震わせた。
「——!」
庇われ軽傷だった新人たちが、音を合わせる。
歪で、見苦しい。 必死でもがきながら、生を掴もうとする姿——
「私の——私たちの『生き様』を!」
赤黒いディストルが、再度咆哮を放つ。
何十ものディストルの声が束になった音爆。
その凶暴な唸りにカレン達の音が正面からぶつかっていく。
ギチギチと音が食い合いながら、カレン達とディストルの群れの中央で拮抗する。
だがそれも一瞬のこと。
徐々に天秤がディストルへと傾いていく。
音の壁が迫ってくる中、カレンは必死でベースを掻き鳴らした。
爪が剥がれ、右の眼窩から血が溢れる。
それでも、カレンに絶望の影はない。
彼女の脳裏に浮かんだのは、先ほど司令室で交わした会話。
あの男、相変わらず無茶だ。正気じゃない。
でも——
『——プランBで行く』
噛み殺すような響の声が、インカムから漏れた。
『1番から6番ダンパーの変換炉を露出させる!』
『——了解』
制御室からの弥生の通信。
普段は冷静なひなたの、悲鳴に近い応答がカレンの耳に届く。
『危険! 起動したら炉心が溶けて、施設全体が吹き飛びかねない!』
「……響」
カレンの唇から、呆れと愛しさが混じった声が溢れる。
『カレンが死ぬよりマシだ! 推しを死地に送って、のうのうと生き残れるわけないだろ!』
響の声が通信に割り込む。 その声には、一切の迷いがなかった。
相変わらず、『推し』のために無茶をする男だ。
たくさんの命を背負っている指揮官としての自覚がなさすぎる。
——でも、だからこそなのかもね——
『私は生き残りたいんですけど!?』
『ウルセェ! この基地のルールは俺だ! 弥生、やれ!!』
『はいは〜い。『ママ』にお任せくださ〜い。
——1番から6番のダンパーの外壁を開放。 エレベーションシステム始動』
美咲の悲痛な叫びを封殺し、響は下知を下した。
地核ノイズを受信させるために地下に埋没していたダンパーの外壁が開放。
鈍く響く駆動音と共に、六本の鉄柱が地表へと迫り上がる。
『——どうなっても知らないから。メンテナスハッチ開放。炉心を暴露させる』
塔のように聳える鉄柱——ダンパーの側面の一部がスライド。
その中から、八本の円柱が外気へと露出された。
『静香、あの赤黒いディストルに変換炉を同調させろ!』
『……共振作用によって波長が不安定。 同調率は精々が60%。 本当にできるの?』
『できらぁ! セーフティー解除! 変換ダンパー、オーバードライブ!』
変換炉が起動した。
ダンパーから突き出した炉心が震えながら光を放つ。
カレン達を押し込んでいた『ヴォイドハウリング』が変換炉へと流れ、その圧力を急激に下げていく。
だが、設計通りの起動ではない。
おまけに同期率60%——不完全な状態での強制起動。
この状態で起動すれば、変換しきれないエネルギーが暴走する。
炉心からバリバリと火花が漏れ、二つのダンパーの炉心が次々と弾け始める。
『3番ダンパー、4番ダンパーの炉心が爆散! 稼働率25%!』
ひなたの悲痛な叫びがインカムから響いた。
『変換した電力の過剰分が暴走。このままだとバッテリーごと基地が吹き飛ぶわね〜』
『弥生。 九区内の各施設の変換炉へ、電力をバイパスしろ!
ついでに基地中のクーラーでも起動するか』
施設全体がきしみ始めた。
壁が震え、天井から埃が落ちてくる。警報が鳴り響き、赤い非常灯が点滅する。
それは純粋な振動エネルギー——制御を失った、荒々しい『音』そのもの。
電力に変換されるはずだったエネルギーが、生のまま放出されている。
高周波ノイズが、戦場に響き渡る。
機械の断末魔。
金属が軋み、空気が裂ける、耳をつんざくような轟音。
普通の人間なら、鼓膜が破れてもおかしくない。
——カレンは、その音の中に、別の音を聴いた。
激しく歪んだ、ディストーション・サウンド。
高音域で切り裂くような、攻撃的なギターの音色。
荒々しくて、乱暴で、でもどこか優しい——
聴き間違えるはずがなかった。
「……はは」
乾いた笑いが、血に濡れた唇から漏れた。
「なんだい、あんた」
変換炉から漏れ出した光の粒子が、カレンの周囲に集まり始める。
淡い金色の輝きが蛍のように舞い踊り、徐々に密度を増して人の形を取り始めた。
そして——背中に、ふわりと重みが乗った。
懐かしい重み。 何度も背中を預け合った、あの感覚。
「随分と派手な『お帰り』じゃないか」
振り返らなくても分かる。
未だ目に焼き付いている。 幻影のギターを構え、悪戯っぽく微笑むその姿。
金の髪が、存在しない風に揺れている。
口元には煙草——いや、光の粒子で形作られた煙草の幻影。
不敵な笑み。挑発的な目つき。
かつて『最強のコンビ』と呼ばれた、もう一人の半身。
「……遅いよ、バカ!」
カレンの目から、涙が溢れた。
『先行投資さ。その革が擦り切れるまで、あんたは生きな。——私の隣でね』
擦り切れたストラップが風に揺れていた。
約束の革は、もう限界を迎えようとしている。
カノンの幻影が、ギターを構えた。
あの頃と同じフォーム。
左足を前に出し、やや前傾姿勢で、ネックを斜め上に向ける攻撃的なスタイル。
何百回、何千回と見てきた姿。夢にまで出てきた姿。
「……行くよ、カノン」
カレンがベースを構え直す。 涙を拭う暇もない。 拭う必要もない。
「最後のセッションだ」
カノンが弦を弾いた。
その一音で、世界が変わった。
高音域で空気を切り裂く、攻撃的なギターサウンド。
かつて『二人で一つ』と呼ばれた、魂の片割れの音。
『——遅いよカレン! 私の背中、見失うんじゃないよ!』
廃墟を駆け抜けながら、カノンが振り返って笑った日々。
喧嘩しながら、それでも誰よりも音を重ねていた日々。
灰色だったカレンの世界に、初めて色が差した日々。
声はない。幻影には声がない。 でも、その目が語っていた。
『歌えよ、カレン』
『あんたの声で、歌え』
『私が伴奏してやるから——思いっきり、歌え』
カレンの喉が震えた。
最後に歌ったのは、いつだっただろう。
カノンが死んでから、歌うことをやめていた。
歌えば、あの日を思い出すから。
二人で歌った日々を思い出すから。
でも——
今なら、歌える。
今なら——カノンと一緒に、歌える。
「————」
最初は、掠れた声だった。
血と涙で濡れた喉から絞り出された、か細い音。
それでも確かに、旋律を紡いでいた。
カノンのギターが呼応する。
カレンの声を支えるように、音量を落として寄り添う。
『そうだ。 そうだよ、カレン』
『あんたの声、最高だって言っただろ』
カレンの声が、徐々に力を取り戻していく。
ビターだけど甘い、ハスキーな声。
酒と煙草で焼けた喉が紡ぐ、唯一無二の音色。
それは叫びであり、祈りであり、宣言だった。
カノンのギターが跳ね上がる。
カレンの声に合わせて、リフを刻み始める。
「————」
カレンがベースを叩きつけるように弾く。歌いながら、弾く。
かつて二人でやっていたように。
カノンの高音とカレンの低音が絡み合い、一つの旋律が生まれる。
それは——かつて二人で作った、魂の旋律。
新人たちが顔を上げる。
恐怖に震えていた彼らの目に、光が戻っていく。
その背中を見ている。
その音を聴いている。
心臓がカレンのリズムに同期し始めている。
「聞こえるかい!?」
カレンが叫ぶ。
新人たちに。
戦場に。
この世界に。
そして——まだ見ぬ我が子に。
「私たちが泥水を啜って掴んだこの一瞬は——誰にも奪えない最高の一日だ!」
カノンのギターが天を貫くように嘶く。
黄金色の光が柱となって立ち昇り、闇を切り裂く道標となる。
「そんな最高を積み重ねていくのが——」
カレンがベースを振り上げた。
黄金色のエネルギーが楽器を中心に渦を巻き、カノンのギターと螺旋を描いて交じり合う。
二人の呼吸は、コンマ一秒の狂いもなく重なっていた。
5年前と同じように。 いや——5年分の愛と痛みを込めて。
「——それが、生きるってことなんだよ——」
新人たちの音が、雪崩れ込む。
拙くて、ぎこちなくて、まるで揃っていないノイズの塊。
だがそれは、間違いなく『生』への渇望だった。
カレンとカノン、そして新人たち。
「——それが、私たちの『明日』だ!」
全ての音が一つの『歓喜の歌』へと収束した瞬間——
極大の衝撃波が、放たれた。
光の奔流がヴォイドハウリングを真っ向から突き破る。
黒と金がぶつかり合い、せめぎ合い——
金色が、勝った。
光の津波がディストルの群れを飲み込んでいく。
彼らの絶望を——『歓喜』で上書きして。
一体、また一体と、黒い影が光に溶けて消えていく。
悲鳴はなかった。
断末魔もなかった。
まるで、ようやく眠りにつけた安堵のような——静かな消滅だった。
やがて、戦場に静寂が戻った。
***
埃と光の残滓が漂う中、カレンは荒い息をついていた。
全身から力が抜けていく。 膝が笑い、立っているのがやっとだ。
それでも心は、不思議と穏やかだった。
隣には、カノンの幻影がまだそこにいた。
金色の粒子で編まれた姿は、今にも消えそうに揺らめいている。
儚くて、美しくて、眩しい。
カノンがカレンのお腹を見た。 そこに宿る新しい命を。
じっと見つめて——
カノンの手が、そっとカレンの右頬に触れた。
みんなを守って傷ついた、ボロボロだけど誰よりも気高く美しい傷跡。
愛おしむように、カノンの唇がカレンの右目へと触れる。
そして、満足そうに頷いた。
『よかったね』
『幸せになりな』
『あんたの子供、きっと可愛いよ』
そんな声が、聞こえた気がした。
それは、ノイズの能力なせる知覚だったのか。
それとも、幻聴だったのか。
カノンが手を振った。5年前のあの夕暮れと同じように。
『じゃあね。最高のセッションだったよ』——そう言った時と、同じ笑顔で。
そして——光の粒子となって、空へ溶けていった。
夕陽の中に、金色の光が吸い込まれていく。
蛍のように、星のように、散っていく。
カレンはその光を見送った。
「……ありがとね」
呟いた声は、震えていなかった。
その直後——乾いた音がした。
限界を迎えたストラップが、ついに切れた。
落ちていくベース。
カレンはそれを、まるで我が子を抱くように優しく抱きとめた。
手の中で、切れたストラップがぶら下がっている。
ボロボロに擦り切れ、もう原型をとどめていない革。
イニシャルは、完全に消えてしまっていた。
『その革が擦り切れるまで、あんたは生きな』
約束は、果たされた。 革は擦り切れた。
でも——カレンは、まだ生きている。
「またね、親友。 次のセッションは、だいぶ先だと思う」
そう静かに呟き、ベースを足元に置き、顔を上げる。
そこには——泥だらけで勝利を喜ぶ新人たちの姿があった。
さっきまで恐怖に震えていた彼らが互いに抱き合い、涙を流している。
生き残った喜びを噛みしめている。
遠くから駆け寄ってくる足音が聞こえる。
地平線からはトランポの上げる砂埃が見えた。
朝日が、汚れた戦場を美しく照らしていた。
血と砂煙と瓦礫の上に、黄金色の光が降り注いでいる。
まるで新しい一日の始まりを告げるように。
——苦くて、辛くて、しょっぱくて——
傷ついて、裏切られて、泣きながら生きてきた。
もうモノクロのように朧げで、擦り切れている記憶。
——そして煩くて、どうしようもないくらいキラキラと輝いてる——
代わりに胸に残っているのは、響や『家族』達との思い出。
出会った時から今まで、全部がただ煌めいた記憶として焼きついている。
お腹の中で、小さな命が動いた気がした。
まだ胎動には早い時期だ。 きっと気のせいだろう。
でも——そう感じた。
「——それが、アンタが産まれてくる『舞台』だよ」
呟きながら、カレンは新しい生命へ触れた。
***
「——みなさんお疲れ様でした。
物資と音響兵装の一部は、バラして市場へ流しなさい。後はご自由に」
ナギの声が、静かに響く。
通信端末の光だけが闇を照らしていた。
その表情は見えない。 声だけが、冷たく淡々と指示を紡いでいる。
『承知いたしました。それでは我々は再び影へ潜ります。
ベラドンナのお二方へもよろしくお伝えください』




